Posted by ブクログ
2021年05月27日
死体を観測する人がいて、死体の運行を克明に跡づけられたら、それは死文学になるのか。いやさ、死文学では死人が書いた小説になってしまうのか。人文学はだから人体観測を基礎に行うもので、純文学は純体観測を旨とする。
では純体は右向きか左向きかと問うてしまうと、それはオリオン座が右向いたか左向いたか話して...続きを読むいるこの短編の僕とリオみたいになってしまうだろう。つまり、ということはつまらなくはないということだが、つまり、この短編というのは「内在天文学」というのであって、「内在死文学」ではないのだ。内在死に関する文学ではなく、認知的ニッチに関する文学らしいが、宇宙の果てのレストランでは、ほれ、あのアダムズではないか。ワープ鴨の宇宙クラゲ包み火星樹の葉添え異星人ソースを前にして「イグノラムス・イグノラビムス」はもう次の短編だ。
でもワープ鴨が素晴らしく美味いのは話の導入に過ぎず、主人公である宇宙食材の調達業者である「私」がセンチマーニと呼ぶ、ヘプタポッドのような異星人の話は離して、「シャッフル航法」についての予見を述べたい。
そんな航法では頭とお尻の順番が滅茶苦茶になって到着してしまうだろう。確かに、なにが、まったくわからないではないかと、困った、とうやって、きっと、自分自身の体が、それでは、どこに、到着するのか、できなくなるからだ、どうなってしまうのか、そんな心配を覚えることも。バリバリバリバリ、ガンガンガンガン、やめときな、そんな航法。はーい、「φ」。
段落が世界で
その世界が
縮んでく
それで
みな
φ
「つじつま」では息子が産まれない。産まれないまま成長する。成長して色々する。
「犀が歩く」、喫茶店の店員と客と星図といない犀の漫然とした日常。
僕と彼女と千年後と論理階層をかじる海狸、「Beaver Weaver」。
「俺だったら、台詞ではじまるような話は書かない」という台詞ではじまる話、「(Atlas)3」。
テキスト・ベースのシミュレーションと人生がほぼ一緒、「栗鼠を実装する」。
この円城塔という小説家は勝手に円城塔を名乗って、円城塔のふりをして、円城等名義の小説を書き、それを勝手に円城塔作品として売ってしまっているということが、いまわかった。「Printable」。