瀧玲子のレビュー一覧
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義経のことになるとね、うーん…何が惜しかったのだろうと思ったりもしてしまいますが( ̄▽ ̄)
でも、これ以上彼に何かが備わっていたら「義経」ではなくなるんだろうなとも思う。
巻末の年表を見ていて、「これ、義経の物語というより、『鎌倉殿の13人+義経』なんだな」と。平氏と源氏と朝廷が入り乱れた時代の登場人物の1人なんだと思えました。…まぁ、イメージが良すぎるから別格扱いになってしまっているのかもしれませんが( ̄▽ ̄)
あの時代、相手を生き長らえさせることは、許した方にとっては致命的だったんだなと、いろいろな人物から学ぶよね…恐ろしい時代だな(^^; -
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ネタバレ秀吉がもっとも信頼した天才軍師!
美濃の斎藤家に仕える竹中半兵衛は、態度の悪い主君をいさめるために、わずか16人で稲葉山城を奪取する。それは、稲葉山城を長年落とすことができなかった
織田信長をも驚愕させる事件だった! のちに織田信長に登用され、羽柴秀吉の軍師として活躍する半兵衛の、短くも波乱の生涯を描く!!
織田信長の跡を継いで天下人となった羽柴秀吉には優れた参謀が2人居た。
後の世で「二兵衛」と呼ばれた
・竹中半兵衛
・黒田官兵衛
である。
この両名が打ち立てた作戦が秀吉軍の天下取りに貢献した度合いは計り知れないものがあった。
両名共に信長ではなく秀吉の直属となった背景には、人間的な魅力で秀吉のほうが信長よりも温和で敵に対して過酷な処置をしなかったことだろう。
秀吉が天下人となる前半戦では竹中半兵衛が、そして毛利家との戦いの最中に半兵衛が病死した後は官兵衛が参謀としての地位を担った。
竹中半兵衛は元は美濃の斎藤家の家臣であり、父親は「美濃のマムシ」と呼ばれた下剋上の申し子・斎藤道三に仕えていた。
しかし、道三は息子の斎藤義龍との戦いに敗れて死に、ほどなく義龍も病死して、その息子の龍興が当主となっていた。
やがて半兵衛の父親も死に、半兵衛が家督を相続したが、主君の龍興は暗愚と評判で美濃国はまとまらなかった。
半兵衛がその名を世に知られるようになったのは手勢僅か16名で主君の居城の稲葉山城を奪取してそれをすぐに龍興に返還。
自らは弟に家督を譲って隠居した。自らが下剋上の世の潮流に乗る気など毛頭無く、あくまでも主家を想ってのことだったとのこと。
けれど、これは後の世に彼の息子である竹中重門が著した「豊鑑」のよる伝承のようだ。
実際は「龍興派」と「反龍興派」との対立によるもので、城乗っ取りは一時的には成功したものの、巻き返しに出た龍興によって奪い返されたというのが本当のところであるようだ。
本来なら「謀反」を起こした半兵衛は抹殺されるはずだが、幸いにも龍興の求心力は低下しており、美濃攻略を目指して進軍してきた織田軍を抑えられなかった。
やがて隠遁する半兵衛の下へ秀吉が訪ねてきて織田家へ仕えるように勧めてくる。
斎藤家への忠節からかそれを断る半兵衛であったが、秀吉は何度も半兵衛を訪問して軍略の手ほどきなどを受け、師弟関係が徐々に構築されていった。そのうち信長の調略によって美濃の国人たちは織田家に寝返り、事ここに至り半兵衛もようやく折れて織田家に出仕するようになった。けれど、立場的には信長の直属ではなく「秀吉傘下」であった。時に半兵衛27歳の再デビューである。
中国攻めの陣中で没したのが36歳の時なので、半兵衛の表舞台での活躍は僅か10年弱の短い期間である。
けれどそれは織田信長の「天下布武」の戦いの軌跡にそのまま参戦することを意味した。
浅井・朝倉氏との「姉川の戦い」「小谷城攻め」等でも秀吉傘下で功を上げ、浅井長政の裏切りで信長が危機に陥った際は秀吉と共に「金ヶ崎の退却戦」で殿を務めている。
彼の編み出す作戦・用兵は「孫子」の軍略に基づいたものであり、「戦わずして勝つ」を基本とした。
決して犠牲を出すような力攻めは好まず、極力犠牲を避け勝利を得ることに集中した。
