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どうやら、十年以上経って話題になっているらしい。じぶんで言うのもおかしいですが、読んだ方によれば「いまの時代が予見されている」そうです。「ぜんぶ、ここに書いてるじゃないか」なんていう声もいただきました。――糸井重里。本書は、発刊から十年を経て、「まるで、予言の書!」と再評価の声が高まっている名著に、書き下ろしの「続・インターネット的」を加筆。もとは、『ほぼ日刊イトイ新聞』を始めた当時の著者が、インターネット登場後の世界について考察したものだが、読む者は、ここ十年間に起きた変化の本質を、十年前のこの本によって知ることになるだろう。また本書で綴られる言葉は、パソコンすらいらない、「消費者」なんていない、自分を他人にするゲーム、寝返り理論、消費のクリエイティブ、妥協の素晴らしさ……など、普遍的価値を持つ。糸井重里の予言的、そして普遍的なメッセージが詰まった一冊である。
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Posted by ブクログ
『We are lonely but not alone』で紹介されていたので、読んでみた。
1度読んだだけでは理解できなかったので、もう一度読み返している途中。
「インターネット的」とは、「自動車とモータリゼーションのようなもの」と例えられている。
「インターネット的」のキーワードは、「リンク・フラット・シェア」。
確かに「リンク・フラット・シェア」の世の中になっているな、と思う。
現在は、高度経済成長期以来の工業化社会の枠組みが、だんだんと通用しなくなってきている過渡期だと感じている。むしろ、私が感じているよりも、もっともっとその枠組みは崩壊しているのかもしれない。
そして、そのときに活躍するのは、「リンク・フラット・シェア」の感性を身につけている人なのだと思う。
Posted by ブクログ
子どものころ、糸井重里の「コピーライター」という得体の知れない職業に、なぜTVに出られているんだろうと素朴に疑問に思っていたが、20年も前にこんなことを書いていた糸井氏に震えた。凄すぎる。
役割と役割で、肩書と肩書で取引をしているときには、流れは変わりません。
僕の知っている寿司屋さんが、役割や肩書以外の自分の「情報」(熱心さや、目利きぶり)を表現したから、リンクがつながったのだと思うのです。
アイデアやヒントがまだ幼いうちに、他社に向けて何とか出してみる。そしてたくさんの相手が、「未完成だけどポテンシャルを感じる」と言ってくれたらしめたものです。自分ひとりじゃできないことでも、その受け手の力に手助けされて、素晴らしい現実を生み出せるかもしれないのですから。
しかし、いままでなかったタイプの新しい市場を創造しなければ、資本の大きなところが強いに決まっているわけです。そうなったら、ぼくらのようなビンボー人の勝つ場所などないと思ったので、ビジネスの説明はさておいて、まるで気休めに思われるでしょうけれど、いくつかの決めごとを考えました。
とにかく、ビンボーでスタートするというのをゲーム化しよう、と。
…
この仕組みは、『ほぼ日』を強くしたと思います。
つまり、失礼を顧みずに言えば、鳥越俊太郎さんは、ニュースを知ることに払う「時間コスト」を、三分間に短縮してくれる電気釜の役割を果たしてくれるのだと思います。しかも、網羅的で、散漫な情報ではなく、ひとりの個人の「視点」がそこにはあるから、認めるにしても反論するにしても、知るに値する情報となるのだと思います。この鳥越さんの役割は、誰でもできるものではないということは、言うまでもありません。
大きな変化に突き当たった人々が、いままでの道のりを振り返って「はたしてこれでよかったのだろうか」と、不安になったりします。ぼくにも「こっちの道に来ないほうがよかったかな」と思うようなことは何度かありましたが、それを本気で「選び間違い」だと考えたことはありませんでした。どうも、ぼくは、終わってしまったことについては、失敗も含めて、すべて、「それでよし」と考えてきました。
ポジティブシンキングとか、そういうことではありません。その失敗や不運の向こう側には、案外、もっと行ってみたい場所があったりするものなのですね。そのことを、何となく信じてきたのです。みんなが納得してくれるような右だか左だかを、じょうずに選び続けてきた人も、きっと実際にいるのでしょう。でも、たいていの人は、「やらなきゃよかった」と思うようなことや、「ああ、しまった」というようなことを、いっぱいしてきているはずなのです。
けれども、そういうハズレな場面も、たいていは、(回り道であったり、ハンディキャップになったりしても)そのおかげで見えてくる物事や、そのせいで拾ったいいものを、残してくれます。正しいと思われにくい道を選んでしまった人や、世間の幸福感から逸脱してしまった人や、何かに失敗している人が、そのおかげで強くなったり、別のもっといいチャンスを得たり、ということを、ずいぶん見てきました。
「どっちでもOKなんじゃないの?」
これは、実は、けっこう失敗してきている自分にも、ときどき言ってやっているマジックワードです。
役割は、点滅しているのです。
ぼくも、これを書いている間、何度も「ペットボトル入りのお茶」の消費者になったり、夫になったり、新聞の購読者になったり、野球ファンになったり、いろんな人格を点滅させています。それを、わかろうとしても、無理でしょう?
