あらすじ
息を飲む程の明快さと、余すところのない学問的な厳密さが、奇蹟のように手を取り合って進む。“アントロポス”の永劫の生と、抵抗する「犬」の戦いの轟きが、惨めな現状追認と停滞を痛撃する。俊傑・佐々木中の第一作にして哲学的マニフェスト、新論考を付した完全版。ミシェル・フーコーの厳密な批判的読解から不意に現れ出る、その「蜂起の魂」とは何か。絶えざる「真理への勇気」の驚嘆すべき新生。
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Posted by ブクログ
革命の蠢き
「切り取れ、あの祈る手を」の理路をより丁寧に辿っていくことができる著作
ルジャンドルとフーコーの対立の底にある奇妙なまでの協奏を描き出し、超歴史的なものへの反抗の超歴史性が浮かび上がってくる
ルジャンドルについて体系的な記述を読めたのがはじめてだったので、それが極めて興味深かった。
フーコーの理路を辿る著述も明快で正確。フーコー入門としてこれ以上のものもないのではないか。
読んで狂わずにいることなどできない。
人生が変わる著作である。
Posted by ブクログ
痛快。面白かった。理解度や把握度は低いがその文から、文と文から、文と文と文から、立ち上る香りをめいっぱい吸い込んだ。
ラカンが、ルジャンドルが、そしてフーコーが何を言っているかを概説しつつ、彼らから何を読み取るべきかをその特有の太い文体でもって論じている。この3名を引くことでその論旨はより堅固で強靭なものとなる。糸と糸と糸を編み上げるとこのような書物になる。言うまでも無いが、3名以外も登場する。
「Aさんがこう言っていました。Bさんはこう言いました。Cさんはこう言い、そしてDさんはこんな風に言いました」
しかしながら、「つまり」と「しかし」の連続に頭が付いていかなかった箇所も多い。私の読解力の貧弱さゆえか、彼ら(特にフーコー)の理路の遠大さなのか。その文脈は濁流によく似た清流であり、高透過度を維持しつつも濃厚系である。その文圧にその都度たじろいだ。
思想家、哲学者は目に見える、事実とされているものそれぞれを具に確認し、それらの「あいだ」にある目に見えないモノ・概念について語る。語ろうとする。
そしてそれらにはまた「あいだ」が生じ、また次の概念が生まれる。その存在の有無も分からないままに、あるいは在ることを仮前提してその諸概念について論考を進める。こういう営為が永遠に続くのだろうと思えてくる。構造的に結論は出ないことになっている。関係性はあるにせよ。
精神分析、心理学と哲学のその双方のスタンスと距離感についても自分としては発見と収穫があった。
それにしても法、政治、統治、性と生、書くこと、読むこと…その対象領域の広大さが何とも果てしなく眩暈がするほどであった。
筆者は「何も変わらない」と連呼している。このことの真意を噛み締めたいところ。
Posted by ブクログ
下巻のまとめならぬまとめのようなもの
3、フーコー
<権力>
権力:常にそこにある。法とは違う。権力は社会全体に浸透している。権力の外にあって、権力を全般的に操作し統括しうる者などいない。
一方に支配者がいて、もう一方に非支配者がいるという単純なものではない。支配は多層的。権力があるところには常に抵抗がある。
<監獄の誕生>
規律:法と異なる。かつて犯罪者は公共の場で残酷な方法で殺されていた。近代の犯罪者は、監獄で規律訓練を受ける。規律は人々に「主体的」に正しく生きることを求める。同調圧力である。規律権力は規格を作る。平均からのかい離で、人間全体が分類される。
<生権力>
生:調整され、管理されるもの。
ネオリベラリズム;監視と競争を強化する。
哲学:真理に到達しようとする行為。
霊性:真理に到達しようとする過程で自己を変容させること。自己への配慮。
自己への配慮は普遍性の同調圧力に対する抵抗にはならない。完全な自己統治性は維持できない。必ず他者が介在する。自己への配慮は、排他的な教団につながる。ギリシアの美徳は、キリスト教の地下教団に流入した。
自己への配慮よりも、同調圧力からの疎隔が重要である。
<ドゥルーズ>
コード化されない脱コード化を推奨。
コード化:意味が固定すること。
ドゥルーズとガタリは、資本主義は終わると考えたが、終わらなかった。「アンチオイディプス」は否定され、「千のプラトー」に続く。
<ドゥルーズが読んだフーコー>
言表可能なもの:刑法。
可視的なもの:監獄。
言表可能なものと可視的なものの間には、裂け目がある。
言表:可視性と結びつく前の言葉。
もの:見ることによってのみ存在する。
ダイアグラム:言表とものを結びつけるもの。
ダイアグラムは強制的に、暴力的に言表とものを結びつける。
しかし我々は、新しいダイアグラムを創造することができる!