「秀吉は城攻め、家康は野戦が得意」という後世の評価も、秀吉が半兵衛から教えられたものが大きかった故であろう。
自らは病身であり、決して戦国の世に向いてはいなかったはずであるが、秀吉の、或いは信長の「軍勢をその知略によって使役する」ことで、大いに力を発揮して周囲の人間、特に秀吉には一目も二目も置かれていた。
やがて城持ち武将となった秀吉の下で中国地方の毛利氏攻めに参加。ここで自身の後継者ともなる「黒田官兵衛」と出会う。
後に秀吉に「油断ならない男」として警戒されることになる官兵衛も半兵衛の実力を認め、敬った。
半兵衛は病弱故か自身が長生き出来ないことを悟っていたフシがあり、それが無欲かつ清廉なイメージを作り出した。
禄高や褒賞などには頓着せず、織田家の勝利が「乱世の終結」へ繋がることを信じていたのだろう。
その中国攻めの陣中で結核の病状が悪化。遂に帰らぬ人となる。
「人生五十年」と称された戦国の世で36年の短い生涯であった。
その精神は「黒田官兵衛」「秀吉」に受け継がれ、間接的ながら天下統一に大きく貢献したといえる。
存命ならば秀吉によって数十万国の大大名となり、五大老に列せられていたかもしれない。 -
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ネタバレ幼いころ病気にかかり右目を失明。
それからというもの、母親の愛情は、
もっぱら弟の小次郎に注がれ、
幼少年期の政宗を大いに苦しめます。
徳川幕府の時代になっても“天下”を狙いつづけ、
江戸の民から“伊達者”と呼ばれた政宗。
政宗は家族のうち、父親と弟を殺さねばならず苦渋の決断であった。残る母親とは不仲で、小田原に参陣して秀吉に臣従しようとする直前には毒殺され掛かる。
その際に、家中の不安を取り除くために弟の小次郎を誅殺せなばならなかったそうだ(但し、生存説もある)。
秀吉に臣従しても裏で一揆を扇動したりして、隙あれば秀吉の天下を覆そうとする政宗。当然に秀吉から詰問を受けるが・・・その度に
・花押(サイン)を二種類使い分けたり
・黄金の磔柱を持参したり
と派手付きの秀吉の性格を見抜いたパフォーマンスで切り抜ける。
おそらく秀吉は政宗に「かつての主君である織田信長の姿」を重ねていたのではないか?
そのため、幾度も反旗を翻されながらも最後まで政宗を取り潰さず、丁々発止の駆け引きを楽しんでいた節さえ見える。
政宗にしてみれば家康よりは秀吉のほうが性格的にウマが合ったと思う。
他にも朝鮮出兵に参戦する際に自軍の兵に派手な衣装を着せて、秀吉の直属兵として温存させることで部下の命を守ろうとするなどしたたかさを見せるが、この漫画ではそのエピソードは省略されてしまっているのが残念。
さらに政宗の名参謀である「片倉小十郎」がいたことも政宗の生存の大きな理由であったかと思うが、その小十郎が秀吉や家康にスカウトされてそれを固辞して政宗に仕え続けたことなども、主従の絆の強さを示す意味で入れるべき話だったかと思います。
一番残念なのは、前半から小田原参陣まで母親の義姫との関係がしっくりいっていないことを描きながら、晩年に義姫が身を寄せていた実家である山形の最上家が改易になると行き場を失った母親を政宗が引き取り、母子が和解した描写が全くない点。
晩年に徳川家による天下が固まるまで、自らの天下取りの野望を捨てなかったという政宗だが、実は天下と並んで欲していたのは「母親の愛情」ではなかったか?
戦国の世の骨肉の争いの習いで、素直になれなかった両者がようやく歩み寄り和解したのは義姫が亡くなる1年前の短い時間ではあったが、それが無ければ政宗はどれほど後悔したことであろう。
天下を取ることは叶わなかったが、実は最も欲しいものは最後の最後で手に入れた政宗。母子の和解を父・輝宗も喜んだことだろう。
それが一切描写されていないので、単なるダイジェストのような構成になっているのが残念。 -
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ネタバレ父・光秀の謀反により幸せな日々が一変!
