【感想・ネタバレ】木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫)のレビュー

あらすじ

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法隆寺金堂の大修理、法輪寺三重塔、薬師寺金堂・西塔などの復元を果たした最後の宮大工棟梁・西岡常一氏が語り下ろした、1988年発刊のベストセラーを電子化。宮大工の祖父に師事し、木の心を知り、木と共に生き、宮大工としての技術と心構え、堂塔にまつわるエピソード、そして再建に懸ける凄まじいまでの執念を飄々とした口調で語り尽くす。一つ一つの言葉には、現代人が忘れかけた日本文化の深奥がひしひしと伝わってくる。

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

超一流の職人魂。
西岡常一氏の精神や姿勢の部分において非常に感銘を受けた。
俗に言う、手元に置いておきたい1冊。

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2025年11月27日

Posted by ブクログ

宮大工棟梁という一つを極めた人の本。
法隆寺へこの本を持って見に行きたくなる。
資本主義への警笛を鳴らすようなことが多く書かれている。少子高齢化が進んで形骸化している、利潤追求を求めて作られたアテのない建物のツケが現代に回ってきている気がする。

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2025年06月10日

Posted by ブクログ

口語(話し言葉)で書かれています。宮大工ではなかったが、木に携わる手仕事を代々やっているので、書かれてある事がしっくりきます。
「木は生き物」は本当にその通り。
今は機械化が進んで、機械で補う部分も多いが、それに対して真っ向否定の姿勢でないのが好感を持って読める。時代だから仕方ない、と。
ただ、職人としての誇りは物凄く持っているのが伝わる。
0.01ミリの違いを見抜ける人は、本当に少なくなっているそうな。
見て覚えろ、感じで考えて学べ(能動的、主体的)、教えたのも(他者)は覚えないから、と。
そして、間違っていても「間違ってる」と教えない。全部自分で気付け、と。凄い世界だ。
法隆寺に関して、ただ古いだけの価値なら、その辺の石ころの方が古い(かも)と。
なぜ、1350年保っているのか、日光東照宮は350年(出版当時)で解体修理。
その他の寺社も、時代が新しくなればなるほど、解体修理の期間が短い、と。
比較に出す建物たちも、真っ向からの否定はしていない。
使う道具も、勿論消費していって、その日その日で加減が変わってくる。
一番いい状態の道具を仕立てる、または直せる職人もいなくなってきて、それも時代だから、と。
核家庭が増え、こういう職人さんたちの会話を、日常的に浴びるように聞く機会も、どんどん減ってるんだろうな。

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2025年03月18日

Posted by ブクログ

飛鳥時代の木造建築が1400年たった現代でも生き残ってることが何より驚愕で、当時の建築技術が相当にハイレベルだったことが伺える。道具も現代のように便利な物がなかった時代、あんなに複雑な建物を建てていた職人さんがいたのだと思うと畏敬の念を抱く。

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2024年05月15日

Posted by ブクログ

物事を突き詰めた職人は、自分のエリアだけではなく、世界の見え方が他の人とは違う別の視点・視座を持っているというなんだろう。
宮大工として、木のこと、建築のことについて、一般の人が思いもよらない奥深い世界の目線を持っていることは、それはそうだろう。
西岡氏がすごいのは、仏教のこと(これは宮大工で寺社を設計・建築しているのだから、エリアの範疇化もしれないが)、経済のことなどにも宮大工の立場から批判的に語る。この本が出版されたのはバブル経済真っ盛り。西岡氏は「もうちょっと適正な利潤を追求するように改めないけませんな。飽くなき利潤追求ということは、みんな押し倒してしまうということやからね。」と、警鐘。宮大工として寺社建築と向き合い続け、建立の目的であったであろう人の幸せ・世の幸せを願うという人間の根本にたどり着いた、ということかもしれない。

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2024年02月21日

Posted by ブクログ

めちゃくちゃ感動しました。
最後の宮大工の棟梁と言われた、法隆寺、薬師寺宮大工棟梁の西岡常一さん。
飾らない語りの中で話される、自然へ敬いや礼儀、仏の心で建立する本当の意味とはなど、読んでいるこちらがピシッと襟を正されるという感じ。
昔堅気の偏屈爺さんという印象だけれども、人に対してはもちろん、地球上の万物全てに対して心を持って接していくことを説いてらっしゃる。
怖いけど、決して見限ることをせず木でも人でも最後まで育てることを信条とされていて。
仏教の教えとは、誰でも如来になれる、心がけ次第で誰でも仏になれる。それを学ぶ場として法隆寺が建立されたという話に本当に感銘を受けました。
建てられてから1350年を経過して未だなお、当時の姿を私たちに見せてくれている法隆寺。
どんな詳しいガイド本よりも!この本こそが法隆寺、薬師寺に行く時の最強、最良のガイドになってくれると思います。
早くこの本持って法隆寺見に行きたい!!!

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2024年02月07日

Posted by ブクログ

何回も再読していきたい。
今回のまとめは22ページまで

〈本から〉
鹿はヒノキが好物
日本の風土にヒノキは合ってた
ヒノキのええとこはね、第一番に樹齢が長い
こんなに長い耐用年数のものはヒノキ以外にはありませんわ。
わたしどもは木のクセのことを木の心やと言うとります。風をよけて、こっちへねじろうとしているのが、神経はないけど、心があるということですな。
お釈迦様は気がついておられた。「樹恩」ということを説いておられるんですよ、ずっと大昔に。
それは木がなければ人間は滅びてしまうと。人間賢いと思っているけど一番アホやで。
自然を忘れて、自然を犠牲にしたらおしまいでっせ。(p22)
以下、続く

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2024年01月14日

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建築は一人ではできず、大勢の人が力を合わせて組み上げるもの。

宮大工は木の癖を見抜き、癖を活かして建物を組み上げる。

法隆寺はそうした先人の知恵と技術があり、1300年間も建ち続けている。

宮大工としての心構えや、木だけでなく道具や土に至るまで、とても造詣が深い。

自分の仕事にもこだわりを持ち、「後世の人に良いものを残すんだ」という気持ちを新たにした。

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2025年04月15日

Posted by ブクログ

法隆寺金堂や薬師寺大修理の棟梁を務められた宮大工、西岡常一氏(以下、西岡棟梁)へのインタビューをまとめた本書。
西岡棟梁の仕事への取り組み方、そして厳しい中にも温かみがあるものの話し方が、奈良の祖父を思い起こさせた。

建築にそこまで関心があるわけではない、普段DIYをするわけでもない。しかし読書中は専門用語を理解しようと躍起になるよりも、懐かしさとずっと耳を傾けていたいという意識に浸っていた。

西岡棟梁大全といった風で、木や工具を敬う心・彼が手がけた法隆寺や薬師寺をガイドしながらの解説・宮大工としての心得が一冊に凝縮されている。
法隆寺や薬師寺のガイドは臨場感があって、訪れた頃の記憶と掲載されている伽藍図(寺院の地図)を頼りに”ツアー”に参加した。

飛鳥時代の工人の業を各所で称賛する一方で、以降の締まりのなさを嘆かれていた。
中でもバランスと機能美に優れた各寺と(個人的に今一番訪れたいと思っていた)日光東照宮を比較、日光さんを「構造よりも装飾を意識した芸者さん」とボロカス言ってらしたのが何気に衝撃的だったかも。そのせいで法隆寺が(当時)建立1350年目なのに対して(それはそれで次元が凄いのだが…)、日光さんは350年くらいで解体修理しなければならないという。

木(本書では日本の建築に適したヒノキを指す)は生えている山によって性質が変わってくることも、幾度となく語られている。
飛鳥の建築はそんな木の性質をどう有効に活かすかが考慮されており、和釘を半日かけて丁寧に打ち込むなど長く持続させる努力を怠っていないらしい。(結果千年もキープできるとは、当時の工人さん達も予想していなかったのでは…?)

