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美術を見るのが好きなんだけど、世界の素晴らしい美術ってほとんど宗教と切っても切り離せない関係があるから宗教を勉強することは欠かせないと思う。
白洲正子さんはGoogle先生が居ない時代に日本中を旅してこのクオリティのエッセイ書いてるなんて能力高すぎるよな。私はGoogle先生が居なかったら旅しても見たいものの1/10ぐらいしか見られないで帰る羽目になりそう。Google先生を味方にして旅をしてるバージョンの白洲正子先生の旅エッセイも読みたいと思った。
日本百観音・・・西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた、100ヶ所の観音巡礼を指します。観音巡礼とは、観音様(観音菩薩)を本尊とする寺院を巡礼することです。
”歌舞伎は外の者にはわからない醜いことも多いだろう。絢爛たる歌舞伎の芸術は、そこから咲き出た泥中の花なのだ。”
って白洲正子が言ってるけど、宝塚も同じことが言えると思う。自国の文化を否定するLGBT活動家の東小雪っていう共産主義者がテレビに出演して、今回の事件は悲しいけど、それとは関係なく、宝塚内の厳しいルールにまで問題だとか言ってたけど、日本で100年の伝統を持つ芸能を生ぬるい時間労働のパートみたいな精神でやってるわけないよね。
白洲正子
1910~1998。評論家・随筆家。日本の古典・芸能・美術・工芸などを研究。祖父は海軍大将樺山資紀、父は貴族院議員愛輔、夫は白洲次郎。著書に『かくれ里』『近江山河抄』『明恵上人』『西行』『日本のたくみ』『お能の見方』など多数。
神に祈る姿は、世の中で最も美しいものの一つです。どんな無智な人でも、一心不乱に祈る時は、いかなる聖者にも劣らぬ、犯しがたい美しさにあふれます。もしかすると、寒夜に太鼓をたたいている田舎のおばあさんの方が我々よりはるかに神様に近いのではないか、などと思う時もあります。彼等は、まるで犬に一人の主人しかない様に、日蓮上人の信仰を通じて、仏というただ一つの存在しかみつめてはいません。それだけがたより、──生きる為にただそれだけが必要なのです。そして、死んだらうたがいもなく極楽に行けると信じ、安心し切っています。安心出来るという、これ以上の強味は人間としてない筈です。
いつのまにかわが日本には、信仰というものがまるで姿を消した様です。昔の人たちは、たしかに一人一人が何かの形で神を信じていたのですが、いつの頃にかそういう習慣はなくなってしまいました。それはどこの家にも仏壇や神棚はありましょう。けれども、それは単なる形骸、それ程でなくとも僅かに形式的の名残りをとどめているにすぎません。天照大神も、釈迦牟尼仏も、戦争中こそやかましく云々されましたけれど、神風と云った様な御利益がなかった為に、今では多少うらまれている形です。しかし、人をうらむより我をうらめです。神風なんて愚にもつかないもの、しこうして神聖なるものを、おそれ気もなく祈ったその報いが今や我々の上に天からくだったのです。
世の中に、神や仏より美しいものは存在しないと私は信じます。無智な人でも、その祈りの姿が美しいのは、神の国へジカに通じているという、一種の共通点があるからです。又奈良の仏像の群がたとえようもなく美しく思われるのは、無論そのモデル、──彫刻家の夢みた仏の姿が美しくあったからにきまっていますが、それ程美しい仏を みた 作者の信仰の力がいかに烈しく、いかに強いものであったかに思いを及ぼさずには居られません。そういう意味で、私は、東西を通じて、宗教画とか神や仏の彫像が芸術として最高の物であると思います。ギリシアの彫刻をお思いなさい。藤原時代の仏画の数々を思い浮べて御覧なさい。今や私達には、あれだけの大きさと美しさを持つ芸術は世界中一つとしてありません。人々はたしかに利巧になりました。しかし、花や景色は描けても、人間の姿は刻めても、神仏の 像 はつくるにはつくってもいかにも貧弱なものばかりです。けれども、がっかりするには及びません。還らぬ昔をおもってみても始まりません、我々は又別に、別の方法で、神をみる事が出来るのです。
