① 足利義満と公家社会
足利義満は、16歳で参議・左近衛中将、21歳で権大納言・右近衛大将、25歳で左大臣、37歳で太上大臣、それに加えて准三后の待遇を与えられている。祖父の尊氏、父の義詮が共に権大納言で終わったのに対して、その官位待遇は比較にならないほど高い。義満の公家社会への接近は「義満の公家化」として古くから知られているが、単に公家社会に憧憬を抱いただけでなく、自らも学問・藝能に広く通じて、時に主催し監督したのが特徴である。義満は朝廷にて内弁を多く勤めており、左大臣として多くの朝議・政務を実際に指揮監督した。義満の指南役は、関白の二条良基であり、二人の関係は師弟関係として良好だったとされる。義満は朝廷において、良基に伝授された振る舞いの流儀内で行動しており、それは「摂関家の支配する文化圏に留まることを意味する」(P.95) と述べられている。
② 日明(勘合)貿易について
義満といえば、歴史の教科書では勘合貿易を始めた人物として知られているが、その際に「日本国王」と称したことから、天皇・将軍を超越しようとした捉え方がある。しかし、これは誤謬であるとしている。義満が、まず求めたのは貿易の許可であり見返りとしての巨額の貿易利益である。そもそも義満は国内向けに「日本国王」を称したことはなく、廷臣も大臣も「日本国王」として意識していない。幕閣はこの号に否定的であり、義満の国内の政治的地位になんらかの影響を与えた痕跡もないようだ。(P.227) ただの貿易交渉における方便だったといえよう。