佐藤亮一のレビュー一覧
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シチリア島侵攻から戦後1957年現在まで
戦争勝利への努力に代わって戦後体制への様々な取り組みは
現在へと直接つづいているだけに、その業績を評価することは現在難しい。
現在において著者が英国史においてドイツに屈せず勝利を得た点で最大限に評価されているが
これを日本人でしかない身がわかったきになるのは難しいところである。
やはり日本人らしく日本について書かれている点からつまされるべきか。
「このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の侵攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは(引用者注・原文まま)数千名の日本人が、指揮官たちがハラキリの儀式を荘重に行った後、降服を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。(P432より)」
「一方、空と海から日本に対する破壊的攻撃がつづいていた。七月の終わりまでには日本海軍は事実上消滅した。日本本土は混沌のなかにあり、崩壊寸前だった。外交官たちは、天皇の権限の下での即時降服以外に日本を完全な崩壊から救うすべはないと確信していたが、実権は依然として軍部の手にあり、彼らは敗北を認めるよりは国民に集団自決をさせる決意を固めていた。恐るべき破壊に直面しながらもこの気違いじみた階級は何の反応もみせず、情勢を有利に転換するなんらかの奇跡を公然と信じつづけていた。(P434-435より)」
「日本の運命が原子爆弾によって決定したと考えるなら、それは間違いであろう。日本の敗北は最初の原爆が投下される前に確定していたのであり、圧倒的な海軍力によってもたらされたものなのである。最後の攻撃の拠点となっていた海洋基地を押え、突撃に出ることなく本土軍に降伏を強制することが出来たのは、ただ海軍力おかげだったのである、日本の艦船は壊滅していた。日本は五百五十万トン以上の艦船を擁して戦争に入り、その後、分捕りや建造によってそれをかなり増大させていたが、しかし輸送船団の組織や護衛が不十分で、有機的でなかった。日本艦船は八百五十万トン以上が沈められたが、そのうち五百万トンは潜水艦の犠牲になった。同様に海に依存している島国としてのわが国は、この教訓を読み取ることが出来る。(P436-437より)」
この日本について書かれた三点の描写を抜き出しても
あるいは矛盾しているかのような著者の複雑な立場と物事の捉え方をみることができる。
愚者は自身の経験から学ぶ。現在でも何ら変わらない。
己の正しさを疑うのは困難である。
だが自身の行動の責任は自身が取らなければ社会は成り立たないし
その成員である資格はない。 -
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ネタバレついに本格的に第二次世界大戦が始まり、フランスは早々に敗れる中有名なダンケルク撤退戦(ダイナモ作戦)などを含む大陸からの撤退、そしてこれも有名な「イギリスの戦い(バトル・オブ・ブリテン」など様々な戦いが縦横無尽に具体的な日付や担当者、部隊名や兵力を可能な限り明示して描かれる。戦線は大西洋や地中海、北アフリカなどにとどまらず、ギリシア、マルタ、クレタ島などに及びこの巻の最後にはナチのソ連侵攻を持って終わる。この時チャーチルは、既に事前にナチドイツ軍のソ連侵攻の可能性が高い事を知悉しておりすぐさま世界に向けて演説を行っているがその演説が中々自由人や民主主義を報じる国民やソ連一般人への激励を含み感動的であった。いよいよ次巻は凄惨極まる東部戦線と日本の参戦が描かれるものと思われ楽しみである。極上の当事者による客観性も高い第二次世界大戦の回想録であると言えよう
