近藤正高のレビュー一覧
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北野武、広中平祐の本に感銘受けたんだ。私も広中平祐の生きること学ぶことは人生のバイブルなんだよね。
たけしのあの話し方、事故での顔面麻痺が原因だったの知らなかった。ただの癖だと思ってた。
近藤正高
(こんどう・まさたか)1976年、愛知県生まれ。ライター。高校卒業後の1995年から2年間、創刊間もない『QJ』で編集アシスタントを務める。1997年よりフリー。現在は雑誌のほか『cakes』『エキレビ!』『文春オンライン』などWEB媒体で多数執筆している。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(以上、講談社現代新書)、『一故人』(スモール出版)など。
著者:ビートたけし 本名・北野武。1947年東京都足立区生まれ。浅草フランス座で芸人としてデビュー後、1972年に漫才コンビ「ツービート」を結成、人間の「建前と本音」「理想と現実」との落差を舌鋒鋭く突きまくる芸風で漫才ブームの牽引役となる。テレビに進出後、『オレたちひょうきん族』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの人気番組を次々と手掛ける。映画監督としても『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA‐BI』などの話題作を多数世に送り出す。2016年にレジオン・ドヌール勲章、2018年には旭日小綬章を受章。近年は小説執筆にも力を入れている。著書に『弔辞』(講談社)、『不良』(集英社)、『浅草迄』(河出書房新社)など。
「たけしの母・北野さきは子供たちの教育に熱心だった。さき自身は幼いころより貧乏で苦労してきただけに、貧乏の連鎖を断ち切るため、子供たちにはちゃんとした教育を受けさせ、自由に仕事を選べる資格を身につけさせてやりたかったという。さきいわく《御飯が食べられてこその学問だ。それも工学部ってのが私の持論》(北野さき『ここに母あり 北野さき一代記』角川文庫、一九九三年)であり、ここから、幼くして死んだ次男をのぞき、長男の重一、三男の大、そして四男の武と、息子たちはみな工学部に進学した。 さきの理工系へのこだわりは徹底しており、たけしに言わせると、《ものごとを文科系に考えると、必ず反政府的なやつになってしまうって病的に思い込んでいた。漫画を読んだり小説読んだりしていたら、すぐに拳が飛んできた》ほどだった(前掲、『愛でもくらえ』)。たけしより五歳上の次兄・大は英語教師になりたいと思い、内緒で千葉大学の文系学部を受験し合格したものの、それを知ったさきから《アメリカ行きゃあ、だれでも英語しゃべっている。そんなの勉強しても、つぶしはきかないよ》と猛反対され、けっきょく受験し直して明治大学工学部(現・理工学部)に進んでいる(北野大『なぜか、たけしの兄です』主婦と生活社、一九八八年)。 このころ千葉大を含む国立大学の年間授業料は七、八千円だったのに対し、明大のような私立大学理系の場合、実験費などが加わり五万円くらいとはるかに高かったという。大が前掲書で書いているように、経済的な負担ばかりか世間的なイメージを考えても私大より国立大のほうがいいはずだが、それでもさきは信念を曲げなかったのだ。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしが大学に行かなくなったのには、通学途中に新宿があったことも大きい。ちょうどこのころ、六〇年代後半には、新宿がアングラ演劇やモダンジャズ、学生運動、フォークゲリラ、フーテンと呼ばれた和製ヒッピーなど若者を中心としたさまざまなムーブメントの発信地となっていた。東京出身とはいえ、生まれ育った足立区から高校卒業までほとんど出たことのなかった二〇歳前の青年にしてみれば、新宿で見るもの接するものがことごとく刺激的だったに違いない。そのうちに彼は新宿のジャズ喫茶や雀荘などに入り浸るようになり、実家も出てしまう。 ちなみに現在では北千住から東京メトロ千代田線に乗れば、代々木上原で小田急線に乗り入れているので、都心で乗り換えることなく生田まで行ける。ただし千代田線と小田急線のあいだで列車の相互乗り入れが開始されたのは一九七八年と、たけしの大学時代から一〇年もあとだ。 大学が生田に移転したこと、通学に新宿を経由したこと、そして当時の新宿の街が若者に対し強い引力を帯びていたことと、まさに時代がたけしを新宿に呼んだというしかない。