室生犀星のレビュー一覧
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この金魚との会話、楽しんで書いたんだろうな、と想像してみる。
“あたい”の口調のテンポのよさに紛れてしまいそうだけれど、会ってもらえない幽霊の手首についた、腕時計をねじり取られた傷跡とか、身につけたハンドバッグの錆びついた留め金なんていう描写を目にすると、冷え冷えしたものを感じる。以前読んだ犀星の「後の日の童子」での、童子の残した足跡に群がるたくさんの“”うじうじ”した馬陸(ヤスデ)という描写もそうだった。
美しいものを愛した犀星らしいといえばらしいのだけれど、「火の魚」で折見とち子を評するにあたって、“美人ではないためのりこうさ”とか、“美人でないための穴埋め”とか、“美人であるなしをいう相手の批評”とか、くどいくらいに書いていて、笑える。
個人的には、頭もキレて、手も利く人というのは、もう無条件に尊敬してしまう。死の影を抱いて、いっそう凛として。
この5月に実父ががんで死んだこともあって、「われはうたえども・・・」はなかなかに身につまされる話だった。
86歳だったので、世間的に見れば、もう十分生きたでしょうと言われそうだけれど、昨年がんが見つかるまで持病一つない健康エリートだったので、もう十分なんて、本人はこれっぽちも思っていなかった。
同い年の義理の母も、ちょっと調子が悪いと、どこぞのがんかもしれない、と毎年恒例のように大騒ぎをして検査を受けている。そんな二人を見るにつけ、年をとればとるほど、生への執着は強くなるのかしら、と思っていたので、作中の、
“八十八歳であっても生きねばならないことに変りはなかろう。五十歳六十歳の小僧っ子から見たら、それだけ永く生きていたら沢山だというかも知れないが、八十八歳の人はまだまだ生きなければ損だと真面目に考えているのだ。生きることに限度はない、永く生きることは予測することの出来ない欲のふかさとも言えるだろう。”
との言葉に本当にそう、と思う。
最近の緩和ケア界隈では、スピリチュアル・ペインへの対応も忘れてはならない、というようなことも言われていて、それは確かに忘れてもらっては困ることだけれど、それだって、食う・寝る・出すの安寧が担保されてこそ、の話だな、とつくづく思う。 -
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「密のあわれ」のみ、院生の頃日本幻想文学集成で読んでたのですが、やっと残りを読みました。ので、感想編集。
きんぎょちゃんかわいいです。オジサンと女の子の組み合わせっていいよね。「火の魚」とかも読むと、作者にとって金魚はほんとに女性を象徴するものやったのか、と思ったけど後から「陶古の女人」読んで、なんだ、へんたいか、と考えを改めてしまっt…
背表紙でガン闘病記とかいうから「われはうたえども やぶれかぶれ」は結構構えてしまったんやけども面白かったぞ。思い付くままに流れるように文を繋いでいて、治療しかすることない入院中はそうやって思考が流れるんやろなあと、腰をこごめてウンウンしているおっさんを想像することができたよ。しかしガンの要素はどこに?
