2024年奈良への旅3日目
2024年12月31日(火曜日)曇り一時小雨
急遽、法隆寺に行くことにした。調べていると、法隆寺だけは年中無休だと判明したことがひとつ。先月、竹中道具博物館に行って、改めて日本の木材建築に興味を覚えたのと、そこに展示されていた最後の宮大工と言われる西岡棟梁の仕事の跡を確かめたいと思ったことがひとつ。
まぁ2時間で見て回って、余裕持って11過ぎに奈良を離れ、大阪で仁徳天皇陵の陪塚を見て、余裕があれば兵庫垂木の五色塚古墳を見ようというのが今日の予定である。こういうキチキチの予定を立てると、たいていその通りにはいかないというのが、今までの「人生」だったのだが‥‥。
近鉄だと大変だけど、JRならば王寺から一駅目だということが、昨晩分かった。畝傍駅7時の電車に乗り44分に法隆寺駅に着く。駅前の観光案内図をチェック。藤ノ木古墳が近くにあることは知っていたが、東の辺りに遺跡や古墳がある。もしかして弥生遺跡があるのか?急遽そちらも行くことに決めた。
池に朝日を浴びて鴨が泳いでいた。この後行った公園では、人が居ないのに何やら掃く音がずっとしていると思いきや百舌鳥らしき小鳥が全然逃げないでひたすら落ち葉をつついていた。田んぼには見知らぬ小鳥がいた。法隆寺のある「斑鳩」という町に来たら、何故か小鳥が目立つ。それにしても、何故「いかるが」という地名なんだろ。帰るとき駅の観光案内のお姉さんに聞いてみた。「諸説あるのですが、この町の由来の鳥である『イカル』(写真を見ると黒い顔に黄色い嘴、まだらの黒い模様)を指しているらしいです。白黒まだらの鳩という意味でこの漢字が当てられたそうです。」飛鳥も斑鳩も、古代の地名は不思議なところがある。
斑鳩東小学校の道沿いに説明板だけ立っていた。酒ノ免遺跡。小学校建設に伴い発掘されたようだ。古墳時代の掘立柱建物等が出ている。(掘立柱建物1 1棟以上や土坑等)この集落跡は、土器等の出土遺物から5世紀中頃から7世紀初頭頃まで続いた。飛鳥時代になって、聖徳太子が斑鳩宮をかまえ、政治を行いだしてからは廃絶したようだ。「廃絶」は決して人が居なくなったことを意味しない。気候変動か政治的思惑でその場所から移ったのが殆ど。支配者による巨大な建築物の造営は、多大な人数と財力が必要なはずだ。それを供給する基が、こういう集落だったのかもしれない。
上宮遺跡公園。「飽波宮」伝承地。
奈良時代の大型の掘立種建物群が出土。さらに、平城営で使われたものと同じ範型で作られた軒瓦が多数出土。うーむ、かなり時代が下っている。残念。
調子丸古墳。遠くからでもかなりハッキリわかる高まり。上に雑木が4-5本繁り、側面は削られて丸い。近くに寄ると一切の立て看板がない。でも、地図に載っている場所はここだ。行ったり来たりして、此処が古墳と指定する。上宮遺跡に書いていた説明はこうである。
「直径約14mの円墳。聖徳太子の仕丁(従者)「調子」の埋葬伝承があるものの、古墳時代中期の造営と考えられる。」
普通ならば平凡な円墳も、全て聖徳太子と関連つけなくてはやっていけない町になっているのを承知した。
駒塚古墳に行く途中、どうしても便意が抑えられなくなり、古墳の隣にあるコメダ喫茶店に入る。「充電できる席を教えて」とリクエストすると、掃除用コンセント近くの席を教えてくれた。このコメダには充電コンセントがない店なのだ。コメダは全部同じデザインだけど、こういう細かな点で築造年代が古い店だということが判明する。奈良は名古屋に近いこともあり、古くからコメダが進出したのだろうか。そのせいか、コーヒー値段が500円と岡山より安い。掃除用コンセントにしろ、柔軟に対応したスタッフに感謝。30分ぐらいここに留まる。
さて、駒塚古墳。墳丘長約49mの前方後円墳。聖徳太子の愛馬「黒駒」の埋葬伝承があるものの、古墳時代中期の造営と考えられるそう。説明板はなかった。
中宮寺跡地、という場所に行く。聖徳太子のお母さんの住居を尼寺にしたらしいが、現代の中宮寺は江戸時代に建て替え移したものらしい。元あった場所は、その後ずっと農地になっていたようだが、昭和38年から発掘され史跡に認定されたそう。7世紀飛鳥時代の建物で、金堂と三重塔があった。かなり広い。法隆寺に匹敵する建物群があったのではないか。聖徳太子は、どうしてこんなに力があったのだろうか。
