あらすじ
俳優としてこれまでドラマ・映画に数多く出演したきたビートたけしは、金嬉老、3億円事件の犯人、大久保清、東条英機、田岡一雄、千石剛賢など、実にさまざまな実在する人物を演じてきた。そこでは、差別・暴力・宗教など、日本社会ではタブーとされがちなテーマが取り上げられている。そうした出演作品を軸に、現代社会の「欺瞞」、そして「ビートたけし」と「北野武」の「二面性」にも迫った、画期的論考!
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Posted by ブクログ
北野武、広中平祐の本に感銘受けたんだ。私も広中平祐の生きること学ぶことは人生のバイブルなんだよね。
たけしのあの話し方、事故での顔面麻痺が原因だったの知らなかった。ただの癖だと思ってた。
近藤正高
(こんどう・まさたか)1976年、愛知県生まれ。ライター。高校卒業後の1995年から2年間、創刊間もない『QJ』で編集アシスタントを務める。1997年よりフリー。現在は雑誌のほか『cakes』『エキレビ!』『文春オンライン』などWEB媒体で多数執筆している。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(以上、講談社現代新書)、『一故人』(スモール出版)など。
著者:ビートたけし 本名・北野武。1947年東京都足立区生まれ。浅草フランス座で芸人としてデビュー後、1972年に漫才コンビ「ツービート」を結成、人間の「建前と本音」「理想と現実」との落差を舌鋒鋭く突きまくる芸風で漫才ブームの牽引役となる。テレビに進出後、『オレたちひょうきん族』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの人気番組を次々と手掛ける。映画監督としても『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA‐BI』などの話題作を多数世に送り出す。2016年にレジオン・ドヌール勲章、2018年には旭日小綬章を受章。近年は小説執筆にも力を入れている。著書に『弔辞』(講談社)、『不良』(集英社)、『浅草迄』(河出書房新社)など。
「たけしの母・北野さきは子供たちの教育に熱心だった。さき自身は幼いころより貧乏で苦労してきただけに、貧乏の連鎖を断ち切るため、子供たちにはちゃんとした教育を受けさせ、自由に仕事を選べる資格を身につけさせてやりたかったという。さきいわく《御飯が食べられてこその学問だ。それも工学部ってのが私の持論》(北野さき『ここに母あり 北野さき一代記』角川文庫、一九九三年)であり、ここから、幼くして死んだ次男をのぞき、長男の重一、三男の大、そして四男の武と、息子たちはみな工学部に進学した。 さきの理工系へのこだわりは徹底しており、たけしに言わせると、《ものごとを文科系に考えると、必ず反政府的なやつになってしまうって病的に思い込んでいた。漫画を読んだり小説読んだりしていたら、すぐに拳が飛んできた》ほどだった(前掲、『愛でもくらえ』)。たけしより五歳上の次兄・大は英語教師になりたいと思い、内緒で千葉大学の文系学部を受験し合格したものの、それを知ったさきから《アメリカ行きゃあ、だれでも英語しゃべっている。そんなの勉強しても、つぶしはきかないよ》と猛反対され、けっきょく受験し直して明治大学工学部(現・理工学部)に進んでいる(北野大『なぜか、たけしの兄です』主婦と生活社、一九八八年)。 このころ千葉大を含む国立大学の年間授業料は七、八千円だったのに対し、明大のような私立大学理系の場合、実験費などが加わり五万円くらいとはるかに高かったという。大が前掲書で書いているように、経済的な負担ばかりか世間的なイメージを考えても私大より国立大のほうがいいはずだが、それでもさきは信念を曲げなかったのだ。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしが大学に行かなくなったのには、通学途中に新宿があったことも大きい。ちょうどこのころ、六〇年代後半には、新宿がアングラ演劇やモダンジャズ、学生運動、フォークゲリラ、フーテンと呼ばれた和製ヒッピーなど若者を中心としたさまざまなムーブメントの発信地となっていた。