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Posted by ブクログ
この本の感想を書くのは、かなり難しいのかもしれませんが、しかしながら、書かずには前に進まないので、敢えて多少書きます。
漱石先生の全体的な作風は、以前のままなのですが、ひょっとしたら、作品自体が暴風雨アラシの前触れみたいな感じなのかもしれないと思いました。
人生に対して、真っ正面から臨む漱石先生ですから、佳作という事は無いに違いないでしょうが、しかしながら、「何で?」は尽きないのかもしれません。
でも、後期3部作という位ですから、次回作の『こころ』は非常に楽しみです。
途中、ウィットにも富みながら、愛くるしい登場人物に思いを馳せながら、楽しむ事は出来ると思います。
Posted by ブクログ
精神のバランスを崩してしまった人と家族の苦悩、そして結婚について考えさせられる小説。(後期三部作のうち2作目 大正元年から大正2年まで朝日新聞連載)
最後の最後まで考えさせられ、ひきつけられる内容でした。深い海の底に沈んでいくよう。
一郎と二郎の2人兄弟。兄の一郎は学者で、精神が過敏。弟の二郎は大らかな性格。
一郎と妻(名前は直)の夫婦仲は冷え込んでおり、一郎は家族や親族から、腫れ物を扱うような対応を受けている。
家族間の謎めいた、厚いベールにおおわれた部分を見ている感じで、ゾクゾクするおもしろさがあります。
一郎と妻の結婚生活だけではなく、他の結婚話もなかなか読ませる内容です。(一郎の家の書生である岡田と兼の結婚生活、下女である貞の結婚話、一郎の父が話す、盲人になった女性の話、結婚に踏み切らない二郎)
一郎の精神状態の異常さが露見する事実、それは弟の二郎に次のことを頼む場面。
“妻の節操を試してほしい”“和歌山に行って一晩泊まってほしい”
な、な、何というコト!弟の二郎、度肝を抜かれます。二郎は兄嫁と同室になり、こんなことを言われます。
「....大抵の男は意気地なしね、いざとなると」
『三四郎』(夏目漱石)で三四郎が、同室で一泊することになった女性に言われた言葉が、想起されます。「あなたは余っ程 度胸のない方ですね」
“意気地なし”“度胸のない”女性の言葉が辛辣過ぎて、若い男性、かわいそう。
二郎は、兄と一緒に同じ屋根の下にいることがいたたまれず、最終的に家を出ます。下宿先で兄を忘れたかと思っても、心配でならない二郎。
二郎は兄の親友Hさんに、兄を旅行に誘ってもらいます。親友のHさんから、旅行中の兄の様子が記された手紙が届きます。その内容に圧倒されました。Hさんは精神を病んでしまった一郎を、あるがままに包み込んでいる。カウンセリングマインドで接している。Hさんの心の広さそして、一郎の真面目すぎるほどの純粋さが迫ってきました。
重い内容で苦しい気持ちになりますが、己の心、他人の心の捉えどころのなさ、そして精神を病んでいる人の心情を、ここまで文章化できる夏目漱石の能力はすごいです。
一郎の言葉「自分に誠実でないものは、決して他人に誠実であり得ない」 心に残りました。
Posted by ブクログ
夏目漱石
(1867-1916)1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表し大評判となる。翌年には『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。
Posted by ブクログ
作品と著者に関して私の記すに及ぶものでは無いので控えるが、私が手に取って読んだ本そのものを紹介したい。
とある古本市でたまたま見つけたもので、大正十年九月二十五日十八版のものであった。百二歳の祖母の生まれた年に発行、発売されたものということで思わず即買いした。表紙というか外装というか布製で押絵も施され、背表紙には”行人 漱石”と布に刻印?された豪奢な感じで、当時、とても高級な本として売られたものと思う。定価は一圓八十銭と書かれ、MITSUKOSHI.LTD TOKYO の 切手、印紙のようなものが貼られている。印刷は、今は印刷が取れた凸版印刷株式会社。お宝的に保管して置こうと思ったが、その後、体調崩したりと今ひとつのことが続き、何となく、この本が、読め!と言っているような気がして、なるべく傷まないように、一頁一頁気を付けながら読んだ。仮名遣いや旧漢字であることはもちろんのこと、校正ミスも沢山あり、読むのがかなり難儀だったが、多少、表紙がそり返ったり、綴じに歪みが出たりしたものの、大きく損傷することなく、読み切った。歴史に名を刻み、国を代表する文豪の本を100年を越した今において、当時そのままに手に取って味わえた。この本を最初に買って読んだ人が、100年経って尚、その本を私が読んでいることをもし知ったら、どんなふうに思うかな?なんて感慨にふける読後だった。
Posted by ブクログ
知識人の幸せは難しいなぁ。漱石をずっと順を追って読んでるけど、男と女、古い価値観と新しい価値観といった単純な二項対立じゃなくて、行人は肉親の家族や夫婦でありながら理解できない他人の精神の作用と苦悩みたいなものが書かれていて、文学として重厚に感じる。昔の交流と他人への影響力があると思っていて、でも深くは考えられない父、現代的だけど鉢植えの木である嫂の直、気難し屋なだけでなく、碁を打つのは苦痛だが逆に碁を打たずにはいられない、漠然と苦しくもがき続ける兄、といった人間の性格と考えが本当に冷静に正確な目で書き表されている。
こういうのを読める歳になったのかなと思いました。
