【感想・ネタバレ】こころの最終講義のレビュー

あらすじ

心理療法家・河合隼雄はロールシャッハ・テストや箱庭療法などを通じて、人間のこころの理解について新たな方法を開拓した。また、『日本霊異記』『とりかへばや物語』『落窪物語』等の物語を読み解き、日本人のこころの在り処と人間の根源を深く問い続けた。伝説の京都大学退官記念講義「コンステレーション」を始め、貴重な講義と講演を集めた一冊。『物語と人間の科学』改題。

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Posted by ブクログ

「人の心などわかるはずがない」と知り抜いているユング派心理学者の河合氏の講演録。
冒頭の言葉は河合氏の著書「こころの処方箋」からの引用だが、「わかるはずがない=諦める」ということではないのである。
分からないことについての講演だから「答え」はどこにも書いていないが、考えるヒントをたくさん受けとることができた。
本書のキーワードは「物語」である。

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2022年06月05日

Posted by ブクログ

コンステレーション、という考え方に初めて触れ、人の中で起こっていること、起こりつつあることなど、心理療法の奥深さを垣間見たように思いました。

アイデンティティの確立についても、断言するのではなく、それがどのようなものなのか、物語られることによって伝わってくる、考えが広がり深まっていく感覚が、読んでいておもしろかったです。

年数を重ねること、見識を広め深めることで見えてくるものがあることに気付かされ、日々学び、日々考え、そして生きて日々を重ねることの大切さに気付かされました。

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2016年10月23日

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こころが欠けているときはファンタジーが欠けているのだ。

こころっていうとよくわかんない感じisやばいけど、その人の持っているファンタジーって読み替えてみるともっとわかりやすくなるし、それをやっているのがユング系の人なんだなと思った次第。

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2014年12月28日

Posted by ブクログ

隠れキリシタンのお話がおもしろかった。
日本人の心象に合うように、
丸く丸く収めていったという。

読み終わり1週間経ち、こころに残ったのは、
カウンセリングの話。
すさまじい体験をしている患者に、こんなになってよく耐えられますねと河合先生が言ったら、
「だって最初に会ったとき先生に、なんで自分はこんなめにあうんでしょうと言ったら、それはあんたの魂が腐ってるからでしょうと言われたから、腐ってるものをよくするんなら相当のことを覚悟しなきゃならないなと思ったんです。」
と患者に言われた。でも先生自身そんなこと言ったか覚えてない・・・ぽんと出た言葉だったのだろうと。
腐った魂とはどういうことかよくわからないけれど、腐った部分は私にもあるから、そういうことかなと想像するしかないけれど、この話には驚いてしまった。
腐ったものはそのまま朽ちるしかないと、私だったら諦めてしまう。
意識下からでてしまった何気ない言葉ひとつで、患者の気持ちを支えることができる、それに衝撃を受けた。

性についての話もこれは個々人の経験や年齢にもよるものだろうけれど、からだも心も超えてしまう大変なことだということも、こうして言葉にされると・・・
改めて、これは大変なことであると思う。からだも心も超えてしまうことを経験できるのは幸せでもあるけれど怖い。それはいくつになっても、幸せであるほど恐ろしいことだ。

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2014年06月29日

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京大での最終講義をメインにした講演集
主たるテーマは「物語」
東洋と西洋を比較し、日本人と西洋人の自我を比較している。 隠れキリシタンにおける物語には、聖書とは違う部分がある。「日本霊異記」「とりかえばや物語」「柳田国男」・・・を心理学から解く。

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2014年05月05日

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河合さんの言葉はなんとも、暖かいな。厳しさの中に暖かさがあるというか、人間ってこうだよな、と漠然と思う。

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2014年01月04日

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1985年から1993年にわたって行われた講義・講座の記録。
京都大学の最終講義、『落窪物語』『とりかえばや物語』『日本霊異記』をとりあげた話、隠れキリシタンの話、最後の「アイデンティティの深化」の話、どれもみな読み応えあり。
河合隼雄さんがいて、こういう話(西洋思想と東洋思想の違いなど)をきくことができて、わたしたちはどんなに救われているか、とあらためて思う。