永遠の夜戦。無限の案出のダンス。別の生への変化の希求。
Posted by ブクログ
読み終わってしまった。なんと素晴らしい本だろう。私たちを規定するダイアグラムを、言表と可視性との強引な接着を、根拠律を、ドグマを、統治性を、それらを操る司牧権力を……つまり僕の敵を明らかにしてくれた。それらが全く動かしうるものであることを教えてくれ、それとの闘いのゴングを鳴らしてくれた。つまり、女性の享楽、執拗な犬、新しいダイアグラム、ダンス、神秘主義……それらがあることを教えてくれ、それらのほうへいざなってくれた。
よろしい。僕は既にこの社会からあぶれつつあるエリートである。残念ながら。既存の統治性規律権力の走狗だったらどんなに楽であったことか。しかし、もうよい。僕は大手を振って出ていこう。服を脱ぎ捨て、犬になろう。憐れみの眼差しに刺されつつ、この醜き走狗どもを睨み返してやろう。そして吐こう、スキャンダラスな真実を。別の生を。
僕はこの本に出会えて幸せだった。なぜなら、この本は全てを語っており、まだ何も語っていないからだ。
Posted by ブクログ
フーコーもラカンもルジャンドルも全くどのような思想か知りませんでした。(フーコー、ラカンはちょっと本を読んだことがあったかもしれませんが、「どっからどう考えたらそういう風に考えられるのか」と思うほど意味が分からないまま終わりました。)が、この本でこれらの人が言いたかったのはこういうことだったのかということがやっとわかりました(表面だけかもしれませんが)。著者の説明は本当に感謝です。大きな意味を述べた後に小さな言葉を何度も言い換えたり、なぞったり意味する所の輪郭を細かな所までリズム良く掘り出してくれるところは凄さを感じます。上下巻と長いですが、内容はぎっしり詰まっています。
Posted by ブクログ
佐々木氏の博士論文の定本。
増補がある、と言われていていざ買ってみると、
フーコーについてのものだった。
期待していたのは、Dz論だったのに。
あとがきにはどうやら200枚まで書きついた原稿を破棄したとある。
これがどうやらDz論のようだ。
そして間に合わせのようにフーコー論が納められた。
まだ私は彼のDz論を待つ。
『ミル・プラトー』をぼろぼろになるまで読み、
真摯に向き合おうとしている彼の論考を待つ。
Posted by ブクログ
筆者の饒舌ぶりは美麗さなど伴ってはいないし、むしろ自身の論理の欠陥を補うアップリケのように思われる。その最たるものが、執拗に繰り返される倒置であり、時にページの半分にも及ぶ傍点であろう。筆者は論理で読ませるのではなく、まるで目の前に語るときに、大切なところを大きな声で汗ばみながら必死な形相で語るのと似たことを、文体の中でやっている。それをどう評するかは人によって分かれるだろうが、個人的には余裕を演じる必死さや論理を覆い隠す情動には、冷やかな視線を向けることしかできない。