「人間は偉いもんでっせ。カンでわかるんですな。コンピューターでわからんで”カン”ピューターならわかるんですからな」

「“カン”ピューター」はともかく…笑(真面目な話の中、ほんまに不意打ちやった笑↑)
彼の数ある凄い点を一つ挙げるとすれば、木の風化具合を見るだけでどの時代に修復されたのかを学者以上にピタッと当てるところ。素人目線ではあるけれど、職業柄でもよほど長いこと携わっていないと出来ないことだと思う。
学問的見地から判断しようとする学者達と度々衝突したようだが、自身が現場で感じたことを信用してあげるのが、「“カン”ピューター」の精度を上げる秘訣なのかもしれない。

「仏教は自分自身が仏様である。[中略]神も仏もみんな自分の心の中にあるちゅうことを言うてるんですわ」

信仰心の厚いお方だとインタビューを通して思っていたけど、やはりそうか。お寺を修復する宮大工だからだけではない。一緒に仕事をする職人達を束ねられたのも、自分の中の「慈悲心」を大切にしていたからこそ。
そう思うと祖父の中にもそれはあったし、(西岡棟梁がそうだったように)晩年は現役時代の分を出し切るかのように笑顔を多く見せていた。

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2023年04月13日

Posted by ブクログ

最後の棟梁とも言われた西岡常一氏の本。木や道具はたまた土、鉄に至るまでの造詣の深さ。法隆寺の宮大工に伝わる口伝。・住む人の心を離れ住居なし・木を買わず山を買え・木の癖組は人の心組・工人の心組は工人への思いやり・百工あれば百念あり。一つにする器量のない者は自分の不徳を知って、棟梁の座をされ・諸々の技法は一日にして成らず、祖神達の得恵なり 抜粋だが何も色んな場面や人に当てはまるなあと感じました。マニアックそうな内容ながら確か新聞のどなたかの書評で紹介されていたのも納得。伝統、モノ長期に伝承していくのは大変とあらためて認識。法隆寺や薬師寺に行く人はこの本読んで行くと、楽しみ?が何倍にもなるかも。

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2022年10月27日

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ある経営学の先生が紹介されていたことから手に取った。学ぶことが多すぎる。リーダーシップや組織運営、大工としての仕事に対する誇りとこだわり、自然や環境に対する深い理解等々。機会を見つけて法隆寺や薬師寺、福山の明王院を訪ねたい。写真がカラーでないことが残念であるが、実物を見る際の楽しみとしてとっておこう

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2021年03月23日

Posted by ブクログ

木に学べ、タイトルの通り。
法隆寺を見に行きたい。
飛鳥時代の中門、回廊と、藤原時代の大講堂の違いも自分の目で確認したいな。

仕事とは「人に仕える」と書く。

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2020年11月22日

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宮大工の棟梁のインタビュー

法隆寺と薬師寺を拝観する時に持って行きたい

「職人の中で達した人が、後世になって芸術家といわれるんで」

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2020年10月08日

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自分がリーダーシップを発揮しなければならない時にまた読み直したい。そうでなくても、人としての基本を教えてくれる本。

今時のコメンテーターをやるような先進気鋭な人の本より絶対にスッと入ってくると思う。

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2020年04月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

-2005.06.27記

法隆寺金堂の大修理、薬師寺金堂・西塔などの復元を果たし、1995年に惜しくも85歳で死んだ、
最後の宮大工棟梁・西岡常一が発する言葉は、激しくも簡潔明快に、法隆寺や薬師寺の堂塔伽藍に隠された、古代人の知恵と技法を語りつくす。
宮大工という謂いそのものが、ぐっと時代を遡る古い謂れの呼称ではなく、
明治の廃仏毀釈からだということに、まずは少なからず驚かされた。
その昔は「寺社番匠」と云ったそうな。廃仏毀釈で社の上にあった寺が外され宮大工といわれるようになった、と。
「番匠」=ばんじょう、又は、ばんしょう、とは辞書によれば、
古代、大和や飛騨から京の都へ上り、宮廷などの修理や造営に従事した大工、とあるから平安期に遡りうるか。

まるで啖呵のように威勢よくポンポンと飛び出すコトバは事の本質を衝いてやまない。
樹齢千年のヒノキを使えば、建物も千年はもつ。
木のクセを見抜いて木を組む。
木のクセをうまく組むには人の心を組まなあかん。木を組むには人の心を組め。
木を知るには土を知れ。
石を置いてその上に柱を立てる。
法隆寺の夢殿は直径が11m.やのに軒先は3m.も出てる。
大陸に比べて日本は雨が多い。
飛鳥の工人は日本の風土というものを本当に理解して新しい工法に変えたということ。
一番悪いのは日光の東照宮、装飾のかたまりで、あんなものは工芸品にすぎぬ。
人間でいうたら古代建築は相撲の横綱で、日光は芸者さんです。
夢殿の八角形は、八相=釈迦が一生に経過した八種の相=降兜率・入胎・住胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅=を表す。
聖徳太子の斑鳩寺は、文化施設。人材を養成するため場所としての伽藍。
白鳳の薬師寺は、中宮の病気を治すための伽藍であり、その設計思想は、薬師寺東塔の上の水煙にあり。
天人が舞い降りてくる姿を描いているが、天の浄土をこの地上に移そう、という考え。
仏教は自分自身が仏さまであること。それに気づいていないだけだ、と。
神も仏もすべて自分の心のなかにあるということ。
自分が如来であり菩薩であるということに到達する、それが仏教。
飛鳥・白鳳の建造物は国を仏国土にしようと考えて創られた。
藤原以後は自分の権威のために伽藍を作っている。
聖武天皇の東大寺でも現世利益的な考えが六分まである。
等々と、達人の竹を割ったような舌鋒はどこまでも小気味良い。

なかでも、私を絶句させてくれたのは、法隆寺中門の柱の話。
法隆寺の中門は不思議な形をしている。門の真ん中に柱が立っている。左右に入口がふたつあるような格好。
この真ん中の柱を、梅原猛さんは、「聖徳太子の怨霊が伽藍から出ないようにするため、柱を真ん中に置いた。いわば怨霊封じだ。」というが、そんなことはない。
中門の左右の仁王(金剛力士像)は、正面左の仁王さんが黒くて、右の仁王さんが赤い。
人間は煩悩があるから黒い仁王さんの左から入って、中で仏さんに接して、ちゃんと悟りを開いて、赤い仁王さんの右のほうから出てくる。正面左側が入口、右側が出口ですな。
と、聖徳太子怨霊説で一世を風靡した梅原猛の「隠された十字架」の核ともいうべき推論をこともなげにばっさりと切り捨てる。
もう二度と現れえないだろう達人の、直観的に事の本質を赤裸にするコトバの世界は、一気呵成に読みついで爽快そのものだが、その知は決して伝承されえぬ永遠の不在に想いをいたすとき、詮方なきこととはいえ、人の世の習い、歴史というものの残酷さが際立ってくる。

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2012年08月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

