前に読んだ『英米文学のわからない言葉』という本で、翻訳者である著者が紹介していた本。元消防士、警察官、医者、看護師、退役軍人、牧師といった人の死に向き合うことが相対的に多い職業の経験者と、自身が生死を彷徨った経験を持つ色んな職業の人たちと、上下巻合わせると63人ということらしいが、上巻は28人。このうち現在は看護師で、広島の被爆者である人の話を、翻訳者の先生が勧めていた。これらの証言を聞き取った著者のスタッズ・ターケルという人はラジオパーソナリティーや俳優の仕事もしつつ、作家としてオーラルヒストリーの収集で有名な人らしく、2008年に96歳で亡くなったらしい。この本はもともと2001年に書かれたもので、Will the Circle Be Unbroken?(つながりは壊れないのだろうか?)が原題。
死について考える、ということだけど、結局はこれまでどう生きてきたかを振り返り、どう生きるかについて考えた上で、どういう死を望むか、死後の世界や天国や地獄、神の裁きはあると信じるか、あればどのようなものか、といった話をそれぞれが語っている。
今の時代の日本人のおれが読むと、1つは時代の問題、もう1つは文化的背景や宗教観の問題があって、この2つのハードルを越えないと、なかなか共感したり、自分に引きつけて考えることがちょっとだけ難しい、かもしれない。2001年に書かれたので、例えば時代背景がベトナム戦争とか公民権運動とか、なかにはキング牧師のところで働いたという牧師もいて、国が違う上にそれだけ時代が変わると、もちろん医療や通信のテクノロジーも全然違うし、価値観は現代人と違うところもあるのかなと思ってしまう。もう一つは、特に後半の「臨死体験」のところで、いみじくも宗教に懐疑的な1人が言っているが、生死を彷徨う場面で、「結局、自分が期待しているもの、自分がみたいと思うものをみるんだから。」(p.398)というのは、本当にそういうことなんだじゃないかなと思う。ここに書かれているような個人の体験の正当性を主張している人は怒るだろうし、別にそれを否定するわけでもないし悪いことだとも全く思わないけど、やっぱり生死の間を彷徨う状態は、弱い麻酔の効いたような状態で、夢見ているのと一緒なんじゃないかな、ということを思った。つまり、キリスト教に馴染みのない日本人からすると、そこでの体験やイメージが、なんか想像しにくい感じなので、その部分の語りはもっと昇華させて読む必要があるのを感じた。だから、もし日本人を対象にこういう聞き取りをするとどうなるのだろう、というところに興味が湧く。
この2つの点を考慮すると、割と読みやすい部分、考えさせられる部分はとても多く、やっぱり誰かの「オーラル・ヒストリー」って、自分の人生を考える糧になるよなあと思った。以下は印象的だった部分のメモ。まず元消防士の話から。この人も1988年に消防士を辞めて事務職になった、というから、まさに91年に公開された「バックドラフト」の世界だなと思った。その中で、床が崩れて落ちそうになり、その腕をつかんだ2人の消防士に、「おれにかまうな。どうせ落ちる。道連れにはしたくない」(p.61)と言ったら、「落ちるときは、おれたちも一緒だ」(同)と言った、なんてまさに「バックドラフト」の1シーン。"You go, we go."のことなんじゃないかと思うと、あの映画はこの人の話から取ったのかとすら思った。この人の兄は元警官で、その人の話にも書いてあるが、消防士も警官も平均寿命が短い、というのは今の時代も、あるいは日本の場合もそうなのだろうか、と思った。次は医師の言葉。「われわれは年を取るにつれて、悲しみをより深く感じるようになり、より大きな罪悪感にとらわれるようになります。それは、自分自身がどんどん死に近づいているからです。」(p.85)ということで、英語の教員としてはここを英作文させたい、とか関係のないことを思いつつも、そういうものなのかなと思った。なんか歳を取るといろいろ慣れてきたり鈍くなってきたりして、逆にそういう感覚を持たなくなるものなのかとか思っていたけど、もっと深い段階に行く時があるということなのだろうか。別の医師の話では、「たとえば、何百万ドルっていう大金をつぎこんで、超未熟児で生まれた赤ちゃんの命を救ってるけど、そういう赤ちゃんは身体中にチューブを入れられて何か月も苦しめられた末に、脳に障害が残って一生施設に収容されたままつらい人生を送るか、死んでしまうケースが多いの。でも一方で、街で飢え死にする子供もたくさんいるわけ。もし超未熟児医療に費やすお金を、そういった子供のために使えば、そのうちの半数が健康に生きのびることができるのよ。」(p.97)という部分は、かと言って超未熟児を救わない選択をするというのはどうなのだろうか。命の選択とか、トロッコ問題に通じるところがある気がする。