永井隆のレビュー一覧
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そりゃあ日本のように毎年新しい銘柄の新製品を、しかも4つのメーカーが
しのぎを削って出しながら戦っている国は他にはないでしょう。
海外は昔からの製法やブランドを頑なに守り通しています。
一方で、日本では「ドライ戦争」が大きかったと考えられています。
それまでビールを銘柄で選んでいた人はいなかったのですが、ドライビール
という一大ジャンルが発生したことにより、銘柄にこだわる人が増えたと
言われています。
そのようなビールの商業的な歴史がこの本のお主な内容です。ビールという
飲料そのものの歴史は主題ではありません。
しかしその商業的な歴史こそが、今の日本のビールの旨さにつながっている
の -
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長崎大学医学部内で原爆被害にあった医者のレポなんだけど、医者だから科学的な視点になったはだしのゲンみたいで凄かった。人の死がそこら中にあるリアル地獄絵図。
永井隆
明治41年(1908)に父 寛(のぶる)、母 ツネの長男として島根県松江市苧町(おまち)に生まれた。医師である父の影響を受け、恵まれた家庭で幼少年期を過ごした。昭和3年(1928)、医学を志し旧制長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学。在学中はバスケットボール部に所属。卒業後、放射線医学教室に在籍、放射線物理療法の研究に取り組んだ。昭和8年(1933)、満州事変に幹部候補生として出征する。このとき慰問袋の中にあったカトリックの書「 -
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床についたきりなので、あんな悪いことはできない。善いことはなおのことできない。
死との結婚はいつになるのか、秋なら白菊、冬なら水仙
2+3は4になると教えろ ピストルを突きつけられ、5になると答え撃たれる。天国へ行き、聖パウロに「殉教者の心理がわかったかな」
垢すりのヘチマ同様、一生の目的が達せられ、人に重宝がられるときには、自分は死んでいて、それを知ることもない
焼け跡のバラックで戦災者毛布にくるまって、毎日文を書き続ける
人の守るべき最大の掟は、近き者を己がごとく愛すべし
あなたは僕の前に現れたメッセンジャーだと思っているの ーと言った人から「読んでみて」と渡された本
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購入済み
定期的に読み返し一冊
私は大企業に努めた経験はありませんが、読み進める程共感と自分自身の我慢の無さを気付かされました。
どの環境においても全力を尽くす、アイデアをストックし続けるという姿勢は共感しかありません。
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レギュラースーパードライが売れ出した頃にビールを飲み出した。CMが男向けで男性消費者が多いと思いきや、飲みやすいから女性に支持されたというのは知らなかった。そういえば、酒が苦手な母も一番搾りだけは飲めたことを思い出した。
通達と調整が営業という会社を変えた伝説的なマーケッターの前田氏の話は知らなかったが、どんな場所でも腐らず、人とコミュニケーションをとる姿勢は見習いたい。
安いものは残念ながら終売したが、富士山麓など素晴らしいウィスキーの素地を作ったのも、キリン・シーグラムにいた頃の前田氏かもしれない。
最後に、人を育てることはいかに大切かということも再認識できた。『ヒゲのウヰスキー誕生 -
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長崎への原爆投下当時、爆心地からわずか700メートルの場所にあった長崎医科大学で教鞭をとっていた永井隆博士。自らも被爆しながらも生き残った者たちと懸命に被爆者の救出、介護にあたる模様を記録した本。医者としての冷静に傷や病気を観察した模様も描かれており、医療記録としても貴重だと思われる。
涙が出てくるような感動的な話はない。どちらかというと何が起こったのかもわからないまま混乱し、狼狽する描写が続く。なにか相当な破壊力をもった爆弾にやられたらしいことはわかったが、状況を把握できないながらも、けが人の救助、火災からの避難と、なすべきことに邁進する。あたりに転がる無数の遺体。そこには教え子の顔も -
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ネタバレ爆心地から700mの長崎医大で被爆した著者は、白血病を負いつつ戦後の6年を生きた。
原爆投下の直後、医師である彼は、重傷を負いつつも、猖獗きわまる被災者たちの救護活動に明け暮れた。
明くる10日、帰宅した彼は、廃墟となった台所跡に、骨片だけに変わり果てた妻を見つけ、埋葬する。
偶々、祖母宅へ行っていた二人の子ども、兄と妹は原爆を免れ無事だった。
敬虔なカトリシズムと、放射線物理療法の医師という二面を併せもつこの高貴な魂は、自身の死期迫りくるなかで、この世に残しゆく幼い兄妹の身をさまざまに案じつつも、揺るぎのない信仰に支えられ、あくまで沈着に父からの二人への遺言の書として、日々の思いを綴ってい