竹内整一のレビュー一覧
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「おのずから」と「みずから」、そしてその「あわい」に日本の思想と文化の根本特性が現れている、とする著者の代表作。
個人的には、豊かな説得力を持っていると感じるが、著者の思索そのものは、ここで論じられている西田幾多郎、九鬼周造、清沢満之などの深みに遠く及ばない。
とはいえ、その着眼点の秀逸さと、適切な引用は、読むものを飽きさせない。
私は西田幾多郎と九鬼周造の原典を読む機会を与えてくれたことに感謝している。
西田は「日本文化の問題」から、
「私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於て何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふと云ふにあるのではないか -
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「さようなら」とは不思議な言葉だ。
左様なら、なんなのか。ずっと疑問に思っていた。
これが別れの挨拶として、定着するに至るまでどのような経緯があったのか、それを考えるヒントにこの本はなる、と思う。
かつて文章の中で、文学の中で、この言葉がどのように使われてきたか、ということはよく研究してある。
美しい言葉である。「さようなら」。
この言葉によって日本人の精神性がわかるか?答えはNOだ。
挨拶はどのような場面で使われるか、それがどのような心持ちであるか、は、自由であるから。
ゆえにこの本ももう少し違うアプローチなら、よりよかった。
内容は大変興味深いので一読の価値はある。 -
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[ 内容 ]
一般に世界の別れ言葉は、「神の身許によくあれかし」(Goodbye)か、「また会いましょう」(See you again)か、「お元気で」(Farewell)のどれかである。
なぜ、日本人は「さようなら」と言って別れるのだろうか。
語源である接続詞「さらば(そうであるならば)」にまで遡り、また「そうならなければならないならば」という解釈もあわせて検証しながら、別れ言葉「さようなら」にこめてきた日本人の別れの精神史を探究する。
[ 目次 ]
第1章 「さらば」「さようなら」という言葉の歴史
第2章 死の臨床と死生観
第3章 日本人の死生観における「今日」の生と「明日」の死
第4章 -
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ネタバレ「さようなら」は、もともとは「さようであるならば」という接続詞。
一人称の死は、死後自分はどこに行くのだろうという自己中心的な恐怖になるが、
二人称の死では、亡くなった大切なひとは自分の中にいることに気づく。この世の大切なひとがあの世になる。
死とは無になることではなく、自分が生きていた世界はそこにあり続けるけれど、自分はその世界とはお別れしていくということ。
死ぬことは何よりもかなしいことだけれど、そうならなければならないのなら、そのかなしみをしっかりとかなしむ先に安心がある。
「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら」 -
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ネタバレ-20090325
アメリカ人の女性飛行家A.リンドバーグを「これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない」と言わしめた別れの言葉-「さよなら」の持つ人間的な温かみと人知を超える厳しさ、そして生と死の「あわい」で揺れるその両義性‥。
心の際-こころのきわ -2009.04.13記
この「さよなら」が、「さようであるならば」か、はたまた「そうならなければならないならば」のいずれに偏るものか、その判別も下しかねるが、ただおのれ一身の「心の際」-器量のこととして受けとめずばなるまい。
いまはただ、本書の中で採られていた、浄土真宗の僧であった金子