おそらくこれら条件が一つでも欠けていたのなら、たけしは大学をちゃんと卒業してどこか企業に就職し、芸人にはなっていなかったのではないか。現に彼はこんなことを語っている。校舎が生田だっていうのが夢のようだったね。あれが神田にあったらもうちょっと大学行ってるもん。そうしたら俺、今ごろホンダとかトヨタの地方工場の部品を検査してたかも。(北野武『生きる』ロッキング・オン、二〇〇七年)」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「ともあれ、大学に入るまで母親の敷いた道を歩み続けてきたたけしは、やがてそこから逃れるがごとく新宿に入り浸るようになり、ついには大学もやめ、職を転々とした末に浅草のストリップ劇場・フランス座で芸人修業を始めるにいたる。それは大久保清が事件を起こした翌年の一九七二年、たけしが二五歳のときだった。うちの家で勉学をやめるってのは、逃亡するのと同じことでさ、おふくろの夢を壊すことでもあったんだよね。はっきり言えば、へその緒を切るみたいなことだけど、つまりは独り立ちしたかったの。勉学をやめて、どっか別のところで生きるために、家族と離れたの。おふくろが俺に対して抱いていた夢を断ち切る必要があったんだ。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしにとって何よりのコンプレックスは、父親の菊次郎が塗装業、たけし言うところのペンキ屋だったことだ。生まれ育った足立区の島根町界隈には職人が多く住んでいたが、大工などとくらべるとペンキ屋は下に見られていた。たけし自身も少年時代には「ペンキ屋のせがれ」とよくからかわれ、中学に入って女の子を意識し始めるころにはすっかりコンプレックスになっていたという。 だが、たけしはコンプレックスを克服したとか、それをばねにして成功したといった話には懐疑的であった。 金持ちが貧乏人を踏みつけて生きてるのが、この社会ってもんでしょ。そいつを貧乏人が貧乏を踏み台にしてノシ上がろうとしたらさ、みんなが金持ちになって、世の中大逆転しちゃうぜ。 現実には、そんなことは有り得ないわけよ。コンプレックスはいつまでたってもコンプレックスでさ。相変わらず貧乏人は貧乏で、金持ちは金持ちなんだよ。(前掲、『午前 3時 25分』)」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「もちろん、貧乏人のなかにも貧乏から抜け出して金持ちになった人はけっして少なくない。当のたけしからしてそうだろう。現に、二〇〇五年(二〇〇四年度分)を最後に公示が廃止された「高額納税者番付」で、たけしは常連だった。そんな彼が「相変わらず貧乏人は貧乏で、金持ちは金持ちなんだよ」と言うのは、ようするに「分をわきまえろ」という彼なりの信条のように思われる。 ことさらにコンプレックスを意識して、それを乗り越えようと必死になって自分の身の丈に合わないことをやるのは見苦しい。むしろたけしはコンプレックスをコンプレックスのまま笑いに昇華させた。これに対しておのれのコンプレックスを真正面から突破しようとして、分不相応な行動をとってしまったのが大久保だったのではないか。彼の悲劇はそこに端を発していた。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしはまだ大学生だったが、第一章で書いたとおり学校をサボっては新宿のジャズ喫茶などに入り浸り、新宿騒乱も野次馬として見物に行ったという。一方で、仲間の紹介もありアルバイトに精を出した。この年一二月一〇日に東京都府中市で三億円強奪事件が起こったときも、池袋の三越百貨店でお歳暮の伝票整理をしていたという。そうしたら、そこの主任が「府中で三億円が盗まれた」って血相変えて事務所に飛び込んで来てさ。みんな驚いて、仕事そっちのけの大騒ぎになったんだけど、額が大きすぎて「三億円って一体どのくらいなんだ?」って全然ピンとこなかった。なんたって、そのアルバイトの日給が八百円で、夜やってたジャズ喫茶の仕事が一回五百円、一万円札なんて拝んだこともないような生活だもの。三億って言われたって、イメージもクソもあったもんじゃないよ。(ビートたけし「解説」、一橋文哉『三億円事件』新潮文庫、二〇〇二年)」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「活動自粛中、一時伊豆に逗留したたけしは、数学者・広中平祐の著書を読み、考える持続力をつけなければならないと思い立つ。そして休業しているあいだは毎日、中学の全科目の教科書の内容を学び直したという(前掲、『たけし事件』)。