Posted by ブクログ
2017年11月26日
いちばん格好イイお姉様のひとり、塩野七生氏による文藝春秋のコラム集第3弾。2010年5月号から2013年10月号までというから、ずいぶん最近のものが収められている。
イタリアの多くの歴史を俯瞰し、どっぷり浸かって書き進めた著作が示す通り、彼女の現代を見る目は、冷徹で鋭く、それでいて熱い。イタリアと日...続きを読む本をただ比較するのとは違い、特質にあった対処法や指針を明確に示しているところに多くの共感が集まるのだろう。
そして、ここに彼女の作家としての特質が見て取れる。
すなわち、小説家ではない、というところに尽きるように思う。
塩野氏の評価と讃辞を集めてあまりあるカエサルを主人公とした小説を、なぜ彼女は書かなかったのか。
本来、歴史書であれば、誰かに肩入れすることなく、冷徹に、事実のみを、という姿勢が必要なのだろう。そこへ行くと、先述の通り、カエサルへの肩入れは尋常ではないし、同時代人として有名なキケロに対しては、あれれというほどに情けなさを浮き立たせた書きぶりが「ローマ人の物語」ではみてとれる。
このスタイルをデビュー当時に司馬遼太郎が評して曰く「歴史小説でも歴史研究でもないその中間」とのこと。人のいない道を突き進んだのである。それすら、娘時代の自信のなさからくる悪あがきの結果に過ぎないのだから、がんばって欲しいという、「若者たちへ」のエール。この方の年齢を考えれば、もしかしたらわたしだって「若者たち」に入れてもらえるのかも知れない。
様々な事柄について書かれているため、わたしのレポもとりとめもなく流れていくおしゃべりになったが、このことは一つ書き加えておこう。
日本人の英語教育も、どんどんと早期化していくようだが、イタリアに住んで長い塩野氏とて、やはり思考は母国語である日本語で行うのがいちばんだという。すなわち、母国語の豊かさが、思考の豊かさになるというもの。
言語そのものが豊かであると共に、その習得具合の豊かさもまた、思考を支える一柱となる。日本語以外――会話に不足のないイタリア語を話すことですら、ストレスになるのだともいう。
別に外国語習得が必要ないといっているのではない。ただ、以前の日本のように、足元の豊かさを見失い、踏みにじるようなことがないように、とだけ気をつけたいと思ったのである。
他サイトより転載