佐々木中のレビュー一覧
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痛快。面白かった。理解度や把握度は低いがその文から、文と文から、文と文と文から、立ち上る香りをめいっぱい吸い込んだ。
ラカンが、ルジャンドルが、そしてフーコーが何を言っているかを概説しつつ、彼らから何を読み取るべきかをその特有の太い文体でもって論じている。この3名を引くことでその論旨はより堅固で強靭なものとなる。糸と糸と糸を編み上げるとこのような書物になる。言うまでも無いが、3名以外も登場する。
「Aさんがこう言っていました。Bさんはこう言いました。Cさんはこう言い、そしてDさんはこんな風に言いました」
しかしながら、「つまり」と「しかし」の連続に頭が付いていかなかった箇所も多い。私の読解力の貧弱さゆえか、彼ら(特にフーコー)の理路の遠大さなのか。その文脈は濁流によく似た清流であり、高透過度を維持しつつも濃厚系である。その文圧にその都度たじろいだ。
思想家、哲学者は目に見える、事実とされているものそれぞれを具に確認し、それらの「あいだ」にある目に見えないモノ・概念について語る。語ろうとする。
そしてそれらにはまた「あいだ」が生じ、また次の概念が生まれる。その存在の有無も分からないままに、あるいは在ることを仮前提してその諸概念について論考を進める。こういう営為が永遠に続くのだろうと思えてくる。構造的に結論は出ないことになっている。関係性はあるにせよ。
精神分析、心理学と哲学のその双方のスタンスと距離感についても自分としては発見と収穫があった。
それにしても法、政治、統治、性と生、書くこと、読むこと…その対象領域の広大さが何とも果てしなく眩暈がするほどであった。
筆者は「何も変わらない」と連呼している。このことの真意を噛み締めたいところ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ下巻のまとめならぬまとめのようなもの
3、フーコー
<権力>
権力:常にそこにある。法とは違う。権力は社会全体に浸透している。権力の外にあって、権力を全般的に操作し統括しうる者などいない。
一方に支配者がいて、もう一方に非支配者がいるという単純なものではない。支配は多層的。権力があるところには常に抵抗がある。
<監獄の誕生>
規律:法と異なる。かつて犯罪者は公共の場で残酷な方法で殺されていた。近代の犯罪者は、監獄で規律訓練を受ける。規律は人々に「主体的」に正しく生きることを求める。同調圧力である。規律権力は規格を作る。平均からのかい離で、人間全体が分類される。
<生権力>
生:調整され、管理されるもの。
ネオリベラリズム;監視と競争を強化する。
哲学:真理に到達しようとする行為。
霊性:真理に到達しようとする過程で自己を変容させること。自己への配慮。
自己への配慮は普遍性の同調圧力に対する抵抗にはならない。完全な自己統治性は維持できない。必ず他者が介在する。自己への配慮は、排他的な教団につながる。ギリシアの美徳は、キリスト教の地下教団に流入した。
自己への配慮よりも、同調圧力からの疎隔が重要である。
<ドゥルーズ>
コード化されない脱コード化を推奨。
コード化:意味が固定すること。
ドゥルーズとガタリは、資本主義は終わると考えたが、終わらなかった。「アンチオイディプス」は否定され、「千のプラトー」に続く。
<ドゥルーズが読んだフーコー>
言表可能なもの:刑法。
可視的なもの:監獄。
言表可能なものと可視的なものの間には、裂け目がある。
言表:可視性と結びつく前の言葉。
もの:見ることによってのみ存在する。
ダイアグラム:言表とものを結びつけるもの。
ダイアグラムは強制的に、暴力的に言表とものを結びつける。
しかし我々は、新しいダイアグラムを創造することができる!