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[世界を決めた男の言]第二次世界大戦中のほとんどを英国の首相として過ごし、卓越したリーダーシップと戦略眼で連合国を勝利に導いたウィンストン・チャーチル。その激動に次ぐ激動の大戦期を自ら振り返った作品です。当時の国際情勢を知る上での超一級的著作であると同時に、チャーチルの人間像がくっきりと浮かび上がる一冊でもあります。訳者は、日本翻訳家協会会長を務められた佐藤亮一。原題は、『The Second World War』。
どんな時代に読んでも、様々な角度からの考査に耐え、同時に読者に対して有意義な教えだけでなく、読書の楽しみまでをも教えてくれる作品が古典と呼ばれるに足るものと考えているのですが、本作はまさにその条件を軽々と満たしているように思います。読み終えたあとに、「やっぱりチャーチルはとんでもない......」と感動の内に嘆息してしまうこと間違いなしの一作です。本書が持つ魅力は、何がすごいかを評するまでもなく、とりあえず読んでみてくださいとつい言いたくなってしまうほど。
チャーチルの当時の心情が余すところなく描かれているのも本書をして他の作品の追随を許さないものにしている理由の一つかと。もう引用したい箇所が多くてどれをここで紹介しようか迷いに迷ったのですが、やはり組閣命令を受けた晩のチャーチルの心境を物語る下記の一節を読んだ際には震えを覚えました。危機の時代においてここまで言い切ることができるチャーチルという人に改めて敬意と興味を抱くことになった読書体験でした。
〜私はあたかも運命とともに歩いているように感じた。そしてすべての私の過去の生活は、ただこの時、この試練のための準備にすぎなかったように感じた。〜
読んでよかったと心から思える作品に☆5つ
(注:本レビューは全4巻を通してのものです。) -
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第3巻でのアラメイン、スターリングラードが第二次世界大戦の転機だったとすればそれを決定付けたのがオーバーロード作戦、ノルマンディー上陸だ。独ソ開戦以来ソビエトが求め続けた西ヨーロッパでの第二戦線に対しチャーチルは慎重だった。この本では何度もチャーチルがオーバーロード作戦の邪魔をしたという風評に反論している。チャーチルが考えた作戦実行の前提条件は3つ。ドイツ空軍力の削減、北部フランスに独軍12師団を動員させず今後2ヶ月以内に15師団を整備させない、そして大部隊を海岸に維持するために少なくとも2つの人工港を作ることだ。
ロンメルのアフリカ軍団を潰走させ、大きな被害を受け続けたUーボートに対しても1943年後半には優位に立っている。地中海を制覇したことでイタリア侵攻が始まった。7月には米空軍がローマを爆撃し、25日ムッソリーニが失脚した。ムッソリーニがいなければ共産主義のイタリアが異なる危険と不幸をもたらしたというのがチャーチルの読みであり、エチオピアを侵略しヒトラーに賭けて参戦したことがイタリアに不幸を呼び込んだ。
ティルピッツ、シャルンホルストと言う2大戦艦も10月には無力化し、大西洋の制海権を連合国が握り米軍の兵と物資がヨーロッパ戦線に運ばれる準備が整った。チャーチルの主張はオーバーロード作戦に向けて上陸艇を準備することであり、またドイツ軍を分散させるためにイタリアへも上陸しローマへ向かう。そして上陸場所はカレー海峡とドイツに信じ込ませた。
DデイとHアワーは早朝月明かりを利用して海岸に接近し、高潮の3時間前ー接岸しやすく、海岸を歩き過ぎないーことで決められた、それが6/5〜7の3日間でもし天候が悪ければ2週間後に延期される。兵員17万、車両2万、食料数千tが船に積み込まれたが、5日は延期された。ドイツの気象官は荒天が数日続き侵攻は不可能と予想した。イタリアでは4日ローマが陥落、5日午後9時15分気象予報官は6日朝一次天候が回復すると予想した。天候は賭けになるが2週間後まで上陸地点を秘密にできるか?そしてDデイは6日と決まった。
ノルマンディー上陸作戦の描写そのものは全くと言っていいほど無い。チャーチルが見ているものはむしろ特に石油の補給線であり、次にどの港を確保するかだ。8/24ついにパリが解放された。この間のエピソードには映画になったヒトラー暗殺作戦「ワルキューレ」が7/20に決行されている。
