田中美知太郎のレビュー一覧
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田中美知太郎は昭和を代表する西洋古典研究の碩学である。『古代哲学史』は多くの人によって書かれており、加藤信朗や納富信留の『ギリシア哲学史』はそれぞれに、その思想家たちのエッセンスと思想史の全体像とを示してくれるものである。しかし田中美知太郎による『古代哲学史』は著者の他の著作がそうであるように異彩を放っている。國分功一郎の解説も話題を呼んだ本書は一冊の本として、入門でありかつ到達点たるべき深層を読者に提示するものである。
本書は一見、様々な媒体に書かれた文章を一つにまとめただけのものに思われてしまうかもしれない。それに、本書の大半を成す「古代哲学 二」は著者が執筆したある時点までの文献案内で、もう古いものではないかといぶかる読者もいるかもしれない。しかし、じっくり読み進めていくと緊密に構成された論考ではないにもかかわらず、古代哲学の根源的なものを様々に照らし出す一冊であることに気づくはずである。
本書の冒頭を飾る「西洋古代哲学史」は古代哲学の根源的発想に立ち返りながら古代哲学史を概観していくものであるが、論考の最後にかけてプラトンのイデア論が余人を以っては為し得ない仕方で取り押さえられていく。その過程で晩年の主著である大著『プラトン』の参照箇所が示されており、同時に『プラトン』案内であることに気が付かされる。次の「古代アトム論の成立」は生き生きとした軽妙な語りかけで読者を古代哲学の深部へと案内する珠玉の講演録である。次の「古代哲学 一」はまさに「古代哲学ことはじめ」といった内容で、そもそも私たちが古代ギリシア文化に総体としてどのように向き合うべきかを問いかけるものである。そしてその後に控えている100頁にわたる「古代哲学 二」は、古典文献に向き合う心構えと読み方を丁寧に示した文献案内である。もちろん情報は古くなる。しかし著者が随所で嘆いているように安心して紹介できる書物が少なかった状況下で著者が読み解いてきた研究の数々を惜しげもなく紹介していること自体に特別な意味があるのではないだろうか。印象的なのはやはり、ディールス・クランツの絶対的位置づけとバーネットの『初期ギリシア哲学』の重要性である。これは時代が変わろうとも変わることのないものであることが改めて伝わってくる。ただ、心躍らせながら読み進めていくと、プラトンのみでその文献案内が終わってしまっているのが何とも残念ではある。是非ともアリストテレスまで読みたかったものだが、かえってそれで十分であるという著者の判断があったのかもしれない。そして最後を飾るのは「ヘラクレイトスの言葉」である。この文章は文献読解演習の実践の観を呈している。示された訳とコメントを通して読者は古典文献を読み解くことの醍醐味に触れることができるであろう。
本書に付された國分功一郎による解説は本文の紹介は省き、むしろ田中美知太郎の文体と基本的なスタンスに注目している。「ねばならない」を多用した西田幾多郎を引き合いに出しながら、田中美知太郎の「のである」が多用されていることを指摘する。そして、田中美知太郎のプラトン読解はソクラテスの死を根本に据えてではなく、むしろ大著『プラトン』をシケリア行きから書き起こすその政治的関心へと読者の注意を向ける。解説において指摘されているどことないアリストテレスへの距離感はむしろ、私たちがともすれば抱いてしまうアリストテレスの出来上がった体系に揺さぶりをかけるプラトンの言葉を照らし出すものなのではないだろうか。田中美知太郎の文章は常に、初歩的な問題が根本なのであり、読解の深部に見いだされるものを掴むことが入口なのだということを繰り返し思い出させる。本書の大半が、終戦直後に物資を欠いていた状況下で読まれたであろうものであるにもかかわらず、豊かさがここにはある。変わるものの中に変わらないものを見出すこと、それが今なお私たちに問われているのではないだろうか。 -