東京出身とはいえ、生まれ育った足立区から高校卒業までほとんど出たことのなかった二〇歳前の青年にしてみれば、新宿で見るもの接するものがことごとく刺激的だったに違いない。そのうちに彼は新宿のジャズ喫茶や雀荘などに入り浸るようになり、実家も出てしまう。 ちなみに現在では北千住から東京メトロ千代田線に乗れば、代々木上原で小田急線に乗り入れているので、都心で乗り換えることなく生田まで行ける。ただし千代田線と小田急線のあいだで列車の相互乗り入れが開始されたのは一九七八年と、たけしの大学時代から一〇年もあとだ。 大学が生田に移転したこと、通学に新宿を経由したこと、そして当時の新宿の街が若者に対し強い引力を帯びていたことと、まさに時代がたけしを新宿に呼んだというしかない。おそらくこれら条件が一つでも欠けていたのなら、たけしは大学をちゃんと卒業してどこか企業に就職し、芸人にはなっていなかったのではないか。現に彼はこんなことを語っている。校舎が生田だっていうのが夢のようだったね。あれが神田にあったらもうちょっと大学行ってるもん。そうしたら俺、今ごろホンダとかトヨタの地方工場の部品を検査してたかも。(北野武『生きる』ロッキング・オン、二〇〇七年)」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「ともあれ、大学に入るまで母親の敷いた道を歩み続けてきたたけしは、やがてそこから逃れるがごとく新宿に入り浸るようになり、ついには大学もやめ、職を転々とした末に浅草のストリップ劇場・フランス座で芸人修業を始めるにいたる。それは大久保清が事件を起こした翌年の一九七二年、たけしが二五歳のときだった。うちの家で勉学をやめるってのは、逃亡するのと同じことでさ、おふくろの夢を壊すことでもあったんだよね。はっきり言えば、へその緒を切るみたいなことだけど、つまりは独り立ちしたかったの。勉学をやめて、どっか別のところで生きるために、家族と離れたの。おふくろが俺に対して抱いていた夢を断ち切る必要があったんだ。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしにとって何よりのコンプレックスは、父親の菊次郎が塗装業、たけし言うところのペンキ屋だったことだ。生まれ育った足立区の島根町界隈には職人が多く住んでいたが、大工などとくらべるとペンキ屋は下に見られていた。たけし自身も少年時代には「ペンキ屋のせがれ」とよくからかわれ、中学に入って女の子を意識し始めるころにはすっかりコンプレックスになっていたという。 だが、たけしはコンプレックスを克服したとか、それをばねにして成功したといった話には懐疑的であった。 金持ちが貧乏人を踏みつけて生きてるのが、この社会ってもんでしょ。そいつを貧乏人が貧乏を踏み台にしてノシ上がろうとしたらさ、みんなが金持ちになって、世の中大逆転しちゃうぜ。 現実には、そんなことは有り得ないわけよ。コンプレックスはいつまでたってもコンプレックスでさ。相変わらず貧乏人は貧乏で、金持ちは金持ちなんだよ。(前掲、『午前 3時 25分』)」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「もちろん、貧乏人のなかにも貧乏から抜け出して金持ちになった人はけっして少なくない。当のたけしからしてそうだろう。現に、二〇〇五年(二〇〇四年度分)を最後に公示が廃止された「高額納税者番付」で、たけしは常連だった。そんな彼が「相変わらず貧乏人は貧乏で、金持ちは金持ちなんだよ」と言うのは、ようするに「分をわきまえろ」という彼なりの信条のように思われる。 ことさらにコンプレックスを意識して、それを乗り越えようと必死になって自分の身の丈に合わないことをやるのは見苦しい。むしろたけしはコンプレックスをコンプレックスのまま笑いに昇華させた。これに対しておのれのコンプレックスを真正面から突破しようとして、分不相応な行動をとってしまったのが大久保だったのではないか。彼の悲劇はそこに端を発していた。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしはまだ大学生だったが、第一章で書いたとおり学校をサボっては新宿のジャズ喫茶などに入り浸り、新宿騒乱も野次馬として見物に行ったという。一方で、仲間の紹介もありアルバイトに精を出した。この年一二月一〇日に東京都府中市で三億円強奪事件が起こったときも、池袋の三越百貨店でお歳暮の伝票整理をしていたという。