このことは後年のテレビ番組『たけし・逸見の平成教育委員会』(のちに『平成教育委員会』。フジテレビ、一九九一 ~九七年)の企画へとつながっていく。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしの弟子は、一九八二年に弟子入りしたそのまんま東を筆頭に、ガダルカナル・タカはすでにカージナルスというコンビで一緒に活動していたつまみ枝豆とともに所属事務所の解散を機に入門、また立川談志一門(落語立川流)からダンカンが移籍してくるなど、どんどん増えていく。『オールナイトニッポン』やテレビ番組の収録先で出待ちして弟子入り志願する者もあとを絶たなかった。たけしはそんな彼らを何の選考基準もないまま、早い者順に入れていったという。もともと野球チームをつくりたかったたけしは、やがて彼らを「たけし軍団」と名づけ、一緒に野球をするばかりでなく、自分の番組にそろって出演させて芸能界に売り出した。 軍団には少年院の出身者、右翼団体の元構成員、やくざの息子などアウトロー的な出自を持つメンバーも少なくなかったという。こうして見ると、たけし軍団は駆け込み寺的な役割を担っていたふしがある。 父親とまともに口を利いたことがなかったというたけしは、父との関係のあり方がわからない分、《軍団に対して親代わりみたいなことをやってるのかもしれない》と、後年語っている(前掲、『異形』)。彼にとってはそれが心地よかった。でも、師匠と弟子の関係はそこで終わりじゃなきゃいけないともたけしは言う。たとえ弟子が成功しても、恩返しを求めたりしてはいけないというのだ。ようするに軍団とは肉親を思わせる疑似家族ともいうべき関係だった。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「日本の新興宗教の多くが「貧・病・争」の解決を謳うことで発展してきたとは、しばしば言われるところである。第二章でふれたとおり決して裕福とはいえない家が集まっていたたけしの足立区の実家周辺にも、立正佼成会や創価学会の信者が多かったという。余談ながら、たけしの母・さきも近所の人に誘われて各教団の集会に参加したり機関紙を購読したりしていたというが、それはあくまで「つきあい」で、本音では「あすこ入っても効かないわ」などと言っていたと、たけしは冗談めかして語っている(北野武『孤独』 S B文庫、二〇〇八年)。いかにも息子たち全員を工学部に進ませた母親らしいリアリストぶりではないか。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「八月二日未明、新宿区内の都道でバイクを運転していたたけしは、右カーブを曲がり切れず、道路左脇のガードレールに接触転倒し、同区の東京医科大学病院に運びこまれる。右側頭部頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、右頰骨複雑骨折の重傷であったが、懸命の治療により九死に一生を得た。入院は二ヵ月近くにおよび、九月二七日に退院する。なお事故は酒気帯び運転で起こったことからたけしは道路交通法違反で書類送検され、起訴猶予となっている。 一命をとりとめたたけしは、治療を続ける過程で主治医から、複雑骨折した頰骨などを治すため顔面の整形手術の必要性を説明される。当初は手術を拒もうとしたものの、状況としては拒否のしようがなかった。 整形手術を受けたのち、今度は顔面麻痺などの治療として、その原因と思われる神経の断裂を確認するための手術の承諾を求められる。だが、一通り説明を聞いたたけしは、きっぱりとこれを断っている。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「 オイラはオウム真理教とはなんのかかわりもないんだからね。そりゃオウム真理教の麻原彰晃とはテレビや雑誌の対談で何度か話したことはあるけど、その程度の関係なんでね。正直いってこんどのオウム真理教のことにはただただ驚かされてるだけなんだから。 まァ、麻原と話したときにわかったのは、オウム真理教ってのが原始宗教を基本理念にしてて、初期の仏教としてとてもわかりやすかったのと、新しい宗教集団のなかではいちばん真面目に宗教と取り組んでいるように見えたから、オイラもちょっとは彼らのことを認めてたんだけどさ。 そしたら警察が入って捜査してみたらあんなにたくさんの化学物質は出てくるし、喧喧囂囂こんな騒動になるとは思ってもみなかったものな。