彬子女王のレビュー一覧
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彬子女王殿下が、大学で講義した内容を本にしたもの。皇族の一員として様々な公務を行いながらも、史上初のオックスフォード大学での博士号取得の知識を活かして大学で学生に対して講義を行なっている。京都に在住しながら、日本文化への取組み、スポーツへの取組み、テレビへの出演や雑誌への寄稿、著作の出版など、様々なことを積極的に行う姿勢が素晴らしい。開かれた皇室をいちばん実践されている方だと思う。エッセイも学術的な著作もとても勉強になる。これからも拝読したい。
「先生たちのように教えることができなくても、先生たちのように、自分が面白いと思っていることを共有して、学問の面白さの種を学生たちの心に蒔くことはできるのではないかと思った」p19
「残るべきものは必ず残るのです」p36
「伝統とは残すものではなく、残るもの」p37
「日本美術研究者は、初めての作品に出会うと真っ先に落款や印章を確認し、真贋の判断をしてしまいがちです。そんな我々を見て、ジョー・プライスさんは言います。「どうしてそんなに作者の名前を気にするんだ。目の前にこんなに素晴らしい作品があるのに。作者に失礼だ」本当にその通りなのです」p69
「ウィリアム・アンダーソンとアーネスト・サトウのコメントからわかることは、日本人たちが気づくよりも前に、日本美術史の中における法隆寺壁画の重要性を認識しているという点です」p96
「(アンダーソンの後、大英博物館の日本美術研究が進まなかったこと)日本美術の専門家がいなかった当時の大英博物館で、アンダーソンの日本絵画研究の意義は大きなものでした。この研究が抜きん出てしまっていたがために、それ以上の研究を深めようとする人物が出てこなかったのです」p113
「(一流の和菓子)凝った「吉野山」より、単純な桜のお菓子の方が、外国人には理解できる。日本人にとってはそれが「野暮」にあたる」p164
「明治期に海外へ渡った日本美術品は、決して略奪などの強行的な手段によって、海外にもたらされたものではありません。日本人が顧みていなかった日本美術に、海外の蒐集家たちが関心を持ち、きちんとお金を払って蒐集し、本国へ持ち帰ったものです。その間、日本では関東大震災や太平洋戦争などがありました。もし彼らが持ち帰ってくれていなかったら、顧みられず打ち捨てられたり、震災や戦争で失われたものも多かったでしょう。だから私は、海外で日本美術品を目にしたとき、「よくぞ今日まで残っていてくれた」「ありがとう」という気持ちになるのだと思います」p265 -
Posted by ブクログ
彬子女王が「和楽」という月刊誌に掲載されているものをまとめたもの。前半は主に大英博物館における日本美術史の構築についてまとめられたもの。後半はエッセイといった形で、ご自身の性格や考え方、心斿社のこと、英国での暮らし、皇室のこと、行事、衣装、茶器、三笠宮家の人々などさまざまなことについて考察されている。
彬子女王は日本美術史について博士論文をまとめられた際に大英博物館にお勤めであり、最初の方の法隆寺金堂壁画の写しの再発見や、どのような経緯で収納されたのかなどの話は興味深い。
写真もふんだんに載せられており、見ているだけでも楽しい。
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Posted by ブクログ
京都好きにはたまらない!
カバンにぽいっと入れて街散歩してくださる方が増えるといいなぁ〜と彬子女王
まさにたまに開きながらそれぞれの通りを歩きたい
「京の三名水」と言われる染井、佐女牛井さめがい、
縣井あがたい、唯一現存の染井が境内にあるのが梨木神社
祇園祭というと、毎年7月17日に行われる山鉾巡行を思い浮かべるようだ。でも、祇園祭は7月1日の吉符入から、31日の疫神社夏越祭えきじんじゃなごしさい
で幕を閉じるまで、さまざまな神事や行事が1ヵ月に互って繰り広げられ長いお祭りである。
古くは「祇園御霊会」ごりょうえと言われ、平安京をはじめ日本各地に疫病が流行した貞観11(869)年に、神泉苑に当時の国の数である66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、その鉢に各地の悪霊を移し、祓うことで、災厄の除去を祈ったことに始まる。
ソメイヨシノには年輪がない、江戸末期から明治初期に開発されたクローン植物、みんなが幹だと思っているところは、枝が太くなっただけや、と。
クローン故、病気に弱く、寿命も60年ほど
かきつばた
唐衣 きつつなれにし 妻しあれば
はるばる来ぬる 旅をしぞ思う
8/7〜10 4日間 六道まいり
参道でお精霊さんの依代である高野線を買い、亡き人の戒名を書いてもらった水塔婆を回向し、冥界まで聞こえるという迎え鐘をついて、先祖の霊をお迎えする。そして、魂の宿った高野根を、寄り道せずに持ち帰り、お仏壇にお供えするのである。
