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Posted by ブクログ
『アンチ・スポーツの哲学』(難波優輝)は、スポーツを礼賛するのでも否定するのでもなく、**「そもそも、なぜ私たちはスポーツを良いものだと思っているのか?」**という前提から問い直していく哲学書です。
本書の面白いポイントは、スポーツに当たり前のようについて回る「努力」「勝利」「成長」「フェアプレー」といった価値観を、一度疑ってみるところ。スポーツは健康にいい、人格形成につながる、努力することは素晴らしい――私たちはこうした考えを自然に受け入れています。しかし、その“正しさ”が強くなりすぎることで、運動が苦手な人や競争したくない人が疎外されたり、「勝つために努力すること」が目的化したりする可能性もあります。
タイトルに「アンチ」とありますが、単純なスポーツ批判ではないのも重要です。むしろスポーツを哲学的に分解することで、競争すること、勝敗をつけること、身体を動かすこと、遊ぶことの違いを考え直していきます。スポーツを疑うことで、逆にスポーツの面白さとは何なのかが見えてくる構造がユニークです。
そしてスポーツについて考えているはずが、いつの間にか「努力すれば偉いのか」「競争に参加しない生き方は悪いのか」「成長し続けなければならないのか」という人生そのものの問いにつながっていく。
スポーツ好きにも、スポーツが苦手だった人にも面白い一冊。当たり前に“良い”とされている価値観を疑うことの面白さを味わえる、少し挑発的で思考を刺激される哲学書です。
Posted by ブクログ
私はもともとスポーツにあまり関心がない。そんな中で見つけたのが、難波優輝『アンチ・スポーツの哲学』。タイトルに惹かれて購入した。
著者自身も「スポーツをするのは好きではないが、観るのは好き」という立場。そこから、スポーツをプレイヤーと観客に分けて考えたり、スポーツにまとわりつく人格形成や美徳といったものは本当に正しいのかを問い直したりしている。
著者はスポーツを普通の概念から分けるために〈スポーツ〉と称して「決められたルールの中ですごいやつを決めること」と定義している。こう考えると、eスポーツや楽器の演奏、クイズのように、特定のスキルや知識を競うものまでスポーツに含めることができる。
これを読んで、私は〈スポーツ〉というより「競技」という言葉のほうがしっくりくるのではないかと思った。どうしてもスポーツという言葉には、身体を動かすことや身体能力といったイメージが強くあるからだ。
そして、身体性については特に考えさせられた。私は左利きなので、右利きを前提とした社会の中で不便を感じることがある。ボールを投げることでも、楽器を演奏することでも、右利き中心の環境では左利きが不利になる場合がある。
本書では、男性/女性、障害者、経済格差など、さまざまな立場の違いから「公平なスポーツは可能なのか」という問題が考えられている。そこに利き手という視点は出てこなかったが、左利きの自分からすると、これもスポーツの公平性を考えるうえで無視できない要素なのではないかと思った。
ほかにも、礼儀や競争による失敗主義といった体育会系文化、銃のない戦争としてのオリンピック、メディアによって作られるアスリートのイメージなど、私がスポーツに対して漠然と感じていた違和感についても触れられていた。
一方で、スポーツについてなるほどと思えたのが、「スポーツは悲劇である」という考え方だ。
ノースロップ・フライは、悲劇を「ふつうの人々より程度において優れた主人公が、ひとびととの争いにおいては勝利し、しかし、環境に対しては敗北する」物語として定義している。
オリンピックでは、IOCによる競技規則の変更やドーピング規制、メディアの熱狂など、アスリート自身ではコントロールできない外部の要素が、競技における主体性にまで入り込んでくる。アスリートがそうしたものに振り回されながらも、逆境を乗り越えようと努力する姿が人々を感動させる。
こうした外部の環境に翻弄されながら、それでも立ち向かうという物語は、小説や映画、ゲームなどでも描かれている。そのため、スポーツにあまり関心がない自分でも、この考え方には共感しやすかった。
スポーツにはドーピングなどの倫理の問題がある一方で、「そもそもスポーツとは何なのか」「なぜ私たちはスポーツに価値を感じるのか」といった哲学の部分は、あまり考えたことがなかった。
この本を読んで、スポーツを考えることは、競争、公平性、身体性、努力、メディア、社会の仕組みなど、人間社会にあるさまざまなものを考えることにもつながるのだと知った。
スポーツにあまり興味がないからこそ、普段なら考えなかったことを考えるきっかけになった一冊だった。
Posted by ブクログ
スポーツが好きで、自分でやるし、観戦も好んでするのだが、まさかスポーツにアンチする考えがあるとは思いもしなかったので、おもわずこの本を買ってしまった。
世間一般で、スポーツ結びつく美徳、礼儀が身につくとか、逆境に強くなるとか、教育に良いとか、そういったものを、本当にそうなのか、なぜそう思われているのかを平易な言葉と哲学の概念・議論を使って説明していて、面白い。スポーツに対して、新たな視座が得られる内容だった。
内容には、確かにそうだと思えるものと、それは何か違和感があると感じられるものがあったが、特に自分が違和感を感じたところは、この本のスポーツの定義だ。
本書では、スポーツとは「すごいやつを決めること」と定義されていたいる。この定義によると、ゲームや将棋など全身的動作のない競技もスポーツされる。しかし、私は全身的動作の伴わないものをスポーツと呼ぶことに強い抵抗感を感じる。スポーツには全身的動作は不可欠であると思っているが、その理由をうまく言語化できていなかったので、この機会に考えてみた。この定義では、卓越性が重要なファクターとされており、何に於てすごいか、というところで全身的動作の有無が自分のなかで引っ掛かっているのだろう。