永遠の夜戦。無限の案出のダンス。別の生への変化の希求。 -
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ネタバレまとめることを拒否する本だけれど、論理展開が複雑できらびやかなので、2回目読書後にまとめてみた。
1、ラカン
<想像界、象徴界、現実界>
想像界:頭の中で思っている世界のこと。
鏡像段階:言葉を知らない子どもは、鏡を見て自分のイメージ、自我を獲得する。鏡像段階とは、自らの姿に想像的に同一化する想像界の始まり、自己愛の起源である。鏡の中の私は動かない。鏡の中の私は、私とは別のもの。鏡の私は死んでいる。鏡像段階=生の認識の始まり=死の認識の始まり。
象徴界:言葉、パロールの世界。二人以上の人間の関係を決める。第三者からの言葉。法、契約、約束。他者との象徴的関係。父。私は母親の愛を独占できない。父のファルスが母の愛を得ているから。
大他者:天空の言葉である。永遠の約束を言う。真理だが嘘でもある。象徴界における言葉の法を司る。
シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係:シニフェエは常にシニフィアンから流れ出す。語れば語るほど、何を語りたかったのかわからなくなる。シニフィアンはシニフィエに決して到達できない。2つの関係は安定しない。シニフィアンは常に浮遊する。
主体:大他者の欲望を成就しようと企む。自らの欲望が真理の欲望であることを願う。主体は真理からの逸脱を嫌う。
現実界:語ることは不可能。思考することも不可能。現実界には媒介なしに接近できない。現実界に触れることは決してできない。
<想像界、象徴界、現実界の接触点にあるもの>
想像界と象徴界の接触点:意味がある。
現実界と象徴界の接触点:ファルスの享楽がある。
現実界と想像界の接触点:大他者の享楽がある。
現実界、想像界、象徴界の接触点:対象aがある。
<意味>
意味:鏡に映る像=他者を私だと思うのは、隠喩化である。
<享楽>
快楽:脱力。死。
享楽:緊張を作り持続させること、現実界に向かうこと、欲望に伴う緊張を持ち続けることをやめられないこと。享楽は、法、禁止、掟、倫理にかかわる。
絶対的享楽;すべての女性を手におさめること。禁止されている。
掟:享楽の禁止は、社会契約の起源である。掟は主体に向けて「享楽するな」と言うし、同時に「享楽せよ」と言う。掟は非合法な享楽と合法的な享楽を分けて、主体が合法的な享楽に向かうように主体の欲動をコントロールする。
<ファルスの享楽>
オイディプス第一段階:幼児は母を欲望する。幼児は母にファルスがないことに気付く。母は欠落したファルスを求めている。幼児は母が欲望するファルスに想像的になろうとする。
オイディプス第二段階:父が登場する。幼児は母親の求めているファルスを父が持っていることを知る。父の登場によって、幼児の想像的ファルスは去勢される。想像的ファルスから象徴的ファルスへの移行が始まる。現前=想像的ファルスと不在=象徴的ファルスが交代する。ファルスはない。言葉としてのファルスはある。
オイディプス第三段階:幼児は父親も法のもとにあることを知る。父が絶対的大他者ではなくなる。父親のファルスは、法の下に制御されている。
父は自己、主体の隠喩である。鏡に映ったもの。象徴的同一化の対象。
ファルスは主体の換喩である。
父親もファルスも、法、象徴的な言葉のもとで、主体が移り変わったシニフィアンとなる。主体ではない別の何かになる。
ファルス:ペニスでもクリトリスでもなく、「ある」と「ない」、性別の単位を決定する何か。
ファルスの享楽第一段階:象徴界での享楽。法の下で許された男女の性交。これは決して性的な関係ではない。法に支配されているから。絶対的享楽ではない。満たされることが永遠にない。
ファルスの享楽第二段階:想像的かつ象徴的なファルスの享楽。想像的なファルスのイメージは石像として、権力のシニフィアンになる。権力を追い求め、権力に同一化しようとする欲望。
<対象a>
対象a:鏡に映った自分の姿を眺めることで、主体ができる。対象aとは自己のうち、主体から削り落とされたもの、あまりである。現実界、想像界、象徴界のすべてにまたがり、かつ逃れ去るものである。
対象aは大他者の代理物でもある。欲望は対象aを求める。対象aは決してつかまえることができない、主体が作り出された瞬間に失われる何かだから。
対象aの剰余享楽:享楽を断念することから生じる、決して手にすることができない享楽。労働しても享楽は得られない。享楽の断念。我々は搾取されている。