どんなに美を解さない人でも、人間と生れたからは、ほんのちょっとした折ふしに、必ず心に触れる何物かがある筈です。ほんとうに、「ああ、いい」とため息を洩らす程の物に触れた時、──たとえば夏の夕焼の空とか、白雪にきらめく冬の山とか、自然の現象のみならず、人工をきわめた絵や彫刻、詩歌散文、何でも構いません、──思わず手を合せたくなる、その気持こそ何よりも大切にしなくてはならないと思います。いいえ、その物は忘れたって構わない、無理に覚えて居なくともいいのです。一度身にふれたその体験によって、たとえ頭は忘れようと、もうもとの私達ではないでしょうから。
それはまたたく中に消えてしまいましょう。が、度重なる中に、次第にはっきりした形を備えてゆき、ついに私達はれっきとした存在を信ずるまでに至ります。その体験は数をまし、その形はますますあざやかな輪郭をあらわしつつ、大きく美しく育ってゆきます。ふつう経験といわれるものは、度重なるにつれて馴れてゆくものです。しかし、これは別です。これはその都度まったく同じものでありながら、しかもその度に、まるではじめておこった出来事の様に、新しく、めずらしく、あらためて私達はびっくりするのです。それは古い古いものであるにも関わらず、しかも驚くべきあたらしさです。若さです。そういうものを、芭蕉は「不易」と名づけました。世阿弥は「花」と言いました。又ある人々は「つねなるもの」あるいは「永遠の美」と呼んだりします。これ等は皆一様に、変らぬものの美しさという意味であり
私はこれを前に「能をみる」という随筆様の文の中にひきました。そして、あの静かなお能というものは、いわば早い動作を高速度写真でうつした様な物であり、したがって舞踊の原型とも称すべきものである、更に、その間の状態が何に一番近いかと云えば、「祈り」に似たものである、とつけ加えておきました。
今、私達にとって、芸術の鑑賞とやらが、教養の上に、一つの流行をきたしています。これは言うまでもなく、絵や彫刻をみることです。又、文学を読み、音楽を聞くことです。しかし、上野の美術館にどれ程人が集っても、その中でほんとうに みて いる者はそも幾ばくぞ、と聞きたくなります。そのごちゃごちゃした人込の埃の中で、何が鑑賞だ、という人もあります。しかし、そんな事は問題ではありません。環境といわれる物は、周囲の状況ではなくて、自らつくり出すべき状態、我々人間の在りかた、であると思います。それはさておき、──
お能やヴァイオリンは尚更のこと、ゴルフやテニスに至るまで、球がラケットにあたる、その瞬間、あなたは何を考えますか。球はあなたであり、あなたは球にはならないでしょうか。はじめて習う時には、まず、「球をみろ」と口をすっぱくして言われる筈です。見ないと不思議に空ブリします。こんな正直な事実はないではありませんか。こんなはっきりした証明はないと思いますけれど。
もし私達がほんとうに注意してみるならば、芸術の上にもかくの如き状態がありありと現れる筈です。一つの絵なら絵の上に、ちょうど肉体の運動と同じ様な、精神のゆらめきがよみとれる筈です。祈りの姿が美しいと言いましたのは、そういう意味においてであります。精神の末端が、やさしい静かな舞の様にゆらゆらとゆれ動いている、それを美しいとみたのです。
やがてお話が済み、おいとまするときになり、がまんし切れなくなってそばへ寄ってみた。近くで見ると、いよいよ美しい。太い幹から出たたくましい枝が、こぼれんばかりに花をつけ、よく見ると安物のクレヨンで彩色されているらしいが、その色がまたたとえようもなくあざやかだ。単純そぼくなところは、子供の絵に似ているが、子供にはない力強さがあり、山下清の放心的な美しさとも違う。底抜けに明るく、はなやかではあるが、何事か一心に祈りつづけているような気配が感じられ、満開の桜は桜でも、たとえば老木が最後の力をふりしぼって精いっぱい咲いたというようなものがある。
たしかに、歌舞伎の世界は封建的な所であろう。外の者にはわからない醜いことも多いだろう。絢爛たる歌舞伎の芸術は、そこから咲き出た泥中の花なのだ。団蔵も名門の生れであればこそ、封建的な歌舞伎の舞台に、役者として生きぬくことが出来たのではないか。昔は「長生きはいやだ」としきりにいっていたが、死ぬ直前の便りには、「長生きしてよかった」と書いてあったと聞く。この言葉には、歌舞伎の世界への恨みなぞはふり捨てて、なすべきことは全部しとげた安心感が現われており、何か爽やかな感じさえする。辞世の句は忘れてしまったが、香典も葬式もいらない、地獄へ墜ちようと知ったことではない、そういう狂句めいた歌だったように記憶している。