そうしたら、そこの主任が「府中で三億円が盗まれた」って血相変えて事務所に飛び込んで来てさ。みんな驚いて、仕事そっちのけの大騒ぎになったんだけど、額が大きすぎて「三億円って一体どのくらいなんだ?」って全然ピンとこなかった。なんたって、そのアルバイトの日給が八百円で、夜やってたジャズ喫茶の仕事が一回五百円、一万円札なんて拝んだこともないような生活だもの。三億って言われたって、イメージもクソもあったもんじゃないよ。(ビートたけし「解説」、一橋文哉『三億円事件』新潮文庫、二〇〇二年)」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「活動自粛中、一時伊豆に逗留したたけしは、数学者・広中平祐の著書を読み、考える持続力をつけなければならないと思い立つ。そして休業しているあいだは毎日、中学の全科目の教科書の内容を学び直したという(前掲、『たけし事件』)。このことは後年のテレビ番組『たけし・逸見の平成教育委員会』(のちに『平成教育委員会』。フジテレビ、一九九一 ~九七年)の企画へとつながっていく。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけしの弟子は、一九八二年に弟子入りしたそのまんま東を筆頭に、ガダルカナル・タカはすでにカージナルスというコンビで一緒に活動していたつまみ枝豆とともに所属事務所の解散を機に入門、また立川談志一門(落語立川流)からダンカンが移籍してくるなど、どんどん増えていく。『オールナイトニッポン』やテレビ番組の収録先で出待ちして弟子入り志願する者もあとを絶たなかった。たけしはそんな彼らを何の選考基準もないまま、早い者順に入れていったという。もともと野球チームをつくりたかったたけしは、やがて彼らを「たけし軍団」と名づけ、一緒に野球をするばかりでなく、自分の番組にそろって出演させて芸能界に売り出した。 軍団には少年院の出身者、右翼団体の元構成員、やくざの息子などアウトロー的な出自を持つメンバーも少なくなかったという。こうして見ると、たけし軍団は駆け込み寺的な役割を担っていたふしがある。 父親とまともに口を利いたことがなかったというたけしは、父との関係のあり方がわからない分、《軍団に対して親代わりみたいなことをやってるのかもしれない》と、後年語っている(前掲、『異形』)。彼にとってはそれが心地よかった。でも、師匠と弟子の関係はそこで終わりじゃなきゃいけないともたけしは言う。たとえ弟子が成功しても、恩返しを求めたりしてはいけないというのだ。ようするに軍団とは肉親を思わせる疑似家族ともいうべき関係だった。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「日本の新興宗教の多くが「貧・病・争」の解決を謳うことで発展してきたとは、しばしば言われるところである。第二章でふれたとおり決して裕福とはいえない家が集まっていたたけしの足立区の実家周辺にも、立正佼成会や創価学会の信者が多かったという。余談ながら、たけしの母・さきも近所の人に誘われて各教団の集会に参加したり機関紙を購読したりしていたというが、それはあくまで「つきあい」で、本音では「あすこ入っても効かないわ」などと言っていたと、たけしは冗談めかして語っている(北野武『孤独』 S B文庫、二〇〇八年)。いかにも息子たち全員を工学部に進ませた母親らしいリアリストぶりではないか。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「八月二日未明、新宿区内の都道でバイクを運転していたたけしは、右カーブを曲がり切れず、道路左脇のガードレールに接触転倒し、同区の東京医科大学病院に運びこまれる。右側頭部頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、右頰骨複雑骨折の重傷であったが、懸命の治療により九死に一生を得た。入院は二ヵ月近くにおよび、九月二七日に退院する。なお事故は酒気帯び運転で起こったことからたけしは道路交通法違反で書類送検され、起訴猶予となっている。 一命をとりとめたたけしは、治療を続ける過程で主治医から、複雑骨折した頰骨などを治すため顔面の整形手術の必要性を説明される。当初は手術を拒もうとしたものの、状況としては拒否のしようがなかった。 