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心理療法家・河合隼雄はロールシャッハ・テストや箱庭療法などを通じて、人間のこころの理解について新たな方法を開拓した。また、『日本霊異記』『とりかへばや物語』『落窪物語』等の物語を読み解き、日本人のこころの在り処と人間の根源を深く問い続けた。伝説の京都大学退官記念講義「コンステレーション」を始め、貴重な講義と講演を集めた一冊。『物語と人間の科学』改題。
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Posted by ブクログ
「人の心などわかるはずがない」と知り抜いているユング派心理学者の河合氏の講演録。 冒頭の言葉は河合氏の著書「こころの処方箋」からの引用だが、「わかるはずがない=諦める」ということではないのである。 分からないことについての講演だから「答え」はどこにも書いていないが、考えるヒントをたくさん受けとること...続きを読むができた。 本書のキーワードは「物語」である。
コンステレーション、という考え方に初めて触れ、人の中で起こっていること、起こりつつあることなど、心理療法の奥深さを垣間見たように思いました。 アイデンティティの確立についても、断言するのではなく、それがどのようなものなのか、物語られることによって伝わってくる、考えが広がり深まっていく感覚が、読んで...続きを読むいておもしろかったです。 年数を重ねること、見識を広め深めることで見えてくるものがあることに気付かされ、日々学び、日々考え、そして生きて日々を重ねることの大切さに気付かされました。
こころが欠けているときはファンタジーが欠けているのだ。 こころっていうとよくわかんない感じisやばいけど、その人の持っているファンタジーって読み替えてみるともっとわかりやすくなるし、それをやっているのがユング系の人なんだなと思った次第。
隠れキリシタンのお話がおもしろかった。 日本人の心象に合うように、 丸く丸く収めていったという。 読み終わり1週間経ち、こころに残ったのは、 カウンセリングの話。 すさまじい体験をしている患者に、こんなになってよく耐えられますねと河合先生が言ったら、 「だって最初に会ったとき先生に、なんで自分はこ...続きを読むんなめにあうんでしょうと言ったら、それはあんたの魂が腐ってるからでしょうと言われたから、腐ってるものをよくするんなら相当のことを覚悟しなきゃならないなと思ったんです。」 と患者に言われた。でも先生自身そんなこと言ったか覚えてない・・・ぽんと出た言葉だったのだろうと。 腐った魂とはどういうことかよくわからないけれど、腐った部分は私にもあるから、そういうことかなと想像するしかないけれど、この話には驚いてしまった。 腐ったものはそのまま朽ちるしかないと、私だったら諦めてしまう。 意識下からでてしまった何気ない言葉ひとつで、患者の気持ちを支えることができる、それに衝撃を受けた。 性についての話もこれは個々人の経験や年齢にもよるものだろうけれど、からだも心も超えてしまう大変なことだということも、こうして言葉にされると・・・ 改めて、これは大変なことであると思う。からだも心も超えてしまうことを経験できるのは幸せでもあるけれど怖い。それはいくつになっても、幸せであるほど恐ろしいことだ。
京大での最終講義をメインにした講演集 主たるテーマは「物語」 東洋と西洋を比較し、日本人と西洋人の自我を比較している。 隠れキリシタンにおける物語には、聖書とは違う部分がある。「日本霊異記」「とりかえばや物語」「柳田国男」・・・を心理学から解く。
河合さんの言葉はなんとも、暖かいな。厳しさの中に暖かさがあるというか、人間ってこうだよな、と漠然と思う。
1985年から1993年にわたって行われた講義・講座の記録。 京都大学の最終講義、『落窪物語』『とりかえばや物語』『日本霊異記』をとりあげた話、隠れキリシタンの話、最後の「アイデンティティの深化」の話、どれもみな読み応えあり。 河合隼雄さんがいて、こういう話(西洋思想と東洋思想の違いなど)をきくこと...続きを読むができて、わたしたちはどんなに救われているか、とあらためて思う。