(北野武『ビートたけしの世紀末毒談 3』小学館、一九九六年) 宗教について多少なりとも学び、ましてメディアの仕掛けについて熟知していたはずのたけしからして、麻原のもくろみを見抜けなかったということに、あらためてオウム真理教の恐ろしさを思い知らされる。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「バイク事故から生還したたけしはもともと好きだった科学にますますのめりこんでいった。本来ならこうした体験のあとは宗教に傾倒しそうなものだが、先述のとおり手塚治虫の『ブッダ』などを病床で読むうち、あらゆる宗教はけっきょく人間の生き死にについて本質的なことは何も言っていないことに気づいた。科学に行ったのはそういう理由もあるのだろう。しかし《科学的なものをやればやるほど、やたらと神ってのが出てく》ることに気づいたとも語っている(前掲、『異形』)。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「両者には一九六〇年代末に二つの場所ですれ違っていたという伝説がある。一つは新宿のジャズ喫茶だ。「ビレッジ・バンガード」というその店でたけしはボーイのバイトをしていて、中上は常連客だったというのだ。さらにいえばたけしは早番で、遅番で店に出勤していたのは連続射殺魔として全国に指名手配されていた永山則夫だったと伝えられる。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけし おれの仕事関係者に、金さんとか韓国の人いっぱいいるけれども、外国の人とはケンカできないとだめなの。お互いに考え方が違うときには、殴り合ったっていいわけだから。差別しないということは、気にいらなきゃぶっ飛ばすとか、ばかやろう、このやろうとか、そういうことを言えることだからね。それができないと、薄い膜が張っているみたいで、気持ち悪いもんだよ。 中上 まさにそう。だから人間には、攻撃距離というのがある。それは愛情距離でもあって、動物にはみんなあるんだよね。(中略) 風呂だとか、狭いところの飲み屋とかいうのは楽しいよね。これは、セックスでもない、ケンカでもない。ただ、攻撃距離の中に入っているんだけれども、攻撃本能を止められている段階。これ以上接近すると、これはセックスだよね。接近というのは愛し合うというのと、あとはケンカだよね。だから、たけしさんが言うように、殴り合う距離じゃなくちゃ、何も始まらない。人間の攻撃距離の中に入り込んでこないとね。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「 七〇歳をすぎてますます盛んという感じだが、今後も彼は鋭い切れ味を見せるのか、それとも円熟味を増していくのか。あるいはピカソなど多くの大芸術家がそうであったように、幼児回帰ともいうべき方向に向かっていくのか。いや、「振り子の理論」を信条とする彼のこと、老成と幼稚が同居し、ときには衝突したり両極へ引っ張り合ったりしながら新たなものをつくり出していくというのが理想だろうか。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
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フリーライターにより、タモリの足跡を通して戦後ニッポンの歩みを振り返ったもの。芸能を中心に、日本の文化や生活について分析されており、特にタモリの生い立ちについては、膨大な文献により詳細な研究がなされている。タモリやたけし、さんまなどの芸人についての評価も、多数の評論家のものが記載されている。学術的とは言えないまでも、豊富なデータに基づいた展開は面白く、参考になった。
「(タモリの本名)一義とは祖父の命名で、日露戦争時には満州軍参謀を務め、陸軍大臣や首相を歴任した田中義一にあやかったものだという。小沢開作が、1935年に満州の奉天で生まれた三男に、満州事変の計画実行者である関東軍参謀の板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつとって征爾と名付けたケースと似ている」p20
「(祖父をはじめ森田家の人たち)いかに日本がつまらんかということを喋ってるわけですよ。近所付き合いは窮屈だし、土地も狭い、食べ物はまずい、人間がせこい」p21
「父親が満鉄に勤務していた映画監督の山田洋次の場合、一時東京に戻って地元の小学校に通っていたとき、川でフナをとりながら周囲の田んぼを見て、教科書に書いてある田舎とはこういうものかと理解したという。ここで重要なのは、山田が地方ではなく東京に田舎を発見したということだ。「男はつらいよ」シリーズをはじめ、古きよき日本の風景や人情が描かれているとされる山田作品もまた、その底流には日本を相対化する視線があるといえる」p24