次にER現場の医師が、外科医の特徴、という話をしていて面白かった。「だいたいが行動的で、自己中心的で、自信過剰気味。とくに外傷センターに勤務する外科医は、最小限の情報をもとにすばやく行動しなくてはならないから、その傾向が強い。(略)たいていの外科医はひどい自信家だから、嫌われることが多く、ほかの人間をばかにする傾向もあります。しかし、これは死後の性質上しかたのないことでもあるんです。自分に自信がなければ、人の身体にためらわずにメスを入れるなんてこと、できやしませんから。(略)問題は技術的なことではなく、意思決定のプロセスなんです。」(pp.103-4)というのは、納得した。確かに職業によって、ある種の性格に偏りがある、っていうのはやっぱり、って感じだった。おれも昔やってた仕事は、結構瞬間瞬間に判断を迫られることが多い仕事だったけど、職場のベテランのおじさんが「血液型で人を分類するのは科学的じゃないって分かってるんだけど、だけどやっぱりこの職場B型多いんだよな。普通の割合から考えたら明らかに偏ってるよな」って話してた。いくら謙虚で気遣いをすべきだと思っていても、ある種の仕事に就くと、自分が普段だったらしないような行動をするような奴にならないとプロとして質の高い仕事ができない、ようなそういう仕事はありそうだ。結局、向き不向きの話になるのだろうけど。キャリア教育、というのは今の教育のトピックの1つだけど、いっそ現役の人たちにインタビューして、自身の性格とか、訓練や経験でどの程度容易に自身の性格とその仕事で求められる性格とのギャップを埋められるものなのかとか、そういうものを何かにまとめるというのが良いかもしれない。あと、同じ医師の発言で共感したのは、「命というのはとてももろいもので、いつ消えてもおかしくないんです。日々頭を悩ましていることなど(略)どれもささいなことです。それより、われわれに与えられた最もすばらしいものは時間だということ、つまり生きていることそのもののだと、心から気づくべきなんです。」(pp.106-7)という部分だった。別の、映画の撮影監督、という人も、「死を強く意識するようになって、時間のとらえ方が以前とまるで変わった。やりたいことはすぐにやるようになったんだ。(略)もうじき死ぬかもしれない、と思うと、解放感を感じる人もいるかもしれないが、自分の場合は少し緊張感が増した」(p.223)と言っている。なんか最近、おれ自身が中年の危機真っ最中で色々悩んでしまうが、こういう時だからこそ時間を大事に、自分にエネルギーがあるうちは行動しないと、後から色々思っても遅いし、そういうことが積み重なると後悔の人生ということになるんだろうか、と思っている今日この頃。そういうこともあって、この本を読んでみようと思ったのだけれど。自分が死ぬということに早く気づけば気づくほど、人生をうまくまとめられる確率は高くなるのではないか、とか思うが、それも短絡的なのかな。同じ医師の話で、リビングウィルということが言われて久しいけど、それがなかった場合、「医者が患者の家族に問うべきなのは、『どうしてほしいですか?』ということではないと思います。わたしはこうきくことにしています。『もし、ベッドの患者さんが話せる状態だとしたら、なんとおっしゃるでしょう?あなたなら彼の気持ちがわかるでしょう。親として(あるいは妻として)彼の生き方をご存じなのだから。どうでしょう?ご本人はなんとおっしゃると思いますか?』」(p.115)というのは、なるほどと思った。確かに家族の思いで無理に生かしておく、ということではなく、本人がどうしたいかに目を向けさせ、一生懸命考えさせる、というのは、本人に寄り添うという意味で、理に適っていると思う。ところで、上巻の28人の中で、おれが衝撃的だった何人かの一人は、「元死刑囚」の話。明らかに人種差別の南部で死刑になりそうになった黒人の話が、なんとも生々しく、こういうところにオーラル・ヒストリーの力があるのだろうなと思った。「判決が覆されたときの票数は四対三。四人の判事が無罪だといい、三人が有罪だといった。七人とも高い教育を受けた人たちだ。その七人が同じ証拠やデータをみて、なぜ正反対の結論に達したか?それは知性や理性じゃなく、何か別のものに基づいて判断したからだとしか思えない。おそらく、文化的な条件反射みたいなものだろう。ある特定の考え方をする人間にとっては、おれはどうみても有罪なんだ。なぜか?白人の女性がおれのことを犯人だといったから。そして、おれはでかい黒人だから。」(p.192)という言葉をもっと重く受け止めないといけないし、教育されなければならないと思う。結局人は感情で動く、という事実。それが些細なことならどうでもいいのだけど、人の生死を左右する事態を前にして、教育や理性が無効になる恐ろしさ。