以下は、「断腸亭日乗(三)」の読書日記である。気に入った箇所を書写し、感想を添える。
昭和の初めの頃の東京を、此処迄色濃く遺した文学は他にはない。永井荷風。親の遺産を運用して、気侭に帝都を闊歩する作家であり自由人であり放蕩人であり、50うん歳にして自らを晩年と称す心配性の知識人である。
7500字超のレビューと相なった。読者の時間を奪うことは私の本意ではない。薄目で日記を眺め、興味ある項目のみを読むこと奨励す。
R07/08/29 「残暑厳し‥‥とはいつ迄言わなくちゃいけないのでしょうね」「彼岸まで、じゃないですか」「甘いと思うわ」という会話が交わされた日
昭和四年
正月初九 晴れて好き日なり、午後中洲に往く、脚気猶癒えず尿中蛋白質ありと云ふ、憂ふべきなり。
←好日を「好き日」というセンス!この時荷風は51歳。本人は晩年だと思っているが、未だ20年以上生きることを私たちは知っている。蛋白質もちょっとした不摂生の結果なのである。
一月二十日 晴れて寒し、終日机に凭(もたれ)る、昏黒銀座にて食料品を贖(あがな)い三番町に往く(略)この夜一座の談話によるに、過日女記者三宅某の家を襲ひたる強盗は世人の呼んで説教強盗となすものなり。
←「過日」とは9日前に強盗に遭いて三宅やすという女性記者が強盗に向かって「私を知って押し入ったのか」と啖呵を切ったという記事に対して「大した自惚れ女だ」と荷風は貶したのではあるが、実は反対に、説教された上に陵辱する常習犯だったということがわかった、という事である。荷風も少し反省したのか、欄外に昭和八年この岡崎某は20年の刑に処せられた、と書いている。
三月廿七日 細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり(略)この日偶然文藝春秋と称する雑誌を見る、余のことに関する記事あり、余の名声と富貴とを羨み愚劣なる文字を連ねて人身攻撃をなせるなり、文藝春秋は菊池寛の編輯するものなれば彼の記事も思うに菊池の執筆せしものなるべし
←思うに、荷風も日頃から菊池寛の悪口を広め、菊池寛はそれに応えた様にも思う。まぁどっちもどっち。
四月十四日 快晴(略)昨年頃まで太牙にて働きたるお道という女、太牙隣りの建物の2階借り受け、邪奔(ヤポン)という酒舗を開きたり(略)以前ならば浅草辺に生まれたる貧家の女は、藝娼妓になりても迷信にとらわれ神信心などするが例なり、しかるに今は日本人よりも西洋人を好み活動写真にて見たる西洋私娼の生活をそのまま実行せりに至れり、時勢の変化唯驚くの外なし
←お道の半生、この文に書き足して余り無し。兎も角、女の噂話の蒐集に凝っている様だ。
四月廿日 雨 門外の椿落尽くして山吹ひらき胡蝶花(しやが)またひらく
←荷風の庭は春夏秋冬素晴らしかった様だ。
六月廿五日 晴れて風涼し この日荷風はお歌を伴い銀座を散歩、蓄音機から流行歌を聴く。沓掛時次郎、はぶの港、君恋し、東京行進曲。
←長谷川伸作詞、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐々紅華作曲、西条八十作詞等々。昭和の初めは未だ平和だった。
七月十三日 梅雨明けて炎暑忽ち焼くが如し
←梅雨明けは今と同じ
以下
炎熱日に従って弥甚し、
風なく苦熱益甚し、
雲気欝勃、風絶えて溽暑甚し、日暮驟雨あり
酷熱益甚し、
雨来らむとして来らず、溽蒸忍難し、
←昭和四年の夏は例年になく暑かったらしく(とは言え令和7年の様ではないだろう)、八月半ばまで、「暑い」ことしか日記に書いていない。それでも時折、涼気風が吹くのだから羨ましい。9月5日より、めっきり秋めく。8日には「冷気益甚し」となる。
R07/09/10 昼飯時雷雨過ぎし後暫し涼風吹
十月廿八日
人の噂として、歌舞伎役者河原崎長十郎と共産党学生との付き合いをかなり詳しく記述。荷風としては距離を置いているし、「(河原崎はそもそも)役者としての力量ないのだ」という意見を持っているが、共産主義そのものに対する嫌悪がない。
十月三十日