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2013年07月03日

Posted by ブクログ

臨床心理学者・河合隼雄さんが京都大学を退官されたときの最終講義を中心に、五つの講義や講演を採録したもの。タイトルが『こころの最終講義』とされていますが、もちろん著者にとっての最終講義ではなく、あくまで京都大学での最終講義という意味です。

まずコンステレーションについて語られていきます。コンステレーションはそのままでは星座という意味になりますが、ユング派心理学の用語だと違った意味になります。こころの中にあるなんらかのかたまり・複合体(コンプレックス)を、言語連想などでぽつぽつと出てきた単語を元に探っていくのですが、その単語を点として結んでいって象られていくといったものがコンプレックスであり、象り自体つまり表象面をコンステレーションと呼んでいるように読み受けられます。

ユングは後年、それまで「コンプレックスがコンステレートされている」と言っていたのを、「元型がコンステレートされている」と言うようになるそう。コンプレックスはたとえば、父親が怖いなどと思っているとなにかにつけて怖い怖いと思うようになることですが、元型はそのコンプレックスよりもっと深いところでそのコンプレックスを作り上げる人間の心のタイプみたいなものを言います。また、シンクロニシティが起こるとき、説明不能ではあるもののそこには大きな意味がある、と考えるのがユング派心理学ですが、シンクロニシティという現象に、なんらかの元型的なものがコンステレートしている、というふうにも用います。

そして、たとえば、山というのはどうなっている、川というのはどうなっている、星というのはどうなっている、というようなぼーっとしたイメージがある種のコンステレーションであり、読み解く方は、そういったイメージへの豊かな引き出しをたくさん持っていることが大事だとあります。

次に、物語の大切さについてを中心に語られる講義へと続いていきます。というか、「物語」というものが、本書全章に通底するテーマなのでした。

では以下から引用を。



非行少年たちは、お行儀のよいお話を聴くよりも、怪物が現れて悪先苦闘するような神話を聴くほうが乗ってくるそうです。最初の引用はそこを踏まえて。
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 いわゆるよい子がいまして、朝ごはんを食べました、仕事をしました、などということは、通常の意識の問題です。しかしある子どもたちにとっては通常の意識を超えることが問題であり、それを根本的に揺るがさないとだめだから、普通の人がいえば「非行」ということをやっているわけで、つまり日常生活を普通にしていたのでは「お話にならない」のです。彼らは自分の「物語」を発見しようとして日常の枠を超えた行為をしてしまうのですが、それでもうまくいかない。そういうことなら、その物語探しを正面からやってみようというのが「ミソ・ドラマ(神話劇)」の意図するところです。(p84)
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→このドラマのセッションが終わると、少年たちは別の部屋に移動しておやつなどを食べたりして、だんだんと現実生活に戻してあげて、それから帰宅する、ということです。そういったファンタジーから現実へと軟着陸させることも、実はとても大事なのでしょうね。映画を観終えてエンドロールを眺めながら現実に戻っていくことと似ています。それにしても、いわゆる「非行少年」の心理とは自分と格闘してそうなっているのだなあ、と教えられる箇所でした。




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 そういう体験をしたのが臨死体験であるとして、それを話しても現代人にはなかなか理解されない。それは、現代人が表層意識にものすごくとらわれているためです。とらわれているというか、そこからあまり離れると現在の世の中で生きていけない。われわれはちゃんと物事を区別してしっかり考えてやっているからこの世に生きているわけです。そこのところに非常にとらえられていますので、なかなか深いレベルに下りていけない。(p174)
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→これは、平安時代などの人たちに比べるときわだった現代人の特徴みたいです。昔の人は、もっと意識レベルの上下が自由だったのではないか、と著者は推測していました。現代は、大量生産だとか、経済競争だとか、合理的に効率第一でやりますから、深いレベルの意識なんてものは遅いしリターンがあるかどうかもわからないしあったとしてもいつになるかわからないし、あてにされないところがあるのではないか。で、そういった価値観、世界観の世界に、すべからくみんなが従属していますし、順応していますよね。