やっと法隆寺の領域に入った。普通の観覧順番とは反対で、夢殿から入る。確か、小学校の修学旅行で来たはずだけど、それ以来。あの時は何も分からず歩いていた。いや、バスに酔っていたから、記憶さえもない(バスの中で休んでいたか)。つまり、ほとんど初めて来たと言って良い。2時間で見終わる?何がだ!!結局、斑鳩(いかるが)の町で1日を終えた。
夢殿。宝珠が印象的な八角円堂。天平時代の創建で、鎌倉時代の寛喜2年(1230)に高さや軒の出、組み物などが大きく改造された。八角形の堂は供養堂として建てられたものが多く、夢殿も例外ではない。この場所は聖徳太子が住んでいた斑鳩宮の跡地で、行僧都は、その荒廃ぶりを嘆き、太子と一族の供養のために伽藍の建立を発願し、天平11年(739)に夢殿を造営した。堂内には、聖徳太子の等身像と伝える救世観音像のほか、行信僧都坐像、平安時代に東院を復興した道詮律師坐像などが安置されている。
此処で初めて1300年前の木造建築に触れた。木の瘤のある柱、ゴツゴツした軒などは、みんなヤリガンナで削っている印である。繊維を断ち切る江戸時代以降のカンナを使っていないから雨水が染み込まないのである。それが千年以上の生命をもたらしていることが素晴らしい。
最後の宮大工西岡棟梁の言葉は、すいぴょんさんの西岡常一「木に学べ」のレビューに詳しい。私は志村史夫「古代日本の超技術」で、大体のことを聞いていた。よって、読んではいないが、この本をレポートの拠り所とした。棟梁の言葉はある意味科学的なのだ。
隣の伝法殿は典型的な天平時代の建築様式を示しているらしい。丸い柱にピタっと四角い柱がくっついていることぐらいしか見えなかった。
売店があったので、小さな和文ガイドブック「世界文化遺産の寺 法隆寺」と法隆寺ハンドブック(最新版)を買う。
「法隆寺」(2023年改訂版)
B6 28ページオールカラー600円
発行 法隆寺
写真と共に建物、仏像などの説明が簡潔に記されている。
「法隆寺ハンドブック(青版)」
カラーなし 28ページ 手帳型
様々なデータが一覧になり、かなり便利
年表によれば、推古15年(607)法隆寺建立、推古30年(622)聖徳太子薨去、天智9年(670)法隆寺火災で焼失、和銅元年(708)この頃法隆寺再建か
法隆寺本殿に行く途中、そして見学途中、4つのことに気がついた。
ひとつは、見学対象ではない僧の住居などの殆どの屋根に、鬼瓦がついている。私の見る限り、その鬼が全て顔が違うのである。つまり、鬼瓦は量産しているわけでなく、ひとつひとつ手作りだということである。
ひとつは、前に左官を学んでいたので気になるのではあるが、長大な土塀はひとつも白い漆喰で綺麗に仕上げてはいないが、流石に何重も塗り重ねているし、最後の仕上げ塗りも、できるだけ剥がれないようにいろんなものを混ぜて工夫しているのはもちろんのこと、2m間隔ぐらいで、5ミリ程の隙間を開けていた。これは多分、乾きと湿度の関係で、壁にヒビが入らないための工夫だと思う。でもこんな土塀見たことない。法隆寺で初めて見た。
ひとつは、この時期ならではしめ飾りである。この旅で、ずっと気にしてきたけど、奈良地方のしめ飾りは藁を太く締めた一本を横にして、その下に髭をつけて蜜柑をつけるのが一般的である。ただ、全国的にそうだと思うが、しめ飾りを飾らない家が7割以上、地域によっては9割が飾らないようになっている。法隆寺は違う。きちんと飾っている。岡山は縦にして眼鏡形にする。奈良は横にするのが気になっていたが、法隆寺を見てある可能性に気がついた。法隆寺の飾りは、全て横飾りだけど、太く締めずに他地域と違い細綱のように締めて横に長く飾る。しかも必ず頭と尻尾がついている。しかもその姿は龍のように感じる。誰かの思いつきでやっているわけではない。尻尾を龍らしくするのは、場合によるが、いく例も龍としか見えない飾り方をしている。だとすると、奈良の横飾りは龍飾りが変形した可能性がある。これは純粋に私の説である。
ひとつは、この時期のならではの餅の「お供え」である。法隆寺ならでは、至る所にお供えがあった。その内訳を見ると、必ず餅の2段重ね。蜜柑の下に昆布をおろす。向かって右側に干し柿、左側にアーモンドと炒り豆(?)を置いている。餅と、海の幸、山の幸をお供えするのは、普遍的なんだな、と思った。お餅の量は、多分半端ない。搗(つ)いたんだろう。
念願の法隆寺五重塔と金堂を観る。