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私たちは戦争の時代を生きているのかもしれない。いま私たちの生活が直接に脅かされるという現実を目の当たりにしていなくとも、いつこの生活がなくなるとも知れないことを、各地で起こっている戦争の出来事を通してふと思わされるのである。田中美知太郎のエッセイ集『戦争と平和』を読んでいてその感をますます強くした。この本は昭和の保守の論客として知られていた田中美知太郎の姿を垣間見させてくれる一冊である。田中美知太郎の文章はエッセイであれ、講演であれ、古典研究であれ、読者をはっとさせる哲学的洞察に満ちている。本書もまた、時事的な内容を掘り下げていきながら、読者の思考を揺さぶる一冊である。
本書には、こんな一節がある。「戦前においては、ぜいたくな積極的意味の国防問題はあったけれども、今日のわれわれが当面しているような安全保障の問題はなかったと言っていいだろう」(本書336頁)。この言葉に突然、はっとさせられた。というのも「ぜいたくな」という形容詞が付いていたからである。平和の実現についての省察を積み重ねていく文脈で語られたこの一言は、私たちが過ごす日々がいかなるものに基づいているのかを考えさせるものである。これを田中美知太郎は、ある種のまとめとして書き記しているのであり、どういう意味であるかは説明していない。しかしこの文章は読者に問いかけを残し、それまでに著者の記した言葉の意味を改めて考えたり、あるいは読者自らの現実と照らし合わせて考えさせることを促す一節なのである。歴史認識をめぐって実(じつ)のない言葉のやり取りが現在も繰り返されているように思われる。しかし言葉をどのように受け止めるべきか、そのことを考えさせてくれる本書は、実のある言葉のやり取りを求める人に確かな手応えを与えてくれるものである。
本書には、終戦直前の折に発表中止となった原稿が幾つか含まれている。田中美知太郎のこれらの文章が発表されなかったことの意味を考えさせられる。それはあるいはソクラテスのことを何としても守ろうとしたクリトン、あるいはプラトンのことを思い出させるかもしれない。本書に採録された、そのような文章の一つ「ソクラテスの場合」は愛国心をめぐるものであるが、これ以上にない仕方でクリトンの根本問題を闡明し、プラトンが対話篇で自らの言葉に託した政治的理想を思わせるものである。戦時にあってソクラテスその人も、不正に加担しないがために当時の民主政権に異を唱えて自らの命を危険に晒し、そのことを次の寡頭政権において追及されたが、その政権の崩壊という時のいたずらによって生き延びた(プラトン「ソクラテスの弁明」32e参照)。田中美知太郎の著作もまた、この時にこの書き手の命が途絶えていたなら私たちは今とは全く違った世界を生きていたことであろう。時代の空気を纏いながらも直截に事柄の根本を問い詰めていくその言葉はその人が希代の哲学者であることをありありと示しているのである。 -
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ソクラテス=無知の知 ぐらいの知識で読み始めたけど無知の知が生まれた壮絶な背景に胸を打たれた。
政治家になっていい暮らしがしたい、際限なく欲を満たしたい、と言う動機で弁論術を学ぶ事が流行するが、弁論術ってただのおべっか人気取り術じゃん、偉い人の機嫌を取ることと市民の票を獲得する事だけが目的になってるじゃん。
私たちが一番知識があって国をいい方向に運べますって顔してるだけで、実力や矜持は一切伴ってないじゃん。
というソクラテスの指摘がアテナイ全体に刺さりすぎたせいでソクラテスの存在は権力者達から疎まれるようになっていく。
作中でゴルギアスのアテナイでは知っているという事よりも知っていると周りに思われる事の方が重要だという言説が当時の雰囲気を物語っているし現代でも通ずるなと感じた。
一冊も本を書いていないソクラテスに変わって思想を紡いだプラトンとそれを現代まで伝えた訳者に感謝したい。 -
