【感想】
世界最古の木造建築、法隆寺。建設から1300年以上経った今でも、幾度の地震を乗り越えてなお立ち続けている。ということは、それを作り上げた棟梁たちの腕が、現代のレベルとはかけ離れた高みにあったことに他ならない。
では、その法隆寺の構造はどうなっているのか。また、法隆寺に携わった棟梁たちの頭にあった「理論」はどういうものだったのか。それを語り下ろしたのが本書『木に学べ:法隆寺・薬師寺の美』である。語り部を務めるのは棟梁の西岡常一氏だ。西岡家は代々法隆寺の修繕や解体を仕事にしており、常一氏自身は法隆寺金堂や薬師寺金堂の修理・復元に携わってきた。設計から選木、木組み、立てあげ、と全ての工程を担ってきた宮大工のエキスパートである。
西岡氏は、法隆寺の頑強さの秘密をどう考えているのか。彼は飛鳥時代の棟梁の仕事ぶりに注目し、「木のクセを読む」、より広く言えば「自然の力を考慮する」建築観を持っていた、ということを繰り返し強調している。
例えば、法隆寺の五重塔の角の部分について。単行本の表紙になっている箇所だ。真正面に張り出している木を隅木というのだが、五重塔の隅木は最下階から最上階まですらっと一直線に並んでいる。西岡氏が言うには、時代が新しくなって作られた塔は隅木が絶対にズレてしまうという。
それは木のクセを見損なっているからだ。この木は右に寄る、これは左に寄るというふうに、木にはそれぞれクセがある。かつての棟梁は、その木のクセを見抜いたうえで、うまく抱き合わせて組みあげていった。柱、桁、梁など、部分部分の木をすべて一つの構造体とみなして調整することで、1300年経っても真っ直ぐなままの状態を維持している。今の大工は曲がった木を削って真っ直ぐに見せているだけなので、完成当初は真っ直ぐに見えても、徐々に右に左に曲がっていってしまうらしい。
また、法隆寺のそれぞれの建造物の屋根は沿っている。しん反りと言って、真ん中が一番低くて、大きな円の形に沿っている。直線に比べて構造的には無理が出てくるが、形の上では反りがないといけない。隅の方の荷重が相当に重いため、反りが無いと押しあげられないからだ。そうして木を組んで瓦をふくと、真ん中が下がる。真ん中で一寸下がれば、隅は二寸と倍下がる。そういったように、木一本にかかる荷重だけではなく、建物全体の負荷を計算に入れて、そのうえで形が綺麗になるように設計されているのだ。
西岡氏いわく、これは「学問的に数学やなんかでは、割り出せない」設計であるとのことだ。木の弱さ強さによって下がり方が違うため、形だけ真似してもどうにもならない。屋根に通す柱は何本もあるわけだが、弱い木を二寸にし、強い木は一寸五分にするという具合に加減しなければならない。法隆寺の棟梁は、こうした木一本一本に寄り添った工法を駆使していたということだ。
当然ながら、現代の建築ではそうはいかない。規格化された建材を使う時代において、木のクセを読む、木の育った方位に使うということは絶対にしないからだ。また、同じ宮大工内でも飛鳥時代の技術はとっくに失われており、なんなら藤原の時代(平安時代)には既に日本の風土を考慮しない工法によってそのノウハウが途絶えてしまったということだ。平安時代ですら1000年前の技術なのに、その時点で既に「300年前と比べればお粗末」と言われてしまうのだから、何とも雲の上の話である。
西岡氏は、建築技術の衰退の原因は行き過ぎた資本主義にあると憂いている。大工も金を稼がなければならない。建材は規格化され、道具は画一的になり、作業は平準化される。より効率よく作れるように、作る側の便利さや儲けを重視してしまえば、20年25年しか持たない。1000年を耐えるためにはどうしても「今」を度外視した質の向上が必要になる。
それは現代社会においては非常に難しい要求なのかもしれない。だが、人間と自然の関わりかたが問い直される昨今、「今が良ければいい」という感覚のままでは持続可能でないことは明らかだ。