「早稲田大学を除籍となり郷里に戻っていたタモリが二度目の上京を果たしたのは、まさに博多まで延びたばかりの新幹線に乗ってであった」p28
「タモリと同じく福岡市出身のコメディアン小松政夫によると「俺は純粋な博多っ子だけど、タモリは福岡なんだよね」という。小松に言わせれば博多とは当地を代表する祭りの一つ、博多どんたくが家から見えるところを指すのであって、タモリの生まれ育った福岡市南区はあくまで福岡なのだ」p35
「80年代前半、タモリがしきりに「カラオケ撲滅」を訴えていたのも、社交の場としてのバーやスナックが、カラオケによってぶち壊されたとの理由からだ」p108
「タモリが30歳になったのは、戦後30年の節目でもあった。1975年8月、戦後生まれは日本の総人口の49.4%に達していた。この時点で日本は、人口の半分が30歳以下という若い国だったのだ」p130
「テレビでタモリの芸を初めて見た黒柳徹子が、すぐさまテレビ局の受付に電話をかけて赤塚を呼び出し「あの人は誰?」と訊ねたという話は、「徹子の部屋」でもたびたび語られている」p132
「近田: 花輪はケッコウですから。前もって言っておかないと。あれ、意外とお返しが大変なんですよ。 タモリ: あの花を贈ったり、贈られたりこそ、芸能界じゃないですか。うるさいんだよナ、あれ。 近田: それにケッコウ高いんですよ。 タモリ: 花をちょっと怠ると、かなり感情がズレ合うんだよネ」p193
「近頃のタモリは何だ! すっかり全国民的芸能人、茶の間のスーパースターになり下がってしまったではないか。間違いのもとは「笑っていいとも!」だ。毎日、昼間、ナマ、出ずっぱり、こんなことしてたら影も毒もうすくなって当然だろう。スタジオは、誰を見てもカワユーイ、何をきいてもギャハハハのアホガキが陣取ってる。目の前にこんなのがいればどうしてもそのレベルに合わせてしまう」p259
「(長寿番組)僕はいつもこう答えてるんですよ。秘訣はやる気を出さないことですって。いや、スタッフにはやる気が必要ですよ。でも、タレントはなくて大丈夫。いや、やる気はない方がいい。流されなきゃできないですよ。毎日今日の反省とかして、あそこが悪かってから明日はこうしよう、なんてやってたらこんなに何年も続かないでしょう」p285 -
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〇目次
序章:偽郷としての満州
第1章:坂とラジオ、そしてジャズ―祖父母に育てられて
第2章:大学紛争とダンモ研狂騒曲―森田一義から「タモリ」へ
第3章:空白の7年間―ボウリングブームのなかで
第4章:ニッポン最後の居候―タモリ出現
第5章:テレビ「お笑い」革命―芸能人と文化人のあいだで
第6章: “変節”と“不変”―フジテレビの絶頂と『笑っていいとも!』
第7章:「リスペクト・フォー・タモリ」ブーム―テレビは終わらない
終章:タモリとニッポンの“老後”
タモリとその周りの環境や人々との関係を軸に戦後の日本の歩みを描いていく。そもそも、タモリはなぜドライに客観的に物を観察し面白く感じることができるのか。これはタモリを語る上でキーポイントであろう。
筆者はタモリの祖父家族の満州での生活体験、大陸での話を聞いて育ったタモリは冷めた見方を身につけていく。
ここに日本の農村社会的なものを馬鹿らしく思うタモリが現れることになった。タモリがテレビに登場するのは、奇しくも農村の村落共同体が終焉する高度経済成長末期の時期にあたる。時代がタモリ的な存在を欲していたのか。
タモリがテレビに登場し始めた時期から、タレントと文化人が混ざったタイプの「文化人タレント」が登場し始める。タモリが際物タレントから茶の間の人気者になっていくのも「文化人タレント」に乗っかったからという指摘は、近年のタモリが若いサブカル・ヲタク層から人気なことからも納得できる。
「文化人タレント」が受けるということは、都市化され洗練されていく国民の知的欲求の高まりから起きた現象という本書の見方は、これまた農村社会の崩壊と軌を一にする。
タモリから見た戦後日本の社会的な変化は、まさに高度経済成長期を境に農村社会的なものから都市的なものへの変化を描いている。
今後の日本社会とタモリは一体どのようになっていくのか、気になるところである。 -
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<目次>
はじめに
序章 ”偽郷”としての満州