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 それで私の言いたいことはどういうことかというと、男性優位の、物事をはっきりさせて、力で頑張っていこうというのではない考え方を日本人はもっているけれども、西洋のほうでは男性優位できましたから、女性の自我も非常に男性性を身につけてきた。つまり西洋の女の人たちはどうしても自分が一人前に生きるためには男性的な自我をもたなければならないということになります。そしてそれをもとうと思えばある程度もてるんですね。(p243)
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→ジェンダー。男性らしさ、女性らしさってなんなのか。そしてそれははたして憎むべきものなのかを考えさせられる箇所です。もちろん、性の格差はいけませんが。



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 このちゃんとはまるという場合、非常に難しいことがあります。そういうふうに難しいことかというと、たとえば、あなた大工さんをやりますかといわれても、手先が不器用でしたら、やっても物の役に立ちませんね。つまり、大工さんという職業を介して社会にはまることができない。逆に、大工さんをやれる能力があっても、それはやりたくない、それでは自分が生かされないということもあるわけです。つまり個人としての私を生かすということと、社会の中にはまり込むということの二つがうまく折り合いがつかないとアイデンティティは確立しない。(p270-271)

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→自分探しをする人は、こういったところを言外に感じているんだと思います。社会的な自分と、オフのときの自分と、その兼ね合いみたいなものです。天職が見つかればいいですが、なかなかそういった人は珍しい。「向かないと思った職業でも、長く勤めてみるとやれるようになるよ」なんて助言をする人はいますし、実際にそうなる人もいますけれども、そうならない人もいることは忘れずにいたいところです。

また、このアイデンティティを扱う章の後半で言われていることでしたが、西洋的な私と日本的な私の違い、というところには頷きました。西洋的な自我というのは、自分は自分という確固として強い自我です。自我にはなにも入ってこない。これが、日本的な自我になると、私のなかにはいろいろなものが混じり合って構成しているというふうに考えられています。日本的な自我には、たとえば、父が言ったこと、母が言ったこと、ガリレオが言ったこと、ニュートンが言ったことなどが、自分のものになって存在していたりする。それを、自分のものだとするのが西洋的で、そういった誰かの考えも自分を構成しているとするのが日本的。日本的なあり方は、西洋人からすると責任逃れだと見られやすいそうですが、日本的な自我のあり方こそ本当のようにも思えます。ですが、著者も言っているんですが、西洋的な自我、つまり、スパッスパッと世界を区切っていくような強い自我には、科学や経済の発達をなしたことなどがその証左ですが、やはり見張るべきものがあります。だから、矛盾しているけれども、両方の自我のあり方を踏まえてはどうか、というのでした。これには、とても共感しました。もともと、僕も学生の頃に音楽を作っているとき、このメロディやハーモニーは他のアーティストから学んだものだなという意識を持つことがあり、自分の自我で書き綴っていても、自分にはそういったものが混じり合っているという意識がありました。でも、どちらかいっぽうの自我を選ぶのではなく、西洋的でも日本的でも、どちらを捨てるということなく、やっていく試みをするのは大切なようです。矛盾が気持ち悪い、と思うかもしれませんが、発達心理学的にいえば、全3段階の3段階目にあたる目自己変容型知性がこれにあたる姿勢なので、成長する気持ちでチャレンジするといいのかもしれないです。

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2025年07月30日

Posted by ブクログ

☆☆☆2019年8月レビュー☆☆☆



河合先生の本を読むと、なんだか心が落ち着く気がする。この本も例外ではない。
「こころの最終講義」で圧倒的に面白いのは、第三章第二部の、『日本霊異記』にみる宗教性。
ここでは、『日本霊異記』に描かれた臨時体験を研究している。これで日本人の死生観がよくわかる。