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この政治・哲学論集には、「サルディス陥落」(1941年)や「ソクラテスの場合」(1942年)、「公共体国家としてのポリス」(1942年)が収録されている。いずれも諸々の理由で発表中止となっている。そして終戦を挟む形で、「自由と独立」(1947年)、「理想国家について」(1946年)、「自主性の問題」(1946年)、「今日の政治的関心」(1947年)の発表へと続く。
私がある意味感動したのは、田中美知太郎の論調が、戦前と戦後とでまったく変わっていないことだ。つまり、戦後教育を受けた私たちは、戦時中の言論がいかに抑圧されていたであるとか、戦後の論壇がいかに転向者であふれ返っていたかとかについて、伝聞で知り得ている。しかし田中の論文は、発表年を隠してしまえば、それが戦前のものなのか戦後なのかが区別できない。そこまで一本の筋の通った研究者があの混乱した時代にも存在したという事実を知っただけで私の背筋は伸びる。
自称愛国者の歴史修正主義者や、自分の思想を他人に押しつけて正義を気取る“癌細胞”たちよ。次に掲げる田中の文章を精読してみるがいい。
(59ページ)本当のところ、厳密な史学の方法のみが、今日の歴史的現実が何であるかを私たちに教えてくれるのである。そしてこのいろいろな報告を批判的に取り扱う方法というのは、何よりもまず為政者に必要なのである。近代史学の教養なくしては、どんな情報を集めても、これを本当に処理することはできないであろう。その結果は状況判断を誤り、国政を危うくするようなことにもなるからである。一般にわが国の教養のうちには、いろいろな報道を吟味し、批判する教育が欠けていはしないであろうか。(「サルディス陥落」より。『倫理学』1941年12月12日、発表中止)
(76ページ)『クリトン』において見られたように、ソクラテスは死の危険においても、私の利害を国家的利害のごとくに錯覚することはしなかった。私利私欲と知って、これを追求する人間はまだ救われる。それを国家のためであると信じ込む人間は、国の災であり、呪いである。このことを区別するためには、私たちはソクラテスと共に自己批判を厳にしなければならぬ。国を愛するということは、かくて容易とも見えるが、また容易ならぬことでもあると知られる。(「ソクラテスの場合-愛国心について」より。『学生叢書』1942年3月、発表中止)
(78ページ)古今東西の歴史には、互いに相似したところもあり、また無論いろいろ異なるところもある。私たちの歴史的感覚は、同じと見えるものの中に異なりを発見し、異なると思われるものの間にも同一性を見出す。いわゆるわが国独特などと称する主張のうちには、東西の歴史や土俗を知らぬ無智の言論が少なくない。これと同じく、二三の類似点を捉えて、特定の国、特定の時代の歴史から、現代の歴史を類推したりするのも危険なことである。(「公共体国家としてのポリス」より。『中央公論』1942年9月23日、発表中止)
(78ページ)いわゆる歴史的教訓というものは、厳正な批判によって、何よりもまず歪められない歴史的事実に立脚し、それの特殊な条件や制約を明らかにした後に、これを学ぶべきであって、我田引水、自己の主張に都合のよいような教訓のみを引き出すのでは、私たちは幾度歴史をかえりみても、本当には何も学ばないことになるであろう。(同)
私が思うに、田中の文章は例えるならばラヴェルのボレロだ。はじめのうちは日本から遠く離れた古代ギリシアの事例引用などもあって、文意を追うので精一杯。しかし田中の一貫した歴史精神や哲学への造詣が、まるで波が押し寄せるように繰り返されていく。そして私の引用でわかるとおり、ボレロのフィナーレのように、時代や世論に決して流されない確固たる田中の至言がフォルテッシモで現われるのである。
それでもこの本を冒頭から少し読んだものの難渋さを感じた人は、先に巻末の解説を読めばいい。大阪大学名誉教授の猪木武徳先生による「真理は静かに語られる」という、田中の論調をこれ以上的確に言い表せられないというくらい的を射たタイトルの解説が、理解を助けてくれる。 -