相変わらず、釘を殆ど使わない、使ってもそれは寧ろ添えるだけ、殆ど組木で建てている。ずっと見ていてわかったのは、非常に複雑そうな建物なのだけど、パーツ的には、五重塔も金堂も回廊も、大きく変わらない。多分、プラモを作るように組み立てることができるはずだ。だからこそ、ピッタリと組むためには、棟梁の木の目利きが必要なのだということなのだろう。木は一本一本違うらしい。いくら正確に切って削っても、やがて木は反っていくものが出てくる。それを見分ける。(見分けることができるのか?)或いは、年を経て縮んでいくのを見越して設計する。或いは、この柱が歪んだというのならば、それを修復する目を養う。というのが見えてきた。
具体的には、柱を一本一本見ていくと、かなりの柱で、中をくり抜いて他の木を入れ込んであるのがある。これは多分、後年補強しているのではないか。
或いは、庇の枠が少し開いている。わざと開けている?木の変化を見越している?
これで1300年持たせた。恐ろしい。基壇などの石も、小石が混ざった漆喰で補強しているのが所々にあった。凄いと思う。
法隆寺といえば、数々の美術品である。教科書に載るようなあの仏像、あの品が、こんなところにあったなんて!という体験を今日は何回したか。
金堂(飛鳥)には。金銅釈迦三尊像(飛鳥)、金銅薬師如来像(飛鳥)、金銅阿弥陀如来像(鎌倉)、最古の四天王像(白鳳)木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安)、(火災後の再現だけど)壁画(飛鳥)を見ることできる。
五重塔(飛鳥)には、塑像群(奈良)が四面に安置。東京スカイツリーにも採用された心柱は見れなかった。
大講堂には、薬師三尊像・四天王像(平安)が安置。
奥まったところに、大宝蔵院ができていた。いわば、今回の旅で唯一入った博物館みたいなものである。
国宝 玉虫厨子(木造 漆塗彩色 飛鳥時代(7世紀))
玉虫は総て剥げ落ちているので、暗くて絵図はよくわからなかったが、神将像、菩薩像、釈迦浄土図、舎利供養図、須弥山世界図、釈尊の前世の逸話「施身聞偈図」「捨身虎図」などが描かれているらしい。玉虫厨子は飛鳥時代の建築、絵画、金工、漆工の粋を結集した名品。
各時代の聖徳太子像も置かれていた。古くは7世紀からあるが、一万円にもなった有名な太子像の絵が1920年製作と書いてあったのは驚いた(←ガイドブックによると、現物は明治11年皇室に献上されていて、これは模写らしい)。
館長は、百済観音像を安置する場としてこれを建てたと文章を寄せていた。観音像の由来は全く謎らしい。しかし、明らかな百済様式の柔和な細面の顔と同時に裏から見ると、もう崩れてしまいそうな優雅な曲線。確かに傑作と言っていい。
伎楽・舞楽面と装束や、夢違観音像、国宝橘夫人念持仏及び厨子などがあった。昭和24年の火災によって、金堂壁画は著しく損傷したそうだが、唯一収蔵庫に保存されていた「内陣の飛天図」のみは難を逃れ展示されていた。優雅に舞っていた。
飛鳥から平安、さらには鎌倉時代にかけての日本美術の推移を短時間で見渡すことができる。
12時45分。もう大阪行きは諦めた。門前の食堂もちゃんと開いている。うどんにしては高いけど、「カキうどん」というのを頼む。言うまでもなく、正岡子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」にかけているのだ。法隆寺境内の池の前には子規の筆なる句碑さえあった。ところが、それを解説していたガイドは、「子規は法隆寺に来たことは来たのですが、実際に鐘の音を聞いたのは東大寺だったらしいです」と、まるで重大な秘密を漏らすかのように言っていた。まぁ有名な話である。作句は響きの関係で、少々の創作は許される。さて、うどんのお味は可もなく不可もなし。柿汁をうどんに練り込んでいて、橙色のうどんであった。
途中、斑鳩文化財センターがあった。閉まってはあったが、そこの立て看板に「この道は平安の歌人で、「伊勢物語」の主人公として有名な業平(825-880年)が、天理市の櫟本から大和郡山市一安堵町一平群町を通り、河内の高安(現在の大阪府八尾市)まで河内姫のもとへ通ったとされている道です。
いつからかこの道は、業平道の名で呼ばれ、道筋の本町には、多くの伝説を今に伝えています。
〈ちはやぶる神代もきかずたつた川 からくれないに水くくるとは〉
は、業平の代表的な和歌として広く知られています。」とあった。
この歌碑は上宮遺跡にあったので、遺跡直ぐ東に流れる川がたつた川かと思いきや、それは富雄川で、実際には斑鳩町西端にある竜田川がそれだった。それにしても、天理市から河内に通うって、昔の人はどれだけ健脚なんだ!
