竹内整一のレビュー一覧
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「おのずから」と「みずから」、そしてその「あわい」に日本の思想と文化の根本特性が現れている、とする著者の代表作。
個人的には、豊かな説得力を持っていると感じるが、著者の思索そのものは、ここで論じられている西田幾多郎、九鬼周造、清沢満之などの深みに遠く及ばない。
とはいえ、その着眼点の秀逸さと、適切な引用は、読むものを飽きさせない。
私は西田幾多郎と九鬼周造の原典を読む機会を与えてくれたことに感謝している。
西田は「日本文化の問題」から、
「私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於て何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふと云ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。」
九鬼は、日本の思想文化の大事な要素として「自然」「意気」「諦念」の三つをあげている。「自然」という「おのずから」と、「意気」という「みずから」、そして「諦念」という「あきらめ」とが、われわれの発想の基本性格としてあるという。(「日本的性格」)
後者の原典は、これから読むところだが、この二人の思想家の日本文化論はさすがに本質を抉り出していると感じさせられる。 -
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求めていることに、応えてくれる一冊でしたー。
繰り返しの部分が少し目立つけど、読みやすい。
「さようなら」と「goodbye」の違いって。
「さらば」(それならば)に含まれた意味って、何なんだろうと思っていました。
そこから、やはり死生観に入っていくのね。
西田幾多郎、九鬼周造、柳田邦男から古典文学まで幅広い引用もあり。
死とは、不可避の状態である。
自分にとっては経験のない非日常だけれど、あらゆる物事にとっては当然そう在るものだとも言える。
そうした「自然」自ずから成り行くことを、「あきらめをもって受け入れる」態度。覚悟。
互いの別れを「いざ」「ならば今」と受け入れることで、見送る方も見送られる方も、心にケジメが付くということのようだ。
面白いのは、日本では死者が彼岸と此岸を行き交っているというイメージ、風習があること。
確かに、死んでも案外と身近な場所にいるのかもしれない、という思いは、死への恐怖心を和らげるのかもしれない。
「おのずから」と「みずから」の違いにも言及し、そこに日本人の諦念、悪く言い換えれば無責任さを見出す。
ここから、「る、らる」つまり「受身、可能、自発、尊敬」という多様な意味を持つ助動詞にまで触れて、ワクワクする。
中古では「ゆ、らゆ」であり、「尊敬」の意味はまだ付加されず、「自発」の意味を軸とした動詞がその後も残っていく。
おのずからそう感じられるという自発の姿勢は、栄枯盛衰、様々な推移に対して「まあ、人生ってそういうものだよね、仕方ない」と言ってしまう感覚のルーツなのだろうな。
「もの」と「こと」の違いについて、また運命については引用。
「『もの』的世界とは、原理的・法則的・普遍的な、発語者の力ではどうにもならない、不動なもの、運命的なものを表しており、われわれは、そうしたものを過剰ともいえるかたちで表現し、それにしたがってきたという指摘」
「つまり、この世の普遍的・集団的な論理・原理にしたがうときには『もの』という言い方をし、その時その場での、一回的な出来事については『こと』という言い方をしているのだ、という指摘」
「運命とはそうしたものであるがゆえに、それにただ巻き込まれ翻弄されるべきものではなく、それをそれとしてあらためて認め、受けとりなおすところに、真に運命となりうる」
「詩のもっている、押韻、リズム、畳句(リフレイン)といった技術は、すべてその『現在の今』を繰り返し反復するということにおいて、そこに『永遠の今』を顕現させうるものだと九鬼は考えています。
韻と韻とが重ねて踏まれることは、われわれの偶然性としての出会いが重ねて反復されることの象徴です。」 -
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「さようなら」とは不思議な言葉だ。
左様なら、なんなのか。ずっと疑問に思っていた。
これが別れの挨拶として、定着するに至るまでどのような経緯があったのか、それを考えるヒントにこの本はなる、と思う。
かつて文章の中で、文学の中で、この言葉がどのように使われてきたか、ということはよく研究してある。
美しい言葉である。「さようなら」。
この言葉によって日本人の精神性がわかるか?答えはNOだ。
挨拶はどのような場面で使われるか、それがどのような心持ちであるか、は、自由であるから。
ゆえにこの本ももう少し違うアプローチなら、よりよかった。
内容は大変興味深いので一読の価値はある。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
一般に世界の別れ言葉は、「神の身許によくあれかし」(Goodbye)か、「また会いましょう」(See you again)か、「お元気で」(Farewell)のどれかである。
なぜ、日本人は「さようなら」と言って別れるのだろうか。
語源である接続詞「さらば(そうであるならば)」にまで遡り、また「そうならなければならないならば」という解釈もあわせて検証しながら、別れ言葉「さようなら」にこめてきた日本人の別れの精神史を探究する。
[ 目次 ]
第1章 「さらば」「さようなら」という言葉の歴史
第2章 死の臨床と死生観
第3章 日本人の死生観における「今日」の生と「明日」の死
第4章 「いまは」の思想
第5章 不可避としての「さようなら」―「そうならなければならないならば」
第6章 「さようなら」と「あきらめ」と「かなしみ」
第7章 出会いと別れの形而上学
第8章 「さようなら」としての死
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ネタバレ「さようなら」は、もともとは「さようであるならば」という接続詞。
一人称の死は、死後自分はどこに行くのだろうという自己中心的な恐怖になるが、
二人称の死では、亡くなった大切なひとは自分の中にいることに気づく。自分があの世。
死とは無になることではなく、自分が生きていた世界はそこにあり続けるけれど、自分はその世界とはお別れしていくということ。
死ぬことは何よりもかなしいことだけれど、そうならなければならないのなら、そのかなしみをしっかりとかなしむ先に安心がある。
「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら」 -
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ネタバレ-20090325
アメリカ人の女性飛行家A.リンドバーグを「これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない」と言わしめた別れの言葉-「さよなら」の持つ人間的な温かみと人知を超える厳しさ、そして生と死の「あわい」で揺れるその両義性‥。
心の際-こころのきわ -2009.04.13記
この「さよなら」が、「さようであるならば」か、はたまた「そうならなければならないならば」のいずれに偏るものか、その判別も下しかねるが、ただおのれ一身の「心の際」-器量のこととして受けとめずばなるまい。
いまはただ、本書の中で採られていた、浄土真宗の僧であった金子大栄-1881~1976-が「色即是空、空即是色」を意訳したもの、とされる詞を書き留めておく。
「花びらは散る 花は散らない」