<大他者の享楽>
女性の享楽:ファルスの享楽とも対象aの享楽とも異なる。性的関係ではない。至高存在と関係する享楽。神秘主義的。
神秘の愛:自分以外の存在とつながる。すべて生きている。私は私ではない。私は他のものとつながっている。神と合一することとは異なる。同一化はファルスの享楽だから。同一化を断念することは対象aの剰余享楽である。大他者の享楽は、ファルスの享楽とも、対象aの享楽とも異なる。神秘主義者の女性たちは、「神とわたしたち」と言うことを欲望する。独占もしない。一体化もしない。不思議。言葉の外にある享楽。
神秘家は書く。マリアになろうとする。神の子を産もうとする。神への恋文。
<ブランショ>
人間は死ぬ時も自分に戻れない。死は他人が見て決定する。人間は生きている時も死ぬ時も自分になれない。
芸術家は死を目的とする人間が、死に結ばれるのと似たような仕方で作品と結ばれている。
夜、外、死、永遠の未完了の中で、人は書くことができる。
2、ルシャンドル
<ドグマ、原理主義、マネジメント批判>
ドグマ:エンブレム、装置。法を作り出すもの。絶対的真理は専制を生み出す。
原理主義:解釈の余地を許さない絶対的準拠を求める姿勢。
解釈:彼自身と権力の要求の間に疎隔を生み出すこと。原理主義からの脱却。
マネジメント;行動主義的ドグマを政治的かつ社会的に作動させること。個人が己自身を解釈の余地なく原理主義的に管理することを夢見る。
神話の時代:エンブレムが法になる。
解釈者の時代:エンブレムとは別にテキストが客観的法になる。宗教と国家官僚組織が分離する。
マネジメントの時代:国家も不要になる。個人が自分で自分を原理主義的に管理するようになる。管理経営。法なき、根拠律なき統治の時代。
ルシャンドルにとっては、キリスト教、ヨーロッパのいう普遍性も、原理主義に過ぎない。
(下巻に続く) -
Posted by ブクログ
読み終わってしまった。なんと素晴らしい本だろう。私たちを規定するダイアグラムを、言表と可視性との強引な接着を、根拠律を、ドグマを、統治性を、それらを操る司牧権力を……つまり僕の敵を明らかにしてくれた。それらが全く動かしうるものであることを教えてくれ、それとの闘いのゴングを鳴らしてくれた。つまり、女性の享楽、執拗な犬、新しいダイアグラム、ダンス、神秘主義……それらがあることを教えてくれ、それらのほうへいざなってくれた。
よろしい。僕は既にこの社会からあぶれつつあるエリートである。残念ながら。既存の統治性規律権力の走狗だったらどんなに楽であったことか。しかし、もうよい。僕は大手を振って出ていこう。服を脱ぎ捨て、犬になろう。憐れみの眼差しに刺されつつ、この醜き走狗どもを睨み返してやろう。そして吐こう、スキャンダラスな真実を。別の生を。
僕はこの本に出会えて幸せだった。なぜなら、この本は全てを語っており、まだ何も語っていないからだ。 -
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何度、読み返しただろう。
やっと僕の浅学拙考の頭に、僕なりの仕方でこの本を飲み込むことができつつある。
佐々木はラカンを引き、われわれの主体が<鏡>に映し出されるイメージと、「これは私だ/私ではない」という言葉によって作り出され、象徴界と想像界によって成り立っていることを明らかにする。
次にルジャンドルを引き、主体がドグマでしかないことを明らかにし、今、世界で支配的なドクマは中世解釈革命によって、可塑的な書かれた<準拠>としてのテクストとして12cから打ち立てられ、今日まで続いているものだとする。
そして、今あるドグマを覆すにはという問いを立てたところで、上巻終わり。
この一冊、この一冊こそ僕が探し求めていたものであり、全てを解決しうるものだ。たくさんの人に読んで欲しい。しかし、どれだけの人に届くというのか。どれだけの人が気づき、動きうるというのか。僕にはわからない。 -
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フーコーもラカンもルジャンドルも全くどのような思想か知りませんでした。(フーコー、ラカンはちょっと本を読んだことがあったかもしれませんが、「どっからどう考えたらそういう風に考えられるのか」と思うほど意味が分からないまま終わりました。)が、この本でこれらの人が言いたかったのはこういうことだったのかということがやっとわかりました(表面だけかもしれませんが)。著者の説明は本当に感謝です。大きな意味を述べた後に小さな言葉を何度も言い換えたり、なぞったり意味する所の輪郭を細かな所までリズム良く掘り出してくれるところは凄さを感じます。上下巻と長いですが、内容はぎっしり詰まっています。