夫を信じ、己を貫いた戦国女性の運命とは?
織田信長の重臣・明智光秀の娘に生まれ、
織田家臣団の若きエリート、細川忠興の妻となったガラシャは、
まさに幸福の絶頂にあった。
ところが、光秀の起こした“本能寺の変”によって、
彼女の人生は一変、奈落の底に突き落とされてしまう。
裏切り者の一族と後ろ指をさされつつも、
夫・忠興の理解とキリスト教への信仰を支えに、
強く人間らしい生き方をえらんだガラシャ。
時代の波に翻弄されながらも、
戦国乱世をたくましく生きぬいた、
一女性の波瀾の生涯をえがく。
戦国時代の女性は名前も判らないという人が多く、その中にあって信長の妹であるお市の方や、姪の茶々こと淀君などは存在がハッキリと記録に残っており、珍しいほうである。
熊本54万国の祖となる細川忠利の生母が「細川ガラシャ夫人」である。正式な名前は「お玉」。ガラシャはキリシタンとしての洗礼名である。
彼女は織田信長の重臣である明智光秀の娘として生を受け、後に夫となる細川忠興とは幼馴染の関係であった。
父の光秀は諸国を浪々の身であったが、後に足利幕府の最後の将軍になる足利義昭に仕え、その義昭を上洛させることの出来る諸国の大名を訪ね歩くうちに、尾張の織田信長に辿り着く。一説には信長の正室であるところの美濃の斉藤道三の娘・濃姫と親戚関係にあったことが縁であったともいう。
信長に仕えるようになった光秀は各地を転戦し、軍功を立てていき信長の信頼を得ていく。
諸国浪々であった光秀の生活は安定し、娘である玉も何不自由ない幼少期を過ごした。
光秀と細川家の当主の幽斎、は共に足利義昭の家臣という立場から信長の客将となり、後に義昭と信長が不仲になると共に義昭を見限って信長に仕える様になった言わば似た立場にあった。
夫になる忠興の父である細川幽斎は文武に秀でた武将であり、信長の信任も厚かった。
そういった縁にも恵まれた末の婚姻であったわけであるが、それが暗転するのが「本能寺の変」である。
父・光秀が主君である信長に謀反を起こし、信長を自害に追い込んだ。
細川家はお玉の実家である明智家に味方するのか、しないのかという決断を迫られることになる。
この漫画では忠興は率先してお玉の実家であり、義父に当たる光秀への加担を父である幽斎に訴えたような描き方をされてはいるが、実際は助力を願う光秀の書状に
「この度の挙兵は娘婿の忠興を出世させるために起こした」と書かれているのを見ると怒って使者を斬ろうとして父の幽斎に止められている。
つまり、細川家にしては「晴天の霹靂」以外の何物でもなく、当惑しかなかったであろう。
苦渋の末に忠興はお玉を離縁して一時的に山中に幽閉する。お玉は訳も分からないままに命令に従わねばならなかった。
そして、幽斎・忠興共に信長の死を悼んで喪に服するという態度を取った。つまり、積極的に光秀と戦うことはしなかったが味方もしなかったのだ。
一番の頼みとした細川父子から助力を拒絶された光秀は、毛利氏との戦いを切り上げて中国大返しを行った秀吉との戦いに敗れ命を落とした。
主君である信長を討った光秀に味方しても世の人の支持は得られないと見たのであろう。幽斎の機を見る目は確かだった。
その後、細川家は秀吉の傘下に入り、天下取りを進める秀吉に協力。忠興は各地を転戦することになる。
戦功を立てた忠興は秀吉にお玉を引き取ることを願い出て、ようやく夫婦が再会することができた。
・・・・・が、夫婦の間に芽生えた不信感は拭えない。両親を亡くして捨て置かれたお玉は絶望の中で信仰に救いを求めキリシタンの洗礼を受けた。
信長はキリシタンの宣教師には寛容で、布教を積極的に支援してくれた。だが、その跡を継いだ秀吉はキリシタンを侵略の先兵として迫害・追放した。