『近江縣物語』を「文章の優美なるは上田秋成の雨月物語に匹敵するすべく、全篇の布局構想に至っては寧雨月の上に在りと謂う可し、余の縣物語をよみて最興味を覚えたるは優雅なる滑稽の極致に富たるを以てなり、元来わが国の文学には古今を通じて雅馴なる滑稽即洋語のヒューモアに適応すべきもの殆稀なたり、是を以って論ずれば六樹小説は江戸文学史上の珍珠にして滑稽小説の規ちとすべきものなり」とベタ褒め。
←でも、この作品、文学史上で聞いたことない。
昭和5年(荷風52歳)
正月元旦 空隈なく晴れ渡りしが西北の風吹き続きて寒し
「(色町の)今年は殊に甚だしく火の消えたるようなり」
←昨年末の世界恐慌ならびに銀行取付騒ぎによるものらしい。
正月初八 晴れて寒気甚だし
悪童2,30人が朝鮮人乞食女を「鬼婆鬼婆」と叫び棒にて地を叩いているのを荷風は行き合う「遠国よりさまよい来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与えて去りぬ」
←①荷風は「暴力」を嫌い、特に子供の暴力に嫌悪感を示すようだ。②朝鮮人に対して、フラットに接している。
ニ月十日
妓家の50歳の亭主から、16の時に叔父の家の妾から女を教えられて以降、半生の妓家の男妾人生を聞く。
←長文日記。メモはしていないはず。よく覚えている。
四月廿八 空くもりて若葉の梢を渡る風の音静かなり
四時ごろやってくる自転車の紙芝居を見る。飴売り制度も戦後のそれと同じ。荷風は3年前神楽坂富士見町辺りでも見たと記す。
←いずれにしても紙芝居の早期の記録だろうと思う。荷風は創業者を見ていたのか、それとも既に組織化された集団を見ていたのか。
七月十一日
荷風の同級生にして生涯の友、井上啞々子(精一)の7回忌を期に、彼の一生を記している。
←荷風は友達想いだった。
七月十四日
「ヂィヂィ蝉鳴きはじめたり」
←現代よりも若干遅い。これも温暖化の影響か。
八月二十日
谷崎潤一郎から「細君譲渡宣言書」が届く。佐藤春夫との三角関係は、当時よく知られており、新聞にも報道された由。
←「あまりにも可笑しければ次に記す」と全文書いている。世間は眉を顰めたのかもしれないが、友達はそもそもそういう展開自体を面白がり、谷崎潤一郎も面白がっていたということなのだろう。現代と比べ、私はこちらのほうが良いと思う。
この頃、お歌との逢瀬は全くなく、山児(園香)という女子との逢瀬を重ねている。
十一月九日
街なかで「値下げ断行」張紙を見る。市中一般菓子も一銭値下げ、タクシー市内1円がこの春から50銭となり、今は30銭となった由。
←これも世界恐慌の影響。それにしてもタクシー1/3になるのは凄まじい。
十一月十ニ日
稲叟(いなそう)という男と日を空けず会っている。稲叟はあだ名。稲の翁?日暮の周旋宿の番頭。半生を記す。
「酒を好まされど、その性行の活淡寡欲なること往々余が亡友唖々子と似たる所あり」
←食事友達は必要なわけだ。この2日後、濱口総理狙撃事件が起き、政情益々不安に。
十ニ月丗一日
大晦日も園香と逢い別、車中で除夜の鐘を聴いている。荷風今年を思えば、小説収入も半減し、株の配当は無くなった。しかし、健康は例年に無く良く「52歳の老年に及びて情痴猶青年の如し、笑う可く悲しむ可く、また大いに賀すべきなり」
←荷風、基本はブルジョワなのである。ほんと女を欠かさない。素人女には手を出さないという自分ルールのみは守っている。
R07/09/14 晴、残暑忍難し、(ジョイフルにて)読書午睡晩涼を待つ
昭和6年(荷風53歳)
正月八日 雪粉々たり、正午神楽坂の鶴福に飲む、園香来る、雪深更にいたるも止まず、
←正月より園香と逢った時には頂に朱点を施す(例外あり)。意味不明。昨年より深まった園香との仲を重視しているのは分かる。また、2月8日には、元愛人が嫉妬して危害を加えようという噂を聞き、探偵を雇ったという記述あり。その点で、早くも園香に冷めかけていることを告白している。そのことを後々に反芻するために、のちに朱点を記したのかもしれない。園香のために「悪夢紫陽花」という短編をものにしたという記述あり。しらべたが、よくわからず。また、この頃しきりに「小星」という女性?と逢うこと多し。小星て誰?(どうやらお歌のことらしい)←春に荷風病中、小星は長く看護をした。六月小星倒れ入院時、荷風は2日看護入院手続に奔走する。なかなか良い関係と思う。病名はヒステリー?1ヶ月以上入院。10数日は見舞っている。