これ読みながら、頻尿気味のわたしは何度もトイレに行きましたがね! -
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赤い金魚が人間の女の子となって、老齢の男性と交流する話…
と聞いて、読んでみたい!と思い室生犀星初挑戦。
表題作はじめ全5篇の物語なのだけれども、
特に「蜜のあわれ」は期待を上回る作品。
室生犀星の理想の“女ひと”像の結晶ということらしいのだが、
全篇対話形式で描かれる二人(?)のやりとり及び関係は
とてもエロチック。
いや日本語で、色っぽい。あるいは艶っぽいとするべきか。
森見登美彦の「宵山万華鏡」でも金魚というモチーフ自体が、
妖しい少女として描かれていたように、
文学的に描写されるのは、メス=少女が似合う。
また金魚としての命の儚さと、老齢の男性が避けられぬ死。
エロスとタナトスと言ってしまっては在り来たりだけれども、
死の影がそこはかとなく漂うことで
より色っぽさ・艶っぽさが濃くなっているよう。
幽霊も登場することだし。
他の作品に関しては、読んでみると面白いのだけれども、
なにより文体や言葉遣いなどが今とは違っていることが
原因か、読むのにとても時間がかかってしまった。
日本文学の明治・大正・昭和初期の作家にももっと触れていきたい。 -
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浦野所有。
◆以下、ネタバレ注意◆
作者の室生犀星が詩人であるという先入観のためか、全体的に詩的な雰囲気のただよう作品でした。詩というにはあまりにも長い、父娘ふたりの数十年の歩みをつづっているわけですけど、ほとんど直観的に筆を走らせ切ったのではないか? と思ってしまうほどストレートで、よどみなく、流麗な筆致でした。
また、抽象的な心理描写が多いことも特徴といえるでしょう。父と娘の会話も、核心のところまでは言葉に表さないですし、会話以外の部分(全体は三人称形式なのですが)でも、あまりにも細かすぎる心理描写はでてきません。それゆえ、父――平山平四郎――や、娘――杏子――ら、登場人物の表情や息づかいが、読者の頭のなかで容易に思い描くことができるのです。現代小説にありがちな、あまりにも細かすぎる、ありがた迷惑的な描写はありません。実に快く読み進められる作品でした。
ところでストーリーに関していえば、この作品は悲劇なのでしょうか。
平四郎は杏子を日本一の娘に育てあげようとしながらも、結局は平平凡凡な女にしかならず、その杏子も結婚後の生活は泥沼で、たった4年で離婚してしまいます。物語の前半から中盤にかけて、杏子の存在は、平四郎にとっての宇宙のすべてであるかのように語られます。ところが物語の後半になると、今度は平四郎が、杏子にとっての全宇宙になっているのです。
好意的にみるとこの父娘は、互いによき理解者であり、幸福そうに思えます。けれども冷静に見れば、お互い、自分の存在価値を認めてくれる肉親がいることに安心しきってしまい、自分の世界にひきこもっているだけといえなくもないような気がします。
人の一生など、思いどおりに行かないものです。夢も希望も、いつの間にか現実の前に消えてなくなり、いまの暮らしに妥協するともなく、漫然と毎日が過ぎてゆく……。まさにいまの私がそういった状況であるので、『杏っ子』の作品世界には共感できると同時に、社会を生きることの虚しささえも感じてしまうのです。
物語は全部で600ページ以上。実に起伏に富み、平四郎の出生にはじまり、苦悩に満ちた少年時代、結婚、杏子の誕生、東京大森の新居住まい、軽井沢での疎開生活、杏子の結婚と、核となる出来事が見事に連ねられています。杏子の夫・亮吉のくすぶりっぷりはあまりにも惨めですが、そもそもこの話は実話なのでしょうか?
まあ、その辺のことはさておき、これほど読みごたえがある作品は久しぶりでした。「10年前に読んでおけばよかった」と思うと同時に、「何年後かに読みなおせば、きっと違った感想をもてるに違いない」と確信できる、貴重で崇高な作品だと思います。 -
Posted by ブクログ
少し前に、ヨナキウサギさんに『陶古の女人』を教えていただいて探していた。
見つけたのが、そちらを含めて『蜜のあわれ(「後記 炎の金魚」を含む)』『火の魚』『われはうたえども やぶれかぶれ』『老いたるえびのうた』の5作、解説・作家案内・著書目録が収録されたこの1冊。
『陶古の女人』もおもしろかったのだけれど(でも私はきっと一生、こんな風に物に耽溺することはないなぁ、よかれ悪しかれ)、『蜜のあわれ』が思わぬ拾い物だった(本当ならば刊行時のように『蜜のあはれ』の方がしっくりくる気がするのだが。新仮名にしないとならないのかなぁ)。
表紙の金魚の魚拓が見たかったなぁ。巻末の解説に表紙写真が付されているのでそれを眺めてちょっと見た気分に(笑)。
