本書は、昭和20年の敗戦直後から、朝鮮戦争特需で日本が息を吹き
返す昭和25年までの5年間の生活感覚を描いたものです。昭和10年
生まれで、当時ちょうど10歳~15歳の最も多感な時期を過ごした著
者自身の体験と、放送業界ならではの収集力を生かした資料をもと
に、「あの頃のこと」が思い起こされてゆきま
...続きを読むす。
最初に描かれるのは、盗みの話です。「日本人一億が総犯人だった
といってもいい」と著者は書きますが、とにかく盗みは普通のこと
だったそうです。ただし、〈盗む〉とは言わず〈取り換える〉とか
〈借りる〉という言葉を使う。「そうやって盗みの意識をごまかす
ことに皆が慣れていた」。そうしないと生きていけないのだから、
仕方がなかったのです。
このような〈誰も覚えていない〉もしくは〈意識して語られてこな
かった〉敗戦直後の生活感覚が次々に掘り起こされてゆきます。
食糧事情。買い出し列車を始めとした殺人的な電車・列車の状況。
〈間借り〉が普通だった住宅事情。闇市。インフレや預金封鎖。頻
発した災害。シベリヤ抑留。玉音放送。美空ひばり。野球。性。漢
字の変化。芸能。
知らないことばかりでした。実は、井上の父と母は著者と同世代の
昭和11年生まれなのですが、本書を読んで、両親のメンタリティの
底にあるものが初めて少しだけわかった気がしました。
もとより、それぞれの戦後があり、それぞれの復興があります。で
すから当然にひとくくりにはできません。でも、著者が書くように、
敗戦直後に通奏低音のように漂っていた〈不公平〉という感覚、盗
みや買い出しや間借りを通じて知った人間の醜い側面への不信感、
「ギブミー・チョコレート!」という自分に恥ずかしさを感じなが
らも憧れざるを得なかったアメリカへの屈折した感情。父親達もき
っと多かれ少なかれ同じ感覚を共有してきたのだと思います。
そして、それらは親から子へと、ある種の〈屈折〉として受け継が
れてきたのでしょう。少なくとも昭和10年前後の親を持つ世代まで
は…。結局、70年たっても戦後は終わっていない、ということなの
だと思います。
気になったのは敗戦後数年間は災害や事故が頻発したという事実で
した。「なにか天の処罰を受けているような気分が日本全土を覆っ
ていた」と著者は書きますが、敗戦前後だけでなく、これまでの歴
史を見ると社会の転換期にはどうも大きな災害が連続するようです。
となると、今回の震災にとどまらず、まだまだ日本には混乱が続く
と思っておいたほうがよさそうです。そして、今後の混乱期をいか
に生き抜くかを考える上でも、敗戦直後の時代感覚や人々の暮しの
あり方を検証しておくことは、意味のあることだと思うのです。
当時を体験した方々には思い出したくもない話が多いかもしれませ
ん。しかし、戦後の日本人や日本社会を決定づけたものがここには
あります。震災からの復興を考える上でも示唆に富みますので、是
非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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ぼくの周囲で、いろんな人が物を盗んでいた。子供のぼくは黙って
見ているだけだったけれども、その時その人々が言い訳のように言
っていた言葉、盗まれてがっかりしている人たちが発した言葉は、
よく覚えている。
もっとも間借りしている親戚の米びつから、母親が米をかすめ取っ
ている光景を見たときは、本当にこたえた。それでもぼくは「そん
なことするなよ」と止めなかった。生きてゆかねばならなかった。
来る日も来る日も同じ食事なのだ。腹がいっぱいになる、ならない
もあったが、こう単調では〈食べられない〉のだ。餓えていれば何
だって食べられる、毎日いもでもいい――そんなことはない。近代
の餓えは、贅沢でも何でもない、〈とても食べられない〉餓えとい
うのがあるのだ。このことがいまの人にはなかなかわかってもらえ
ない。
当時都市に住んでいた人間たちは、ほぼ定期的に〈買い出し〉に行
かねばならなかった。東京から一日18万人が買い出しに出たそうだ。
買い出しといっても買うのじゃなくて、〈物々交換〉、見慣れたわ
が家の衣類が消えてゆく〈タケノコ生活(タケノコのように一枚一
枚着ているものがなくなってゆく)〉。それも悲しかったが、買い
出しに連れて行かれるのは本当にイヤだった。農家の人たちは、ぼ
くはあえて書くのだが、これまで散々都会の人間に馬鹿にされてき
たのだから、うんとこらしめてやろうという悪意に満ちていた。
(…)あんなに侮辱しなくてもいいだろう、侮辱を我慢しなければ
何も分けてもらえなかった。
〈焦土〉、文字どおりこれだった。残された写真を見てもわかる。
