野上豊一郎のレビュー一覧
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ネタバレ仕事柄、経験則が武器になる一方で、それが「慣れ」や「慢心」になっていないか不安になる夜があります。そんな時に読み返した世阿弥の言葉は、痛烈でした。
特に胸を打たれたのは「時分の花」と「まことの花」の峻別です。若い頃の輝きや成功は、多くの場合、若さそのものが放つ一時的な「時分の花」に過ぎない。それを自分の実力だと履き違えてしまうと、年を重ねてその花が散った時に、何も残らないことに気づき途方に暮れることになります。
では、どうすれば一生枯れない「まことの花」を持てるのか。その鍵が「初心忘るべからず」でした。この言葉は「初々しい気持ちを忘れるな」という綺麗な精神論ではありません。「その年齢ごとの未熟さを直視せよ」という、極めて厳しい現実的な指針です。壮年には壮年の、老年には老年の「初心(=未熟な課題)」があるのです。 -
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父・観阿弥と共に能楽を成立させた世阿弥による能楽の奥義書。奥義書といっても、素直に読むとこれは能楽の教科書とも言うべきもので、能楽師のキャリアや練習の方法、心の持ち方といったものが丁寧に解説されている。ごく簡単に要点を抽出すると、以下のようになるかと思う。
まず、能楽師の目標は観客に「花」を見せること。「花」のある演技を見せること。この「花」というのは、究極的には観客が珍しさを感じるような演技である。
では、どのように観客に珍しさを感じさせるか。これには三つのコツがある。一つめは、状況を適切に把握すること。時間帯、演目の内容、観客がこれまでに観たことがある演目等々、状況を適切に把握すれば自ずとどのような演技で珍しさを感じさせることができるかわかる。二つめはその状況に合わせて適切に演じること。状況に合わせて適切に演じることができれば観客に珍しさを感じさせることは難しくない。三つめは、観客に合わせてこちらがいろんな手を打つということを観客に知られないこと。こちらの手の内がわかってしまえば当然珍しさというものは発生し得ない。これが有名な「秘すれば花」である。
そのためには、能についてよく勉強をして適切な状況判断ができるようにし、状況に合わせて演じ分けられるよう常日頃から練習を怠らず、そしてこの能の極意は秘匿せよ、ということになる。
この論理からもわかるように本書はある種の専門的な職業についている人間にとっての普遍的なキャリア論、教育論としても読むことができるのではないかと思う。結局のところ、ある種の職業の要諦は、状況を適切に把握し適切な手段でもって相手の裏をかく、というところにあるのではないだろうか。 -
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漫画「花よりも花の如く」(成田美名子/白泉社)を読んで日本っぽいもの、芸とは演じるとは、に触れたくなって手を出した。密で無駄なく普遍的かつ至りがたい。名前はみんな知っているけれど、本当にすごい本だった。漫画を読んでいて私は子供に惹かれるから小さな演者が好きだった。それに関しては「先づ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。聲も立つ比なり。二つの便り(ちご姿の美しさと聲の良さ)あれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ花めけれり。」とある。たまらん!しかし「さりながら、この花、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。」この花というのは端的にこれ、と示されない。いくつかのキーワードについて語られるなかに花は幻のように湧きあがるけれど、浅い読書じゃ掴めない。鬼についての言及もかっこいい。「「巌に花の咲かんが如し」と申したるも、鬼をば強く、恐ろしく、肝を消すようにするならでは、およその風体もなし。これ、巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、珍しく見ゆるる所、これ、花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。」荒々しい強い動作には足下は極めて優雅にとか、そのエッセンスと妙は挙げたらキリがない。神議云、の章も能関係の説話が面白かった。「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、「神」といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に、申楽と名附く。即ち、楽を申すよりてなり。または、神楽を分くればなり。」はーなるほど!きれい事ばかり書かれているのではなく、成功するための駆け引きなど厳しい世界がかいま見える。そもそも能は「壽福増長の基」、素敵だなあ。しかしこの本は広く能に親しんでもらうためのテキストではない。「この別紙口伝、当藝において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとひ、一子なりと云ふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家となす。人、人にあらず。知るをもて人とす。」と云へり。これ、万徳了達の妙花を極むる所なるべし。」家というのを現代人から見ても先進的に捉えていて感心するけれど、これは秘伝なのだ。私のような人間が読んでいることに、秘宝を盗み見るような後ろめたさと快感があり、ドキドキさせてくれる。演劇者文学者に限らずあらゆる意味での表現者にとってもこれは秘伝だ。現代語訳もそのうちに読みたいけれど、まずは注も控えめな岩波文庫で原文を読むのがオススメ。文に無駄が一切なく、章立ても細かいからなかなか読めるよ!