「文化的な条件反射」だとすれば、もっと集団心理的なものに関係あるかもしれない。こういうのは人間の仕方ないところなのだろうか。でもこれで人が死ぬのだから、仕方ないでは済まされないし、むしろ医療や産業の発達とかよりもこれを抑える何らかの技術や方策が開発された方がいいのではないかと思う。いや、医療や産業が発達することでもっと人の感情まで変わるような環境になるのだろうか、とか考えた。もう一つ衝撃的だったのは、ベトナム戦争の話をする人が何人かいて、そのうちの放射線医の話。戦争の話は、果てしなく残酷なのだけど、ここに登場する人も例外ではなかった。「ひとりの兵士が、お母さん助けてとわめくと、軍曹が黙れとどなりました。われわれはまったく新米の兵士で、ただもうなすすべもなく敵の攻撃にさらされていたんです。わたしも心底震え上がった。しかし、ほとんどの兵士がいちばん恐れていたのは、仲間の前で勇敢に振舞えなくなることだったような気がします。仲間から臆病者だと思われたくない一心で、なんとか持ちこたえていた。星条旗のためでもなければ、お国のためでもなく、アメリカのためでもない。隣にいる仲間の兵士に軽蔑されたくないという気持ちだけが、支えだったんです。」(p.202)という話は、太平洋戦争の時の日本兵も同じだったんじゃないかと思う。最近、知覧に行って、特攻平和記念会館というところで、特攻兵やそれを送り出した銃後の人たちの証言にたくさん触れたが、もしかしたらアメリカ人以上に、日本人の同調圧力的な部分、軽蔑されるというより、何だったら制裁されるという恐怖の部分が大きいのではないか、とか思った。もう一人、退役軍人でPTSDに悩まされる人の話はもっと生々しかったが、最後の言葉、「失敗した回数ではなく、成功した回数でおれを評価してくれ。成功した回数は、失敗してもあきらめずにトライした回数に正比例しているから。」(pp.257-8)って、かっこいい。かっこいいけど、おれ全然成功した回数より失敗した回数の方を数えちゃうな、とか思って、言うほど成功したことあるかな?とか思ってしまった。あと、別の臨死体験を述べた人の言葉で、ちょうど一冊前に読んだ『絶望名言』の遠藤周作と同じようなことを言っている人がいたのは印象的だった。がんの化学療法で本当に辛い時に、「自分をかわいそうがってちゃだめなんです。自分は大丈夫だって思ったほうがいいし、実際にそのおかげでぼくはがんばり抜けた気がしますー笑い飛ばすことでね。ほんとに、ユーモアと笑いには何よりも助けられましたよ。そうやってばかみたいに笑い転げることが、ときどきあってね。」(p.364)という部分。別の人も(最初の消防士だっけ?)とにかくユーモアでバカみたいな話にしてしまうのがうまい奴が多い、という話があったけど、面白がる、って人間だからこそ出来るすごい能力なんだなと思うし、おれも大事にしたいと思う。最後に出てくる双極性障害の物理学者の話もすごい話だったけど、まず「ニューメキシコ州の砂漠の町ロスアラモスにある国立研究所で働いている。ロスアラモスは閉鎖的な小さな共同体、いわば科学者たちだけが住む小国ともいうべきところで、アメリカではすでに伝説の地となっている。一九四五年に原始爆弾が製造されたのは、外界から隔絶された、まさにこの場所でだった。」(p.415)って、言われてみれば聞いたことあるなと思ったけど、今もそんな場所があるんだろうか。自殺未遂もしたこの人は、自殺は「間違っている。なぜなら、自分の人生は自分だけのものではないからです。人生の一部は、ほかのみんなのもの、自分を愛し大切に思ってくれているみんなのものなんです。わたしは思いました。もし自分が自殺すれば、妻がわたしに注いでくれたもの、すなわち妻の一部までも殺すことにとになる。さらに、わたしを友人として、あるいは教師として知っている、ほかのみんなのそういう部分も殺すことになる。それは殺人だ。(略)自分が解放されることを求めるのはいいが、そのことでほかのだれかの一部を殺してはならない。」(pp.419-20)と思って、思いとどまったらしい。関心を自分に向けるだけでなく、その究極の状況でも関心を広げられたということがこの人を救ったのだろうと思う。「最も暗い闇のなかにいるときこそ、光が最もよくみえる。だから、闇のなかで過ごすといのは、天から与えられた特別な才能なのだ」(p.421)というのは、これも『絶望名言』のベートーヴェンの歓喜の歌と似てるなとか思ったけど、こうやって逆説的な解釈を可能にするのも人間の力だと思う。
結果として、死について考えることは、人間の弱さに向き合うだけでなく、今何が出来るのか、人間の強さはどういうところにあるのか、といったことについて考えさせられる本だった。下巻にも続くのだけど、ただちょっとお腹いっぱいになってしまったので、残りの夏休みはもう少し別の本を読みたい。(26/08/08)