いつか読みたいと思って購入し、やっと読めた本です。
西岡常一さんが、宮大工棟梁としての仕事やその心を、味のある語りで易しく丁寧に教えてくれます。
写真や図も豊富なので専門的な説明にも何とかついていけました。(写真が見にくい箇所もあるけれど)
多様な大工道具もみどころです。
法隆寺・薬師寺を訪ね、自分の目で確認(できるかな?)してみたくなりました。
さすがにその道を極めた西岡さんはかっこよくて迫力がありました。

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2024年03月24日

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法隆寺と薬師寺に改めて行きたくなりました。飛鳥時代の大工の匠の技がいかに優れたものか、生産性やお金儲けに走って数十年持てば良いという建築と、千年以上経ち続けることを目指した寺社の建立では、木を選ぶところ、土台を固めるところ、瓦をじっくり乾かせて焼くところから違うことがわかりました。木の性質の話が多く、その個性を活かす事の重要性も繰り返し語られ、人を育てて活かす事に通じると思いました。

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2025年08月29日

Posted by ブクログ

2024年奈良への旅3日目
2024年12月31日(火曜日)曇り一時小雨

急遽、法隆寺に行くことにした。調べていると、法隆寺だけは年中無休だと判明したことがひとつ。先月、竹中道具博物館に行って、改めて日本の木材建築に興味を覚えたのと、そこに展示されていた最後の宮大工と言われる西岡棟梁の仕事の跡を確かめたいと思ったことがひとつ。
まぁ2時間で見て回って、余裕持って11過ぎに奈良を離れ、大阪で仁徳天皇陵の陪塚を見て、余裕があれば兵庫垂木の五色塚古墳を見ようというのが今日の予定である。こういうキチキチの予定を立てると、たいていその通りにはいかないというのが、今までの「人生」だったのだが‥‥。

近鉄だと大変だけど、JRならば王寺から一駅目だということが、昨晩分かった。畝傍駅7時の電車に乗り44分に法隆寺駅に着く。駅前の観光案内図をチェック。藤ノ木古墳が近くにあることは知っていたが、東の辺りに遺跡や古墳がある。もしかして弥生遺跡があるのか?急遽そちらも行くことに決めた。

池に朝日を浴びて鴨が泳いでいた。この後行った公園では、人が居ないのに何やら掃く音がずっとしていると思いきや百舌鳥らしき小鳥が全然逃げないでひたすら落ち葉をつついていた。田んぼには見知らぬ小鳥がいた。法隆寺のある「斑鳩」という町に来たら、何故か小鳥が目立つ。それにしても、何故「いかるが」という地名なんだろ。帰るとき駅の観光案内のお姉さんに聞いてみた。「諸説あるのですが、この町の由来の鳥である『イカル』(写真を見ると黒い顔に黄色い嘴、まだらの黒い模様)を指しているらしいです。白黒まだらの鳩という意味でこの漢字が当てられたそうです。」飛鳥も斑鳩も、古代の地名は不思議なところがある。

斑鳩東小学校の道沿いに説明板だけ立っていた。酒ノ免遺跡。小学校建設に伴い発掘されたようだ。古墳時代の掘立柱建物等が出ている。(掘立柱建物1 1棟以上や土坑等)この集落跡は、土器等の出土遺物から5世紀中頃から7世紀初頭頃まで続いた。飛鳥時代になって、聖徳太子が斑鳩宮をかまえ、政治を行いだしてからは廃絶したようだ。「廃絶」は決して人が居なくなったことを意味しない。気候変動か政治的思惑でその場所から移ったのが殆ど。支配者による巨大な建築物の造営は、多大な人数と財力が必要なはずだ。それを供給する基が、こういう集落だったのかもしれない。

上宮遺跡公園。「飽波宮」伝承地。
奈良時代の大型の掘立種建物群が出土。さらに、平城営で使われたものと同じ範型で作られた軒瓦が多数出土。うーむ、かなり時代が下っている。残念。

調子丸古墳。遠くからでもかなりハッキリわかる高まり。上に雑木が4-5本繁り、側面は削られて丸い。近くに寄ると一切の立て看板がない。でも、地図に載っている場所はここだ。行ったり来たりして、此処が古墳と指定する。上宮遺跡に書いていた説明はこうである。
「直径約14mの円墳。聖徳太子の仕丁(従者)「調子」の埋葬伝承があるものの、古墳時代中期の造営と考えられる。」
普通ならば平凡な円墳も、全て聖徳太子と関連つけなくてはやっていけない町になっているのを承知した。

駒塚古墳に行く途中、どうしても便意が抑えられなくなり、古墳の隣にあるコメダ喫茶店に入る。「充電できる席を教えて」とリクエストすると、掃除用コンセント近くの席を教えてくれた。このコメダには充電コンセントがない店なのだ。コメダは全部同じデザインだけど、こういう細かな点で築造年代が古い店だということが判明する。奈良は名古屋に近いこともあり、古くからコメダが進出したのだろうか。そのせいか、コーヒー値段が500円と岡山より安い。掃除用コンセントにしろ、柔軟に対応したスタッフに感謝。30分ぐらいここに留まる。
さて、駒塚古墳。墳丘長約49mの前方後円墳。聖徳太子の愛馬「黒駒」の埋葬伝承があるものの、古墳時代中期の造営と考えられるそう。説明板はなかった。

中宮寺跡地、という場所に行く。聖徳太子のお母さんの住居を尼寺にしたらしいが、現代の中宮寺は江戸時代に建て替え移したものらしい。元あった場所は、その後ずっと農地になっていたようだが、昭和38年から発掘され史跡に認定されたそう。7世紀飛鳥時代の建物で、金堂と三重塔があった。かなり広い。法隆寺に匹敵する建物群があったのではないか。聖徳太子は、どうしてこんなに力があったのだろうか。

やっと法隆寺の領域に入った。普通の観覧順番とは反対で、夢殿から入る。確か、小学校の修学旅行で来たはずだけど、それ以来。あの時は何も分からず歩いていた。いや、バスに酔っていたから、記憶さえもない(バスの中で休んでいたか)。つまり、ほとんど初めて来たと言って良い。2時間で見終わる?何がだ!!結局、斑鳩(いかるが)の町で1日を終えた。

夢殿。宝珠が印象的な八角円堂。天平時代の創建で、鎌倉時代の寛喜2年(1230)に高さや軒の出、組み物などが大きく改造された。八角形の堂は供養堂として建てられたものが多く、夢殿も例外ではない。この場所は聖徳太子が住んでいた斑鳩宮の跡地で、行僧都は、その荒廃ぶりを嘆き、太子と一族の供養のために伽藍の建立を発願し、天平11年(739)に夢殿を造営した。堂内には、聖徳太子の等身像と伝える救世観音像のほか、行信僧都坐像、平安時代に東院を復興した道詮律師坐像などが安置されている。

此処で初めて1300年前の木造建築に触れた。木の瘤のある柱、ゴツゴツした軒などは、みんなヤリガンナで削っている印である。繊維を断ち切る江戸時代以降のカンナを使っていないから雨水が染み込まないのである。それが千年以上の生命をもたらしていることが素晴らしい。

最後の宮大工西岡棟梁の言葉は、すいぴょんさんの西岡常一「木に学べ」のレビューに詳しい。私は志村史夫「古代日本の超技術」で、大体のことを聞いていた。よって、読んではいないが、この本をレポートの拠り所とした。棟梁の言葉はある意味科学的なのだ。

