内海隆一郎『鰻のたたき 新装版』光文社文庫。
ハートウォーミングな傑作短編10編を収録。既読ではあるのだが、珍しく新装版が刊行されたので再読してみることにした。
内海隆一郎の作品を初めて読んだのは、約40年程前のことである。大学を卒業し、岩手県の一関市という田舎町に移り住み、働き始めた頃だ。たまたま書店で見付けて読んだ『人びとシリーズ』の1作が面白く、たちまち内海隆一郎の虜になった。解説を読むと、内海隆一郎が名古屋から疎開し、一関市で青春時代を過ごしたことを知り、何かの縁を感じた。内海隆一郎の作品には『北の駅』を始め、一関市が舞台としたものもあり、そうした作品と出会うのも一つの楽しみとなった。余り漫画を読まぬ自分であるが、唯一のファンであった谷口ジローが内海隆一郎の作品を漫画化し、『欅の木』という作品にまとめて刊行した時には大絶賛したものだ。この『欅の木』の中では『彼の故郷』が最高だった。
いずれの短編も小さな料理屋や酒場を舞台に、もはや過去の遺物になろうとしている日本人の優しさや美徳を描いており、読み終えるとホッとするような短編ばかりである。
『鰻のたたき』。文章の端々から滲み出るような人情。人生には付き物の出会いと別れ。今の世の中ではとても考えられない温かい人と人のつながり。
島根県松江にある料理屋の川郷は園田達夫と市子の夫婦で営む15席しか無い小さな店であるが、宍道湖や中海でとれる魚料理が看板で、中でも鰻のたたきには定評があった。常連には単身赴任者も多くおり、彼等は数年の任期を終えるとこの地を去っていくのだ。店主はせっかく馴染みになった客との別れが何時もやるせないものだった。
ある日、見慣れぬ2人の女性客が川郷を訪れるが、店は満席で翌日の予約を入れて店を後にする。翌日、2人の女性客は時間通りに店を訪れ、かつてこの店の馴染み客だった立花の妻と娘であることを告げる。
『板場の水』。家族という強い絆と家族以上に信頼出来る強い絆。今の世の中、家族以外で、信頼出来る人物というのはなかなか居ない。太宰治の『走れメロス』はもはや現代では意味が通じないのかも知れない。
新橋の古いビルにある小割烹花野は名高い店ではないが、初老の店主・岡村清治の料理に惚れて通って来る常連客でいつも満員になっていた。だが、ある日、清治が自転車で小型トラックにぶつかり転倒し、利腕の右手首を脱臼し、包丁が握れなくなる。
やむなく、調理師会に相談し、臨時で若い板前を雇うことになった。22歳という余りにも若い板前に店の存続も危ぶまれたが、若い板前の手際の良さと確かな技術に清治は驚かされる。
あと1週間で臨時雇いの期限である1ヶ月になろうという頃、青年は急に休みを取ると店に来なくなる。
『赤い煉瓦』。色々あっても一緒になるべくして一緒になった夫婦の絆は強い。
酒亭汽船を営む木村昭治と友子の夫婦。店を大きくしようと投資を続けていた昭治だったが証券会社の営業の口車に乗り、大損してしまう。以来、酒浸りとなった昭治に見切りを付け、違う男と一緒になろうとしていた友子だったが、家出しようとしていたところ、昭治が倒れてしまう。
『正月前夜』。人の恩義の巡り合せという人生の機微。現代では、『あの時、お世話になりました鶴でございます』的な話はなかなか無い。
学生時代に北海道を旅行していた時にスーパーに立ち寄ったら、お婆さんが何やら品物を探しているようで、自分に品物の在処を尋ねて来た。恐らくこちらだと思うと言いながらお婆さんを品物の並ぶ棚の前まで連れて行くと、涙を流しながら感謝され、親切なお方は何処から来たのかと聞かれた。盛岡から来たのだと言うと、南部潘のお方でありんしたかと、今度はお婆さんに拝まれたことがある。
舞台は、ママが独りで切り盛りするカウンター8席とテーブル2つの佳代という小さな飲み屋。佳代の常連で水道工事店の下請け作業をする杉浦は、ここ半年で惚けてしまい、どうやら水道工事店から頼まれた仕事も放り出しているようだった。