こんなことを思い出すのも、私にとっては久しぶりのことである。他の方は知らないが、私の場合編集者からの注文が多く、何でもいいから書いてくれという依頼は殆どない。それも多くは参考書を必要とする仕事の為、沢山本を読まねばならない。読書は好きだから苦にならないが、それより資料をどう使うか、〆切が迫ったりすると、それらのものについ寄りかかりたくなるのが困る。
それにひきかえ、団蔵が死んだ時、社会の犠牲者とか、封建性の罪悪とか、ハンコで押したようなことをいったジャーナリズムの冷酷さはどうか。そんなセリフだけ上の空に喋っていれば、するする通る世の中の方が、私にはよほど陰惨なことに思われる。こんなことをいうと誤解を招くかも知れないが、巡礼をした後、死んで行った団蔵の心中は、はたして私達が考える程みじめで、絶望的であっただろうか。それは網野さんの文章のように寂しいけれども淡々とした境地ではなかったか。
私にはもともと信仰心はない。だが一体信仰とは何だろう。日々かきたてずにおかねば、 忽ち消滅するはかない幻ではないだろうか。その点、美とか伝統とか、或いは精神などと呼ばれるものに似ているのかも知れない。私には信仰があります、と正面切っていう人には、どこか偽善者めいた所がある。美学にある 胡散臭さを感じるように。巡礼という、実際に足で歩き、美しい景色にふれ、仏を拝む信仰の形式には、そういう疑わしいものは何一つない。それでなくても巡礼には、信仰は持たなくても、ただ霊場を廻るだけでいいという、極めて寛容な教えがあるのだが、大衆の間にあれ程はやったのも、私自身経験したように、何もかも忘れて幸福感にひたれるからに違いない。そこに観音浄土を見ようが見まいが、受けとる人次第で、歩くことそれ自体が、信仰につながるというのは、何はともあれ健康な思想である。
苦労して歩いたときの十分の一の感動もない。私の経験は至ってあさはかなものであるが、たしかに歩くことによって、人間は多くのものを得る。しまいには歩けなくなっても、あのときの体験によって私は、心の遍歴は生涯つづけることができるであろう。
巡礼というと、私たちはすぐお遍路さんを想像するが、それは四国八十八箇所の名称で、西国三十三箇所では、お遍路さんとはいわず、単に「巡礼」と呼んでいる。前者は、弘法大師の足跡を巡る道、後者は、観音信仰に起こったもので、歴史は西国巡礼の方がはるかに古い。そのほか関東にも、秩父にも、その他の地方にも、「霊場」と名づける所は多いが、いずれものちにできたもので、何といっても巡礼は、以上の二つに代表されており、交通が便利な西国よりも、四国の方が昔の面影をとどめているといえよう。
今もいったように、私は西国巡礼しかしたことはなく、それも取材のためであった。いつの日か、何の目的も持たず、一介のお遍路さんになって、四国八十八箇所を回ってみたいというのが私の夢である。私は日本だけでなく、外国も至る所、旅行しているが、四国だけは未だに行ったことがない。そのときのために、大事にとってあるのだ。だから菜の花の咲く頃になると、おちおちしていられない。今も、今年も駄目か、そう思ってがっかりしているところだが、人生はくまなく知ることが能ではあるまい。したいことの一つや二つ残しておいた方が、余韻があっていいのではなかろうか。
近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう。
しょせん日本人の信仰は、自然を離れて成り立ちはしないのだ。
波の音の聞える浜辺で、南につらなる奥島山を眺めながら、子孫の口からそういう昔話を聞くと、若い母親の悲しみが、ひしひしと伝わって来る。はじめは沖の島も禁足地だったに違いないが、いつの頃か漁師が住みつき、浄土真宗が盛んになった後は、神も姿をひそめたのであろう。茶谷さんにうかがっても、祭祀場の跡も、磐坐らしいものもない。わずかに赤崎という港で、しじみかきの漁夫が古銭を拾ったことがあり、昭和のはじめ頃には、和同開 が大量に発見されたと聞く。この沖を通る人々は、お賽銭を投げて、島の神に航海の無事を祈ったに違いない。沖の島へ渡った収穫は、結局それにつきるが、自動車が一台もない漁村は、ヴェニスの裏街を思わせ、公害や騒音と縁のない島の一日は、私にとっては忘れがたい思い出である。
神功皇后が沖の島と関係が深いのは、いうまでもないことだが、