この後も戦闘は続くのだが第4巻の後半ではむしろ戦後体制をどうするのかについて英米とソビエトとの駆け引きが続いている。国連安保理の常任理事国の拒否権が生まれたのもこの交渉の中からで、3国が一致した政策を取ることで英米とソビエト間に亀裂を生まないようにするのが目的の一つであった。「最大の危険はわれわれの間で抗争を起こすことである」。また国連の議決権について小国でも1票は1票とするのでは安全が保てないというチャーチルの考えも見て取れる。
「西ヨーロッパがやむを得ない以上にロシアに押さえられるのは望ましくない」。45年4月にルーズベルト大統領が亡くなり就任したてのトルーマンはまだ事態を把握しきれていなかった。アメリカは世界の運命を左右できる立場だったが真の一貫した構想を持ち合わせていなかった。イギリスは単独で決定的な行動を取ることはできなかった。チャーチルが警告と弁明しかできなかったと書いているのは英米が一致した行動をとり、簡単に軍を引かなければ東欧全てをロシアの勢力圏に置くことは無かったとの後悔があるのだろう。
例えばポーランドは常にヨーロッパからロシア侵略の道だったため東部はソビエト領に西部はドイツからポーランド領に国境が書き換えられた。ポーランド人による民主的な政府を主張する英米に対しスターリンは「親ソ」政府を要求した。チャーチルは米軍が引かないように要請したが結果として東欧全てはソビエトの支配下に収まり鉄のカーテンが降ろされた。
最後のエピソードは原爆の開発成功によりこれまでの戦争の常識が通じなくなってしまったことと日本の全面降伏だ。チャーチルは対日戦が長引くことによる損害を押さえるために必要だったと書き、また日本には大量のビラを撒いて無条件降伏するように警告したとしている。しかしチャーチルも書いているように原爆なしでも日本の海軍は壊滅し、物資も輸送できず日本が負けるのは時間の問題だった。
「一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の1人まで戦って戦死する義務から免れるだろうということだった。」後半は言い訳としてもこれが本音だろう。
7/26選挙に負けたチャーチルは終戦を迎えることなく直ぐに首相を辞任した。この本の執筆後エピローグでチャーチルは1946年の講演を紹介しヨーロッパ再生の第一歩は独仏両国のパートナーシップでありヨーロッパ合衆国構想にまで言及している。 -
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「ソビエト政府はヒトラーに攻撃される瞬間まで、自国のことしか考えていなかったようだ。」フランスの崩壊やバルカン戦線への目論見を傍観しながらナチスドイツに重要な経済援助を与え、ヒトラーとの間で分割できるかもしれないと考えたイギリスに援助を求め、アメリカにはイギリスではなくロシアに補給品を要求し、危険や犠牲も顧みずにヨーロッパに再上陸し、第二戦線を作るように要請した。つまりソビエトはヒトラーに攻撃されてからも自国のことしか考えていなかったということだ。
「ソ連が敗れたなら、どうしてイギリスが勝てるというのか」脅しすかしのソビエトの唯一の歓待はモスクワのヒトラー街をチャーチル街に変えるくらいでしかないがそれでもイギリスとアメリカはソビエトに協力をする。やはりナチスドイツに対してはソビエトに踏みとどまってもらわなければならないからだ。
1941年8月12日後に大西洋憲章と呼ばれる共同宣言をチャーチルとルーズベルトは作成した。アメリカはまだ中立の立場ながら「ナチ圧政の最終的な壊滅」と踏み込んだ表現をしている。一方でインドシナを侵略した日本に対しては合衆国における資産の凍結、にイギリスとオランダが同調し日本は石油の輸入を断たれた。
真珠湾攻撃に対するチャーチルの感想は東洋においては大きな損害を被るがアメリカの参戦により「ブリテンは生き残るだろう」というものだった。しかし、シンガポールにおける最新戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズの喪失には強いショックを受けている。チャーチルがこの2艦をアメリカ海軍に合流させようと決めた直後だった。ただ戦時中の日本と違いチャーチルは議会に不利な戦況もきちんと報告している。