四月廿八日 「東仲通を過るに黎明橋(この年架橋された月島晴海の橋)と称する橋あり、橋を渡れば新築の埋立地として広?殆考察すべからず、品川湾砲台上に緑草わずかに地平線の上に凸起するを見るのみ、黎明橋の畔に東京湾博覧会建築場敷地と書きたる掲示杭あり、仮小屋数宇散在するのみにて、一株の樹木もなく、東南の海風習々として地上の草を吹きて響をなす、踵を回らして西仲通に出で、渡船に乗り築地明石町の岸に登る、銀座通に至るに日はまさに暮れむとして燈影忽新なり」
←東京博覧会建築場敷地とは、1940年(昭和15)に、幻の東京オリンピックと同時に開催される予定だった東京万博予定地(月島4・5号埋立地=現在の豊洲)のことである。将来に行きたい荷風東京散策のためのメモとして記した。荷風の日常は、江戸情緒と現代風俗と都市景観を発見する旅であった。
五月廿六日 2月より書いていた小説数日前に脱稿、当初「夏の草」と題すが、この日「つゆのあとさき」と命名す。どうやら園香の影響大きいらしい。
←この頃、園香への情冷えているが、それさえも、この名作の題材にしたことが伺える。この後、改造社に持ち込むが、山本社長に断られた由。
八月六日 晴、始めて夏らしさなり、
←この年は冷夏だったようだ。
八月十四日 晴、残暑忍難し、読書午睡晩涼を待つ、夕餉の後番街の病婦を訪ふ、裏二階の一室に白き蚊帳をつりて病み臥したるさま円朝の怪談を想起せしむ
←ちょっと失礼。でも、お歌の病状は深刻で、(数日後「発狂する虞あり」との言葉)荷風が出資した待合店も母親と相談して畳むことにした。お歌25歳。里に帰り養生することになった。関係は打ち切り「悲しいかな」。園香とは全然違う。
九月廿五日 晴、午後中洲に往く、満州戦乱の号外?出づ
←後に荷風朱書して「満州戦争始」。
wikiより「1931年9月18日、中国・遼寧省の奉天(現・瀋陽)郊外で起きた線路の爆破事件をきっかけに、現地に駐屯していた日本軍(関東軍)が中国軍を攻撃、中国東北部(満州)を占領下に置きました」考えれば、あと6年もすれば「日中戦争」100周年になる。今年の戦後80年と同等の報道が果たしてされるだろうか?未だに日本は「満州事変」としてwikiに載っているが、これは荷風の言うように「戦争の始まり」なのである。
十月廿二日
お歌の飼い犬ポチの産んだ仔犬(6月頃出産)7匹の行方を詳述。1匹のみ「形見」として荷風が引き受け、名前を只魯(しろ)と名付く。子路としたかったが、孔子の弟子の名前にすると、「甚しき戯れ」と思ってしまった。これが「旧弊人の旧弊人たるところ」か、と荷風自身が苦笑いしている。
十一月十日 好晴、暖気初夏の如し
行きつけの食堂で、荷風は数名の壮士が時事を論じているのを耳欹(そばだ)てた。「(若槻首相の暗殺・クーデター失敗の反省をもとに)来年紀元節に再びクーデターをするべし」との内容。荷風はこれを否定していない。今の世では武断政治は長続きはしないものの、「今日吾国政党の政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは、蓋し、武断政治おきて他に道なし、(略)旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大いに効果あるべし」。
←自由主義の荷風でさえ、そう感じるのが、昭和初年の日本の姿だったことに、改めて唖然とする。正に、来年の犬飼首相が暗殺された5.15事件の予兆がここにあった。
十二月 初旬
この頃、荷風はしきりに下町散歩を繰り返し、震災前と現在とを見比べている。この年1912年震災より19年。色々見違える程の変化あり。それを読み乍ら是非令和の今を歩いてみたいと思う。
R07/09/20 彼岸の入り 暑さ寒さも彼岸迄。季節のなくなったと言われる日本ではあるが、この言葉が生きているのが嬉しくて堪らない
昭和7年(荷風散人年54)
一月初六 快晴
酒館タイガ店先に鳶の人足来たりて梯子乗りをなす。カフェ女給たちは心付けを渡す。「実に不可思議なる世の中なり」
←ということは、昭和初年の頃から始まった「習俗」という事か?