隣の伝法殿は典型的な天平時代の建築様式を示しているらしい。丸い柱にピタっと四角い柱がくっついていることぐらいしか見えなかった。

売店があったので、小さな和文ガイドブック「世界文化遺産の寺 法隆寺」と法隆寺ハンドブック(最新版)を買う。
「法隆寺」(2023年改訂版)
B6 28ページオールカラー600円
発行 法隆寺
写真と共に建物、仏像などの説明が簡潔に記されている。

「法隆寺ハンドブック(青版)」
カラーなし 28ページ 手帳型
様々なデータが一覧になり、かなり便利
年表によれば、推古15年(607)法隆寺建立、推古30年(622)聖徳太子薨去、天智9年(670)法隆寺火災で焼失、和銅元年(708)この頃法隆寺再建か


法隆寺本殿に行く途中、そして見学途中、4つのことに気がついた。
ひとつは、見学対象ではない僧の住居などの殆どの屋根に、鬼瓦がついている。私の見る限り、その鬼が全て顔が違うのである。つまり、鬼瓦は量産しているわけでなく、ひとつひとつ手作りだということである。
ひとつは、前に左官を学んでいたので気になるのではあるが、長大な土塀はひとつも白い漆喰で綺麗に仕上げてはいないが、流石に何重も塗り重ねているし、最後の仕上げ塗りも、できるだけ剥がれないようにいろんなものを混ぜて工夫しているのはもちろんのこと、2m間隔ぐらいで、5ミリ程の隙間を開けていた。これは多分、乾きと湿度の関係で、壁にヒビが入らないための工夫だと思う。でもこんな土塀見たことない。法隆寺で初めて見た。
ひとつは、この時期ならではしめ飾りである。この旅で、ずっと気にしてきたけど、奈良地方のしめ飾りは藁を太く締めた一本を横にして、その下に髭をつけて蜜柑をつけるのが一般的である。ただ、全国的にそうだと思うが、しめ飾りを飾らない家が7割以上、地域によっては9割が飾らないようになっている。法隆寺は違う。きちんと飾っている。岡山は縦にして眼鏡形にする。奈良は横にするのが気になっていたが、法隆寺を見てある可能性に気がついた。法隆寺の飾りは、全て横飾りだけど、太く締めずに他地域と違い細綱のように締めて横に長く飾る。しかも必ず頭と尻尾がついている。しかもその姿は龍のように感じる。誰かの思いつきでやっているわけではない。尻尾を龍らしくするのは、場合によるが、いく例も龍としか見えない飾り方をしている。だとすると、奈良の横飾りは龍飾りが変形した可能性がある。これは純粋に私の説である。
ひとつは、この時期のならではの餅の「お供え」である。法隆寺ならでは、至る所にお供えがあった。その内訳を見ると、必ず餅の2段重ね。蜜柑の下に昆布をおろす。向かって右側に干し柿、左側にアーモンドと炒り豆(?)を置いている。餅と、海の幸、山の幸をお供えするのは、普遍的なんだな、と思った。お餅の量は、多分半端ない。搗(つ)いたんだろう。

念願の法隆寺五重塔と金堂を観る。
相変わらず、釘を殆ど使わない、使ってもそれは寧ろ添えるだけ、殆ど組木で建てている。ずっと見ていてわかったのは、非常に複雑そうな建物なのだけど、パーツ的には、五重塔も金堂も回廊も、大きく変わらない。多分、プラモを作るように組み立てることができるはずだ。だからこそ、ピッタリと組むためには、棟梁の木の目利きが必要なのだということなのだろう。木は一本一本違うらしい。いくら正確に切って削っても、やがて木は反っていくものが出てくる。それを見分ける。(見分けることができるのか?)或いは、年を経て縮んでいくのを見越して設計する。或いは、この柱が歪んだというのならば、それを修復する目を養う。というのが見えてきた。
具体的には、柱を一本一本見ていくと、かなりの柱で、中をくり抜いて他の木を入れ込んであるのがある。これは多分、後年補強しているのではないか。
或いは、庇の枠が少し開いている。わざと開けている?木の変化を見越している?
これで1300年持たせた。恐ろしい。基壇などの石も、小石が混ざった漆喰で補強しているのが所々にあった。凄いと思う。

法隆寺といえば、数々の美術品である。教科書に載るようなあの仏像、あの品が、こんなところにあったなんて!という体験を今日は何回したか。

金堂(飛鳥)には。金銅釈迦三尊像(飛鳥)、金銅薬師如来像(飛鳥)、金銅阿弥陀如来像(鎌倉)、最古の四天王像(白鳳)木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安)、(火災後の再現だけど)壁画(飛鳥)を見ることできる。

五重塔(飛鳥)には、塑像群(奈良)が四面に安置。東京スカイツリーにも採用された心柱は見れなかった。

大講堂には、薬師三尊像・四天王像(平安)が安置。

奥まったところに、大宝蔵院ができていた。いわば、今回の旅で唯一入った博物館みたいなものである。

国宝 玉虫厨子(木造 漆塗彩色 飛鳥時代(7世紀))
玉虫は総て剥げ落ちているので、暗くて絵図はよくわからなかったが、神将像、菩薩像、釈迦浄土図、舎利供養図、須弥山世界図、釈尊の前世の逸話「施身聞偈図」「捨身虎図」などが描かれているらしい。玉虫厨子は飛鳥時代の建築、絵画、金工、漆工の粋を結集した名品。

各時代の聖徳太子像も置かれていた。古くは7世紀からあるが、一万円にもなった有名な太子像の絵が1920年製作と書いてあったのは驚いた(←ガイドブックによると、現物は明治11年皇室に献上されていて、これは模写らしい)。

館長は、百済観音像を安置する場としてこれを建てたと文章を寄せていた。観音像の由来は全く謎らしい。しかし、明らかな百済様式の柔和な細面の顔と同時に裏から見ると、もう崩れてしまいそうな優雅な曲線。確かに傑作と言っていい。

伎楽・舞楽面と装束や、夢違観音像、国宝橘夫人念持仏及び厨子などがあった。昭和24年の火災によって、金堂壁画は著しく損傷したそうだが、唯一収蔵庫に保存されていた「内陣の飛天図」のみは難を逃れ展示されていた。優雅に舞っていた。

飛鳥から平安、さらには鎌倉時代にかけての日本美術の推移を短時間で見渡すことができる。

12時45分。もう大阪行きは諦めた。門前の食堂もちゃんと開いている。うどんにしては高いけど、「カキうどん」というのを頼む。言うまでもなく、正岡子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」にかけているのだ。法隆寺境内の池の前には子規の筆なる句碑さえあった。ところが、それを解説していたガイドは、「子規は法隆寺に来たことは来たのですが、実際に鐘の音を聞いたのは東大寺だったらしいです」と、まるで重大な秘密を漏らすかのように言っていた。まぁ有名な話である。作句は響きの関係で、少々の創作は許される。さて、うどんのお味は可もなく不可もなし。柿汁をうどんに練り込んでいて、橙色のうどんであった。

途中、斑鳩文化財センターがあった。閉まってはあったが、そこの立て看板に「この道は平安の歌人で、「伊勢物語」の主人公として有名な業平(825-880年)が、天理市の櫟本から大和郡山市一安堵町一平群町を通り、河内の高安(現在の大阪府八尾市)まで河内姫のもとへ通ったとされている道です。
いつからかこの道は、業平道の名で呼ばれ、道筋の本町には、多くの伝説を今に伝えています。
〈ちはやぶる神代もきかずたつた川 からくれないに水くくるとは〉
は、業平の代表的な和歌として広く知られています。」とあった。

この歌碑は上宮遺跡にあったので、遺跡直ぐ東に流れる川がたつた川かと思いきや、それは富雄川で、実際には斑鳩町西端にある竜田川がそれだった。それにしても、天理市から河内に通うって、昔の人はどれだけ健脚なんだ!