飛鳥時代の棟梁は、自然のサイクルの中に人間が住まわせてもらっているという感覚を持ち、お互いが調和するような建物を建てた。彼らの中に息づいていた建築観は、建立から1300年経った令和の今だからこそ、改めて注目されるべきものなのかもしれない。
――今のようになんでも規格に合わせて、同じようにしてしまうのは、決していいことではないですな。人も木も大自然の中で育てられてますのや。それぞれの個性を活かしてやらなくちゃいけませんな。そのためには、個性を見抜いて、のばしてやる。そういうことが忘れられてますな。
ごらんのとおり、全てが同じじゃおもしろくないし、美しくない。学者が法隆寺の研究にきて、斗がいくつだとか数えて、寸法はかっていきますけど、全部違うんでっせ。こういうものは、それ一個とりだしてもだめで、全体やつながりを見ないとわかりません。
構造物は社会です。斗や皿斗や柱は個人個人の人間ですな。それぞれが、うまく自分の力を発揮して、組み合わせられて、崩れない形のよい建物ができるわけですな。
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【まとめ】
1 木を見抜け
棟梁いうものは何かいいましたら、「棟梁は、木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。木のクセを見抜いてうまく組まなくてはなりませんが、木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません。
絵描きさんやったら、気に入らん絵は破いてまた描けばいいし、彫刻家だったらできそこないやったらこわして作り直せます。しかし、建築はそうはいかん。大勢の人が寄らんとできんわな。だから、できそこないがあってもかんたんに建て直せません。
そのためにも「木を組むには人の心を組め」というのが、まず棟梁の役目ですな。職人が50人おったら50人が、わたしと同じ気持ちになってもらわんと建物はできません。
ヒノキという木があったから、法隆寺が1300年たった今も残ってるんです。ヒノキという木がいかにすぐれていたか昔の人はすでに知っておったんですわな。
法隆寺を解体しましてね。屋根瓦をはずすと、今まで重荷がかかっていた垂木がはねかえっていくんです。そこで、われわれ大工の間ではね、樹齢1000年の木は堂塔として1000年はもつと言われてるんです。それが実証されたわけです。
しかし、その樹齢の長いヒノキが日本には残ってませんのや。わたしらが法隆寺や薬師寺の堂や塔を建てるためには、台湾までヒノキを買いにいかなあならんです。なさけないことですよ。
しかし、ヒノキならみな1000年もつというわけやない。木を見る目がなきゃいかんわけや。木を殺さず、木のクセや性質をいかして、それを組み合わせて初めて長生きするんです。
そこへいくと、1300年前の飛鳥時代の大工は賢いな。
大陸から木造の建築法が入ってきた。中国の山西省應県に佛宮寺という600年前の八角五重塔があるんですが、これは直径29メートルもあるのに軒先が2メートルほどしかない。ところが同じ八角でも夢殿は径が11メートルなのに、軒の先は3メートルも出てる。ちゅうことはや、大陸は雨が少ないのやおもいますよ。ところが大陸の雨の少ない建築を学んだけれど、飛鳥の工人は日本の風土いうものを本当に理解して新しい工法に変えたちゅうことです。基壇も高くなってます。こういうのを賢いゆうんですわ。今みたいに、なんでもそのまままねしたりせんのや。軒が浅くてはあかんぞと考えたんですな。徐々にやったんやなくて、そのとき一遍で直してるんです。
こうゆうのを文化いうのとちゃいますか。それを法隆寺を知らなんだら文化人やない言うてぎょうさん人が見に来ますがな、ネコもシャクシもみな法隆寺や。ちっとも法隆寺のことわかってないのや。ただ古いからゆうて見にくる。ただ古いのがええんやったら、その辺の土や石のほうがよっぽど古い。何億年も前からあるねんで。そやありませんか。人間が知恵だしてこういうものを作った。それがいいんです。それが文化です。それを知らずに、形がどうや様式がどうやいうのは、話になりませんな。