この章を「沖つ島山」と名づけたのは、湖水の周辺の景色にふさわしいと思ったからで、ある特定の、たとえば奥島山についてだけ語りたかったわけではない。白鬚の翁で象徴されるように、琵琶湖の歴史は古いだけでなく、その自然と密接に結び合っている。そういう意味では、津田の細江から遠望される観音寺山も、広い範囲の「沖つ島山」の中に入る。新幹線から眺めると、あまり特徴のないなだらかな山容だが、裏側は複雑な地形で、五箇荘から安土へかけて、歌枕で名高い 奥石 の森(老蘇とも書く)、石寺、 石馬寺、 桑実寺、沙々貴神社など、奥島山と相対して、広大な文化圏を形づくっていた。
鹿児島から宮崎へ出るには、日南海岸を経て行くコースと、霧島を越えるドライヴウェイがあるが、私は後者をえらんだ。秋のこととて、有名なつつじも藤も見られず、紅葉にもまだ早かったが、秀麗な高千穂をあおぎつつ行くドライヴは快適であった。えびの高原をすぎて、平野に近づくあたりであろうか、遠くの方に陽炎のような、赤い霞がただよっていることに気がついた。近よってみると、何とそれはコスモスの大群落で、高原の日ざしをあびて、濃い紅に咲いた花が、何キロとなくつづいて行く。そのうねうねとした波のかなたに、ぬっとそびえた 韓国岳 を望む景色は、雄大といおうか壮観といおうか、言語に絶する美しさだ。運転手さんに聞いてみると、それはドライヴウェイが完成した時、県の観光課が、入り口で観光客にコスモスの種を渡し、記念のためにまいてくれと頼んだのが、今日の成果を見たのだという。宮崎県という所は、つねづね観光に力を入れていると聞いていたが、この発想には感心した。観光という事業には、観光客もただ受けとるだけでなしに、積極的に参加すべきである。
やわらかい 毛 をしいたような芝生の中を、美しい小径が通っており、北から西へかけて、多くの神話にいろどられた山々が一望のもとに見渡される。西都の周辺には、無数の古墳があると聞くが、ここはいわばその中心地で、広大な景色の中に点々と建つ大小さまざまの古墳群は、二千年の歴史を秘めて安らかに眠っているように見える。
私は取材のために旅行することが多いが、取材とは口実で、歩くことが楽しいからである。歩いてみると、土地の風俗とか歴史が、土の中から伝わってくるような気がする。といってドライヴもきらいではない。車も道を通るには違いないが、それは別な次元のことで、 みち というより道路とかハイウェイと呼んだ方がふさわしい。あくまでも、 みち は歩く所であり、踏みしめるものであって、走って通ったのでは意味がなくなる。たとえば比叡山のドライヴウェイを行って(これは実に気持ちのいいドライヴだが)、 伝教大師(最澄)の苦労を思い浮かべるのは無理である。が、 日吉神社の鳥居をくぐり、木立の中を縫って比叡の山道を登る時、一木一草にも大師のいぶきを感じ、路傍の石にも肌のぬくもりが残っていると思うのは、私だけではないだろう。別の言葉でいえば、ハイウェイは抽象的だが、 みち には人間の生活の刻印があり、そのような場合、日本人が英語と日本語を使いわけるのは、たとえ無意識にせよ大変な知恵だと思う。
富士山などは陳腐だといわれる。が、汽車の窓から秀麗な山容が見えて来ると、みな喰い入るように眺めている。殊に外国から帰った時、雲海の上に望む富士の山ほど感銘ふかいものはない。百人一首の中から一つ選べといわれて、色々考えたあげく、この歌をとったのも、やはり私が日本人だからであろう。
山も、歌も、堂々としすぎていて、どこから手をつけていいか、わからないような心地がする。 そういえば、絵画にも詩歌にも、富士を描いたものに傑作は少ない。梅原龍三郎氏も長い間取り組んでいられたが、 愛鷹山 や箱根などを前景にしており、単独に富士を描いた作品はなかったように記憶する。江戸時代の版画にいたってはなおさらのことである。有名な西行の歌にしても、風になびく煙に自分の思いを託しただけで、真っ向から富士を称えているわけではない。
私が富士の歌を選んだのは、それだけではなく、実はささやかな憶い出があるからだ。私の生家は、昔御殿場に別荘を持っており、一年の大半をそこで過ごしていた。御殿場といっても、別荘が密集しているあたりではなく、ずっと上の方の、滝ヶ原に近い寒村で、そこで送った日々のことが、未だに忘れられない。都会育ちの私は、そこが故郷だとさえ思っている。だから富士山とは古い付き合いだ。その姿は毎日、というより刻々に変わり、一度も同じ表情を見せたことはない。赤人の歌も、冬の富士山を謳っているが、それはある日ある瞬間の富士山ではなく、その豊かさと神秘性が、一つの象徴にまで高められている。いかに正岡子規が叫ぼうと、私たちはもう「万葉」の昔には還れまい。それが歴史のきびしさであり、人間のさだめというものだ。もし還ろうとするなら、別な形をとらざるを得ない。百人一首の歌は、そういうことを教えてくれるし、その方法まで示しているように思う。