そこからすぐ近く、藤の木古墳はあった。綺麗な円墳、横穴式石室道が復元されていて、綺麗な公園だった。出土遺物は文化財センターにあるらしい。開いてみると、世にも珍しい未盗掘古墳でした。詳しい解説は側にある。概要一部をコピペする。
「(略)直径50m以上、高さ約9mを測る6世紀後半の円墳です。(略)石室内からは、世界でも類例の無い製飾性豊かな「金銅製透彫鞍金具」に代表される馬具のほか、武器や土器等の遺物が出土し、一躍世界からも注目される古墳となりました。1988年には、ファイバースコーブ調査を経て開調査が実施されました。二体の人物が埋葬当時の状態で合葬されていることが明らかとなりました。副葬品は豊富で、被葬者の権力を示す金銅制の冠や履などの金属製品のほか、玉纏の太刀や剣などの刀剣、銅鏡、銀製空玉やガラス製玉をはじめとする多くの各種玉類などがありました。このように藤ノ木古墳は、我が国の6世紀後半の歴史や文化を解明する上において貴重な資料を提供したばかりでなく、当時の文化の国際性をも示す、きわめて重要な古墳といえるでしょう」
馬具や豪華な靴は、百済・扶余の王の墓で見た物とほぼ同じものが出土していた。合葬された2人は、男2人だったそう。何やら小説にできそう。

もはや、2時過ぎ。法隆寺駅に帰れば3時前。そこから倉敷に帰れば18-19時。大晦日なので、バスは20時が最終だ。もう何処にも寄る余裕は(ホントは少しあったが)ない。帰る途中、餅屋さん「田鶴屋」があったので、奈良の葛餅を買いに入ると、年末なので餅と簡単なお菓子だけを売っていた。奈良だ。やはり関西圏なので丸餅を売っていたが、豆餅(800)とどら焼きひとつ(170)を所望する。後でスーパーの値段と比較すると、こちらが安いし美味しかった。どら焼きは、餡子に栗が入っていた。

帰る途中、電車トラブルで10分遅れになった。なんかパニックって、姫路でトイレ探したりコンビニ行ったりして、1時間ロスした。余裕持って帰って良かったと思った。最終バス一本前で、家路に着く。

23120歩
コインロッカー300、コメダ500、法隆寺観覧券1500、図録1100、お賽銭100、昼食900、お土産450、餅・饅頭970、コンビニ310、バス360
計 6490
合計 41681
3日間の旅としてはこんなものかな。
結局、18きっぷを使っても、在来線を使っても、却って数百円赤字ぐらいだった(2日目は一切使わなかった)。自動改札機で使えるようになったのは助かるけど、連続でしか使えない、というのは全く使えない!それに3日分1万円というのは全く高くてメリットがないというのは今回ハッキリした。反対にいえば、奈良ぐらいならば、いつ旅しても在来線ならばこのぐらいの予算で行けるということだ。その分、合計4時間ぐらいはロス時間が出る。今回、法隆寺を除いては博物館はなく、図録も3千円ほどで済んでいるので、これくらいになっているのかもしれない。

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2025年01月07日

Posted by ブクログ

昭和の時代を中心に宮大工の棟梁として法隆寺等の修繕や復興に携わった西岡さんという方のインタビューをまとめたものです。
本自体が昭和のものなのと関西弁の口語調で書かれているのでやや読みにくい部分もあるのですが、宮大工としての経験から来るヒノキの強さ、鉄やコンクリートへの苦言等素人からすると目からウロコの情報が多く、前述した書き口も相まって「リアル」な説法を聞いているような感覚でした。
いわゆる「教科書では分からない」大切なものを丁寧に説いてくれる本、という感じです。

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2024年11月22日

Posted by ブクログ

【感想】
世界最古の木造建築、法隆寺。建設から1300年以上経った今でも、幾度の地震を乗り越えてなお立ち続けている。ということは、それを作り上げた棟梁たちの腕が、現代のレベルとはかけ離れた高みにあったことに他ならない。

では、その法隆寺の構造はどうなっているのか。また、法隆寺に携わった棟梁たちの頭にあった「理論」はどういうものだったのか。それを語り下ろしたのが本書『木に学べ:法隆寺・薬師寺の美』である。語り部を務めるのは棟梁の西岡常一氏だ。西岡家は代々法隆寺の修繕や解体を仕事にしており、常一氏自身は法隆寺金堂や薬師寺金堂の修理・復元に携わってきた。設計から選木、木組み、立てあげ、と全ての工程を担ってきた宮大工のエキスパートである。

西岡氏は、法隆寺の頑強さの秘密をどう考えているのか。彼は飛鳥時代の棟梁の仕事ぶりに注目し、「木のクセを読む」、より広く言えば「自然の力を考慮する」建築観を持っていた、ということを繰り返し強調している。

例えば、法隆寺の五重塔の角の部分について。単行本の表紙になっている箇所だ。真正面に張り出している木を隅木というのだが、五重塔の隅木は最下階から最上階まですらっと一直線に並んでいる。西岡氏が言うには、時代が新しくなって作られた塔は隅木が絶対にズレてしまうという。
それは木のクセを見損なっているからだ。この木は右に寄る、これは左に寄るというふうに、木にはそれぞれクセがある。かつての棟梁は、その木のクセを見抜いたうえで、うまく抱き合わせて組みあげていった。柱、桁、梁など、部分部分の木をすべて一つの構造体とみなして調整することで、1300年経っても真っ直ぐなままの状態を維持している。今の大工は曲がった木を削って真っ直ぐに見せているだけなので、完成当初は真っ直ぐに見えても、徐々に右に左に曲がっていってしまうらしい。

また、法隆寺のそれぞれの建造物の屋根は沿っている。しん反りと言って、真ん中が一番低くて、大きな円の形に沿っている。直線に比べて構造的には無理が出てくるが、形の上では反りがないといけない。隅の方の荷重が相当に重いため、反りが無いと押しあげられないからだ。そうして木を組んで瓦をふくと、真ん中が下がる。真ん中で一寸下がれば、隅は二寸と倍下がる。そういったように、木一本にかかる荷重だけではなく、建物全体の負荷を計算に入れて、そのうえで形が綺麗になるように設計されているのだ。
西岡氏いわく、これは「学問的に数学やなんかでは、割り出せない」設計であるとのことだ。木の弱さ強さによって下がり方が違うため、形だけ真似してもどうにもならない。屋根に通す柱は何本もあるわけだが、弱い木を二寸にし、強い木は一寸五分にするという具合に加減しなければならない。法隆寺の棟梁は、こうした木一本一本に寄り添った工法を駆使していたということだ。

当然ながら、現代の建築ではそうはいかない。規格化された建材を使う時代において、木のクセを読む、木の育った方位に使うということは絶対にしないからだ。また、同じ宮大工内でも飛鳥時代の技術はとっくに失われており、なんなら藤原の時代(平安時代)には既に日本の風土を考慮しない工法によってそのノウハウが途絶えてしまったということだ。平安時代ですら1000年前の技術なのに、その時点で既に「300年前と比べればお粗末」と言われてしまうのだから、何とも雲の上の話である。

