高見順と言えばまず詩だ。そして日記。小説は3番目くらいだと思う。
小学生時代から56歳癌で亡くなるまで、原稿用紙にして約14,000枚に及ぶ日記を残した。『高見順日記』は正続合わせて全17巻。ものすごい量である。「敗戦日記」は昭和20年1月1日から12月31日までのもので、いちばん有名だろう。文学者が残した敗戦の年の記録として、歴史的な価値も高い。
2月24日より
「二兎を追うものは一兎を得ず」
日記と小説を同時に、――小説曰く「日記扱いは侮辱だ。こっちは仕事で道楽ではない」
日記曰く「小説扱いは侮辱だ。こっちは、はばかりながら金銭で売られる身ではない」
4月7日より
『日記』は事実を書いておく方がいい、と花袋は言っている。(『花袋文話』)「こう思ったとか、ああ思ったということよりも、こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が『日記』というものの本来の性質にかなっている。自己の後年の追懐のためにする上から言ってもその方が便利だ」/私もそのつもりでいたが、事実だけだと何か味気なく、「こう思ったとか、ああ思ったということ」を書きだした。そこに面白味が出てきたが、先日、日記がさっぱり書けなくなった。その原因は、思うにその「面白味」に対する嫌悪にあったのだから、おかしい。
7月8日より
「人間の再建」について考える。
第一に、自己の問題である。第二に、日本の問題である。第三に、世界の問題である。
人間の再建は、自己の再建を前提とせねばならぬ。
いよいよ戦局が押し詰まってきても、高見は鎌倉の自宅から頻繁に東京に出向いている。「文学報国会」のメンバーとして、いわば「出勤」なのだが、それにしてもいつ空襲があるかわからないさなか電車に乗って浅草などに行くというのは、かなり無謀とも思える。また、今考えれば信じられないことだが、そういう中でも営業している「国民酒場」と呼ばれる飲み屋などがあって、行列に並んでお金を払って配給券みたいなのを買い、ビールや冷酒を呑んだりしている(もちろんまともなつまみなどほとんど出ないが)。しかし考えてみれば戦時中だって飲みたくはなる(いや、飲まなきゃやってられない)だろう。こういう記録は、当時の庶民のリアルがわかって貴重である。
高見は新聞やラジオなどの、大本営による体制べったりの報道に憤りを感じている。しかし、その頃の一般の人たちの本当の心情を垣間見せる記事も稀にはあった。
7月22日より
二十二日の投書欄に次のような言葉がある。将に輿論である。「歯の浮く文字▽報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であろう。かかる負惜しみは止めてもらいたい。もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。俺達はどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもつて日々やつてゐる。もはや俺達を安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。……」
運命の日が近づく。
8月7日より
原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。
8月10日より
ソ聯の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ聯が仲裁に出てくれることを秘かに心頼みにしていた。誰もそうだった。/(中略)/あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気持だった。どんなに嬉しいだろうとかねて思っていたのに、別に沸き立つ感情はなかった。
8月15日より
駅は、いつもと少しも変わらない。どこかのおかみさんが中学生に向って、「お昼に何か大変な放送があるって話だったが、なんだったの」と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて小声で何か言った。「え? え?」とおかみさんは大きな声で聞き返している。
世の中は激変する。
9月29日より
天皇陛下がマッカーサー元帥と並んで立っておられる写真が新聞に載っている。かかる写真はまことに古今未曽有のことである。将来は、なんでもない普通のことになるかもしれないが、今は、――今までの「常識」からすると大変なことである。日本国民は挙げて驚いたことであろう。後世になると、かかる驚きというものは不可解とせられるに至るであろうが、そうして古今未曽有と驚いたということを驚くであろうが、それ故かえって今日の驚きは特筆に値する。
10月29日より
英語会話の紙を売っている。紙である。一枚の紙である。パンフレットではない。それで一円くらいの定価だ。こういう紙がいろいろ出ている。至るところで売っている。飛ぶように売れている。
高見は戦争中、鎌倉在住の川端康成や久米正雄、小林秀雄らとともに、みずからの蔵書を提供して「鎌倉文庫」と呼ばれる貸本業を始めた。それは戦後に出版社へと発展する。「敗戦日記」はこうした活動の詳細も伝えている。高見は常に積極的に何かをなそうとしていた。
今年(2025年)は敗戦の年から80年であるとともに、高見順の死から60年の節目の年でもある。