日本の自然は実に微妙で、時には人工か天然のものか、見わけのつかぬことがあるが、三雲の近くにある「 美 松」などはその一例で、近江にはそういう所が多いのである。
いくら交通が便利になった今日でも、熊野は依然として、大変遠い所なのである。ようやく都合がついたのは、つい先日のことで、写真家の小川さんの車で、十津川街道を行くつもりにしていた。大和の五条から、十津川にそって、熊野本宮へ至る古道である。が、奈良についてみると、大雪で、十津川渓谷なぞ通れそうもない。やむなく私達は計画を変え、伊勢を廻って行くことにした。
熊野市から新宮までの間を「七里御浜」といい、日向の日南に似た海岸線にそって、有名な鬼ヶ城、花の 窟 などがある。鬼ヶ城は俗っぽい観光地だが、さすがに花の窟は、神秘感にあふれた洞窟で、原始信仰の強烈さ、凄じさを、そのまま今に伝えている。
たとえば法輪寺の観音などは 稀 にみる傑作の一つであるが、はじめは虚空蔵菩薩であった。それは弘法大師によって虚空蔵の信仰が 流布 されていたからで、またたとえば聖徳太子の 持仏 であった 救世観音も、フェノロサによって此の世に現れるまでは、 生身 の太子の像と信じられていたのである。この写真集(『観音巡礼』毎日新聞社)の中には入っていないが、 太秦 の広隆寺の弥勒菩薩も、中宮寺にある弥勒菩薩も、かつては如意輪観音の名で通っており、研究が進めばまた変わる時が来るかも知れない。
私の心に残る観音像 1 観音像(救世観音) 法隆寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 国宝 2 十一面観音像 日吉神社(岐阜・神戸 町) 平安 重文 3 観音像(百済観音) 法隆寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 国宝 4 十一面観音像 聖林寺(奈良・桜井市) 奈良 国宝 5 観音像 法輪寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 重文 6 楊柳観音像 大安寺(奈良市) 奈良 重文 7 十一面観音像 向源寺(滋賀・高 月 町) 平安 国宝 8 十一面観音像 薬師寺(奈良市) 飛鳥 重文 9 観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 重文 10 観音像 法起寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 重文
11 聖観音像 薬師寺(奈良市) 白鳳 国宝 12 観音像 鰐淵寺(島根・平田市) 白鳳 重文 13 観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 白鳳 国宝 14 観音像 鶴林寺(兵庫・加古川市) 白鳳 重文 15 観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 重文 16 観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 飛鳥 重文 17 観音像 観心寺(大阪・河内長野市) 白鳳 重文 18 観音像 興福寺(奈良市) 奈良 国宝 19 聖観音像 金 龍 寺(奈良・都祁 村) 白鳳 重文 20 観音像(文殊菩薩) 法隆寺(奈良・斑鳩町) 白鳳 重文
21 観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 平安初期 重文 22 聖観音像 観心寺(大阪・河内長野市) 平安 重文 23 十一面観音像 東京国立博物館(東京・台東区) 白鳳 24 十一面観音像 観音寺(京都・京田辺市) 奈良 国宝 25 十一面観音像 唐招提寺(奈良市) 平安 重文 26 十一面観音像( 押出仏) 唐招提寺(奈良市) 奈良 重文 27 十一面観音像 海住山寺(京都・加茂町) 平安 重文 28 十一面観音像 室生寺(奈良・室生村) …