1942年前半はUーボートが大西洋で猛威をふるい7ヶ月間で300万tが損失を受け対するUーボートは14隻を失っただけだった。後半にはようやくUーボート対策が進み、6月のミッドウェイ海戦がひとつの契機となった。太平洋の制海権は日本からアメリカに移りまだビルマからインド進行の恐れはあるが東洋戦線の負担は限定された。しかし北アフリカではロンメルが脅威として残っていた。
1943年のフランス上陸作戦「オーバーロード」に先立ち、英米が取るべき作戦は何か。ソビエトは42年秋にシェルブールに上陸する「大鎚」を要求するがチャーチルの頭にあったのは北アフリカ進行の「たいまつ」とノルウェーの「ジュピター」だった。42年6月にはリビアのトブルクが陥落しロンメルはアレクサンドリアのすぐ手前まで迫ってきた。エジプトが陥ちるとスエズから中東の石油がヒトラーのものになる。
アレクサンドリアではロンメルを撃退しようやくバランスはイギリスに傾き始めた。そして10月末のアラメインの戦いでは強化された連合軍が優位な空軍によってドイツアフリカ軍団の補給を妨げロンメルは決定的な敗北を喫した。ソビエトでもスターリングラードで反攻しここから連合軍が明らかに優位に立っていく。「アラメイン以前に、われわれには勝利はなかった。アラメイン以後、われわれには敗北はなかった」アラメインの戦いはミッドウェイと並ぶ転機となった。
チャーチルの描写はソビエトやヴィシー政権のフランスなど気にくわない相手の時ほど冴えてくる。抑えてはいるのだろうけど腹を立てているのがよくわかる。 -
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「最初の40日間以降は、勝ち誇ったドイツとイタリアが、われわれに必滅の攻撃を加え、ソ連は敵対的中立の立場で積極的にヒトラーを応援し、日本は計りがたい脅威であった。われわれは単独であった。」
第2巻はヒトラーの侵攻でズタズタにされるフランスとロンドン空襲に耐え忍びながら反撃の機会を狙うイギリス。アメリカは兵器の支援を約束したがそれを含めても兵器の足りないイギリスがそれでも各国を支援し進撃するナチスドイツをなんとか防ぐ。イタリアはドイツと協同で作戦をしてるというよりは英仏が弱った好きにどさくさ紛れに領土を広げようとしている。
フランスが早々に占領されたため1944年上半期まで連合軍はイギリスにかかっていた。アメリカが西部戦線の主力となったのは45年になってからだ。海運の被害総数の半数がイギリスならUーボートを中心に敵潜の半数を沈めたのもイギリスだった。
挙国一致の戦争内閣を率いたチャーチルは実質に重きを置いて組織を改変した。「憲法は短く、あいまいにしておくべきだ」現代日本でこう言うとかなり叩かれるだろうが、チャーチルは自分の義務と権利を規定しないように気を配り法的手続きで時間が浪費されるのを避けた。臨時招集した下院で信任投票を行い、あらゆる政党からの信任を受けた。遅ればせながらイギリスは勝利を目指して戦うことで団結した。フランスが陥ちればイギリスは戦争を諦めると読んだヒトラーの目論見はすでに外れていた。
1940年5月9日の空襲を皮切りにドイツはフランスに進撃を開始した。ドイツの126個師団に対し連合軍は135師団と拮抗していたがドイツの攻撃力が上回り、フランスの防衛戦には50マイルもの穴が空きドイツ軍が流れ込んだ。15日にはフランス首相のレイノーは我々は負けたといい、オランダは降伏した。フランスは後詰めの機動部隊を用意していなかったため前線が崩れると後は後退しかなかった。包囲されたイギリス軍はダンケルクからの撤退に成功し34万人が逃げ延びた。3万人の捕虜とほぼ全ての陸軍の装備を失ったがドーバー海峡の制空権と制海権はまだイギリスが握っており、イギリスは闘志を保っていた。
ムッソリーニが参戦、ソ連はドイツの勝利を祝福し、踏みにじられたフランスはイギリスとの同盟のために単独講和を結べない。フランスではイギリスに対する反感が沸き起こり、イギリスはフランスの植民地を奪い取ろうとしているというものがあれば、ナチの一州になった方がましだというものまで現れた。しかしイギリスは空軍が負けなければドイツの上陸は防げる、量的には優勢なドイツ空軍に対しても士気が落ちなければ対抗できると信じ、そしてそれは実行された。