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2019年08月11日

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河合先生が京都大学における講義をまとめた内容であるが、やさしい言葉使いで、中学生でも聞くに堪える内容かと。
心理療法の話題を期待して紐解くも、いい意味で期待を裏切られる。
・思春期というのは魂がかわるときであり、「蛹の時代」
・アニマ(anima)男性の無意識人格の女性的な側面を元型と規定した。男性が持つ全ての女性的な心理学的性質
・アニムス(animus)女性の無意識人格の男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影(Wikipediaより)

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2018年02月11日

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講演をまとめたものだが、時系列ではなく、最終章が最も古くのものである。そこには日本人と西洋人の自我に対する考えかた、想いの相違が述べられており、物語に関心をもつきっかけになったという。そもそも人に納得してもらうには科学的であることが大事であり、そうでなければ宗教家とみられる危険もある。著者が煩悶したのはいうまでもない。文庫一冊で語りつくせぬものを感じた。2017.3.21

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2017年03月21日

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日本の臨床心理学界の第一人者である河合隼雄先生の講義をまとめたもの。日本の神話や昔話、隠れキリシタンの話などから日本人のこころの在り方を探っていて、本当に示唆に富み読みごたえがあった。これからも何度でも読み返していきたい。

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2016年12月26日

Posted by ブクログ

・例えば、高島易断を見て、飛行機が落ちると思ったときに、そんなばかなことを考えるなとか、あるいは易なんていうのは当たるんだとか、当たらないんだとか、そんな議論じゃなくて、それを見て不安に感じた自分にとっての意味、その意味は何かということですね。先ほども言いましたように、自分は祖国というものに対して、あまりにも高いイメージを持ちすぎていなかったか。そして、そこへ今から自分が帰っていくということ、そこを訪ねていくということの意味をどう考えようかという問題になりますので、その人がどう生きていったらいいかということの意味がはっきりわかる。これが、私は大事なことだと思うんです。
例えば、私が学校に行かない子供に会っていても、学校へなかなか行かない。そして、何とかかんとかするうちに、とうとう行くようになった。ただ、行かなかった子が行ったというだけではなくて、その背後にある母なるものの意味を感じる場合、私がその人に会っているということに、私自身にとってもはっきり意味があるわけです。
つまり、学校へ行っていないというつまらない人を、私のような健康な人が何とか引き上げて、学校へ連れていってあげるというような意味じゃなくて、中学生としてあなたも日本の母なるものと格闘しているんですか、私もしているんです。格闘のレベルなり、格闘の質なりは違うけれども。そう考えると、私はその人にお会いしていることの意味が非常にはっきりする。
この意味がわかるということは、人間にとってすごく大事なことじゃないでしょうか。意味がわかるかわからないかで、ほんとうに違う。わけの分からない仕事を長続きさせることは非常に難しいです。意味が分かっているからやるわけですね。そのときに全体を見て、この意味だとわかる。
そして、そのときに、こういう考え方は因果的な考え方を補うのです。

・私のところへこられた学校へ行かない子どものお父さんが次のように言われたことがあります。「先生、科学がこれだけ進んで、ボタン一つ押せば人間が月まで行って帰ってくるこの世の中に、うちの子どもを学校へ行かすボタンはありませんか」と。
私は、「ボタンはないけど簡単ですよ、さっそく行かせられます」と言うたら、「どうするんですか」と言われる。「ぐるぐるっとすのこ巻きにして放り込んだらええんです」と言うたのです。つまり子どもをモノ扱いすれば行くのです。ところが、子どもが自由意志をもち、自分の意志で、自分の人生のなかで意味あることとして学校へ行くということは、そう簡単ではない。

・言葉というのは口から生み出しますね。子どもを生むというのは下から生み出すわけです。だから人間が肉体から生み出すものには、子どもとして下に生み出していくものと、言葉として上から生み出していくものがある。そのことを考えると、言葉というものはすごい魔力を持っているし、すごい力を持っている。

