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江戸時代ってやっぱり良いなー。日本文化集大成って感じで。西洋が入ってない純粋な日本文化が熟成した時代だと思う。江戸物の本にハマり始めた。
大石学
1953年生れ。名城大学助教授を経て東京学芸大学教授。日本近世史専攻。著書に『享保改革の地域政策』(吉川弘文館)、『首都江戸の誕生』『江戸の外交戦略』(以上角川選書)、『地名で読む江戸の町』『駅名で読む江戸・東京』(PHP新書)など多数がある。
たばこ文化が、大人の楽しみとなった背景には、たばこが 奢侈 品であるという認識があり、自分で稼ぐことのできる一人前の大人が楽しむものという考え方があったためといわれている。近年、たばこ、喫煙者の肩身が狭くなっているが、健康問題以外にも、「大人」でないものが喫煙していたり、大人であっても不作法な喫煙をしているものが見受けられるためとも思われる。
次に、識字能力について見ることにしよう。スコットランド出身で医療使節の一員であったファウルズは「日本にいるあいだじゅうずっと、身分の低い連中と毎日付き合ってきたが、読み書きできない人たちと出会ったのは一人か二人に過ぎない」と証言している。また、スイス使節全権主任のアンベールは「成年に達した男女とも、読み書き、数の勘定ができる」と記録している。さらにドイツ人のシュリーマンは「日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成されている自国語を読み書きできない男女はいない」とし、先に見たアメリカ人のマクドナルドは「下級階級の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わが国におけるよりも広くおこなわれている」とし、同じくペリーは「教育は同帝国到る所に普及して居り、又日本の婦人は支那の婦人とは異なって男と同じく知識が進歩している」と記している。
医師 香 月 牛 山 は、元禄一六(一七〇三)年刊行の『 小児 必要 養育 草』で、手習は重要であり、最近は男子のみならず女子も、七、八歳から一二、一三歳まで手習所(寺子屋)に通わせるようになったと述べ、算用は一〇歳で習うべきとも述べている。また、最近物知り顔の武士などが、算数は商家の技術であり、武士には不要などといっているが、これは誤りで武士にも算数は必要であると述べている。
綱吉は、正保三(一六四六)年三代将軍徳川家光の四男として生まれた。幼名は徳松。『徳川実紀』によれば、徳松は聡明な子で、父家光に 寵愛 されたが、同時に家光は、その才気を心配し、 乳母 らに対しては、徳松が成長するとともに、「才気にまかせて心の儘の挙動せば、思ひの外の 患禍 を引出さむも測りがたし」と、 禍 いを生まぬよう、特に兄たちに礼を尽くさせることを命じたという。その一方で、家光は綱吉の母の 桂昌院 に対して、自分は幼い時から武芸ばかりで学問をせず、しかも若くして将軍となり、読書するひまもなかったので、今日 悔いることが多い。この子は賢いので、いまから読書をさせれば、のちに後悔することはないといった。この言葉を受けて、桂昌院が幼少の頃から熱心に綱吉を教育したことから、学問好きの将軍が誕生したとされる。
このように、多種多様な往来物が出回った大きな要因として、出版業の展開が挙げられる。江戸時代になると、出版技術が向上して大量出版とともに、書物の流通量の増大に伴う低価格化が可能となった。読書層の拡大や教育意識の高まりにともない、教育関係の書物が大量に消費されることとなったのである。寛政年間(一七八九─一八〇一)に経営が悪化した須原屋は、経営再建策として計画的な出版を行った。その主力商品の一つが手習塾用往来物で、教育関係書のみの出版目録が作成されるほどであった。
「心学」という言葉は、石田梅岩(一六八五─一七四四)の思想・哲学である「石門心学」で知られるが、その言葉自体はさらに古いものである。心学の二文字が使用された例として、慶安三(一六五〇)年刊行の『心学五輪書』が、最も古い例とされるが、このほかにも、『心学十界図』『心学教訓抄』『心学問答』などにも使用されている。内容は、例えば『心学五輪書』では、誠を中心に天理を重んじ、私欲を捨て去ることが一貫して説かれている。この考え方には儒教の影響がみられ、さらに仏教的な観点や神道思想の影響もみられる。いずれにせよ、これらは心の学問であったと考えられている。そしてこれらを前提としながら、石田梅岩の「石門心学」は成立したのである。