ドイツがイギリスに上陸しようとすれば秋になり海が荒れる前に制海権を保持しなければできない。そして制空権を握れなければ一度上陸したとしても補給ができず後が続かない。陸海空軍がチャーチルのもとで団結したイギリスと違いドイツはバラバラで、上陸しさえすればなんとでもなるという陸軍、ノルウェー沖で敗れ上陸に悲観的な海軍、そして回廊を形成する責任は空軍に押し付けられた。空軍のゲーリング元帥は威信の高い陸軍に対抗するため空軍だけで勝利を得ようとした。
バトル・オブ・ブリテンでは両空軍の性能はほぼ同じだった。数で上回ったドイツが当初は優位に立ったが最終的に損害数は変わらずドイツは制海権を手に入れることはなくやがて上陸作戦は破棄された。おそらく攻撃目標をロンドンにして士気を折ろうとしたのが戦術的なミスで、空軍の消耗戦をしかけた方がイギリスは困っていたのだろう。瓦礫の下でロンドンは耐え忍びながらイギリス軍は空港と航空機の修理に回ることができた。「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない」というのがチャーチルの有名な演説として残されている。
ヒトラーはバルカン、アフリカ、中東と戦線を拡大しついにソ連に戦線を布告する。ソ連を落とせばイギリスには後で戦力を集中できるからだ。しかしイギリスの戦いでも途中から制空権ではなくロンドン空爆でイギリスの心を折ろうとした様に、戦線拡大も上手くいかなかったところは置いといて転戦している様にも見える。一方のイギリスは本土防衛の戦力を割いてでも他国を支援した。敵対的中立から一転して援助を訴えた傲岸不遜なソ連に対してさえもだ。 -
Posted by ブクログ
イギリス首相を退いたチャーチルが唯一要求したものは大戦中を含む公文書を自由に見られることだけだった。そのチャーチルが書き残した「第二次世界大戦」全6巻を改変したのが本書で、第1巻は第一次大戦後の軍縮が進む中、ヒトラーが政権を握り軍備を拡張し戦争を始める間の英仏両国の動きを描いている。そして政界に復帰したチャーチルがついに戦時内閣の首相に任命される。チャーチルの見方に立てばこの戦争は容易に避けることが出来た。しかし平和主義が英仏両国の軍備拡張を拒んだがために、領土拡大の野心を見せ挑戦するヒトラーを牽制出来ず勢い付かせてしまった。
ドイツに対する賠償支払いの要求は1ポンド43兆マルクと言う強烈なインフレを呼び自然と国家社会主義へと集まる下地が出来た。帝国主義に変わる勢力としてロシアの革命による共産主義とその影とも言えるファシズムが力をつけ始めていた。しかし国際連盟は創設され1934年まではドイツの武装勢力はまだ国連に歯向かえるほどの力はつけていなかった。
1918年にまだ無名の伍長だったヒトラーは19年9月にドイツ労働者党に加わり翌年2月の第一回大衆大会では議事を取り仕切り党の綱領を説明した。この頃からゲーリング、ヘスなどのヒトラー派が党内で力を持つ。1924年に収監されたヒトラーは「わが闘争」を練り上げた。ヒトラーとナチ党の勢力拡大にこの頃の戦勝国側は気がついていなかったが、1928年にはわずか12議席だったのが、30年に107、32年に230となりユダヤ人に対する迫害は激しくなっていく。
ヒトラーは権力闘争に勝ち残り、大恐慌が生んだ大量の失業者はヒトラー支持にまわった。33年ヒトラーのナチは過半数の支持を取り付け3月の第三帝国第一回国会は向こう4年間ヒトラーに非常時大権を与えることを決めた。粛清により軍の実権を握ったヒトラーは着々と軍備を拡張し、それを支える工業力をフル稼働させていく。一方で平和を望むイギリスはチャーチルが求めた空軍の増強を却下した。大戦開始時にはイギリス空軍は性能ではドイツを上回っていたが数では半数に過ぎなくなってしまったのだ。
35年の再軍備宣言は明らかな条約違反だったがイギリスはドイツの艦艇数をイギリスの1/3にするという新たな協定を同盟国のフランスや国連にも無断で結んだ。一見するとドイツ海軍の増強を制限する協定だがここで認められた艦艇数はドイツの工業力を超えたものであり、さらにUーボートの製造は含まれないなど実質的にはドイツを制限するものではなかった。