・私はまるで私の魂に対して憧れるように、あるいは私が私の魂となんとか接触したいと思うような、ものすごい心のエネルギーが動いて、その人を好きになる。

・見ていると、小学校五年か六年ぐらいの子どもというのはすごいと思いませんか、記憶力にしても何にしても、たとえばあるときにサッカーの選手なんかが好きになったりしたら、どこに所属しているだけでなくて、生まれはどこだとか、どんな靴を履いているとか、全部覚えているでしょう。ああいう時期には、ぱあっと読むとか全部覚えられるぐらいすごいんです。ある意味で、人間は十一歳、十二歳ぐらいで完成するところがあるんじゃないかと思っているぐらいです。
そして、ある程度できたというところで、もういっぺんつくり直して、大人という変なものにならなくてはならない。これは毛虫が蝶になるのと一緒じゃないでしょうか。

・これは私の会いましたある女の子の場合ですが、不特定多数の男の子と性的な関係のあった高校生であるその子が非常にうまいことを言いました。先生が怒って「不純異性交遊だ」と言ったのに対してその子は「先生、何で私が不純ですか。好きな男の人ができるから、その人とセックスの関係があるんです。これは純粋だと思う。先生のように、好きでもないのに奥さんと関係があるのは、これは不純じゃないですか」と。
先生がなるほどと思ってしまったので(笑)、どう説明していいかわからないからというので私のところに来たことがあります。

・性のほんとうの体験をすると、自分の存在を揺すぶられますから、体のことに限定して、あれは生理的なことで、楽しかったらよろしいというわけですね。それもまた性のある反面だけを見ているということです(聖職者のように性を排除する、または夫婦間だけに限定するということの反対の反面)。
そして不思議なことに、仮にそういう生き方をしようと思っても、それはできません。そういうことをしているうちに、その人の魂はだんだん腐っていきます。なぜかというと、一人の人間と一人の人間がそこまで融合する体験をするということは、体のレベルだけですますことはほとんど不可能なんです。

・男の人の夢の分析をしていると、確かにアニマ像がはっきり出てきて、この女性像こそその人の魂を表していると考えていけるのだけれども、女の人の場合にはいろんな男が出てくるし、これがアニムス像だという明確なものが見えない、とユングは書いている。自分のアニムスということについて非常に明確に話ができる女性はほとんどいない、あるいはいなかった、と書いているんです。
…どこまでみんな賛成されるかわかりませんが、ついでに言っておきますと、ユングはこんなことも言っています。男性にとって心の中のアニマイメージはどうも一人だという気がする。これぞ永遠の女性といいますか、自分の心の中で、この人が私の永遠の女性だというような一人の異性。ところが女の方が自分の心の中の男性像を考えると一人にならない。これもこれもと沢山ある、あるいはひとつの集団の場合もある。
その次が面白いんですが、そういうふうに心の中はそうなるので、それを補償するような形で外的現実においては、男性はたくさんの女性を好きになり、そして女性は一人の男を好きになる、というのです。

・間違わないように聞いてほしいのですが、そういう変なことをやっている人ほど魂のことがわかっている、と私は言っているのではないのです。そういう人は魂に揺り動かされているのであって、ある意味でいうと、被害者と言えるかもしれない。しかし揺り動かされている場合には、どうしてもわれわれの常識を超えたことが起きる。そのときにわれわれがそういう人にお会いして、この変な人とか、この嫌な人とかいうのではなくて、私は何ができるのか、そういう人に会っている私の魂はどうなっているのか、考えたいと思うのです。

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2013年12月29日

Posted by ブクログ

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」を読んで以来、河合先生の本を読むようになった。

先生のお話は、軽快なリズムと言葉選びの優しさの中に、深い洞察と、安易に結論しない我慢強さというか、心というものへの敬意が感じられる。そして時には、ドキッとするような表現で、私たちに心との向き合い方を教えてくれる。

思春期の子と親の関係、特に、男の子と母親の関係についての描写は秀逸。

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2023年06月28日

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