Posted by ブクログ
2010年08月29日
フランス革命期に生きたサドには誤解があるようだ~サド家は麻と布の商人で豊かになり,13世紀に伯爵位を授けられ祖父の代にアヴィニョンで侯爵となったが,爵位継承の費用が嵩み,1763年10月妊娠している淫売を相手に金貨2枚で肛門性交を望み聖体を汚したが,むちを使えなかったため金貨1枚に値切って告発された...続きを読むが,新婚間もない義母の根回しにより15日の拘留で済んだ。1768年4月復活祭の日,パリ郊外のアルクイユで鞭打ちでなければ刺激を感じないサドは鞭を打つたびに軟膏を塗ってやるが,逃げ出して訴え,2400リーブルで示談となった。1772年6月年貢の手形を換金しよとマルセイユに出たサドと下男は,女三人を呼んでその立場を入れ替えて,鞭打ち・肛門性交・男色を試み,ボンボンに毒薬を仕込んだと訴えられ,逃亡中の1774年11月,15歳前後の少年一人少女五人を雇い,乱交を繰り広げた。その中に妻も加わっていたが,相手が女体陵辱と解剖に明け暮れているという噂のサドだと知った親が騒ぎ出し,義妹との果てに逮捕され,11年を牢獄生活を送った。革命により解放された後も,精神病院に押し込められ,執筆に専念する。理事長はこのままの状態を続けさせたいが,院長は牢獄へ送りたい,サド自身は趣味嗜好の問題でキリスト教的な倫理に疑いを持っているだけだと主張する~サドは只の変態か,犯罪者か,精神病患者か。今なら金持ちの只の変態で経験したことしか描けない二流の作家という処だ。すべての行為が合意の下だというが,18世紀の常識で考えると社会的に許さる線引きを越えている罪深い行いとなり,脅すには適当な相手ということになる。鞭打ち・男色・肛門性交は今も世界共通の後ろ暗い行為となっているだろう