31 十一面観音像(本尊) 海住山寺(京都・加茂町) 平安 重文 32 十一面観音像 法輪寺(奈良・斑鳩町) 平安 33 十一面観音像(本尊) 観菩提寺(三重・島ヶ原村) 平安 34 十一面観音像 龍 華 寺(広島・甲 山 町) 平安 重文 35 十一面観音像 盛安寺(滋賀・大津市) 平安 重文 36 十一面観音像 観心寺(大阪・河内長野市) 平安 重文 37 十一面観音像 羽賀寺(福井・小浜市) 平安 重文 38 十一面観音像 櫟 野寺(滋賀・甲賀町) …
41 十一面観音像(本尊) 長谷寺(奈良・桜井市) 室町 42 九面観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 唐より請来 国宝 43 千手観音像 唐招提寺(奈良市) 平安 国宝 44 千手観音像 道成寺(和歌山・川辺 町) 平安 重文 45 千手観音像 法隆寺(奈良・斑鳩町) 平安 重文 46 千手観音像 瓦屋 寺(滋賀・八日市市) 平安 重文 47 千手観音像 月輪 寺(京都市) 平安 重文 48 千手観音像 補陀落 山寺(和歌山・那智勝浦町…
51 千手観音像 松尾寺(奈良・大和郡山市) 奈良~平安 52 准胝観音像 新薬師寺(奈良市) 平安 重文 53 如意輪観音像 岡寺(奈良・明日香 村) 白鳳 重文 54 如意輪観音像(本尊) 岡寺(奈良・明日香村) 奈良 重文 55 如意輪観音像 観心寺(大阪・河内長野市) 平安 国宝 56 如意輪観音像(本尊) 神 咒寺(兵庫・西宮市) 平安 重文 57 如意輪観音像 観心寺(大阪・河内長野市) 平安 重文 58 不空羂索観音像(法華堂本尊) 東大寺(奈良市) 奈良…
61 馬頭観音像 観世音寺(福岡・太宰府市) 平安 重文 62 馬頭観音像 中山寺(福井・高浜町) 鎌倉 重文 63 十一面観音像 太平観音堂(…
西行については、昔から多くの本が書かれている。その全部に眼を通したわけではないが、私は西行の歌が好きなので、比較的たくさん読んでいるほうである。にも関わらず、西行という人間がもう一つつかめない。とらえたかと思うと、水のように手の中から流れ出てしまう。そういえば、いつかどなたかがこんなことを書いていた。 ──人間のことを書く時は、その人間が自分の眼前に現れて来る。ふと気がつくと、庭の中を歩いていたりするものだ。が、西行だけはどうしても現れてはくれない。現れてもすっと逃げて行く感じがする、と。
そういえば、甲斐の国にも金峰山があるから、康和の経筒とも、何らかのつながりがあるのかも知れない。たとえば寂円が、金峰山に籠って霊夢を蒙ったというような。だが、それを証する何物もない。甲斐の金峰山が、いつ頃吉野から勧請されたか、はっきりしたことはわからないが、昇仙峡の 御岳 金 桜 神社は、吉野の金峰山の蔵王権現が祭神で、延喜式内社であるから、平安初期頃には早くも存在したに違いない。吉野の金峰山は、万葉集に、「み吉野の 御 金嵩」と謳われた霊山で、「宇治拾遺物語」には、山中に金が埋蔵されているが、山の神が惜しんで人に採ることを許さなかった、と記してある。
一方、相手の信長も、持って生まれた天才の孤独さ 故に、身を滅ぼすのであってみれば、美点と欠点は紙の裏表のようなものだと考えざるを得ない。
桜といえば、甲斐の国には、美しい桜がたくさんある。日本一古い「 神代桜」も、 武 川村の 実相寺 にあるが、老木なのでまだ花には早かった。また、北巨摩郡 小 淵 沢 町 の畑の中にも、美しいしだれ桜があり、中央線の電車の中からも見えるので、花の頃はいつもたのしみにしているが、数年前に行った時は、桜のすぐそばに工場が建ち、その煙突の煙におかされていることを知った。こういうことはぜひ県庁で注意して頂きたい。緑の自然を大切にしている甲斐の方々に、それが単なる謳い文句に終わらぬよう、こういう機会に私はお願いしておきたいと思う。
都会で育った人間は、──ことに東京のような無性格な国際都市には、ふるさとの匂いはない。自然もなく、季節の変わりめも感じられない。つまりは故郷を失ったのも同然で、それだけに、故郷に対してあこがれを抱いており、ひいては「国」というものの存在にも心をひかれる。とりわけ外国生活の長かった私には、日本の国ほど興味の深いところはないのである。