臨床心理学者・河合隼雄さんが京都大学を退官されたときの最終講義を中心に、五つの講義や講演を採録したもの。タイトルが『こころの最終講義』とされていますが、もちろん著者にとっての最終講義ではなく、あくまで京都大学での最終講義という意味です。 まずコンステレーションについて語られていきます。コンステレー...続きを読むションはそのままでは星座という意味になりますが、ユング派心理学の用語だと違った意味になります。こころの中にあるなんらかのかたまり・複合体(コンプレックス)を、言語連想などでぽつぽつと出てきた単語を元に探っていくのですが、その単語を点として結んでいって象られていくといったものがコンプレックスであり、象り自体つまり表象面をコンステレーションと呼んでいるように読み受けられます。 ユングは後年、それまで「コンプレックスがコンステレートされている」と言っていたのを、「元型がコンステレートされている」と言うようになるそう。コンプレックスはたとえば、父親が怖いなどと思っているとなにかにつけて怖い怖いと思うようになることですが、元型はそのコンプレックスよりもっと深いところでそのコンプレックスを作り上げる人間の心のタイプみたいなものを言います。また、シンクロニシティが起こるとき、説明不能ではあるもののそこには大きな意味がある、と考えるのがユング派心理学ですが、シンクロニシティという現象に、なんらかの元型的なものがコンステレートしている、というふうにも用います。 そして、たとえば、山というのはどうなっている、川というのはどうなっている、星というのはどうなっている、というようなぼーっとしたイメージがある種のコンステレーションであり、読み解く方は、そういったイメージへの豊かな引き出しをたくさん持っていることが大事だとあります。 次に、物語の大切さについてを中心に語られる講義へと続いていきます。というか、「物語」というものが、本書全章に通底するテーマなのでした。 では以下から引用を。 非行少年たちは、お行儀のよいお話を聴くよりも、怪物が現れて悪先苦闘するような神話を聴くほうが乗ってくるそうです。最初の引用はそこを踏まえて。 __________ いわゆるよい子がいまして、朝ごはんを食べました、仕事をしました、などということは、通常の意識の問題です。しかしある子どもたちにとっては通常の意識を超えることが問題であり、それを根本的に揺るがさないとだめだから、普通の人がいえば「非行」ということをやっているわけで、つまり日常生活を普通にしていたのでは「お話にならない」のです。彼らは自分の「物語」を発見しようとして日常の枠を超えた行為をしてしまうのですが、それでもうまくいかない。そういうことなら、その物語探しを正面からやってみようというのが「ミソ・ドラマ(神話劇)」の意図するところです。(p84) __________ →このドラマのセッションが終わると、少年たちは別の部屋に移動しておやつなどを食べたりして、だんだんと現実生活に戻してあげて、それから帰宅する、ということです。そういったファンタジーから現実へと軟着陸させることも、実はとても大事なのでしょうね。映画を観終えてエンドロールを眺めながら現実に戻っていくことと似ています。それにしても、いわゆる「非行少年」の心理とは自分と格闘してそうなっているのだなあ、と教えられる箇所でした。 __________ そういう体験をしたのが臨死体験であるとして、それを話しても現代人にはなかなか理解されない。それは、現代人が表層意識にものすごくとらわれているためです。とらわれているというか、そこからあまり離れると現在の世の中で生きていけない。われわれはちゃんと物事を区別してしっかり考えてやっているからこの世に生きているわけです。そこのところに非常にとらえられていますので、なかなか深いレベルに下りていけない。(p174) __________ →これは、平安時代などの人たちに比べるときわだった現代人の特徴みたいです。昔の人は、もっと意識レベルの上下が自由だったのではないか、と著者は推測していました。現代は、大量生産だとか、経済競争だとか、合理的に効率第一でやりますから、深いレベルの意識なんてものは遅いしリターンがあるかどうかもわからないしあったとしてもいつになるかわからないし、あてにされないところがあるのではないか。で、そういった価値観、世界観の世界に、すべからくみんなが従属していますし、順応していますよね。 __________ それで私の言いたいことはどういうことかというと、男性優位の、物事をはっきりさせて、力で頑張っていこうというのではない考え方を日本人はもっているけれども、西洋のほうでは男性優位できましたから、女性の自我も非常に男性性を身につけてきた。