1936年ヒトラーはついに非武装地帯のラインラントに進撃した。この時ドイツ軍の将軍たちは消極的だったがヒトラーは賭けに勝ち以降軍はヒトラーに逆らえなくなっていく。イギリス首相は戦争の危険を冒すことはできないと実力行使には否定的で内部に強力な共産主義勢力を抱えるフランスもイギリスの後押しが無ければ国論を統一できない。そしてヒトラーの行動を制限する最大のチャンスは失われドイツはさらなる戦争に突き進む。
ラインラントの防壁がオーストラリア併合と続くチェコ侵攻を助け、ヒトラーはチェコとともに同時期のイギリスの兵器生産量に並ぶスコダ工場を手に入れた。領土は拡大し、工業力と1千万人の人口を手に入れとうとう独仏の戦力は逆転する。35年ならフランスは単独でドイツを再占領できたかもしれない。そしてのちのドイツ側の発表によると38年でもまだフランス側が優勢だった。
1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻し、3日イギリスは最後通牒を送り第二次世界大戦が開始された。チャーチルは戦時内閣の海相として入閣したようやくチャーチルが自分の力を発揮できる地位が与えられたのだが、もしもっと早くドイツに対する制裁を始めていれば第二次世界大戦は違った進行をしていたのだろう。アメリカの様にどこにでも乗り込んで行くのが平和につながるとは思わない。しかし、平和主義で有れば戦争を避けられるというわけでもない様なのだ。 -
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以前はこういう、事例の羅列だけで面白く読めていたはずなのに、ちょっと物足りなかった。
それというのも、参考文献が、というか、そのおおもとの方言調査が古くて、既に共通語になってしまったと思われる事例が多くて、肝心の方言にピンとこなかったのが大きいと思う。
例えば、ジャガイモ。
近畿から東北地方にかけてはニドイモ(なるほど)、中国地方のキンカイモ(へぇ~)、福島を中心に見られるカンプライモ(どういう意味?)に続いて北海道全域に分布するゴショイモ。
え?
北海道では普通にジャガイモと言っていますが?
と思ったけど、よ~くよ~く思い出してみると、なくなった祖母はゴショイモと言っていたような気も…。
漢字で書くと御所芋ではなく、五升芋。
たくさん取れるからね。
でも、ことほどかように、事例に納得感がない。
お手玉のこと「アヤ」なんて言ったことないもの。
北海道弁の「したっけ」は、比較的新しい方言なんだとか。
多分「そうしたら」という意味の方言が、「じゃあね」に転用されたのだと思うけど、それでも私が学生の頃にはあったような気がするなあ。
面白かったのは、「明後日の次の日」。
西日本の大部分は「シアサッテ」と言い、東日本は「ヤノアサッテ」というが、都区内は「シアサッテ」。
「明後日の翌々日」は、西日本が「ゴアサッテ」(四(し)の次だから)、山形県の一部では「ココノアサッテ(八(や)の次だから)。
これはうかつに「○○アサッテ」なんて言っていたら違う地域の人には通じないから、「何日」とはっきり言わねばなりませんな。
あと、方言コスプレ。
”話し手自身が本来身につけている生まれ育った土地の方言とは関わりなく、日本語社会で生活する人々の頭の中にあるイメージとしての方言を演出することであり、関西人でもないのに「なんでやねん!」とつっこんだり…(以下略)”
言われてみれば、私も無意識にやってるでごわすなあ。 -
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最終巻では、いよいよアメリカの参戦により独伊日が敗戦へと向かっていく様子が描かれます。ナチスドイツの退潮に伴いソ連が中・東欧、日本での勢力拡大をもくろむ中で、欧州での民主主義が共産主義により侵食されることを懸念したチャーチルは、米国の介入を求めます。しかし、ルーズベルトの死とトルーマンの承継の狭間で時機を逸することとなり、結果として彼自身が名付けた「鉄のカーテン」がバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステの下ろされることとなります。東西ドイツは分断され、この後約半世紀にわたる東西冷戦時代が幕開けることとなります。この過程で、英国の介入によりギリシアは民主主義を維持する一方、ポーランドはソ連の共産圏に飲み込まれる結果となり、明暗を分けます。