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初期プラトンまとめ読みの3番目。で、一応、文庫本で読めるのはこの程度だと思うので、最後のはず。
「弁明」と「クリトーン」は相当昔に読んだものの再読。「パイドーン」は初めて。
この3作で、ソクラテスの裁判から獄中、死刑執行までを一気に読める。
おそらくは「弁明」は、多くの人が最初に読むプラトンであろう。ここに描かれるのは、自分の魂の声に忠実に生きた勇気の人ソクラテスである。多くの人は、その姿に感動するとともに、なぜ、こんな人を死刑にしてしまうのか、と政治の不条理に憤りを覚えるに違いない。
が、「プロタゴラス」「ゴルギアス」を先に読んで、この「弁明」に到達した私には、なんとなくソクラテスが死刑になってしまった理由が分かるような気する。
つまり、これらの対ソフィスト論争の本を読むと、世間の人々がソクラテスを憎んでただろうことが実感できるのだ。
そういうわけで、ソクラテスにやり込められた側から、この「弁明」を読むとどう聞こえるだろうか、という読み方を図らずもしてしまった。
そうすると、ソクラテスが何言っても聞く耳を持たないという心理状態が手に取るように分かる。
ソクラテスは、魂の高貴な人間なのだが、同時代にあっては、その対話によって、理解よりも、多くの憎しみを生んでしまったのだ。
となると、ソクラテス的対話の有効性が問題になってくる。
コミュニケーション技術として、対話篇を読むときに、ソクラテスのやり方は、共感している人に対しては、良いのだが、反感を持っている人に対しては、屁理屈というか、詭弁以外の何ものでないことがわかる。これでは、相手をやり込める事はできても、共感は得られない。
と、「弁明」「クリトーン」をコミュニケーションの悲劇として読んでみた。
「パイドーン」は、物語としては、「弁明」「クリトーン」と連続しているのだが、作品としては、中期プラトンに属するもので、プラトン独自の思想がかなり入ってきている。
私は、プラトンのイデア論、魂論は、あまり好きでないので、その辺に議論が行くと、「またかー」みたいな感じがしてしまう。が、ソクラテスの魂の不滅論に対して、弟子が、疑問を投げかけるあたりから、一瞬、「おっと」面白くなる。でも、最後は、やっぱり、いつものあの世での最後の審判の話になってしまう。
感動的なのは、ソクラテスが、魂の不滅論を「証明」したあとで、「死ぬ前に自分と皆を元気づけるためにこうしたことを言ってみたのだ」といったことをを述べるところ。
そして、最後に言い残す事としては、「特段ない。いつも言っている事だ。皆、自分を大切にしてくれ」
毒薬を飲んだ後の本当の最後の言葉は、「クリトーン、アスクレーピオスに鶏を長添えしなければならない。忘れないで供えてくれ」
この辺の言葉には、すごくリアリティを感じる。きっと、ほんとうにそんな調子だったんだろう。
誰かの最期を描いた物語としては、ブッダの「最後の旅」に匹敵する。 -
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今となってはソクラテスの論理は詭弁に思われるところも多いし、弟子たちはソクラテスの論理に全く反論しない割にはその言っているところをあまり理解してはおらず、もやもやする部分もあるけれど、純粋に論理だけで世界を理解するという点において、興味深かった。
そして、ソクラテスはなぜ死ななければならなかったのか、ということについて考えた。
何がソクラテスを殺したのか。
それはソクラテス自身が言っているように、中傷や嫉妬である。人は誰しも、安易な方向に流れたいとか、これくらいの悪いことなら許されるだろうとか、やましい部分をつつかれたくないとか、そういうことを思って生きているものだ。そういう気持ちが、正義や真理を説く者を敬遠し、あわよくば、と死に追いやる。自ら手を下すという方法ではなく、大衆の意志として。自分が殺したのではなく、誰かが殺したのだ、と。
その傲慢さ、不誠実さが人間であり、それはソクラテスの生きた時代から遠く隔たった現代においても変わらない。たくさんの知識を身に付けても、人間の本質は変わることがない。 -
