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悟達の本因坊秀哉名人に、勝負の鬼大竹七段が挑む……本因坊の引退碁は名人の病気のため再三中断、半年にわたって行われた。この対局を観戦した著者が、烏鷺の争いの緊迫した劇にうたれ、「一芸に執して、現実の多くを失った人の悲劇」を描く。盤上の一手一手が、終局に向って収斂されてゆくように、ひたすら“死”への傾斜を辿る痩躯の名人の姿を、冷徹な筆で綴る珠玉の名作。
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Posted by ブクログ
不敗の名人、本因坊秀哉について描かれる。一芸に打ち込むことは美しい、たたえられるべきことに思われるが、本人にとってもそうなのか。客観的にみればそれは悲劇なのかもしれない。しかし、そんな生きざまにあこがれてしまう部分もある。川端康成の文章の静謐さと、名人の碁の凄みには共通するところもあるかもしれない。
平野啓一郎の『葬送』に、「創作とはもっとも死に近づく行為である」というようなことが書いてあったのだけど、ここで言う「創作」という言葉を「芸術」と置き換えても差し支えないだろうと思う。芸術はおしなべて俗な人間の生活を離れた行為だ。名人もまさにそういう人だったのだと思う。この引退碁は文字通り命がけの勝...続きを読む負だったし、対戦相手の大竹七段が家庭人であったのとは対照的に、名人夫妻には子供もいなかった。 名人が敗れたとき、囲碁が芸道だった時代は終わりを告げた。剣道も柔道も、武道からたんなる競技の一種目になってしまったように。川端は文学の人だけど、それももともと芸道にちかいものだっただろう。ほかにも音楽や演劇なんかもそうかもしれない。「道」と呼ばれるものが商業化または大衆化していくと、みんなで楽しめるものになるかわりに、そこにあった崇高な精神は失われていくのだろう。良し悪しだよな。 しかし川端先生すばらしい。仕事帰りの電車の中で読んでいると、電車が最寄駅に着くのが腹立たしいほどだった。私の三昧境を邪魔しないで~。いや、どっぷりはまって降りないでいると、終点の埼玉県まで行ってしまうわけですが……。 ちなみに私は囲碁超弱いです。ちょーう弱いです。
囲碁史上、類を見ないほどに圧倒的強さを誇った本因坊秀哉名人の引退碁観戦記。代表作とはまた違った面白さがあって力が入った。囲碁に留まらず時代や潮流が大きく変わっていく息吹きが感じられた。諦念とも希望とも違うクールな視点も良い。
◆読書メモ ・時代の変わり目、棋道からプレイするテーブルゲームとしての碁に変わる時代が描かれているように思う。今はもう見ることができない、棋道であった時代を知ることができた。 ・変わる時代、変わるルールと共に名人の時代が終わりゆく、失われていく哀しみが美しく描かれていた。 ・最初に結末である名人が負...続きを読むけたこと、そして亡くなった場面から始まる。それによって、結末に向かって何が起きるのか、何が描かれるのか、ぐっと心が集中させられたように思う。 ・七段の121手、名人敗着の130手の辺りは、非常にキューッと心に迫るものがあった。 ・碁のルールがわからないので、肝心の棋譜の手順の部分は全然わからないのだが、人が描かれている部分で十分面白かった。 ・121手は、実際のところどのような意図であり、どのような手であったのだろう? ◆惹かれた心に残った部分 ・「それは一芸に執して、現実の多くを失った人の、悲劇の果ての顔だからでもあろう」(p.26) → 現実の多くの一般的な楽しみは得ていなかったかもしれないが、生き切った深い満足のある人生であるように思うが、なぜ悲劇の果ての顔なのだろうか? ・「こんなにしてまで打たねばならないのか、いったい碁とはなんであろうか」「碁は『無価値と言えば絶対無価値で、価値と言えば絶対価値である』」(p.79)