何時ものように佳代で独り言を呟きながら酒を飲んでいた杉浦の元に水道工事店の社長がやって来て、年内に完了するよう頼んだ仕事が進んでないことを指摘し、杉浦の下に若い衆が居ないのなら、完了する見込みが無いので仕事を引き上げると宣言した。しかし、佳代で飲んでいた2人の青年が自分たちが杉浦の下で働くと社長を取りなした。
『親ゆずり』。子供は親に似るとか、子供は親を映す鏡であるなどと言われる。もっとも、親からすれば子供に似て欲しくないところが、強く似るのだから不思議なことだ。
原田由蔵と秀子が切り盛りする小割烹北浜は、新鮮な魚介類を扱うことと、確かな料理の技術で評判の店だった。ある日、次男の伸二の通う高校から親に呼び出しが掛かる。このままだと伸二が退学になると、秀子は由蔵に高校で教師と話してくれるように説得する。
しかし、自らも高校中退で根っからの学校嫌いの由蔵は高校に行くや緊張の余り、何も言えずに帰宅する。
『朝の定食』。家族との別れ。それだけでも悲しい気持ちになるが、さらに輪をかける残酷な結末。しかし、それも自業自得。
駅前食堂の喜多屋で朝食を取ることを日課とする屋外広告制作社の望月社長と従業員の松田と原。松田は毎日、どこか知らない駅の構内を迷い歩く夢を見ていた。そんな中、家族の話になり、松田は実は結婚していたのだが、12年前に婿養子で入った青森の林檎農家を飛び出し、東京に逃げて来たことを告白する。
『ポテトサラダ』。兄妹の絆は強い。ましてや両親の居ない2人切りの兄妹であれば尚更だ。妹のことを思いやる兄の気持ちと兄のことを思いやる妹の気持ちが巧く織り込まれている。
鰻の寝床のような番小屋を切り盛りする高木雄吉と32歳になる妹の春子。番小屋では大皿から酒の肴を取り分けるスタイルで中でも春子の作るポテトサラダは大人気だった。
早くに両親を亡くした雄吉と春子は施設で育ち、春子と8歳違いの雄吉は18歳になると春子を迎えるために必死に働き、番小屋を譲り受け、経営するに至ったのだ。そして、春子が17歳の時に雄吉は施設から春子を引き取る。そんな春子が突然、家を飛び出し、大人気のポテトサラダが店に並ばなくなった。
程なく、春子から連絡があり、結婚したい相手が居ると話す。
『山菜摘み』。少し歯車が狂い始めた女性同士の友情。相手が自分をどう思っているか疑心暗鬼になりながらも、ふと気付く本当の気持ち。
女将の玉江と料理担当の菊さんの2人の女性で切り盛りする山菜を使った料理が売りの居酒屋淡々亭。玉江と菊さんには同じ歳の息子がおり、玉江の息子は大学生で菊さんの息子は高校を中退し、パチンコばかりしていた。
ある日の朝、いつものように玉江と菊さんが山に山菜を摘みに行くと玉江が崖から落ち、足を挫いてしまう。玉江が必死に菊さんの名前を呼ぶが、助けに来る気配が無く、様々な思いが頭の中を駆け巡る。
『乳母がわり』。長年、水商売を続けていると女性同士のつながりが強くなるのだろう。中には面倒見の良い先輩格の女性も居て、そういう女性は様々なトラブルに巻き込まれることになる。夜の酒場にはドラマがある。
ある日、BAR瞳のママの静子の元にかつて働いていた久美が3歳の娘を連れてやって来た。夕方5時まで娘を預かって欲しいと娘を静子に託し、出掛けたが、5時になっても帰って来る気配は無い。
1時間程遅れて久美がやって来て、娘を引き取り、ひと安心したのも束の間、今度は静子が最初に雇った豊子の娘のミドリが家を飛び出し、店にやって来た。
『大事な客』。一緒になった男女。誰にも相手には知られたくない過去の一つはあるものだ。長く生きれば生きる程、様々な経験を重ねれば重ねる程、知られたくない過去は増えていく。
小割烹きたかみは、店主の川崎洋三とその妻で女将の妙子、従業員の弘で切り盛りしていた。ある晩、立原と名乗る薄汚い50歳過ぎの男が店にやって来ると、大事な客だと言い、厨房をそっちのけで、2階に上がり、2人で酒を飲みながら話し込む。何やら不穏な空気を感じた妙子が洋三に説明を求めるが、妙子を家に追い返し、立原と2人で飲みに出る。
本体価格840円
★★★★★