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ネタバレ第一章のタイトル「何をどこまで知ることができるか」は、歴史的な事項を扱う上では基本的な視点である。あたかも何もかもしっているかのように著述することもできるし、断片的な事象を羅列して、推論を展開することもできる。最初に、どの程度の情報のばらつきがあるかを示しておくことは、読者に対して真摯な態度だと思う。
アテナイとスパルタのの戦争であるペロポンネソス戦争の時代のことで、紀元前404年アテナイの無条件降伏で終わったことと、ソクラテスとの関係を、この本で読むまで知らなかった。「スパルタ」は、今では日本語で教育の仕方の名称になっている単語だ。
最初と最後の章を読んだだけでも、ソクラテスが歴史の中で、生き生きとよみがえってくるような気がする。 -
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哲学に生き、死んだ人。哲学・思想と行為を一致させた人。自らの命を度外視して正しさを主張した。
哲学の基本書。プラトンの著作はたいてい対話形式で書かれているが、この著作に限っては、途中メレトスとのやりとりがあるものの、主としてソクラテスの一方的な独白形式で話が進む稀な作品。確かに弁明という性質上、形式的には必然かもしれないが、ソクラテス自身が聞き惚れそうになったと言うほどの (流されないようにと陪審員へ注意を促すのが真意だろうが)メレトス側の弁論が一切書かれていないのは、双方の主張を取り上げて吟味するプラトンの一連の作品からすると読者にとってあまりに一方的で異例な事のように思われる。例えば饗宴においてソクラテス以外の人々がエロースに関して延々と自説を述べたように、ソクラテスに関係ないから割愛するということはありえないわけだし。『ソクラテスの弁明』は「ソクラテスの」ということがまず面白い。
無知の知を語るようになった経緯、当時のソクラテスがアテナイにおいてどういう扱いであったのか、また彼自身がどうやって生きてきたのかを知ることが出来る。社会的・処世的・通俗的正しさではなく、論理的に、正しさにおいて正しい選択をする、自己の哲学に生きた哲学者の滑稽とも不器用とも勇敢ともとれる最後を目撃することができる。政治的謀略において告訴されたこの裁判でも、彼はついぞ自身を曲げることなく、避けることのできた死刑が確定する。これは生き様です。 -
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ネタバレ文章が読みにくいなと感じたけどそれは私の理解力が足りてないんだなと思った。
でもそれでもいいと思いながらとにかく読み進めた。
自分の中にたくさんのフックをつくる。
完全に自分の中に落とし込めなくてもいい。
簡単に答えが出るものよりも、時間がかかるものの方が深く心に残る。
この本も何度も同じ文章をよみ、頭の中で繰り返すところがあった。
とにかく自分の中で咀嚼する。
完全に理解できていないけど、それでも、その咀嚼した時間こそが大切なんだと思う。
本を読み、そのままそれが「答え」だと思って受け入れるより、
一旦自分の中で咀嚼したほうが心に残っていたりする。
この本も、そんな感じなんだろうな。
自分の中にたくさん作ったフック。それらに引っかかる瞬間がこの先もある。
今はわからなくても「あの時のあれはこういうことだったのかもしれないな!」と思う瞬間がいつか訪れる。それもまた楽しい。
ソクラテス。
すごい人だったんだな。
常に「本当に?」と問い続け、「いかに生きるか」を考え続けた人なんだな。
本当の厳しさの奥には「愛」がある。
納得のいく「死」のために今を一生懸命に生きる。
精進します。
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プラトンということで。
「知る」ということがどういうことなのかを巡って数学者とソクラテスが考える。知るということがどういうことなのか、考えてみたくて読んでみることに。