そこからすぐ近く、藤の木古墳はあった。綺麗な円墳、横穴式石室道が復元されていて、綺麗な公園だった。出土遺物は文化財センターにあるらしい。開いてみると、世にも珍しい未盗掘古墳でした。詳しい解説は側にある。概要一部をコピペする。
「(略)直径50m以上、高さ約9mを測る6世紀後半の円墳です。(略)石室内からは、世界でも類例の無い製飾性豊かな「金銅製透彫鞍金具」に代表される馬具のほか、武器や土器等の遺物が出土し、一躍世界からも注目される古墳となりました。1988年には、ファイバースコーブ調査を経て開調査が実施されました。二体の人物が埋葬当時の状態で合葬されていることが明らかとなりました。副葬品は豊富で、被葬者の権力を示す金銅制の冠や履などの金属製品のほか、玉纏の太刀や剣などの刀剣、銅鏡、銀製空玉やガラス製玉をはじめとする多くの各種玉類などがありました。このように藤ノ木古墳は、我が国の6世紀後半の歴史や文化を解明する上において貴重な資料を提供したばかりでなく、当時の文化の国際性をも示す、きわめて重要な古墳といえるでしょう」
馬具や豪華な靴は、百済・扶余の王の墓で見た物とほぼ同じものが出土していた。合葬された2人は、男2人だったそう。何やら小説にできそう。
もはや、2時過ぎ。法隆寺駅に帰れば3時前。そこから倉敷に帰れば18-19時。大晦日なので、バスは20時が最終だ。もう何処にも寄る余裕は(ホントは少しあったが)ない。帰る途中、餅屋さん「田鶴屋」があったので、奈良の葛餅を買いに入ると、年末なので餅と簡単なお菓子だけを売っていた。奈良だ。やはり関西圏なので丸餅を売っていたが、豆餅(800)とどら焼きひとつ(170)を所望する。後でスーパーの値段と比較すると、こちらが安いし美味しかった。どら焼きは、餡子に栗が入っていた。
帰る途中、電車トラブルで10分遅れになった。なんかパニックって、姫路でトイレ探したりコンビニ行ったりして、1時間ロスした。余裕持って帰って良かったと思った。最終バス一本前で、家路に着く。
23120歩
コインロッカー300、コメダ500、法隆寺観覧券1500、図録1100、お賽銭100、昼食900、お土産450、餅・饅頭970、コンビニ310、バス360
計 6490
合計 41681
3日間の旅としてはこんなものかな。
結局、18きっぷを使っても、在来線を使っても、却って数百円赤字ぐらいだった(2日目は一切使わなかった)。自動改札機で使えるようになったのは助かるけど、連続でしか使えない、というのは全く使えない!それに3日分1万円というのは全く高くてメリットがないというのは今回ハッキリした。反対にいえば、奈良ぐらいならば、いつ旅しても在来線ならばこのぐらいの予算で行けるということだ。その分、合計4時間ぐらいはロス時間が出る。今回、法隆寺を除いては博物館はなく、図録も3千円ほどで済んでいるので、これくらいになっているのかもしれない。