見渡すかぎり何もない、黒々と焼け焦げだ土だけが目の前に広がっ
ていた。
ぼくは戦後日本の、特に終戦直後の日本の基調音となったものの重
要な一つは〈不公平〉という感覚だったと思う。この感覚が、戦後
の不安感、危機感、あるいはイライラ感や暴力衝動の根本にあった。
すべてそこから生じたのだ。
深刻なトラブルが生じるのは、家族ぐるみの間借りだった。(…)
追い出されるのだ。ほとんどの場合、同居させる家族とする家族と
の間に懐疑と憎悪が生じた。
間借り、が何をもたらしたか。人間不信と狂気だ。いくら話しても
そのことはわからないだろう。皆が語らなくなるのも無理はない。
これもやはり忘れられてゆく戦後なのだろうか。
このアメリカの放出物資が助かった。〈ララ物資〉である。
Licensed Agency for Relief in Asiaの頭文字をとったもの。アメ
リカの宗教・労働・教育団体が連合して食糧・衣料・薬品等を提供
してくれたのだ。(…)とにかく日本人がこんなに恩義を感じたも
のはない。そしておそらくアメリカ人への好感情を抱かせた最大の
成功例だったに違いない。
この大地震・大津波の連鎖の近世での記録は安政元年にある。(…)
地震はこの年から頻発し、ちょうど開国を要求して来航したペリー
の黒船に呼応するように、日本全土が震えつづけた。不思議にも横
浜・長崎を開港した安政6年になると地震はやむ。
こんなに歴史をさかのぼらなくてもいい。終戦をはさんで東南海地
震と南海地震が連続した。
敗戦後の数年間は「殺人電車・列車」の項で挙げた鉄道災害も含め
て、本当に災害の多い年だった。なにか天の処罰を受けているよう
な気分が日本全土を覆っていた記憶がある。
シベリヤ抑留の問題は、日本人同士がこうした醜い人間的側面をさ
らけ出したことにあるのだろう。そしてそれこそが、シベリヤ抑留
を我々に忘れさせている、拉致や抑留がこれほど問題になっている
昨今なのに、すこしもこの問題が〈国民の記憶〉に蘇ってこない要
因になっているのだろう。
ぼくはジープに乗った進駐軍の兵隊に「ギブミー・チョコレート!
ギブミー・チューインガム!」と叫んだ世代で、親に叱られるまで
もなく、その恥ずかしさはわかっていた。わかってはいたけれども、
アメリカのもたらした自由と豊かさはやはりあこがれだった。いわ
ば恥といっしょに民主主義を学んだようなものだ。
芸能の復興の速さは、敗戦日本の潜在的「力」の表れだった。
考えてみると〈幸せな疎開〉のことをすこしでも書いたのは初めて
だ。とても恥ずかしい感じがする。申し訳ない感じがする。
死んだ、死なないだけでも、まず不公平だ。戦争とそれに続く戦後
のことを思い出すたびに、最初に頭に浮かぶのは〈不公平〉という
言葉だ。戦死した者、生き延びた者。家を焼かれた人、家が焼け残
った人。闇で儲けた人、餓えに苦しんだ人。(…)
それは決して運の良かった人、悪かった人ではない。たまさかその
とき運の良さそうに見えた人も、その後長いこと〈生き延びた者の
罪悪感〉を味わうことになる。
おそらく日本人はこのSurvivor's Guiltの人一倍強い民族にちがいな
い。生き残った人間のこの罪悪感が靖国問題でもあり、戦後の歴史
認識の問題でもあるような気がしてならない。
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●[2]編集後記
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ブータンの国王夫妻が来日して話題になっていましたね。被災地を
訪れている状況や国会での演説を拝見しましたが、美しい佇まいは
もとより、静かに祈りを捧げるお二人の姿には心を打たれました。
仏教式の手を合わせるお祈りをするお二人を見ながら思ったのは、
こういう時、日本人は何に対して、どのように祈るのだろう、とい
うことでした。神式でも仏式でも、ましてやキリスト教式でないで
しょう。震災以後、〈祈り〉という言葉は多用されてきたように思
いますが、日本人にはそもそも皆で共有できる祈りの形がないんだ
な、ということに、今更ながらに気づいたのでした。
祈りの形を象徴してきたのは天皇なのかもしれません。しかし、天
皇の祈りは、今となってはほとんど見ることができません。天皇が
何に祈っているのかさえ、私達はよく知らないのです。
祈りの形がないということは、畏れや敬いや感謝や神秘の対象が定
かではないということです。自由と言えば自由ですが…。
「ブータンは龍の国。一人一人の心の中に龍がいる。龍を育てなさ
い」と福島の子供達に向かって話すブータン国王の姿を見ていて、
失ってしまったものの大きさを思ったのは私だけでしょうか。