プラトンのいわゆる主要な対話篇と異なり、その思想体系を突き詰めた対話篇では決してない。しかし、それはひとえに、「知る」ということを考え続けていたからに他ならない。「知る」という行為が純粋に実践であると同時に、きわめて形而上学的な事態である。たぶん書いていたプラトンそのひともかなり難航したに違いない。
人間は流転すると言えば流転しているし、止まっていると言えば止まっている。ただのことばなのである。そんな風に存在はできてしまっている。なんとまあ不可思議な存在であるか。おそらく、あえて対話テーマを絞らないで、プラトンは考えてみたかったのだろう。風呂敷を拡げ考えては立ち止まり、別の風呂敷を拡げてはまた考え、どこか煮え切らない感じに対話が進んでいく。
プロタゴラスの原則は、万物の尺度は人間であるということである。ソクラテスはほんとうのことが知りたいから、はたしてすべての尺度であるのか考える。たしかに、痛みをはじめとする感覚というものをひとは誰かと共有することはできない。感覚とはどこまでも個人的なものだ。だが、その個人的な現象である感覚を、ひとはどういうわけか知っている。なぜだかことばにしたり、それでひとと話すことができる。真に個人的なものであるなら、どうして語ることができるのか。ここに、万物の尺度たる人間という原則がゆらぐ。あくまでプロタゴラスの原則は感覚に関することであって、知ることに関しては別なのである。感覚することと知ることは別の事態なのである。
では、「正しく考えた」ことが「知る」ことになるのか。そして、「知識」とは「正しく考えた結果として言語化されたもの」なのか。所有と所持の考え方を用いているが、時間的に考えれば、「知る」という行為自体どこまでも現在の行為であって、「正しさ・誤り」というのは知った後のことなのだ。知るということが先行しない限り、正しさどうこうも起こりようがないはずだ。
カントはこういうことをどこまでも概念の操作で詰めようとしていった。ソクラテスという男は学者でもなんでもないから、そんな頭の痛いことはしない。どこまでもこの生きている存在から連続した事態として考えていく。臨床哲学とかいう謎の学問を掲げるひともいるが、学問自体が生きている不思議から生じていなければ一体なんだというのか。産婆術とは、未知なる存在に対する探究心のことだ。知りたいから対話する。知らないから対話できる。 -
Posted by ブクログ
もう二度とレジメにしたくないですねー笑
話が結構込み入っていてややこしい。
知識とは何かを問いながら、「~ではない」というかたちで反駁していく(結局こたえはみつからないのだけれど)。
ヘラクレイトスやプロタゴラスの言葉ーー「万物は流転する」「人それぞれ」ーーというかたちの相対主義をいかに乗り越え、共通のものとして知を立てることができるのか、ということがプラトンの課題。
あまりここでは「イデア」という発想が全面にはでてこないので、そのぶんだけややこしいのかもしれない。
そしてもうひとつのモチーフは、《産婆術》。
ソクラテスは、相手を窮地に陥れバカにするのだ、
という批判に応えるために、
ソクラテスは、若い男の子がみずから孕んだ概念のお産を助けてやるのだ、
というのを実践的に見せている。
確かに、こう言えばうまくいくんじゃない?とフォローしながら若い子と話していくのは楽しい。
うんうん唸りながら最後に「ああ、そうか!」という笑顔を見るのは好きです。 -
Posted by ブクログ
よく耳にする本で、一度は読んでみたいなぁと思っていた本です。ようやく読めました。
ソクラテスの弁明とクリトーンとパイドーンの3作品がおさめられています。
クリトーンもパイドーンも人名。
内容的には、ソクラテスが裁判での弁明、入獄中の会話、ソクラテス最後の時の会話がそれぞれにあたります。
けっこう印象としてはまわりくどく理論が展開され、数学の証明的な思考で主に生命と正義に関して話がされています。
小林秀雄の「考えるヒント」を読んでいるような感覚に陥りました;
ギリシャ時代の本が今に伝えられていることもすごいですが、善に関する思考が現代と変わらず論じられていることに少し驚いた感じです。