2 道具のこと
今のは鉄の質が悪い。明治になって熔鉱炉使うようになってから悪くなった。鉄鉱石をコークスで溶かして作りますやろ。高温短時間でやってしまう。このほうが利潤は多いやろけど、鉄はけっしてええことないのや。
鉄はじっくりと温度あげていかないけません。昔はコークスなんてなかったから、熱源に松炭燃して、砂鉄使ってました。そういうふうにして松炭と砂鉄で作った鉄がこれや。今の鉄のようにチャラチャラしておらんよ。
いいもんやったら仕事の前に研いでおけば、一日使えるが、そうやなかったら何回も研がないかんわ。一回使っちゃ研いで、削って、また研いでじゃいい仕事はできんわな。
科学が発達したゆうけど、わしらの道具らは逆に悪うなってるんでっせ。質より量という経済優先の考え方がいけませんな。手でものを作りあげていく仕事の者にとっては、量じゃありません。
こう考えますと、飛鳥の時代から一向に世の中進歩してませんな。今、わたしら堂や塔を建てる大工が一揃いの道具を揃えますと、270種類ぐらいになりますやろな。ふつうの大工さんで70種類ほどでっしゃろ。このほとんどが鉄使った道具なんですから、いやになりますわ。
これが昔の鉄で作ったノコギリです。そこで、こっちが今のノコギリ。見ただけで、今のはチャラチャラしてまんな。昔のはこんなにチャラチャラしとらへん。まず、鉄の色が違います。しっとりして重さが感じられますでしょ。それと錆。今の物は、こういうふうに錆び始めたら、もうあかんのや。すぐに裏側まで錆が抜けてしまう。
鍛えてないからな。板金に目ヤス入れただけでっしゃろ、このノコギリは。古いやつは、本当に鍛えてあるんでっせ。刀を作るみたいに。これなんかやったら、少し錆が浮いても、裏まで通るということはないんや。
木も人間も自然のなかでは同じようなもんや。どっちか一方がえらいゆうことはないんや。
互いに歩みよってはじめてものができるんです。それを全部人間のつごうでどうにかしようとしたら、あきませんな。
道具というものもそんなもんでっせ。機械やないんや。人間の体の一部だとおもって使わなくてはなりませんな。ノコギリはその代表的なもんです。使ったら、ていねいに目を立ててやって、木の柔らかい堅いに合わせて、目の立て方を変えてやるんです。鉄と木だってそうです。木にぴったり合う鉄を使ってこそ、いい道具と言えるんです。
今はそんな職人おりませんわな。第一カンナの台が悪い、カンナの刃が悪い。もっと悪いのは、そういうことに大工が気づいとらんということや。そういうこと教えてやればいいのに、教えてやらん。職人ていうのは、根性が悪いからな。お前、それで苦労せいちゅうようなもんや。自分でおぼえていかなしようがないわな。ただ、そういうことにも気づかずに、そのまま終わってしまう人が多いな。
周囲の人で、自分よりうまい人を見て、おぼえなあかんのや。あの人のカンナは、何であんなによう切れるんやろ、おもうたら、休憩でみんなが休んでるときに、そーっとその人のカンナを調べてみるんや。そうやっておぼえるのや。盗みとるんや。その人の技量をね。教えられても、ようおぼえんもんや。自分からやって、どこが加減が悪いのかちゅうことを自分で知らんことにはあかんわね。
3 法隆寺の構造
建築物は時代が新しくなるにつれて構造の美しさというのが失われてきとるのや。その失われていく様子を、法隆寺では一日で見ることができます。この法隆寺の建物には、創建当時の飛鳥のものもあれば、藤原時代のもの、鎌倉、室町、江戸時代、大正、昭和と各時代に修理されとるのやが、その時代時代の美に対する考え方や、建築物をどう考えとったかがわかるわけや。
法隆寺は飛鳥時代の大工たちが知恵を出しきって作ったんです。法隆寺のよさは力強い美しさやな。法隆寺と対照的なのが日光ですな。日光は構造よりも「飾り」を選んだんです。芸者さんですな。ベラベラとかんざしつけて打ち掛け着せて、蒔絵のこっぽり下駄はかせて、これでもかこれでもかと飾ったんです。そやから、法隆寺は作ってから1350年目に解体修理してるんですが、日光は350年ぐらいで解体修理せなならんのや。いかに構造を無視して作られたかがわかりますな。