西岡氏は、建築技術の衰退の原因は行き過ぎた資本主義にあると憂いている。大工も金を稼がなければならない。建材は規格化され、道具は画一的になり、作業は平準化される。より効率よく作れるように、作る側の便利さや儲けを重視してしまえば、20年25年しか持たない。1000年を耐えるためにはどうしても「今」を度外視した質の向上が必要になる。
それは現代社会においては非常に難しい要求なのかもしれない。だが、人間と自然の関わりかたが問い直される昨今、「今が良ければいい」という感覚のままでは持続可能でないことは明らかだ。
飛鳥時代の棟梁は、自然のサイクルの中に人間が住まわせてもらっているという感覚を持ち、お互いが調和するような建物を建てた。彼らの中に息づいていた建築観は、建立から1300年経った令和の今だからこそ、改めて注目されるべきものなのかもしれない。

――今のようになんでも規格に合わせて、同じようにしてしまうのは、決していいことではないですな。人も木も大自然の中で育てられてますのや。それぞれの個性を活かしてやらなくちゃいけませんな。そのためには、個性を見抜いて、のばしてやる。そういうことが忘れられてますな。
ごらんのとおり、全てが同じじゃおもしろくないし、美しくない。学者が法隆寺の研究にきて、斗がいくつだとか数えて、寸法はかっていきますけど、全部違うんでっせ。こういうものは、それ一個とりだしてもだめで、全体やつながりを見ないとわかりません。
構造物は社会です。斗や皿斗や柱は個人個人の人間ですな。それぞれが、うまく自分の力を発揮して、組み合わせられて、崩れない形のよい建物ができるわけですな。

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【まとめ】
1 木を見抜け
棟梁いうものは何かいいましたら、「棟梁は、木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。木のクセを見抜いてうまく組まなくてはなりませんが、木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません。
絵描きさんやったら、気に入らん絵は破いてまた描けばいいし、彫刻家だったらできそこないやったらこわして作り直せます。しかし、建築はそうはいかん。大勢の人が寄らんとできんわな。だから、できそこないがあってもかんたんに建て直せません。
そのためにも「木を組むには人の心を組め」というのが、まず棟梁の役目ですな。職人が50人おったら50人が、わたしと同じ気持ちになってもらわんと建物はできません。

ヒノキという木があったから、法隆寺が1300年たった今も残ってるんです。ヒノキという木がいかにすぐれていたか昔の人はすでに知っておったんですわな。
法隆寺を解体しましてね。屋根瓦をはずすと、今まで重荷がかかっていた垂木がはねかえっていくんです。そこで、われわれ大工の間ではね、樹齢1000年の木は堂塔として1000年はもつと言われてるんです。それが実証されたわけです。
しかし、その樹齢の長いヒノキが日本には残ってませんのや。わたしらが法隆寺や薬師寺の堂や塔を建てるためには、台湾までヒノキを買いにいかなあならんです。なさけないことですよ。
しかし、ヒノキならみな1000年もつというわけやない。木を見る目がなきゃいかんわけや。木を殺さず、木のクセや性質をいかして、それを組み合わせて初めて長生きするんです。

そこへいくと、1300年前の飛鳥時代の大工は賢いな。
大陸から木造の建築法が入ってきた。中国の山西省應県に佛宮寺という600年前の八角五重塔があるんですが、これは直径29メートルもあるのに軒先が2メートルほどしかない。ところが同じ八角でも夢殿は径が11メートルなのに、軒の先は3メートルも出てる。ちゅうことはや、大陸は雨が少ないのやおもいますよ。ところが大陸の雨の少ない建築を学んだけれど、飛鳥の工人は日本の風土いうものを本当に理解して新しい工法に変えたちゅうことです。基壇も高くなってます。こういうのを賢いゆうんですわ。今みたいに、なんでもそのまままねしたりせんのや。軒が浅くてはあかんぞと考えたんですな。徐々にやったんやなくて、そのとき一遍で直してるんです。
こうゆうのを文化いうのとちゃいますか。それを法隆寺を知らなんだら文化人やない言うてぎょうさん人が見に来ますがな、ネコもシャクシもみな法隆寺や。ちっとも法隆寺のことわかってないのや。ただ古いからゆうて見にくる。ただ古いのがええんやったら、その辺の土や石のほうがよっぽど古い。何億年も前からあるねんで。そやありませんか。人間が知恵だしてこういうものを作った。それがいいんです。それが文化です。それを知らずに、形がどうや様式がどうやいうのは、話になりませんな。


2 道具のこと
今のは鉄の質が悪い。明治になって熔鉱炉使うようになってから悪くなった。鉄鉱石をコークスで溶かして作りますやろ。高温短時間でやってしまう。このほうが利潤は多いやろけど、鉄はけっしてええことないのや。
鉄はじっくりと温度あげていかないけません。昔はコークスなんてなかったから、熱源に松炭燃して、砂鉄使ってました。そういうふうにして松炭と砂鉄で作った鉄がこれや。今の鉄のようにチャラチャラしておらんよ。

いいもんやったら仕事の前に研いでおけば、一日使えるが、そうやなかったら何回も研がないかんわ。一回使っちゃ研いで、削って、また研いでじゃいい仕事はできんわな。
科学が発達したゆうけど、わしらの道具らは逆に悪うなってるんでっせ。質より量という経済優先の考え方がいけませんな。手でものを作りあげていく仕事の者にとっては、量じゃありません。
こう考えますと、飛鳥の時代から一向に世の中進歩してませんな。今、わたしら堂や塔を建てる大工が一揃いの道具を揃えますと、270種類ぐらいになりますやろな。ふつうの大工さんで70種類ほどでっしゃろ。このほとんどが鉄使った道具なんですから、いやになりますわ。
これが昔の鉄で作ったノコギリです。そこで、こっちが今のノコギリ。見ただけで、今のはチャラチャラしてまんな。昔のはこんなにチャラチャラしとらへん。まず、鉄の色が違います。しっとりして重さが感じられますでしょ。それと錆。今の物は、こういうふうに錆び始めたら、もうあかんのや。すぐに裏側まで錆が抜けてしまう。
鍛えてないからな。板金に目ヤス入れただけでっしゃろ、このノコギリは。古いやつは、本当に鍛えてあるんでっせ。刀を作るみたいに。これなんかやったら、少し錆が浮いても、裏まで通るということはないんや。

木も人間も自然のなかでは同じようなもんや。どっちか一方がえらいゆうことはないんや。
互いに歩みよってはじめてものができるんです。それを全部人間のつごうでどうにかしようとしたら、あきませんな。
道具というものもそんなもんでっせ。機械やないんや。人間の体の一部だとおもって使わなくてはなりませんな。ノコギリはその代表的なもんです。使ったら、ていねいに目を立ててやって、木の柔らかい堅いに合わせて、目の立て方を変えてやるんです。鉄と木だってそうです。木にぴったり合う鉄を使ってこそ、いい道具と言えるんです。

今はそんな職人おりませんわな。第一カンナの台が悪い、カンナの刃が悪い。もっと悪いのは、そういうことに大工が気づいとらんということや。そういうこと教えてやればいいのに、教えてやらん。職人ていうのは、根性が悪いからな。お前、それで苦労せいちゅうようなもんや。自分でおぼえていかなしようがないわな。ただ、そういうことにも気づかずに、そのまま終わってしまう人が多いな。
周囲の人で、自分よりうまい人を見て、おぼえなあかんのや。あの人のカンナは、何であんなによう切れるんやろ、おもうたら、休憩でみんなが休んでるときに、そーっとその人のカンナを調べてみるんや。そうやっておぼえるのや。盗みとるんや。その人の技量をね。教えられても、ようおぼえんもんや。自分からやって、どこが加減が悪いのかちゅうことを自分で知らんことにはあかんわね。


