畠山丑雄のレビュー一覧
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『地の底の記憶』から、見ると随分と穏やかな作品となった。読みやすくなったというべきか。
主人公は、早野ひかるで、独身男性37歳。
みかという女子と同棲する予定で、ル・クルーゼの無水調理鍋やバルミューダのオーブンレンジを贈った。そして二人で住む新しい部屋を借りたが、みかは現れなかった。まぁ。比較的騙されやすい男なんでしょうね。その部屋は、茨木駅の近くにあり、東奈良遺跡があり、弥生時代の銅鐸と銅鐸鋳型が出土されている。
そして、川端を歩いていて、鐘の音がする方向に進んで、師匠と出会うことになり、銅鐸作りをすることになる。師匠だと思い込んだり、それにハマっていく。暗示のかけられやすい男なんだね。
師匠は、国家はそもそも福祉のためにあり、そして福祉はなんのためにあるのかというと労働からの開放区をつくり、民間から聖を排出するためにある。ふーむ。聖(ひじり)って?聖は労働のない場からしか排出されないという。
早野はいう「恋は、偶然を必然にしていく作業」というが、この物語は必然を作ろうとする作業に近い。フィーリングのあった女性に、「銅鐸」の話で口説くという、時代錯誤の遅れてきた青年。
早野は、師匠に重さが足りないと言われる。
師匠は、早野にいう。
「誰も帰ってくることのない部屋を暖めている、灯油のストーブ」「お前は未だかって誰にも愛されたことのないマスコットキャラクターや」「お前は涸れた貯水池や」「くずおれるのを待つ、空の革袋や」「今にも身を翻しそうな老朽化した橋や」「石ずりのためのマスキングテープや」「お前はお前がいる場を不法に占拠している」「私はお前にお前の歴史から立ち退きを命じる」「そうなればお前は透明になれる」「歴史になれる」「死者にも偉人にも畜生にもいちめんの花畑にも路傍の石にもなれる」
実に多彩の言葉を操る師匠だ。
この川端は、かつて罌粟栽培と独活の栽培が盛んで、阿片製造が盛んで、満州に渡って「天皇陛下への花束」を編み、紀元2600年記念万博を楽しみにしていた青年川又幹郎の背中を追って、自らも大阪万博へトリップする。ふーむ。物語は、夢の島の大阪万博で、終わる。 -
Posted by ブクログ
1ページ目が良い。正直なところ、何を言っているかよくわからないのだが、あまり見たことのない言葉選びのセンスを感じた。
先生と呼ばれる人が如何にも怪しいが、大阪ならさもありなんと思ってしまう(偏見)。銅鐸作りと言うのも斜め上からの切り口でバッサリやられた感あり。
しおりも負けず劣らず怪しい。何故か早野に言い寄ってきて、肝心な所で突き放すあたり…
そして、川又青年。謎過ぎる。現代と境目なく出てくるので混乱してしまった。
更に、罌粟という単語に振り仮名がないのは何故だろう。
全体として謎過ぎるが、関西ノリだとそれほど意外でもないのかなぁ。
どこが評価されて芥川賞なのか、見てみよう… -
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恵まれていると自覚する青年。己の意思を蔑ろにする青年。そんな青年が他人の「叫び」を代弁したことで、破滅する。聖とは何か?そんなおはなし
さて、本作の主人公である早野は主体性のない青年である。恋人に振られた際、自分の意思で破滅的な行動を行うのではなく、「他人ならそうする」という理由で破滅的な行動を選択する。ここで他人が実際にはどのように考えているのかという事実は関係ない。故に思想の強い人物に出会えば、その人間の思考を自分のものとするし、身近な人間が経験した体験を自分がした体験と混同する。そして、誰かの叫びを代弁しようとしてしまうのである。人となりすら知らない他人に、そんな権利はないのに。
基本的に物語の進行としては、早野の視点で進行する。しかし、上述したとおり早野は究極的に主体性がない。その上、共感性が異常に高いが故に、誰かの体験を自分のものとしている。そのため、誰かの語りや早野の妄想が事実かつ現在進行形であるかのように描写される作りとなっている。本作を読むと、早野の思考に誰かの語りが割り込んでくる。つまり、他人の思考が入り込んでくる体験ができるのである。 -
Posted by ブクログ
主人公の早野は、現代人の平均値と呼べるような凡庸な人間だ。特に目標も信念持っていなく、公務員として毎日を過ごしている。そんな彼が、婚約者と一緒に住む予定だった部屋、もしくはその住居がある茨木という自分とは縁もゆかりもない土地に置き去りにされる。
思うに彼は、“何か”になりたかったんだと思う。自分がほんとに存在している意味、今この場所に存在しているという理由、そんなものは探しても見つからないものだと思うけど、「先生」に惹かれて、さらに川又青年に惹かれて、その信念やその人たちが考えている存在意義みたいなものをあたかも自分のものかのように内面化していく。
けどそれは本当に「先生」や「川又青年」の信念だろうか?それは早野が、自身で勝手に作り上げた他人についての解釈なんじゃないだろうか?しおりさんのことを、耳を傾けることではなく自分の解釈で埋めようとしていたように、本質的に早野は他人を理解しようとしていない。
だから最後には自分自身の目的が川又青年の信念と混ざり合ってしまい、狂ってしまう。ある意味この状態は先生が作り上げようとしていた“聖”そのものなのかもしれない。社会から離れて、警鐘を鳴らす存在そのもの。そしてその叫びも届かない。万博というハリボテの祝祭によって洗脳されていて導くための大衆は恍惚としちゃっているし、川又青年があんなに憧れていた天皇は、哀れみの目をこちらに向けるだけだ。
権力に押し潰されたり、時代や場所に押し流されて忘れ去られてしまった存在が出す叫びを、私たちは狂人なのか聖なのか聞き分けることはできない。おそらく早野自身にもわからないと思う。けどそれは「先生」がいうように、みんなが見ないふりをしている病的な部分を、その“聖”が一身に背負ってるのかもしれない。そんな暗い問いかけが響くような読後感だった。