法隆寺の昭和の大修理では、飛鳥のものも解体し、藤原のものも室町のものも解体修理せなならんかったんやが、室町のものは650年しかもたなかった。これは創建当時の1350年の半分しかもたんかった、ということですな。
飛鳥の頃に伽藍造営のあたらしい技術が大陸から入ってきますわな。仏教と共に流れ込んでくるんです。ところが、中国に行ってみるとわかりますが、こんな軒の深い建物はひとつもありません。大陸からの技術を鵜呑みにせんと、雨が多く、湿気の多い日本の風土に合わせて、こういう軒の深い構造を考えたんですな。飛鳥の工人は、自分たちの風土や木の質というものをよく知っていたし、考えていたんですな。
これが法隆寺の大講堂になると軒が浅くなる。そのため雨や風、湿気にさらされることになるんです。大講堂はほんの少し時代がさがった藤原時代のもんですが、もう違うんですな。風土に合わせるということを忘れてしまったんや。
古代の建築物を調べていくと、古代ほど優秀ですな。木の生命と自然の命とを考えてやっていますな。それが新しくなるに従って、木の生命より寸法というふうになってくる。そして、現在の建築基準法、あれはデタラメもはなはだしい。民家の柱になる木一本育てるのに60年かかるんや、苗を植えて、60年せんと柱にならんのや。それをね、今の木造建築でやったら25年でダメになる。そういう矛盾したことやってんのや。ちゃんと作れば200年はもつ。在来工法でやればね。それをボルト使えだとか、何使えだとか言うからいかんのや。
ここまでが飛鳥の回廊です。ここから先は室町のものです。
どこが違うかいいましたら、梁の形がまるで違いますな。この梁を「虹梁」といいますが、いかにも虹の一片を切り取ったような美しく優しい形をしてます。これが飛鳥の良さです。虹梁の上に「束」があって、棟を支えてますが、この束を人型束または人字の束、割束といいますのや。普通は一本の束ですけど、人字の形で梁にのってまっしゃろ。人型束によって上からの力が分散され、両脇の柱にうまく荷重が伝わるようになってるんです。棟の荷重が上手に2本の柱に分散されている。
それが室町になると忘れられてる。梁は真っすぐでゴツク冷たい。棟木から「束」が梁の中央に立てられている。構造や力学的なことが忘れられてしまったんです。そして、直線的な梁のほうが美しく力強いとおもうようになった。
職人の美しさに対する感覚の違いがでてくるんですな。何にも説明せんと今の大工さんたちに作らしても、室町の職人のようにやったかもしれませんな。
揃えてしまうということは、きれいかもしれませんが、無理を強いることですな。木には強いのも弱いのもあります。それをみんな同じように考えている。昔の人は木の強いやつ、弱いやつをちゃんと考えて、それによって形を変え、使う場所を考えていたんです。
4 宮大工の技法は受け継ぐことができるか
堂や塔を作る技術を人に教えられるかって、よく聞かれますけど、なかなか難しいもんでっせ。学問と違うから、実際に塔や堂にあたらんとわからんでしょうな。木の強さとかクセを見抜かないけませんが、これは人に教わっておぼえられるもんやないですからな。
建築学が、実際の建物を作ることに重点を置くんじゃなく、様式論で話を進めようとするからですわ。しかし、これからは、本当の建築というもんに根をおろした学問というのを作っておかんと、文化財の修理なんかできんようになってしまいまっせ。
とにかく木を扱うというのは、その地方地方によって山の土質が違うし、環境も違うから、ひとすじなわではいかんのです。こういうことを建築の学者さんたちに申し上げても、聞きませんな。大工が何を言うとるか、いうようなもんや。木はみんな同じだとおもってるんですな。そこへもってきて、鉄は強くて、ヒノキは弱いという先入観があるんですわ。これがなかなかなくなりませんのや。