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Posted by ブクログ
フーコーもラカンもルジャンドルも全くどのような思想か知りませんでした。(フーコー、ラカンはちょっと本を読んだことがあったかもしれませんが、「どっからどう考えたらそういう風に考えられるのか」と思うほど意味が分からないまま終わりました。)が、この本でこれらの人が言いたかったのはこういうことだったのかということがやっとわかりました(表面だけかもしれませんが)。著者の説明は本当に感謝です。大きな意味を述べた後に小さな言葉を何度も言い換えたり、なぞったり意味する所の輪郭を細かな所までリズム良く掘り出してくれるところは凄さを感じます。上下巻と長いですが、内容はぎっしり詰まっています。
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Posted by ブクログ
中2の頃に岩波のツァラトゥストラを読んだ。SF映画『2001年宇宙の旅』でかかっていた、リヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラかく語りき》が好きで、同名の本というか元ネタの本を読みたくなったからだ。
というのは、『2001年宇宙の旅』は映画はもちろん小説も謎めいたところがあり、その理解のためにはテーマ曲になっているツァラトゥストラやニーチェを当たらないといけないのではないかと思ったのである。
そしてそれわ読んでわかった気がして、人類は神の手ではなく異星人によって進化させられ、ボーマンは超人になり、さらに赤子となったのであろうとか、中2病的な妄想を抱くようになった。
今回は、もう一度中2の心に戻ろうと、新訳で読んでみた。旧字体や古い文語体が頻出していた岩波版よりかなり読みやすくなっており、中2の時もこれで読みたかったなと思った。
改めて思うのだがニーチェは壮大な中2病なんじゃないか。新約聖書を否定する新たな聖書を作るという発想は尋常ではない。今考えても尋常じゃないのに、19世紀の世界にこれを問うたニーチェはやっぱり超人だなあと思った。
ツァラトゥストラに対してこんな浅い感想で申し訳ないが、お許しください。
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Posted by ブクログ
■評価
★★★✬☆
■感想
◯現代神からすると、読みやすい本ではない。分量も全4巻文集力でページ数も膨大。
◯はじめ通読して半年放置していたが、家においてある本書(付箋だらけ)をみて、再読することに。
◯ニーチェ入門思想を数冊読んで原著(本書)に戻ってきたことで、理解が深またkンジがする。
◯書かれている言い回しが難しいのではなく、比喩や例・詩的にかかれているので、その構造を捕まえながら読むのが難しかった。
◯捕まえてしまえば、なるほど、と思うところが随所にあるし、歯ごたえがある本として味わい深い。
◯とくに”没落”という言葉の取り扱い方が難しかったが、善悪含有したベクトル・運動として整理してみたところ、いろいろな事象に説明がつき、クリアにすることができた。 -
Posted by ブクログ
ニーチェの思想は彼の死後、ナチズムに利用されたと聞いたけど、この本読んでわかる気がした。
大学生の時に読んでたら、悪い意味でハマってたかもしれない。(危ないところだった!)
この本は、隠者というか、社会的常識や価値では不遇な立場にある人が、独特な価値観を持って世の不条理に新たな解釈を与えていく、という造りなのだけれど(少なくとも私はそう解釈した)、世の中に不満というか、満足してない人ほど、この本を読んで根拠のない優越感を持ちそうで怖いなと思った。
(=ナチズムで使われそう)
読んでると、作品の思想に洗脳され、いい気分になるけど、実際のニーチェは(頭はいいのに)モテなかったみたいだし、娼婦買いしてて梅毒で脳がヤラれ死んいる。(女性についての記述はそれを認識して読んだ方がいい)
そう思うと洗脳から覚める。
ニーチェは自伝「この人を見よ」でドイツ嫌いを明言してるけど、ナチが台頭した時代まで生きていたら、ナチズムの選民意識をどう感じただろう?