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ネタバレ初心忘るるべからずや秘すれば花などあまりにも有名な花伝書。白洲正子が能や仏像について語るとき「初心な心」という言葉を使っていたので、手に取る。
何度も読んだことがあった本であったが、ダンスをしているのであるいはエンターテイナーとしてパフォーマーとしての心得や芸の道を真摯に極める厳しい戒めが人としてのあり方をも示唆していて学びが多い。
世阿弥が義満の庇護なきあと政争に巻き込まれ佐渡へ71歳で配流となり佐渡で能が盛んであることを知り、芸術家とパトロンの関係の難しさを、ニジンスキーとディアギレフについて思った。
まごうことなき名著だった。 -
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芸に生き、花を求めつづける世阿弥の姿。
ひとを写し取り、真似る能というもの。芸を志さねば、風の姿も、伝える花もいらない。芸とはそういうところにあるものだ。能について詳しくはないが、たくさんの芸術家がいた中で、彼だけがその本質を知りえていたに違いない。しかし、それをかつて達成したしたと思えるのは父、観阿弥のみであって、いかに道が険しいのかということを同時に知ってしまったにちがいない。門外不出にしたのもなんとなくわかってしまう。
美しさというもの、幽玄というものは決して弱々しいものではない。彼にとって強さとは、それがそれ自体で成り立つものだ。独立。現実現象。どのような場におおいても移り変わらぬもの。弱さ、荒さはそうでないもの。弱いのに強く見せる。もともと強いのに強く見せる。
しかし、それはおおよそ、ひとが手を加えて真似る能という芸術のあり方からすると、ほぼ不可能なのだ。物狂いや鬼を能として取り上げる以上、そこには、恐ろしさや狂気をそういうものとしてみせなけえればならないのだから。
それゆえ、場の空気やみせる順番、時節、文字の精神、稽古、技能というものがあるのだ。そうして、シテそれぞれの決して失われぬことのない「花」ができあがり、それが「風」となって伝わっていく。これは、いくら言ってもわからぬものだから、言わぬ。稽古の中で自らが知っていくものである。世阿弥曰く、そこまで至るのに30年。
それでも、花が続くかどうかは時の運次第だから、稽古はずっと続いていく。おそらく、この稽古というものは、舞台の練習にとどまらず、文字に触れたり、時節の移ろいに触れることなど、生活そのもののことなのだと思う。
能の始まりは、ひとの心を慰めたり、喜ばせたりするものだ。それをみたからって腹が膨れるわけでも、のどの渇きが癒えるわけでもない。けれどそれはずっと昔からひとに求められたから在る。なんと不思議なことではないか。始皇帝の生まれかわりとか、伝説のような能の始まりはたぶん、こういうひとの心性によっているんだと思う。
花とは、ひとが生きて在る、そのことだ。土を肥やし、適した時期にいい種を蒔く。どんな花が咲くかはわからぬ。そもそも、ちゃんと花が咲くかもわからぬ。それでも、種を蒔かねば花は咲かぬし、美しい花をみたいと望まれているから種を蒔くのだ。花は心。それは花となるひと、花をめでるひと、すべてに共通するものだ。心とは、思うと同時に行ってもいる。この風姿花伝は理論と実践というわけかたでは、決してない。便宜上、稽古とか技能ということばは使っているが。世阿弥にとってそれはどちらも同じことだった。それこそ、世阿弥によって咲いた花だった。 -
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室町時代の能楽師・世阿弥が能を行うにあたっての精神や心得をその芸術論とともに家伝として遺し伝えられたあまりにも有名な秘伝書。