飛鳥時代のような鉄でしたら強いでっせ。1000年はもちますな。法隆寺の飛鳥時代の部材から釘抜きまっしゃろ、抜くときゆがみますが、このゆがみさえ直せば、飛鳥の釘はまた使えますのや。今まで1300年もってますねん。これから、まだ1000年もちまっしゃろな。こんな鉄やったら、ヒノキの命とあまり変わらんとおもいます。
そりゃ見た目は、外側は錆びてますよ。だけど、日本刀を作るのと同じに、何回も打って折り返して釘にしてますのや。顕微鏡で見れば何千枚という層があって、切って見ると目があるわけです。この層は薄いもんです。最初の層が100年もって次のものが出てきて、また100年もつ、次のがまた100年もつというように、だんだん細くなっていくけれども腐らない。それが今の鉄は溶鉱炉からにゅーっと出すだけでしょ。鉄つくる人も、こういうこと考えんといかんですな。
長い時間かかりますわな。その時間を短こうして、大量に作り出そうというのが現在ですわ。この大量生産方式が、質が一番落ちる根本です。形がよくて、安ければいいということですからな。
形だけで、安ければいいというのは、堂や塔だけではなく、民家でも同じです。昔はよけいにかかったというのが自慢でした。ところが、このごろは同じような言うんでも、「おれの所は1500万円でできた」と言ったら「おう、安うでけたな」とみんな感心しよる。昔だったらお金をたくさん使うて作ったら「元を入れたな」と感心しよったのだけれども、今は反対で安いのが自慢ですわ。
住宅も使い捨てです。自分一代だけがもてばいいということです。そのことでずいぶん、みなさんは損をしてますな。天然資源としての、木材の無無駄遣いですな。
5 宮大工の心構え
日本には仰山木造建築がありますな。そうした建築物の修理をしてる人や新しく堂や塔を作ってる人も仰山おります。
しかしですな、みんな技術者ですのや。技能者がおりませんのや。仕事をする人がおらん。技術者というのは学校からどんどん出てきますでしょう。だから仰山おりますのや。これは設計する人もそうです。設計する人は育てられるが設計したものを本当に建物にしてしまう人がおらんのや。大工がおらん。これは、今はとても育てられん。
指導者がおらんわけじゃない。前にも話しましたが、育てても仕事がないからですわ。技能者がおらんということは、結局後が無いということですな。
しかし、材もない、技能者もいないとなったからゆうて、全然解体・修理ができないというわけでもありませんで。そんなむずかしいことじゃありません。わたしのように本式の古い伝統、木の命と人間の知恵の組み合わせということをふまえてやろうと考えている者と、今、形さえできればいいという考え方とずいぶん違いますが、形だけなら受け継いでいけます。そのかわり新しいものは作りだせません。まねごとで終わってしまうわけや。
こうなると時代が進んでも、しようないようなもんやな。
本当の仏教というものは、自分が如来であり、菩薩であるちゅうということに到達する。それが仏教ですわな。
それが時代が進んでくるに従って変わってきたんですな。飛鳥・白鳳の建造物は国を仏国土にしようというんでやっているんですわ。
それが藤原以後になりますと、自分の権威のために伽藍を作るんですな。庶民のことは考えず、自分たちの権威を「自分のほうが上だ」と言って建てたんです。仏教と国のためおもっての建造物は、聖武天皇の東大寺が最後でしょうな。その東大寺やったために国が疲弊したと言われてますがな……東大寺でも現世利益的考えが六分までありますわ。
時代とともに、技術も心も退化したんです。
6 宮大工に伝わる口伝
・神仏を崇めずして伽藍社頭を口にすべからず
・伽藍造営には四神相応の地を選べ
・住む人の心を離れ住居なし
・堂塔の建立には木を買わず山を買え
・堂塔の木組は木の癖組
・木の癖組は工人等の心組
・工人等の心組は匠長が工人等へのおもいやり
・百工あれば百念あり
・ひとつにする器量のない者は、自分の不徳を知って、棟梁の座を去れ
・諸々の技法は一日にして成らず、祖神達の徳恵なり