第1章 坂とラジオ、そしてジャズ~祖父母に育てられて
第2章 大学紛争とダンモ研狂騒曲~森田一義から「タモリ」へ
第3章 空白の七年間~ボウリングブームの中で
第4章 ニッポン最後の居候~タモリ出現
第5章 テレビ界「お笑い」革命~芸能人と文化人の合間で
第6章 ”変節”と”不変”~フジテレビの絶頂と『笑っていいとも!』
第7章 「リスペクト・フォー・タモリ」ブーム~テレビは終わらない
終章 タモリと日本の”老後”
おわりに
<内容>
今まで出版された”タモリ本”の総まとめのようなもの。あとがきで著者が書くように、執筆が遅れたために先行本を参考に書けた感じが伝わる。
タモリが世に出るまでの部分が、戦後の日本史とリンクして面白かった。タモリが世に出てからは、芸能界やお笑い界の話で、先行本や世で言われていることと新しい情報はなかった。ただ、最後の部分で森繁久彌とタモリを比較したりして、「へえ」である。
著者の狙いはある程度成功したと思う。 -
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1945年に生まれたタモリももう80歳。
タモリを取り巻く文化的背景は戦後の昭和日本の成長期。
私は15年ほど生まれがずれてはいるが、懐かしい人や文化流行がたくさん登場するのが嬉しい。特にジャズピアニスト山下洋介にその奇異なる才能を買われた1972年から、1982年「笑っていいとも!」の司会者に落ち着くまでの10年間の話が破茶滅茶に面白い。ホテルで騒ぐ山下洋介らの部屋に、勝手に入ってきて芸を披露したり、その山下が「九州に天才がいる」と文化人が集う新宿のスナックで吹聴し、みんなでお金を出し合って福岡からタモリを呼び出したり、赤塚不二夫の部屋に夫婦で居候したりとエピソード満載。 -
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タモリの生い立ちから、山下洋輔や赤塚不二夫との交流を経て「お笑いビッグスリー」と呼ばれるまでにいたる経歴を紹介しつつ、戦後日本の社会状況とのかかわりについて論じている本です。
「タモリと戦後ニッポン」というタイトルからは、文化史・社会史的な観点からメディアにおけるタモリという存在の象徴している意義を考察するような内容を想像しますが、じっさいにはタモリの比較的くわしい評伝としての性格が強い本であるように感じました。その意味では、やや期待はずれの印象がなくもないのですが、いずれにしてもタモリの半生をていねいにたどっている手堅い仕事だといってよいのではないでしょうか。 -
Posted by ブクログ
タイトルや「はじめに」からは、タモリを通して戦後日本を説明するもののように見えるが、実際の内容はタモリの活躍の歴史をつづったもの。
タモリのTVへの登場したころの話は赤塚不二夫の居候くらいしか知らなかったが、その前に山下洋輔たちとのかかわりからブレイクしていったというくだりが、読んでいてワクワクした。
ロックでも60年代とかのビートルズやストーンズが生まれてきて色々なバンド、色々なロックの形態ができてくるころ発展途上の文化において化学反応を起こしていく頃の話はワクワクするが、それに似ていると思う。
いわゆるJazzの持っているフリー感がタモリの芸に影響を及ぼしているのだなというのが発見んだった。山下洋輔の初期トリオの中村誠一という方がタモリと同様のインチキ外国語しゃべったり、フリー落語というものをやったり、音楽と同じように、フリージャズの奔放さを笑いにつなげるという、深遠さ。そういえば、現代アートのハプニングとかも、この少し前のころの話なんでしょう。
芸術が格式ばったものではなく、サブカルチャーとして生き生きと表現されていく生命感。そんな気配がする。
言葉がわからないこと、意味がわからないということが重要とか、ネクラネアカのことを根が明るいか暗いか、表面上の明るさ暗さではなく、あくまで根がどうなのかという点が重要とか、本質的な部分、タモリは冷静に、物事の核の部分に焦点を合てているのが、非常にアーティスティックだと思う。
もともと登場したてのタモリは毒いっぱいでインディーズスピリッツ満載だったのが、芸能界の表舞台にぱっと適用して洗練してしまうという器用さがあったことが凄いのでしょうね。
と、タモリのことに詳しくなれる本ですが、戦後のことはあまり関係ないので、タイトル通りではない点が物足りない。
西川きよしがタモリ、たけしとほぼ年齢が同じというのが驚きでした。(きよしは中卒、タモリ、たけしは大卒の違いから、きよしはタモリ、たけしの芸能界入り時点ですでに大御所だった)