整形手術を受けたのち、今度は顔面麻痺などの治療として、その原因と思われる神経の断裂を確認するための手術の承諾を求められる。だが、一通り説明を聞いたたけしは、きっぱりとこれを断っている。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「 オイラはオウム真理教とはなんのかかわりもないんだからね。そりゃオウム真理教の麻原彰晃とはテレビや雑誌の対談で何度か話したことはあるけど、その程度の関係なんでね。正直いってこんどのオウム真理教のことにはただただ驚かされてるだけなんだから。 まァ、麻原と話したときにわかったのは、オウム真理教ってのが原始宗教を基本理念にしてて、初期の仏教としてとてもわかりやすかったのと、新しい宗教集団のなかではいちばん真面目に宗教と取り組んでいるように見えたから、オイラもちょっとは彼らのことを認めてたんだけどさ。 そしたら警察が入って捜査してみたらあんなにたくさんの化学物質は出てくるし、喧喧囂囂こんな騒動になるとは思ってもみなかったものな。(北野武『ビートたけしの世紀末毒談 3』小学館、一九九六年) 宗教について多少なりとも学び、ましてメディアの仕掛けについて熟知していたはずのたけしからして、麻原のもくろみを見抜けなかったということに、あらためてオウム真理教の恐ろしさを思い知らされる。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「バイク事故から生還したたけしはもともと好きだった科学にますますのめりこんでいった。本来ならこうした体験のあとは宗教に傾倒しそうなものだが、先述のとおり手塚治虫の『ブッダ』などを病床で読むうち、あらゆる宗教はけっきょく人間の生き死にについて本質的なことは何も言っていないことに気づいた。科学に行ったのはそういう理由もあるのだろう。しかし《科学的なものをやればやるほど、やたらと神ってのが出てく》ることに気づいたとも語っている(前掲、『異形』)。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「両者には一九六〇年代末に二つの場所ですれ違っていたという伝説がある。一つは新宿のジャズ喫茶だ。「ビレッジ・バンガード」というその店でたけしはボーイのバイトをしていて、中上は常連客だったというのだ。さらにいえばたけしは早番で、遅番で店に出勤していたのは連続射殺魔として全国に指名手配されていた永山則夫だったと伝えられる。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「たけし おれの仕事関係者に、金さんとか韓国の人いっぱいいるけれども、外国の人とはケンカできないとだめなの。お互いに考え方が違うときには、殴り合ったっていいわけだから。差別しないということは、気にいらなきゃぶっ飛ばすとか、ばかやろう、このやろうとか、そういうことを言えることだからね。それができないと、薄い膜が張っているみたいで、気持ち悪いもんだよ。 中上 まさにそう。だから人間には、攻撃距離というのがある。それは愛情距離でもあって、動物にはみんなあるんだよね。(中略) 風呂だとか、狭いところの飲み屋とかいうのは楽しいよね。これは、セックスでもない、ケンカでもない。ただ、攻撃距離の中に入っているんだけれども、攻撃本能を止められている段階。これ以上接近すると、これはセックスだよね。接近というのは愛し合うというのと、あとはケンカだよね。だから、たけしさんが言うように、殴り合う距離じゃなくちゃ、何も始まらない。人間の攻撃距離の中に入り込んでこないとね。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著
「 七〇歳をすぎてますます盛んという感じだが、今後も彼は鋭い切れ味を見せるのか、それとも円熟味を増していくのか。あるいはピカソなど多くの大芸術家がそうであったように、幼児回帰ともいうべき方向に向かっていくのか。いや、「振り子の理論」を信条とする彼のこと、老成と幼稚が同居し、ときには衝突したり両極へ引っ張り合ったりしながら新たなものをつくり出していくというのが理想だろうか。」
—『ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)』近藤正高著