続く『火の魚』はその魚拓作成を巡るお話。
『われはうたえども やぶれかぶれ』は癌の闘病記。壮絶といえば壮絶だが、どこかかなしいおかしさがある。凄みのある明るさとでも言おうか。
『老いたるえびのうた』が絶筆であった。
巻末の詳しい解説で犀星の来し方を垣間見ることができた。金沢の人ということは、犀星の犀は犀川の犀なのだろうか。私は大して多くを読んではいないけれど、小説であれ随筆であれ、どれも基本的には詩人が書いたものという感じがする。老後がさほど遠くない、しかしそれほど間近でもない自分。老いの暮らしって、漠然と思っていたよりも色彩に満ちたものになりえるかもしれない、と読後にふと思ったりした。
*『密のあはれ』の魚拓を取った折見とち子=栃折久美子さん。著作の『モロッコ革の本』は確か、高校の国語の教科書に一部、採られていたはず。よく覚えていないけれど、好きな文章だった気がするので、今度読んでみよう。 -
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テレビ朝日系では、2026年10月より土曜午後10時にドラマ枠「サタデードラマ10」を新設。その第1作として、榮倉奈々と赤楚衛二がダブル主演を務める「あにいもうと」(土曜午後10:00)が放送されることが分かった。
室生犀星“初の小説”を含む自伝的作品集。
婚外子として生まれ、生後間もなく養子に出された〈私〉。いつもやさしい義姉を除いて、周囲に理解してくれる人はおらず、小学校では喧嘩を繰り返して先生からも目をつけられていた。
そんななか、実の父親が亡くなり、母が行方不明になってしまう。ますます自棄になって乱暴を繰り返していた〈私〉は、川のなかでその後の人生を変えるあるものを見つける。それは、苔むした地蔵だった――。
自伝的色彩の濃い、著者初の小説「幼年時代」をはじめ、「性に目覚める頃」「或る少女の死まで」を加えた“幼年時代三部作”を中心に、繰り返し映画やテレビドラマになった「あにいもうと」を加えた全4篇を収録。 -
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萩原朔太郎、室生犀星いずれも昭和前半期のビッグネームだが、これほどまでに深い友情で結ばれていたとは知らなかった。詩はほとんど読まないので、室生犀星が詩人として出発したことすら知らなかったし、『抒情小曲集』としてまとめられる詩を読んで朔太郎が感動し、ファンレター的な手紙を出して交わりを求めたことなど、本書で初めて知った。
本書では、犀星との交流や犀星論を語る朔太郎の文章と、犀星が朔太郎との交流や朔太郎の性格などについて語った文章、それぞれの詩集に寄せた序文などが収録されているが、お互いの性格が文章から窺われるところが読み比べていて愉しい。殊に朔太郎の犀星に寄せる文章が実に熱いのに対して、犀星の朔太郎に関する文章が比較的冷静なところが対照的で、ちょっとおかしかった。
ちなみにタイトルの「二魂一体の友」というのは、犀星が1954年に発表した「萩原に与えたる詩」から取ったもの。
君だけは知つてくれる/ほんとの私の愛と芸術を/求めて得られないシンセリティを知つてくれる/君のいふように二魂一体だ/君の苦しんでゐるものは/又私にも分たれる/私の苦しみをも/又君に分たれる
今の時代がどんななのかは知らないが、文学者の間にこれほどまでに濃密な交わりがあり、切磋琢磨しつつ火花を散らしていたことに感心した。
巻末にそれぞの娘である萩原洋子と室生朝子の対談があり、子どもから見た父親の姿が垣間見えるのも面白い。 -
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室生犀星文学忌、犀星忌。
1918年の作品
小景異情 その2
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
この作品は、高校のたしか2年の現代国語の授業で扱われた。そして当時から詩は苦手という意識と たぶん教師にもそれを見抜かれていた事実。
まず、この詩は何処で読まれたかという問いに早々に一番に当てられた。
当然、あほ丸出しで「みやこ?」と答え、その後の授業は集中的な指導をいただき散々なものになった。
そうです、彼は故郷金沢で読んだ故郷との訣別の詩なのです。当時は、今のような情報はなく、国語便覧あたりが重要情報源。養子先の孤独な幼児期だの妾の子だの知り得るのはハードルが高かったのです。
しかしね、今再び読んでみれば、それでも故郷に受け入れて欲しかったという悲しい詩ではないのかと思ったりするわけなのです。
げみさんが 哀愁を含む色合いで美しい故郷を描いちゃうから、わかんなくなってしまうのです。
それと 五七調になっているのを初めて気がつきました。