3 法隆寺の構造
建築物は時代が新しくなるにつれて構造の美しさというのが失われてきとるのや。その失われていく様子を、法隆寺では一日で見ることができます。この法隆寺の建物には、創建当時の飛鳥のものもあれば、藤原時代のもの、鎌倉、室町、江戸時代、大正、昭和と各時代に修理されとるのやが、その時代時代の美に対する考え方や、建築物をどう考えとったかがわかるわけや。
法隆寺は飛鳥時代の大工たちが知恵を出しきって作ったんです。法隆寺のよさは力強い美しさやな。法隆寺と対照的なのが日光ですな。日光は構造よりも「飾り」を選んだんです。芸者さんですな。ベラベラとかんざしつけて打ち掛け着せて、蒔絵のこっぽり下駄はかせて、これでもかこれでもかと飾ったんです。そやから、法隆寺は作ってから1350年目に解体修理してるんですが、日光は350年ぐらいで解体修理せなならんのや。いかに構造を無視して作られたかがわかりますな。
法隆寺の昭和の大修理では、飛鳥のものも解体し、藤原のものも室町のものも解体修理せなならんかったんやが、室町のものは650年しかもたなかった。これは創建当時の1350年の半分しかもたんかった、ということですな。

飛鳥の頃に伽藍造営のあたらしい技術が大陸から入ってきますわな。仏教と共に流れ込んでくるんです。ところが、中国に行ってみるとわかりますが、こんな軒の深い建物はひとつもありません。大陸からの技術を鵜呑みにせんと、雨が多く、湿気の多い日本の風土に合わせて、こういう軒の深い構造を考えたんですな。飛鳥の工人は、自分たちの風土や木の質というものをよく知っていたし、考えていたんですな。
これが法隆寺の大講堂になると軒が浅くなる。そのため雨や風、湿気にさらされることになるんです。大講堂はほんの少し時代がさがった藤原時代のもんですが、もう違うんですな。風土に合わせるということを忘れてしまったんや。
古代の建築物を調べていくと、古代ほど優秀ですな。木の生命と自然の命とを考えてやっていますな。それが新しくなるに従って、木の生命より寸法というふうになってくる。そして、現在の建築基準法、あれはデタラメもはなはだしい。民家の柱になる木一本育てるのに60年かかるんや、苗を植えて、60年せんと柱にならんのや。それをね、今の木造建築でやったら25年でダメになる。そういう矛盾したことやってんのや。ちゃんと作れば200年はもつ。在来工法でやればね。それをボルト使えだとか、何使えだとか言うからいかんのや。

ここまでが飛鳥の回廊です。ここから先は室町のものです。
どこが違うかいいましたら、梁の形がまるで違いますな。この梁を「虹梁」といいますが、いかにも虹の一片を切り取ったような美しく優しい形をしてます。これが飛鳥の良さです。虹梁の上に「束」があって、棟を支えてますが、この束を人型束または人字の束、割束といいますのや。普通は一本の束ですけど、人字の形で梁にのってまっしゃろ。人型束によって上からの力が分散され、両脇の柱にうまく荷重が伝わるようになってるんです。棟の荷重が上手に2本の柱に分散されている。
それが室町になると忘れられてる。梁は真っすぐでゴツク冷たい。棟木から「束」が梁の中央に立てられている。構造や力学的なことが忘れられてしまったんです。そして、直線的な梁のほうが美しく力強いとおもうようになった。
職人の美しさに対する感覚の違いがでてくるんですな。何にも説明せんと今の大工さんたちに作らしても、室町の職人のようにやったかもしれませんな。
揃えてしまうということは、きれいかもしれませんが、無理を強いることですな。木には強いのも弱いのもあります。それをみんな同じように考えている。昔の人は木の強いやつ、弱いやつをちゃんと考えて、それによって形を変え、使う場所を考えていたんです。


4 宮大工の技法は受け継ぐことができるか
堂や塔を作る技術を人に教えられるかって、よく聞かれますけど、なかなか難しいもんでっせ。学問と違うから、実際に塔や堂にあたらんとわからんでしょうな。木の強さとかクセを見抜かないけませんが、これは人に教わっておぼえられるもんやないですからな。
建築学が、実際の建物を作ることに重点を置くんじゃなく、様式論で話を進めようとするからですわ。しかし、これからは、本当の建築というもんに根をおろした学問というのを作っておかんと、文化財の修理なんかできんようになってしまいまっせ。

とにかく木を扱うというのは、その地方地方によって山の土質が違うし、環境も違うから、ひとすじなわではいかんのです。こういうことを建築の学者さんたちに申し上げても、聞きませんな。大工が何を言うとるか、いうようなもんや。木はみんな同じだとおもってるんですな。そこへもってきて、鉄は強くて、ヒノキは弱いという先入観があるんですわ。これがなかなかなくなりませんのや。
飛鳥時代のような鉄でしたら強いでっせ。1000年はもちますな。法隆寺の飛鳥時代の部材から釘抜きまっしゃろ、抜くときゆがみますが、このゆがみさえ直せば、飛鳥の釘はまた使えますのや。今まで1300年もってますねん。これから、まだ1000年もちまっしゃろな。こんな鉄やったら、ヒノキの命とあまり変わらんとおもいます。
そりゃ見た目は、外側は錆びてますよ。だけど、日本刀を作るのと同じに、何回も打って折り返して釘にしてますのや。顕微鏡で見れば何千枚という層があって、切って見ると目があるわけです。この層は薄いもんです。最初の層が100年もって次のものが出てきて、また100年もつ、次のがまた100年もつというように、だんだん細くなっていくけれども腐らない。それが今の鉄は溶鉱炉からにゅーっと出すだけでしょ。鉄つくる人も、こういうこと考えんといかんですな。

長い時間かかりますわな。その時間を短こうして、大量に作り出そうというのが現在ですわ。この大量生産方式が、質が一番落ちる根本です。形がよくて、安ければいいということですからな。
形だけで、安ければいいというのは、堂や塔だけではなく、民家でも同じです。昔はよけいにかかったというのが自慢でした。ところが、このごろは同じような言うんでも、「おれの所は1500万円でできた」と言ったら「おう、安うでけたな」とみんな感心しよる。昔だったらお金をたくさん使うて作ったら「元を入れたな」と感心しよったのだけれども、今は反対で安いのが自慢ですわ。
住宅も使い捨てです。自分一代だけがもてばいいということです。そのことでずいぶん、みなさんは損をしてますな。天然資源としての、木材の無無駄遣いですな。


5 宮大工の心構え
日本には仰山木造建築がありますな。そうした建築物の修理をしてる人や新しく堂や塔を作ってる人も仰山おります。
しかしですな、みんな技術者ですのや。技能者がおりませんのや。仕事をする人がおらん。技術者というのは学校からどんどん出てきますでしょう。だから仰山おりますのや。これは設計する人もそうです。設計する人は育てられるが設計したものを本当に建物にしてしまう人がおらんのや。大工がおらん。これは、今はとても育てられん。
指導者がおらんわけじゃない。前にも話しましたが、育てても仕事がないからですわ。技能者がおらんということは、結局後が無いということですな。