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Posted by ブクログ
この新訳にしか触れたことがないが、非常に読みやすく、面白い内容だった。 対人関係や集団心理、宗教から国家まで、作者の深い洞察力を見てとることができる。
男女の違いや結婚など、身近に感じるテーマの取り扱いも興味深かった。
第1部が最も重要で面白い内容だった風に感じる
それにしてもゲルマン民族について、「忠誠のために悪しきこと危険なことにも、名誉と血を賭けよ、と教育し自らを律した」とは、現在のドイツ人に対するステレオタイプにも通ずるところがあって面白い言い回しだった
超人の思想的には、仏教や儒教に似た内容がある風にも感じたが、解釈は人それぞれということか -
Posted by ブクログ
まずはざっくりと西洋思想の歴史について勉強してから読みました。結果良かったです、大正解でした。
そうじゃないと、"神は死んだ"→→→「は??」って感じだったと思います。
簡単に説明をすると、、※完全な自己解釈です!
長らく、ずーっと昔から、数多くの思想家たちは、"真理の追求"について思い巡らせ、様々な持論を唱えていました。
そして「プラトン・アリストテレス・キリスト教の大帝国」が、プラトンの「イデア論」をキリスト教が上手に利用する形で長期的に支配していました。
カントやガリレオなど自然科学の発見・発展によって、
またその後のデカルトの座標軸の発見などによって少し風穴が空く形になりましたが、『神』という存在は根強く染み付いていました。
=本当は神の存在証明からする必要があるのでは…?ということを誰も思いませんでした。
*人間は生れながらにして原罪を背負っている。
*真理は常に神の側にあり、人間の手の届くところにはない。
そんな中、牧師の父を持つニーチェは、幼少期から熱心にキリスト教の信者として育ちましたが、
だんだんと圧倒的な支配に息苦しさを感じていきます。
そして、
神は死んだ、我々は精神の奴隷になどなってはならないと言います。
それまでの価値観に挑戦状を叩きつけて、"「超人」になれ"と言いました。
もともと、
古典においてもキリスト教においても、一番大切な真理は
常に神の側にありました。
でも、もしかしたら我々はありもしない真理というもので自分たちを縛っているのではないか。何しろ背後世界を実際に見た人はいないし。。
原罪(人間はアダムとイブが犯した罪を生まれながらに背負っている。けれど、イエスキリストという人物が1人でこの罪を背負ってくれた。だから感謝し生きていかなければならない。)についても、人間が本当に罪を負った存在なのかということも、キリストが私たちの罪を肩代わりしてくれたということも、どちらにもはっきりした証拠はありません。
人間にはもともと、ある種の神秘性に憧れを抱くという性質があり、それを利用して、人間の手の届かない所に真理という大切なものがあると言えば、それを伝えられる人、キリスト教で言えば神の言葉を媒介する教会が力を持つことになる…そして大衆は永遠に受動的な存在から抜け出すことができなくなる…。
なぜ、一人ひとりの人間が、能動的に大切なものをつかみ取ってはいけないのか、
これではまるで「精神の奴隷」ではないのか?
教会に対して、「ありもしない荒唐無稽なことを言って人間を抑圧するな」と挑戦状を叩きつけるとともに、大衆に対して、「ビビるな!奴隷の立場に甘んじるな」というメッセージを伝えたかったのです。
自分以下のところにある権威に安易に跪くのではなく、
まず自分自身が拠点となり、自身に目を向けようよ、と。
またこの本は、ツァラトゥストラという人物がニーチェに代わり、ニーチェの思想を説いていきます。
なぜそういう形を取ったのでしょうか…?