まず、競技者の目線で考えてみる。身体的動作には必ず制御不可能性が伴う。自分の体を完全に思う通りに動かすことはできず、物理や神経などの要因によって、制御できない部分が出てくる。eスポーツを例に説明してみる。ゲームではボタンを押すと必ずそのボタンに応じた反応が起こる。それはだれが押しても同じ反応が起こる。
ゆえにゲームは老若男女誰でも平等な立場で競い合えるスポーツだといわれる。自分はこの制御可能性というか、公平性が、スポーツとかけ離れているように感じる。チェスや将棋なども同じだ。身体性の高い競技では、体を動かそうとしても、必ず、自分が思った通りの動きはされない。人それぞれ体格が異なるので、まったく同じ動作をしようとしても、違う動作になる。この制御不可能性、個別性、非公平性ともいえるかもしれない、を伴いながら、同じルールの中で競い合うことこそがスポーツたるゆえんと感じるところなのだと思う。
視点を変えて、スポーツを観戦する側から改めて全身的動作がスポーツに必要かを考えてみる。見ている側からすると、制御不可能性に向き合い続けることは、スポーツを見ている感には関係がない。というか想像するしかないのでわからない。しかし、将棋やゲームの試合を見ていても、面白いとは思うが、スポーツを見ている感はない。見ている側からは、身体性が必要な理由が別にあると思われる。以下の2つの説明が候補として考えられる。
① 身体運動の"直接可読性"
将棋の一手の凄さは、その背後にある読みの深さ・大局観を理解できて初めて分かる。素人が見ても「なぜその一手が凄いのか」はほぼ分からない。一方、100m走のフィニッシュや、体操の着地の美しさは、専門知識がなくてもある程度直感的に感じ取れる。身体の動きは、思考と違って外部化された、直接知覚可能な卓越性である。
② 運動感覚的共感
アスリートの動きを見るとき、自分の運動野やミラーニューロンが部分的に発火し、あたかも自分の身体で追体験しているかのような感覚が生じるとされている。将棋の一手を見ても、こうした身体的な「乗り移り」は起きない。観戦の興奮そのものが、身体を持つ者同士の共鳴に由来する。
この2つの説明で、eスポーツの例を考えてみる。eスポーツの観戦は近年非常に盛り上がっており、観客は熱狂し、実況に合わせて歓声を上げ、スポーツイベントのような興奮を観客は感じているようにも見える。この興奮はスポーツのそれとは別種の興奮だと考えているが、別具合はゲームの種類にもよる。例えば、ストリートファイターのような、人間のキャラクターが肉体を動かして戦っているように見えるゲームは①と②をある程度満たしている。しかし、FPSなどのゲームは満たしていない。eスポーツの興奮は、音楽のライブとかの興奮同種のもののように思う。その場にいる人と同じものを見聞きして、同じ興奮を感じている、感情と経験の共有の興奮だろう。
もちろんスポーツの観戦にも同じ興奮があるが、上記のようなスポーツ独自の興奮も備えている。つまり、スポーツの観戦には、「共有の興奮」と「スポーツ独自の興奮」の2つがあり、eスポーツには前者だけがある。一方で、ストリートファイターのようなゲームが①②を部分的にしても満たしているのなら、スポーツは人間がやっている必要はなく、精巧なCGを見ていても、スポーツ観戦は成り立つといえてしまうのだろうか。成り立ちはしないだろう。スポーツには、競技者と観戦者がいる。観戦者の体験と、競技者の「制御不可能性への抗い」が合致したときにはじめてスポーツだといえるといえる。
つまり、ここまでの議論をまとめて定式化すると自分にとってのスポーツは、以下のようになる。
「「スポーツ」を二つの条件の合致として定義する。
存在論的条件:競技者の側で、制御の完成が原理的に不可能な身体との格闘が実際に生じていること
現象学的条件:観戦者の側で、その格闘が想像的に追体験されていること」
この定義だと、自分が思っているスポーツはうまく拾えていそうだ。
本書で説明されていた、記述的定義と規約的定義の中間(スポーツといわれているものを含みつつ、こうあるべきというべき論の内容も含む)
の定義となった。
Posted by ブクログ
<目次>
第1章 「スポーツする」とは何か~<スポーツの定義と起源>
第2章 失敗すると人間は強くなるのか~運動発表会と失敗主義
第3章 体育会系文化とは何か~汗と努力と礼儀と労働
第4章 アスリートはなぜ夢を背負わされるのか~ペスソナ的不正義と青春化
第5章 オリンピックはなぜ魅力的なのか~平和と戦争
第6章 究極の能力は存在するか~ジェンダーとディスビリティ
<内容>
スポーツを哲学するのだが、肯定的ではなく、否定的に見ていく(”アンチ・スポーツ”というタイトルですから)。本書を手に取ったのは、自分も高校という現場にいて、野球部だけが夏休み前(夏の甲子園の予選)に特権され、さまざまな行事やテストが影響を受けていたり、運動部の顧問が妙に威張っていたり、何かしっくりこない気持ちがあったからである。かつては運動部の顧問をしたが、「強くしたい」の気持ちがあったものの、部員が楽しく高校生活を過ごせればいい、ぐらいの気持ちでやってきた気がする。
「哲学書」なので、難しい面も多々あったが、著者の主張は概ね理解でき、賛同できる面も多かった。部活の努力が(成功しなくても。大方失敗する)、社会に出てから役に立つとか、人生は競争だとか、こういうのはレトリックでしかなく、さまざまな体験が社会勉強にはなるだろうが、それはスポーツである必要はない。また「究極の超人」を考える際に、ジェンダーやディスビリティの問題は避けられない。当初のオリンピックや競技会の発想を超えてしまっている現在、誰かが鳥瞰的に作り直す必要があるのではないか?
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ビジネス・実用
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