Posted by ブクログ
夏目漱石(1867-1916)の後期の長編小説、1914年。 所謂後期三部作の二作目で、『こころ』へと続くことになる。
生きていく人間を苦しめるこの世界の厳粛な事実というのは、根本的にはただ四つだけだと思う。①人間は必ず死ぬということ(有限性)。②人間は時間を戻せないということ(不可逆性)。③人間は他者の内面を知り得ないということ(不可知性)。 ④人間は自己を知るということがいかなる事態かを知り得ないということ(自己関係性)。
このうち、本作が扱う主題は③の苦悩である。
□
他者の気持ちを知ること、他者の気持ちを操作すること。これらは理性の限界を超えている。他者は理性にとって予め到達不可能である。よって、理性によってこれらを叶えることは論理的に不可能である。にもかかわらず、理性はそうした自らの無力を顧みず、虚しくその願いの実現を希求せずにはおれない。理性はかくも僭越なものだ。理性はそうした自らの限界があるにもかかわらず、そんなものは無視して、認識し得ない物事についても何らかの認識を得ようと、越権行為を辞さない。人が何らかの観念を得ると、理性はその観念を対象化し、その観念に関する埒も開かない空語をその観念のまわりにまとわりつかせる。とかく理性は考え過ぎる。ほどほどというのは理性の定義に反するのであって、理性とはそれ自体で極端なものだ。理性の対象化作用は無際限に続く。分不相応であるが(超越)、分不相応であることが当の「分」である(内包)という矛盾。
「昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。兄さんは自分の心がどんな状態にあろうとも、一応それを振り返って吟味した上でないと、決して前へ進めなくなっています。だから兄さんの命の流れは、刹那々々にぽつぽつ中断されるのです。食事中一分毎に電話口へ呼び出されるのと同じ事で、苦しいに違ありません。然し中断するのも兄さんの心なら、中断されるのも兄さんの心ですから、兄さんは詰まる所二つの心に支配されていて、その二つの心が嫁と姑の様に朝から晩まで責めたり、責められたりしているために、寸時の安心も得られないのです」(p358)。
その果てに見出されるのは、他者の透明な内面ではなくて、他者の内面を強迫的に窃視しようとする支配欲に憑かれた自己の姿、透明を曇らせている当の自己の姿、だけである。透明は、理性の僭越な欲望の中にのみあり、理性の構制そのものによって予め否定されている。こうして、理性は自らの条件によって他者と世界から徹底的に疎外され、エゴイズムと孤独のうちに永久に囚われるしかない。理性の僭越な徹底性が世俗の幸福を無限遠に投げやってしまう。
では、理性が他者と世界から疎外されてしまう苦悩は、いかに解消することができるのか。この苦悩が理性の対象化作用(それは、作用の対象をオブジェクトレベルに置き、作用の主体をメタレベルに置くという仕方で、自他分離を惹き起こす)からくるとするならば、理性そのものを無化するしかない。理性を無化することによって、自他未分離へ回帰しようとする以外にない。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」(p357)。
「兄さんは純粋に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度この境界に入れば天地も万有も、凡ての対象というものが悉くなくなって、唯自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有とも無いとも片の付かないものだと云います。偉大なような又微細なようなものだと云います。何とも名の付け様のないものだと云います。即ち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音は則ち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、従って自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、又苦しめられる懸念も起らないのだと云うのです」(p370)。
「僕[一郎]は明かに絶対の境地を認めている。然し僕の世界観が明かになればなる程、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図を披いて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆を着けて山河を跋渉する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮り抜いているのだ。僕は迂闊なのだ。僕は矛盾なのだ。然し迂闊と知り矛盾と知りながら、依然として藻掻いている。僕は馬鹿だ。人間としての君[H]は遥に僕よりも偉大だ」(p372-373)。
しかし、こんな破壊的な仕方によってしかこの苦悩を解消できないとするならば、これは人間が決して克服し得ない宿命なのではないか。
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自己の内に他者を見出し、自己を他者と不可分とみなす「分人」主義の考えは、こうした近代に典型的な論理的苦悩を組み替えてしまう可能性があるかもしれない。
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