そこでまたしても私は、墓とは何なのだろうと考えこんでしまうのだが、私の知っている一番古い墓は、熊野市有馬町にある「花の 窟」である。「日本書紀」に、イザナミノミコトが亡くなった時、そこに葬ったと伝え、土地の人々はこの神の 魂 を、「花の時には 亦 花を以て祭る。又 鼓吹 幡旗 を 用 て、歌ひ舞ひて祭る」とあり、巨大な岩壁の前に簡単な祭壇がしつらえてある。岩壁のてっぺんからは太い縄がさがって下の方の松の木に結えてあるが、その縄からまた何本も細い縄が垂れて花が結びつけてある。お参りの人たちは、その縄にすがって花を供え、いわゆる「 結縁」ということを行うのであろう。むろん結縁などという言葉は仏教から出たもので、古くは祖先の霊と合体することを意味したに違いない。 だが、「花の窟」はどう見ても墓場のようには見えない。場所は熊野灘の明るい風光の中にあり、 巨巌 の正面に当るところはいくらかえぐれているが、 洞 というほど深くはなく、自然に風化したのではないかと思われる。ともかくそこが祭り場であることは確かで、もしそうとすればイザナミノミコトの遺体は、ここに置かれ、置かれたままで鳥葬か風葬に付されたのであろう。
世阿弥が世の中のすべての芸能に望んでいた信念とは、そういうものであった。一種の幸福論である。それは宗教とは隣りあわせのもので、自分が救われぬところに、見物にも真の悦びを味わせることはできぬ。そう信じていたから工夫をつくして技を磨いたので、「道のためのたしなみには、寿福増長あるべし。寿福のためのたしなみには、道まさに廃るべし」──これは現在そこらでざらに見うけられる風潮で、お金だけのために努力をしても、けっして成功しないことを語っている。金儲けを名声と言い直しても大差はない。名声の上にあぐらをかいていては道は廃れる。名声がつもりつもって今日の大をなしたのではなく、死ぬまで工夫をつくしたから世阿弥は人生の達人になったのである。
諸人を仕合せにするためには、すべての人を成仏させなくてはならない。が、極楽を描くより地獄の方が複雑である。そこには一人一人の人間のドラマがあり、物語がある。「天女の舞」がむつかしいと世阿弥がいったのは、単純すぎて語ることがないためだろう。極楽なんて退屈だというのは現代人のさかしらで、当時は「往生要集」の思想がしっかりと定着していたことを忘れてはなるまい。
さて、法華経では、竜王の八歳になる娘が忽然と悟ったことになっている。私は仏教を研究したことはないのであくまでも素人の想像にすぎないが、竜は異界の住人で、神に近い神聖な動物である。その八歳の娘が悟ったというのは、それが 少年ではなく て、 無垢な女 というところに大きな意味があると思う。彼女にはまだ男女の別はなく、世間の塵に汚されてもいない。その存在は仏にささげた宝珠に象徴されており、仏が受けいれたことによって成仏した、もしくは成仏を約束されたことを証している。罪深い女人にとってそれは「希望」を表わしており、法華経というのは仏教の教理というより、一つの大きな物語のような感じがする。
そういう風に考えると、先の「采女」も竜女の一人といえよう。人間の肉体は、猿沢の池に入って死に、竜女となって生れ変った。変成男子と竜女は同義語で、生身の采女はもう此世にはいない。竜は鳳凰や麒麟と同じく想像上の産物だが、何もないところから人はものを造り出せない。竜に関する本を読むと、蛇、とかげ、がま、コブラ、むかで、ふか、わに等々のほかに、雷、稲妻、竜巻、つむじ風、大雨などの自然現象にも古今東西の人々は竜を想像した。もしかすると、人間が生れる前の遠い祖先の恐竜の記憶もかすかに残っていたかも知れない。砂漠とはちがって、おだやかな風土のわが国では、ヤマタノオロチでもちょっと役不足で、いまだに大蛇に止どまっている。まして、いもりやとかげではダメである。そんな小動物より自然現象と結びつきやすかったのは、雷や稲妻が神として怖れられていたからだろう。雨乞いの祈りには必ず竜が参加して、次第に水と竜とは切離せないものとなって行った。
白洲正子は国宝「那智滝図」(根津美術館)をこよなく愛した。これは死の静寂と生の躍動が一つの画面に共存している不思議な絵である。ただ、滝を描いているけれど、滝の上には月が浮かび、これが単なる風景画ではなく、宗教画であることを示している。神と言ってもいいかもしれないし、仏と言ってもいいかもしれないが、人間の生死を超越する自然の力が絵から感じられる。白洲さんはこの絵から遠雷のような音をも聞いていたのだろう。