科学でスカッと整理できると思わずに、わかりあえない者どうしが、どうやって信頼を結んでいけるのかを考えたほうが、これからの社会にあっていると思うのですが。
Posted by ブクログ
この本は帯にもそう書いてあるとおり、2000年すぐにかかれたものでありながら、ことごとく2018年現在において通用する内容となっており全く古さも感じさせない、それだけ著者も書いてあるとおり当時からインターネット的な世界をよっぱらっていない状態で冷静に判断しており、その先見の明に驚かされっぱなしである。そして書かれている中で唯一(といってよいのではないかと思う)まだ来ていない「消費のクリエィティビディ」はこれからいよいよその方向に向かって行くのではないかという、期待と願望も込めてそう思う。またこの先の「ほぼ日」の進む羅針盤になっているのではないか。
Posted by ブクログ
インターネットそのものについてよりも、インターネットをめぐって広がりつつある「インターネット的」な思考の様式や社会のあり方、人間関係について語った本。
読み始めたとき、これはマクルーハンの言う「メディアはメッセージである」の糸井重里ヴァージョンなのかなと予想した。始めの方で、インターネットと「インターネット的」の違いを、モーターとモータリゼーションの違いになぞらえて説明しているところがあって、そうそう、マクルーハンも蒸気機関車の例を出して、メッセージを運ぶメディアがそもそもメッセージでもあると述べていたな、なんて思い出していた。
でもこの本はマクルーハンの主張とは違う。「インターネット的」はじつはインターネットがなくても成立する、というのが、思わず膝を打つ、糸井氏のユニークでオリジナルな指摘。つまり、情報社会に親和性の高い、「インターネット的」なものの考え方や仕事のやり方というのは、じつはインターネット以前にもあって、それがインターネットの普及とともに顕在化したり、促進されたりして、今という時代、これからの時代が、できている、できつつある、ということ。
キーワードは、リンク、シェア、フラット、グローバル。それを糸井流に要約すれば、“Only is not lonely”。
情報社会の文化を考えるうえで示唆に富む1冊。
Posted by ブクログ
インターネットのことも書かれているけれど、もっと広い、人間としての在り方のようなものが書かれていると感じた。
まずはっとしたのはメディアの見方。
子供を殺した母親について"鬼のような母親"とレッテルをつけてそれ以上は追及しようとしない。答えが出にくい問題をしつこく考えない。
確か山田詠美の「ぼくは勉強ができない」にも似たような話があったはず。
早々に答えを決めてしまうことで思考が停止してしまう。
自分も比較的答えが出ないことをダラダラ考える&話すことが好きな方なので、これは寂しいことだと感じた。
答えのない問題を話し合う中で気づくことも沢山あるから。
(最近だと某アニメの某キャラがなぜ人気なのかを本気で議論していた…)
「消費のクリエイティブ」という考えも面白かった。
確かに、お金持っている人がみんなして同じものを買ってるのってつまらないなって思ってた。
ブランドを盾にしているというか。
また後半の、今後の社会は立候補しなければ生きていくのが難しいというのはよく自分を省みなければいけないと思った。
インターネット的な話に戻るけど、いくらインターネットやSNSが発達しても、ずっと見る側でいては得られることが少ない。
情報はたくさん出したところの人に集まってくると最初の方にも書かれていた。
怖くても自分の考えを曝け出さなきゃ始まらない。だからこそこういう本の感想とか、小さいことでも続けていこう。
インターネット時代の予言もそうだし、少し離れたところではA.Iの話にも繋がるところがあると感じた。
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