死んで思い出として残る人になりたい。それにしても子や孫含めてもせいぜい95年。その先は誰も覚えていない。諸行無常
実際にあった本因坊秀哉名人の引退碁試合をベースに描かれた小説とのこと。名人の死を微細に描く始まりから、時間を引退碁興業試合時点にまで戻し、その死に至る試合をなぞることで、碁の盤面上の世界を無機質に表現している。 ここで描かれる秀哉名人は、物腰が柔らかい半面、囲碁・将棋・連珠・競馬といった勝負事に狂う...続きを読む餓鬼道一直線の人物である。いにしえの芸道の頂点としての「碁名人」として、そのクライマックスを賭けて戦う姿は、勝負と芸能美が一体となった前近代の達人そのものだ。 これに対する大竹七段は、現代碁の試合を生きる繊細で研究肌の人物として描かれ、名人最後の試合相手として対称となっている。 半年にわたって継がれた一局の対戦を、秀哉名人の前近代名人の発想と死と隣り合わせの病気、そして試合の申し合わせを簡単に反故にすることの憤りから対戦停止を言い張る大竹七段という図式の中で、とにもかくにも進んでいく。 あまり囲碁を知らなくても読めるかなと思ったのですが、終盤は試合内容の細かい描写が続くので、やっぱり囲碁を知っていないと少し苦しかったです。(笑) 死を賭けた無機質な勝負の世界を、人間世界の思わくに彩られながら、筆者自身が仮託した人物の目を通して硬質な文章で描く。ところどころに挿入される色彩感覚も見事です。
最後の世襲制名人、本因坊秀哉の引退碁を描いた川端康成の作品。碁好きで知られる川端が、東京日日新聞で観戦記を書いた後にまとめたもの。秀哉名人の人となりはもちろん、引退碁の相手となった大竹七段(木谷實)の性質や、戦前の囲碁を取り巻く環境などがよくわかる作品。
囲碁がまだ芸術だった時代の最後の名人の引退試合を追った短編小説 囲碁は本来、名人が見ていたもので間違いないのだろう。 それは芸術であり、神聖なものなのである。
本因坊秀哉名人と、木谷実七段との引退碁を取材したノンフィクション。囲碁観戦記だが、その微に入り祭に穿った描写はさすが。名人が死ぬ二日前、夕食を一緒にと強く勧められて振り切って帰ったことが、実は川端さん、相当心にあったんじゃないかな。それがこの本の出来に寄与している部分もあるのでは。 構成もおも...続きを読むしろい。冒頭に名人の死んだ時の話から引退碁の観戦記者をした話。そこから引退碁の最後の場面で名人が五目で負けた瞬間の記述。大竹七段の人となり、家族のことなどの説明。 次に打ち初め式からうち次がれる間のいざこざ。死に顔の写真を撮る話。そこから打ち初め式に戻り、名人の一本だけ長いまゆ毛の話。観戦記が順番に続く。最後に亡くなる直前の最後の逢瀬の描写が切ない。
囲碁最高位、本因坊名人の引退碁。 持ち時間40時間。打ち掛け14度。半年に及ぶ、世紀の一局を川端康成が観戦記者として描いた作品。 両者へのインタビューは無い、ひたすら第三者の川端の視点から描かれた。 インタビューを用い、競技者の心境を描くことが第一と考えられている現代。 作者の場面場面を切り取った...続きを読む描写の連続は、「本」というより写真展にいるかのよう。 こういうノンフィクションの描き方もあるのだなと感じさせられる。 ○名人引退碁…名人の病気、衝突する現代と前近代、紛糾するルール、敗着。 1つのノンフィクション・ドラマとして。 ○場面場面を目に浮かぶように切り取る筆者の描写。 ○囲碁を「芸術」とする名人。と「ゲーム」「競技」として勝負に拘る挑戦者 前近代と現代のぶつかり合い、時代の移り変わり 囲碁。歴史モノ、ノンフィクション、人間ドラマ…どのジャンルとして見ても引きずり込まれます。 ☆☆☆☆。
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