あくまで個人的な勝手な想像ですが、
ニーチェは超人になれと言いますが、ニーチェ自身は自分は超人ではない、まだその域ではない、という自覚があったからではないのかなと思います。
カントなどは自らの理論をコペルニクス的転回と自画自賛していましたが、ニーチェは違ったのではないかなと思いました。
(あ、でもカントの超越論的主観性の発見も面白いと思いました。)
そんなニーチェの言う超人とは、
*勇気を持って現在の迷いの中にある自分自身を乗り越えていく、そんなポジティブで、積極的で、肯定的な強い精神力を持った人間。
*自分で目的地とそこへ至る道を探して、単独者として進んでいく強さを持ち、戦いを挑み、敗れてもまた立ち上がり、倒れてはまた立ち上がる人間。
*自分の決断というものに責任を持って、自分自身の人生を作っていく人間。
*3ステップ(ラクダ→獅子→幼子)を実行し超人になれと言いました。
ずっと読んでいると、
ニーチェはただ、外的なものすべてに対して、これでもかというくらいひたすら否定しているように感じてしまいますが…
そうではなくて、
彼が言いたかったことは、内的なもの=自分自身に対する肯定の大切さを伝えたかったのだと思います。
そして「永劫回帰」。
彼のいう超人には並大抵の努力ではなれません。
何度失敗しても、決して諦めないこと、そうやって人は強くなれる。
自分なりの解釈ができたとき、とても感銘を受けました。
またニーチェの言葉がわかりやすいのは、彼が「アフォリズム」という短い言葉で本質をつかまえることを目指していたからです。
短い言葉で本質を伝えようとすると、ごまかしがききません。
そういう真っ正面からのメッセージはとても強くてカッコいいです。
また、最近あるアメリカの学者の動画を見たのですが、
"頑張れば/成功したら、幸せになれる"という考え方は間違いで、
私たちは一般的に言われている、幸福と成功の法則を反転させる必要があります。
現状へのポジティブの度合いを引き上げることで、その人の脳は「幸福優位性」を発揮し始めます。
つまりポジティブな脳は、ネガティブな脳やストレス下の脳よりもずっとよく機能し、知能が上がり、創造性が高まり、活力が増大することが研究結果でわかりました。
現状に対してポジティブになることさえできれば、脳はより熱心に速く知的に働き、その結果としてより成功するようになるとのことです。
長期的な幸福について予測できるのは10%くらいで、
あとの90%は周囲の環境ではなく、
脳が周囲の環境をどう処理するかにかかっているとのことです。
ストレスを脅威ではなく挑戦と受け取る能力に掛かっています。
個人的には、ニーチェの考え方に対する科学的な証明かなと思いました。
人により解釈は違うと思いますが、個人的には色々と学べた本です。
そして、
Let's 自己責任での覚悟を持ち自由であれ!
Let's エンドレスチャレンジング!
Let's ポジティブシンキング!
を心掛けたいと思いました。
《2/1追記》
こちらの感想文をニーチェに詳しい方に読んでいただいたところ、「ニーチェの意図を汲み取らないにも程があるけどそこが逆にニーチェ的だ」と言われました(特に永劫回帰のところ)…。
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Posted by ブクログ
『切りとれ、あの祈る手を』を以前に読んでいて衝撃的だったのを思い出す。本書も(まだ上巻だけだが)愉しく読めている。
文体に性格があるのなら、この方のそれは、大変熱くそして力強い。「反復を恐れず」に訴えかけてくる主張をどんな読者だって感じずにはいられないだろう。猛烈な卓見。
「フーコー、ラカン、ルジャンドル」とタイトルに謳われている。彼らの言説を解きほぐしながら筆を進めている。彼らをろくに読んだことのない私にさえも分かるように、丁寧に咀嚼して(時に重大なことは反復して)解説されている。個人的に楽しみなフーコーは下巻からその姿を表すようだ。
あの難解極まりないラカンの言説。そこにルジャンドルのテクスト(これも犀利ながらも時に詰屈で読みこなすのは至難らしい)を照らし合わせる。そう言えば、内田樹先生がレヴィナスとラカンを並列的に取り上げていたのを思い出した。難解さと難解さを混ぜ合わせる。するとなぜか立ち上がってくる何かがある。マイナスとマイナスをかけ合わすとプラスに転じるのに似てはいないか。
個人レベルの領野から、社会や国家のあり方にまで。話題は広範に展開されていく。「系譜理論」としての国体。「輸出可能な」西洋的国家。表現の自由を認めること自体の前提的制限… 示唆に富む見解が凝縮されている。
ああ、下巻を、下巻を読ませてください。