しかし、材もない、技能者もいないとなったからゆうて、全然解体・修理ができないというわけでもありませんで。そんなむずかしいことじゃありません。わたしのように本式の古い伝統、木の命と人間の知恵の組み合わせということをふまえてやろうと考えている者と、今、形さえできればいいという考え方とずいぶん違いますが、形だけなら受け継いでいけます。そのかわり新しいものは作りだせません。まねごとで終わってしまうわけや。
こうなると時代が進んでも、しようないようなもんやな。

本当の仏教というものは、自分が如来であり、菩薩であるちゅうということに到達する。それが仏教ですわな。
それが時代が進んでくるに従って変わってきたんですな。飛鳥・白鳳の建造物は国を仏国土にしようというんでやっているんですわ。
それが藤原以後になりますと、自分の権威のために伽藍を作るんですな。庶民のことは考えず、自分たちの権威を「自分のほうが上だ」と言って建てたんです。仏教と国のためおもっての建造物は、聖武天皇の東大寺が最後でしょうな。その東大寺やったために国が疲弊したと言われてますがな……東大寺でも現世利益的考えが六分までありますわ。
時代とともに、技術も心も退化したんです。


6 宮大工に伝わる口伝
・神仏を崇めずして伽藍社頭を口にすべからず
・伽藍造営には四神相応の地を選べ
・住む人の心を離れ住居なし
・堂塔の建立には木を買わず山を買え
・堂塔の木組は木の癖組
・木の癖組は工人等の心組
・工人等の心組は匠長が工人等へのおもいやり
・百工あれば百念あり
・ひとつにする器量のない者は、自分の不徳を知って、棟梁の座を去れ
・諸々の技法は一日にして成らず、祖神達の徳恵なり

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2024年10月31日

Posted by ブクログ

棟梁は木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う。
木のクセは、木の育った環境で決まる。
建物はそう簡単に立て直すことは出来ない。
だから、「木を組むためには、まず人の心を組め」という名言は響いた。
法隆寺を作った宮大工さんは、10年20年先でなく、1000年建ち続けることを目的に建築していたそう。
「木は正直、人の方がよっぽど嘘つき」とも書いてあったので、どのように人の心を組んでいったのか、その辺りが書いてあったらもっと読んでみたかった。

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2022年01月25日

Posted by ブクログ

宮大工のレジェンドが語る仕事論。

法隆寺解体修理の経験から、木のクセは勿論、どの時代の木材なのかを瞬時に見破る能力をもつ。薬師寺再建にあたっては、設計から予算まで全てのプランを策定し、各セクションの頭領たちを自在に動かす。操作系能力者とみた。決して敵に回してはならないタイプ。

法隆寺・薬師寺に行く大人の修学旅行生は、本書を事前課題図書とする。

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2021年11月18日

Posted by ブクログ

宮大工の意匠から建築の本質を考えさせられた。
今の社会は資本主義が先行して25年持てば良い、という考えだが、200年持たせようと考える宮大工の本質的な考え方に感銘を受けた。
特に、「木の癖を考えて組む」というところは人間にも共通するのでは。その人の本質的な癖を見抜いて、最適な仕事を与えるということが双方にとって長期的な利益になるという視点も持てた。
どうきても短期収益追求の資本主義社会だが、このようなサステナブルな考え方や構造物を失ってはいけない。矛盾を孕む世界だからこそ、もう一度見つめ直す必要性を感じた。

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2021年04月14日

Posted by ブクログ

素人目で見ると、綺麗に製材された後世の建造物のほうが技術的に優れていると思っていた。知らないという事は恐ろしい。あの時代に既にロストテクノロジーがあったとは。
しかし、資材の問題、技法の継承など文化を維持していく事は並大抵の事ではないなあ。

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2020年12月17日

Posted by ブクログ

古い建造物だからという理由で、法隆寺を訪れる人がほとんどでっしゃろ。それではあきまへんな。それなら、そこら辺にある石や砂を見たほうが古いとちゃいまっか?
自然というものを理解し、受け入れて、ありのままの自然でモノを立てる。一見単純そうに見える行程であるが、職人や技能者が最も大切にするべきものが垣間見えた気がした。おおきに。

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2020年03月17日

Posted by ブクログ

薬師寺宮大工棟梁の故西岡経一さんが宮大工として生きた人生から感じ学んだこと。薬師寺や法隆寺など、千年以上の歴史を有する塔や講堂の改築や修繕を手がける中で理解できた、建設当時の技能や材料の質の良さ、現代とは全く異なる長持ちさせるための合理性、そしてこういった技が消えて行くことへの無念さなどがよくわかる。柱の材料となる木を選ぶにしても、その木が生えている土地、風向き、斜面の様子や日当たりなどを考慮して木を切る。年輪だけでなく、ねじれ、湿気などの木のくせを見抜き、組み合わせることで美しく長持ちする建物を立てることができる。木だけでなく鉄も現代のものは質が悪いらしい。だから補強のために鉄筋を入れることは、50年はよくても100年以上になると責任持てないという。伝統とか匠の技とか、そういうものの重みを感じられる一冊。

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2019年02月25日

Posted by ブクログ

法隆寺の宮大工である西岡常一氏の話をまとめた本。

西岡氏のお話が載っている本を読むのは、大分前に読んだ「木のいのち木のこころ」に続いてこれが2冊目となる。1冊目の本と重複している話も多かったが、やはりとても興味深い話ばかりだと改めて思った。

この本を携えながら、法隆寺や薬師寺に行ったらとても楽しいだろうなと思った。昔、近くに長年住んでいたにも関わらず、一度も行かなかったことを悔いている。

以前、陶芸は桃山時代が、作刀は鎌倉時代が最も技術的に優れていたと聞いたことがある。本書で述べられている通り、木造建築の技術は飛鳥時代が最も高いとなると、やはりそれぞれの技術においてピークとなる時代があるのだろうと思う。

「木を知るには、まず土を知る」というのは、本書にある至言の一つだと思うが、これは技術にも言えるのではないだろうか。往々にして、技術というのは思想に根差しているものなので、思想を土、技術を木と捉えると、技術を知るにはそれを育んだ思想を知ることが大切だし、その思想が絶えた時に技術も枯れてしまうのだと考えた。

人の知恵と木の命を組み合わせて千年もつ建物を作る。本当に深遠な思想と技術だと思う。

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2025年01月22日

Posted by ブクログ

法隆寺、薬師寺に行きたくなった!
道具の名前や建物の構造などの専門用語がたくさん出てきて理解しづらい箇所もあったが、とにかくヒノキを使いこなした飛鳥時代の大工はすごかったのだと分かる。
関西弁の話し言葉がそのまま書かれているのでなじみのない人には読みにくいかも…?

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2024年08月08日

Posted by ブクログ

奈良の法隆寺などで活躍した棟梁のインタビュー
代々受け継がれた技術と教え。残念ながら無くなっていくものがあるんだろう。
法隆寺、未来に残せるか心配になった。

学者さんとの喧嘩、なるほどと思った。梅原さんの法隆寺の本読んだけど、いろんな見方あるんだな。
確かに受け継がれた棟梁の推測の方が納得できる。

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2023年06月02日

Posted by ブクログ

インタビューアーに説明するという形態で、木の事、法隆寺・薬師寺の事、宮大工としての仕事、そして人生訓について語っている。

著者だけでなく、一芸に秀でている人というのは、総じて話も上手い!

唯一勿体ないと思う箇所は、建築物や構造体についてもっと懇切丁寧な説明があった方が読者の理解は深まると思う。


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2019年01月13日

「ノンフィクション」ランキング