旅に出る白洲さんはいつも五万分の一の地図と磁石を携帯した。案内する知人が運転する車に乗る時も車上で地図を広げ、自分のいる位置を確認しながら、このルートで行ってくれないかと注文を出したり、あの山は何々山かと尋ねたりして、目的地に着くまで人任せにはしなかった。何か口の中でむにゃむにゃ言って、いかにも反芻している様子であった。地図には所々赤鉛筆で丸印が付けられており、旅に出る前におそらくは吉田東伍の『大日本地名辞書』を広げて気にかかる地名に印を付けたのだと思うが、そのチェックポイントを必ず押さえつつ目的地に向かうのである。
白洲正子
[注釈 1](しらす まさこ、1910年(明治43年)1月7日 - 1998年(平成10年)12月26日)は、日本の随筆家。 東奔西走する姿から、「韋駄天お正」とあだ名された。読売文学賞二度受賞。華族出身で幼少時より能を習い、14歳で米国留学。確かな審美眼と精緻な文章で日本の美を追求する作品を多数著した。著書に『能面』(1963年)、『かくれ里』(1971年)、『西行』(1988年)、『夢幻抄』(1997年)など。
1910年(明治43年)1月7日 - 東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)に父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。
1914年(大正3年) - 能を習い始める。
1924年(大正13年) - 能舞台で初めて能を演じる[注釈 2]。演目は『土蜘蛛』。学習院女子部初等科修了。渡米しハートリッジ・スクールに入学。
1928年(昭和3年) - ハートリッジ・スクール卒業。聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)中退。
1929年(昭和4年) - 白洲次郎と結婚。
1942年(昭和17年) - 東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷)の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。
1943年(昭和18年) - 鶴川村へ転居。
1947年(昭和22年) - 華族令廃止。
1964年(昭和39年) - 随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。
1973年(昭和47年) - 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞。
1997年(平成9年) - 町田市名誉市民[5]。
1998年(平成10年) - 肺炎のため、東京都千代田区の日比谷病院で死去、88歳没[1]。墓所は夫次郎と共に兵庫県三田市の心月院。両人に戒名は無く、梵字が墓石に刻まれているだけである。薩摩志士で伯爵樺山家に生まれた自らの性質や、その出自を生涯を通じ強く意識(その事で夫次郎と口論となり張り手をしたこともあった)した。幼少期より梅若流の能の舞台にあがり、能に造詣が深く、青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し、日本の美についての随筆を多く著す。梅原龍三郎や秦秀雄、晩年は護立の孫で元首相の細川護熙、河合隼雄や多田富雄等との交友もあった。また名人といわれた能楽師・友枝喜久夫の仕舞の会を自宅で開き、演芸研究者渡辺保も参加していた。骨董収集家としても著名。収蔵品は武者小路公種の百人一首ほか数々の名品揃いである(愛蔵版「私の百人一首」に所収)。姉に近藤泰子、夫は白洲次郎。長男は白洲春正(1931年2月5日生まれ)、次男は白洲兼正(1938年1月3日生まれ)、長女は牧山桂子(1940年6月生まれ)。白洲信哉は孫で、兼正と小林秀雄の娘明子の子である。白洲は世阿弥と両性具有をライフワークとして多くの作品を著した。また、日本古典の再読、再評価によって後の研究者に影響を与えている[6]。白洲の作風は用語の定義など微妙な問題は曖昧にぼかす、論理的な根拠は示さずに直感で自己流の解釈を示す、厳密な解釈は避け結論は出さずに有耶無耶に終わるなど、あくまで評論家の作風であり学者の筆法とは異なる。これは白洲の作風の欠点でもあり、美点でもある[6]。