高野槇を使うのは、昼は朝廷に、夜は閻魔大王に仕えたという、「冥土通い」の伝説で知られる平安時代の公卿である小野算が、六道珍皇寺の井戸から高野根の枝を伝って地獄へ降りて行ったという言い伝えから
任天堂は、初代の山内房治郎によって明治22 (1889)年に花札の製造会して設立された。日本で初めてトランプの生産を始めたことで知られ、プラスチック製のトランプの開発に成功。
「かるた、トランプ 山内任天堂」と旧社屋に刻まれている
御池通と四条通の間を走る道は、「姉三六角蛸錦」と覚え歌に歌われ御池通から二筋目の三条通は、近代建築に老舗から流行りの新しい店」が混在し、観光客もそぞろ歩く。御幸町通の角、今は商業施設の旧大に日新聞社京都支局は1928年竣工、武田五ー設計のアール・デコ風に建築。社章を象った星形の窓で知られる。通りを西にずっと進めば、市路通で路面電車(京福電鉄嵐山本線)の線路と合流し、端は嵐山地区の
月橋だ。
錦市場の始まりは平安時代
新鮮な魚を御所に収めるにあたり冷たい井戸水で魚を冷やす為錦の辺りに魚問屋が集まってきた、2015年で400年になる、京の台所、である
豊臣秀吉の都市改造で16Cに永福寺の蛸薬師堂が移転し名づけられた通り、謂れは二条室街にまだお寺があったころ、付近の大きな池の中の島にお薬師様が安置され、「沢薬師」たくやくしと言われていたのが訛った、
または、鎌倉時代、このお寺に住んでいた善行という僧が病気の母が大好きなタコを食べたら治るかも、と聞き仏門の身で生臭いものを買うのは御法度だが買って帰ると、匂いでバレてご本尊の薬師如来に「病気の母のために買ったもの、この難をお救いください」と祈ると、八巻の経典に代わり、この霊験あらたな光を浴びた母はすっかり癒えた、という。
河原町通から東にはかつて土佐藩邸があり、河原町通を下れば、坂本龍馬らが暗殺された「近江屋事件」の跡地に。
河原町通を渡って木屋町通に向かえば、岬神社がある。烏丸通の角には赤煉瓦の近代建築。旧山口銀行京都支店は、東京駅の設計者、辰野金吾の手による
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Posted by ブクログ
いや〜面白い。彬子女王殿下が大学で講義した内容を、本として整えた一冊。
大英博物館の日本コレクション、法隆寺金堂壁画、神道と日本文化、皇室の装束などテーマがまた最高。まだまだ知らない日本の伝統と文化を彬子女王殿下にはいつも教えてもらっている。
『どんな伝統品もできたときは尖った現代アート』と言う視点にはハッとさせられた。確かに、尖って目立って認められて、市民権を獲得した頃にスタンダードになり、月日が流れてもなお愛されて伝統になっている。残っているものや環境には物語があり、愛された証がある。日本についてもっと知りたいし、もっと学びたいと毎回思わせられる。
『伝統とは残すものではなく残るもの』と言う彬子女王殿下。失われかけているもの、失われたけれど復活したもの、
色々とあるけれど、特に明治以降、開国に伴って日本の美術品が海外に流出していった理由についてかなり納得させられた。
皇室の装束についての記述も面白かった。なぜ一般参賀で皇后様は帽子をかぶっていないのに、他の女性皇族は被っているのか、理由がわかった。またこれも明治時代、皇族が洋装になったのだが、大反対したのがお雇い外国人であった点も面白かった。列強に倣って近代化を成功したことを見せたかった日本と、日本の伝統文化・オリジナリティを大事にするべきだと説いた外国人たち、どちらの気持ちも理解できる。
あと中学の運動会で三年間踊ったフォークダンスに、三笠宮殿下の平和への想いが込められていたなんて知らなかった。踊りは人を繋ぐ。
後書きで書かれている『目標は定めない』『寄り道が全部つながってきた』と言うのも素敵だった。最近読んだ、小川哲さんの小説の書き方についての本にも書かれていたことと似ていた。プロットは立てない。書いている途中で面白いことが起きると言う部分。見習いたい。 -
Posted by ブクログ
自分の大好きな京都を題材にした本であるが、平安京を開設した桓武天皇と京都から遷都した明治天皇の嫡流であり、千年の間、京都の中心にいた皇族の一員である筆者の目には、京都がどのように映るのかに興味を感じたが、案外自分と同じ目線であることや、筆者の飾らない人間性を感じた。また身辺警護にあたる警察官に対する感謝や気遣いが垣間見える優しい人柄を感じられ、この方のファンになってしまった。幕末は、天皇を中心として日本史上最もイデオロギーが衝突した時代であるが、そのイデオロギーの中心にいた天皇の末裔である筆者が、街角で見つけた徳川慶喜や坂本龍馬の記念碑を一般人と同じ目線で見て、その時代へのタイムカプセルを開く感じと表現していることが、全く自分の感覚と一致し、京都を散歩しているようなリアリティを感じられた。