つまり西洋の女の人たちはどうしても自分が一人前に生きるためには男性的な自我をもたなければならないということになります。そしてそれをもとうと思えばある程度もてるんですね。(p243) __________ →ジェンダー。男性らしさ、女性らしさってなんなのか。そしてそれははたして憎むべきものなのかを考えさせられる箇所です。もちろん、性の格差はいけませんが。 __________ このちゃんとはまるという場合、非常に難しいことがあります。そういうふうに難しいことかというと、たとえば、あなた大工さんをやりますかといわれても、手先が不器用でしたら、やっても物の役に立ちませんね。つまり、大工さんという職業を介して社会にはまることができない。逆に、大工さんをやれる能力があっても、それはやりたくない、それでは自分が生かされないということもあるわけです。つまり個人としての私を生かすということと、社会の中にはまり込むということの二つがうまく折り合いがつかないとアイデンティティは確立しない。(p270-271) __________ →自分探しをする人は、こういったところを言外に感じているんだと思います。社会的な自分と、オフのときの自分と、その兼ね合いみたいなものです。天職が見つかればいいですが、なかなかそういった人は珍しい。「向かないと思った職業でも、長く勤めてみるとやれるようになるよ」なんて助言をする人はいますし、実際にそうなる人もいますけれども、そうならない人もいることは忘れずにいたいところです。 また、このアイデンティティを扱う章の後半で言われていることでしたが、西洋的な私と日本的な私の違い、というところには頷きました。西洋的な自我というのは、自分は自分という確固として強い自我です。自我にはなにも入ってこない。これが、日本的な自我になると、私のなかにはいろいろなものが混じり合って構成しているというふうに考えられています。日本的な自我には、たとえば、父が言ったこと、母が言ったこと、ガリレオが言ったこと、ニュートンが言ったことなどが、自分のものになって存在していたりする。それを、自分のものだとするのが西洋的で、そういった誰かの考えも自分を構成しているとするのが日本的。日本的なあり方は、西洋人からすると責任逃れだと見られやすいそうですが、日本的な自我のあり方こそ本当のようにも思えます。ですが、著者も言っているんですが、西洋的な自我、つまり、スパッスパッと世界を区切っていくような強い自我には、科学や経済の発達をなしたことなどがその証左ですが、やはり見張るべきものがあります。だから、矛盾しているけれども、両方の自我のあり方を踏まえてはどうか、というのでした。これには、とても共感しました。もともと、僕も学生の頃に音楽を作っているとき、このメロディやハーモニーは他のアーティストから学んだものだなという意識を持つことがあり、自分の自我で書き綴っていても、自分にはそういったものが混じり合っているという意識がありました。でも、どちらかいっぽうの自我を選ぶのではなく、西洋的でも日本的でも、どちらを捨てるということなく、やっていく試みをするのは大切なようです。矛盾が気持ち悪い、と思うかもしれませんが、発達心理学的にいえば、全3段階の3段階目にあたる目自己変容型知性がこれにあたる姿勢なので、成長する気持ちでチャレンジするといいのかもしれないです。
☆☆☆2019年8月レビュー☆☆☆ 河合先生の本を読むと、なんだか心が落ち着く気がする。この本も例外ではない。 「こころの最終講義」で圧倒的に面白いのは、第三章第二部の、『日本霊異記』にみる宗教性。 ここでは、『日本霊異記』に描かれた臨時体験を研究している。これで日本人の死生観がよくわかる。
河合先生が京都大学における講義をまとめた内容であるが、やさしい言葉使いで、中学生でも聞くに堪える内容かと。 心理療法の話題を期待して紐解くも、いい意味で期待を裏切られる。 ・思春期というのは魂がかわるときであり、「蛹の時代」 ・アニマ(anima)男性の無意識人格の女性的な側面を元型と規定した。男性...続きを読むが持つ全ての女性的な心理学的性質 ・アニムス(animus)女性の無意識人格の男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影(Wikipediaより)
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