自分の妻が秀吉が嫌うキリシタンであれば、細川家にとって禍となりかねない。忠興はお玉に信仰を捨てるように迫るのだが、お玉はそれを拒絶した。
やがて秀吉が死ぬと天下の形勢は、徳川家康とそれを除こうとする明智光秀との対立が激しくなる。
忠興は加藤清正や福島正則などと共に武断派の一人として三成たち文治派とは対立していた。
家康の会津の上杉家征伐の軍に加わる夫の忠興。留守を守るお玉は京都の細川家の屋敷にいた。
だが、留守中に三成たちが家康を討つために挙兵し、家康と共に会津征伐の軍に加わった諸将の妻子を人質に取ろうとした。
脱出は叶わないと悟ったお玉は家臣に自らの命を差し出した。夫の足手まといとなることを避けるためと、彼女はキリシタンであったため自害は禁止されていたからである。彼女も戦国を生きる大名家の女性として覚悟は出来ていたということであろう。享年38歳。
戦国の世に生を受けた大名家の姫君は実家と自分の嫁ぎ先との対立・没落の危機と常に隣り合わせであり、その際に嫁ぎ先を守るためにどのように行動するかが問われたことであろう。お玉の人生は「本能寺の変」で暗転し、両親は死に、それまでの幸せから放り投げだされた。
そんな中で夫である忠興は可能な限り妻を守ろうとし、その行為がお玉の誤解を受け、時に夫婦仲が冷え込むこともあったものの、最後までお互いを想う気持ちが続いた。
二人が「幼馴染」であったことも大きかったであろうが、不本意ながら妻の実家を滅ぼすことに加担してしまった忠興には後ろめたい思いが常にあったはず。
忠興なりの生涯を通した「妻への贖罪」が、後に妻の洗礼を認めることにもなったはずである。
政略結婚が大半を占める戦国の大名家の婚姻の中で、おそらくは数少ない恋愛結婚だったはずだ。 -
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ネタバレ幕末に日本史上最強の「剣客集団」として志士たちを震え上がらせた新撰組副長の土方歳三の伝記漫画。
明治を迎えて天寿を全うできなかった隊士の中で、土方は最後の最後まで戦い続けた点で、幹部の中でも特別ドラマ性の高い生涯であった。
近藤も土方も沖田も元々は武州・多摩の農民の出自である。
剣術が得意であったが、江戸幕府の身分制度の敷居は高く、武士には裏口を使ってもなかなかなれない。
本来ならば不満を抱えたまま一生を為す術なく終えるはずの身であった。
けれど黒船来航に始まる幕末の動乱が土方を歴史の表舞台へと登場させるに至る。
志士たちの暗躍する京都の治安を守るための浪士隊が結成され、近藤が隊長、土方が副長となった。
結成当時の新撰組は食い詰め浪人の集まりのようなもので、京都の人々にもその素行の悪さから「壬生狼(みぶろ)」などと蔑まれた。
そんな愚連隊のような集団を組織するには厳しい紀律が必要だった。
かくて「違反すれば切腹」という厳しい局中法度という鉄の掟が土方の主導の下に作られた。
この法度の違反で多くの隊士たちが敵との戦闘ではなく、切腹に追い込まれて命を落としていったのである。
そこには元々は士族の出身ではない土方の「より武士らしくあろうとした」羨望とも劣等感ともいえる感情が透けて見える。
確かに武力に優れた者たちを束ねるにはより厳しい力で押さえ付ける必要があった。
が、それが後年の新撰組内部粛清を誘発し、結成初期の同志たちの命さえ奪っていくことになるのである。
大政奉還後に近藤は斬首され、沖田は病死。土方はひとり各地を転戦する。
新撰組の生き残りとして、薩長が自身を許すなどとは考えられなかったのであろう。
土方自身に何らかの目的や思想があっての戦いというより、自らの死に場所を求めての流離に等しかった。
最後は五稜郭の戦いで戦死する。銃撃を受けての最後であったと伝わる。享年35歳。
「武士らしくあろうとした農民の戦いに明け暮れた生涯」であった。