完成形は全7編によりなり、特に第7編目の『別紙口伝』は一代一人相伝と記されていて、例え一子であっても器量が無ければ伝えてはならないとしている。
全7編の概要は次の通り。
第1編『年来稽古条々』一人前の能芸者になるまでに辿るその年齢に見合った練習の仕方と境地を記載。
第2編『物学(ものまね)条々』女、老人、法師、修羅などその役柄に合わせた演じ方を記載。
第3編『問答条々』緩急や陰陽などを踏まえた演じ方や、相手に合わせた変化、慢心の禁止、花・幽玄・風情など世阿弥ならではの能芸術論を問答形式で論じる。
第4編『神儀云』申楽(さるがく=能)の歴史を記載。
第5編『奥儀讃歎云』本作を記すに到った背景を記載。本作を『風姿花伝』と名付けている。
第6編『花修云』能の極意を記載。優しい言葉を選ぶこと、珍しい風体になること、音曲と風情を合わせること、能には強き・幽玄・弱き・荒きがあり強きと幽玄を行うこと、稽古を重ねることで年老いても花は残るなど。
第7編『別紙口伝』能が目指すべきは花、そして毎回珍しいものを演じること、物まねはちょっとズラして真似た方が面白い、あらゆる物まね芸を修得すればそれは引き出しになる、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」、因果を知ること、など能の最終奥儀を記載。
有名な言葉「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(パンチラのようなものか?)にもあるように、本書で世阿弥が能(申楽)に一貫して求めていたものは「花」である。美しい、珍しいといって観賞されるが、やがては散ってしまう花のようにあるべきだとする。また、そもそも芸能とは諸人の心を和らげて感動を与えるもの、寿命増長の基となるものであるとした上で、珍しい風体をして優しく柔らかく、時にはその役に相応しい強さをもって演ずれば観客に面白く受け入れられるとしている。
現代では古典芸能として知られる能(申楽)であるが、こうしてみると、いかにすると観客を面白さで惹きつけることができるかということがまず考えられていて、1人前のプロとして大衆心理を踏まえた演出と演技を求める内容が大半を占めているように思われる。その中で、世阿弥が考える芸の美学の追求としての「花」が結び付けられ、実際面として「幽玄」や「風情」「物まね」「珍しさ」「緩急」「陰陽」などのキーワードで彼なりの芸理論が語られるのである。
そして、舞台装置の妙や役稽古ついてや音楽と舞の同期合わせなども含め、ひたすら芸のあり方・やり方を熱心に考え、どうやって観客に面白がってもらおうかと考える姿は、時空を超えてとても真に迫って感じられるものであり、なかなか興味深いものであった。
本書の趣旨はこうした芸の奥儀を家伝として彼の家へ相伝することにあったが、あまりにも熱心に追求し過ぎたため、それが「花」という美学への昇華とか、パンチラの推奨や微妙にズラした物まねの方が面白いなど人間心理をつくものであっただけに芸術論にまで高めることができたといえる。しかし、こうして家伝として秘密に伝えられることになったが故に、時代の移ろいとともに大衆受けする芸能から切り離され古典芸能となったことは、世阿弥の芸術感性の確かさを表すとともに、世阿弥が目指した面白さの追求からはかけ離れることになってしまったともいえる。
世阿弥の芸に対しての強い想いの息吹が伝わってくるかのような作品である。
ところで、パンチラを技にできるなんて、あるいは美少年だった世阿弥だからこそできたともいえないだろうか?(笑)