広島・長崎での原爆使用に関しては、英米の意見は日本の降伏を強いるために不可欠という点で全く一致していたといいます。チャーチルの言を借りれば、その使用は「彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の一人まで戦って戦死するという義務から逃れるだろう」と正当化されています。無条件降伏の最後通牒は、7月26日に公表されたものの日本政府に拒否され、8月6日と9日の原爆投下をへて、ようやく降伏を受け入れることとなります。この経緯については、後世にその過程がより精査される日が訪れるような思いがします。
欧州大陸の復興について、チャーチルは仏独のパートナーシップの重要性を指摘し、ヨーロッパ合衆国に関する構想に言及しています。さらに、大戦後の世界統治機構としての国連や、北大西洋条約機構の重要性を示唆しするとともに、朝鮮戦争、イスラエル建国に伴う中東の不安定化に触れています。これらの地域諸問題は、今日にも一向に解消する兆候は無く、今後も政治・外交関係の中心課題であり続けることでしょう。
同年7月の英国下院選挙でチャーチルは破れ首相を辞任することとなるのですが、その前にチャーチルは、投票の結果についての幻覚を見た、とのたまわっています。以前の爆風を予知したエピソードと言い、彼には常人に無い霊感が備わっていたように思いました。
終戦前の1945年4月にルーズベルトは逝去しますが、チャーチルは盟友の死を悼んでいます。次のトルーマンに関しては、朝鮮戦争への介入を英断と評したり、マーシャルプランがいかに西欧諸国を共産主義への傾倒から救ったかを強調したりと、彼の米国に対する信頼がいかに強いものであったかが覗えます。 -
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最終巻。イタリアに侵攻して、オーバーロード作戦を実施し、ドイツを追い詰めていく。一方で終戦が見えてくると共産主義国のソ連との確執が露わになってくる。共通の敵がいる間は良いが、どう終わらせるか、イギリスの正義をどう実現していくかの舵取りが難しい。そんな中、盟友のルーズベルトが死にトルーマンに替わる。自身も最後の局面では選挙に負けて最後まで戦争の結末に関与出来なくなる。結局ヒトラードイツがスターリンソ連に置き換わっただけなのか。ヒトラーとの戦争に勝つと言う事に専念して窮地を救ったチャーチルはすごい。でも、原爆の使用には躊躇しないし、そもそも世界中に植民地を作りまくった帝国イギリスに対しての振り返りはない。こちら側から見ると一言言いたくなる。エピローグにあるが、アメリカとはイギリスが同意しない限りは絶対に核兵器は使用しないと言う取り決めだった。戦争を早く終わらせる為には原爆の力は必要だった。終戦後8年経ってもその部分への疑念は一切ない。ヨーロッパの側からの第二次世界大戦の流れが分かって良かった。
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第3巻。アメリカがいよいよ正式に参戦。それも真珠湾。チャーチルは真珠湾のニュースに接してこう言っている。「この辞典で合衆国が完全に、死に至るまで戦争に入ったことが私には分かった。それゆえ我々は結局はすでに戦争に勝っていたのである!」アメリカと戦ってはいけなかったんだろう。戦わざるを得なかったのだろうが。「日本人について言うなら、彼らは粉々に打ち砕かれるだろう。」大喜びである。もう一つは原爆。対ドイツという事でしょうがないのだろうが、原爆開発にはイギリスも積極的に関わっていたし、データの多くもアメリカに提供している。チャーチルはこれに対して肯定的だったのだな。しかし日本に関わる箇所についてはやはり少し心がざわつくな。