一月初八 朝の中、華氏65、6度の暖かさなり
李奉昌が桜田門で昭和天皇に手榴弾を投げ入れたが失敗、犬養内閣は総辞職したが後に天皇のお言葉により撤回。
←摂氏19℃くらい。なかなかの温暖。荷風こういう種類の時事に一切感想は書かない。砂村八幡宮の絵を描いている。少し上手い。
一月廿二日 快晴、暖気春の如し
堀切橋を渡り玉の井のまで散歩している。「大通りを中にしてその左右の小径は悉く売笑婦の住める処なり、小路の間に飲食店化粧品売る小店などあり、(略)立ち寄りて女のはなしを聞くに、玉の井の盛り場は第一区より五区まであり、第一区は意気向の女多く、二区三区は女優風のおとなし向が多し、祝議はいづれも一二円なりといふ」
←この時より、荷風は足繁く通う。それが「墨東奇譚」に繋がる。
二月初一
所謂上海事変の号外続報を記しているが、何処か他人事。
二月十日
井上蔵相襲撃死亡事件
二月十一日 紀元節
(文章12行抹消、二行半切取りあり)
「去秋満州事変起こりてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯びること益々甚しくなれるが如し」
去年事変が起きた後に、東京朝日新聞は「軍国主義の鼓吹には甚冷淡なる態度」をとったことに陸軍は大いに悪(にく)み、全国在郷軍人会は不買運動をし、資本家と謀って財源を脅かた。朝日はなんと陸軍を料亭に呼び謝罪し、記事を一変させて軍閥謳歌をなした、と「道路の言」を聞いたと書く。「この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり、且又、陸軍省の行動は正に脅嚇取材の罪を犯すものというべし」
←日記なので、かなり突っ込んだところまで書いているが、それでもなお、後々戦況進んでまずいと思ったのか、冒頭の削除をしたのだろう。果たして、どんな言葉だったのか、とても気になる。
それまでの日記は、それでも戦争支持に若干傾いていたと思うのであるが、この文章に限れば、完全なる「厭戦」である。以後次第に「反戦」に傾いてゆく。また、前日井上殺傷事件は、昨年末の居酒屋で聴いたことの行動だとピンときたはずだ。あの時は、「そうなれば良い」とまで書いたのに、この心変わりはどういうことなのだろう。
四月四日 快晴、桜はまだ花開かれど柿楓の芽萌出たり 連翹木蓮の花正に盛りなり
仙台堀の橋の名前を調べて図に描く
また、大栄橋より深川の町の図も描く
←この頃、頻りに散歩途中絵を描いている。この散歩の内容を地図に照らして確かめたい。期日本を手中にせんと決意する。
四月九日 花ひらきて後却て冷なり
「日清戦争以来大抵十年毎に戦争あり。(略)今や日本全国挙つて戦捷の光栄に酔えるが如し。(略)百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。この兵法の奥義は中華人能く心得ているやうなり。」
←連戦連勝を伝える上海事変に、荷風は批判的である。自由人であり知識人である荷風の「見識」ではあるが、この水準、おそらく当時の日本には5%ほどはいたと思う。
四月十一日
深川万年橋北詰から東六間堀町の橋を数え、大塚橋から大久保橋、富川木賃宿を通って高橋に戻る。1時間半の散歩。
←深川散歩。啞々子ゆかりの地。是非散歩したい。
五月初六 晴れて俄に暑し
お歌と別れ、新しい女遊びが激しい。この日は前に名刺を渡していた街娼らしき女とバッタリ出会(でくわ)す。2人連れ、女は「友達には1円でも2円でもわたして私には5円ください。2人とも貴方の自由になるから」と囁く。2人は自称19歳と20歳。信じるに足らずであるが、案外男をあまり知らなさそう。荷風は「街娼に非らず、2人組みの万引きか」と推察する。「いや、その割には案外のろまにて朴直な所もある」「余が遊蕩30余年の経歴を以てするも、殆ど見当のつかぬ女なり」と言う。
←面白い。この時代、東京は都会化して、新人類(←古い!)が次々と生まれていたのやもしれない。後にもう一度会い、横浜伊勢崎町のカフェで働きいたる女と言う。
五月十五日。晴れていよいよ暑くなりぬ
夕飯時、号外で荷風は5.15事件を知る。
「近年頻りに暗殺の行はること、維新前後の時に劣らず。」「ある人曰く今回軍人の兇行は伊太利亜国に行われるファシズムの模倣なり。(略)真似事の如き豪も怪しむに足らず、と。ある人曰く。暗殺は我国民古来の特技にして模倣にあらず。(略)この説或いは正しかるべし」
←維新時のような暗殺ラッシュ。しかも、今日は壮士の仕業ではなく、軍人の兇行という点で質が違うと荷風は喝破している。現代これが起きたらかなり騒然とすると思う。
七月廿日 空薄く曇りて風なく溽暑甚し。寒暑計を見るに華氏八十ニ三度の暑さなれど座ながら汗じめじめと湧き出て心地よからず。
←華氏八十ニ三を調べると、28度だった。なんだ、涼しいじゃないか!という私の身体が既におかしい。違う地球人になっているのかもしれない。
十月初三 溽暑夏六月の如く驟雨来る
満州の記事を読んで荷風は思う(以下意訳)
英国も世界に領土あり、日本に植民地化欲を喜ばないのは奇怪の至というべきものである。偽善だ。弱肉強食、国家が悪をなさなければ立つことできず、個人として罪悪なさざれば生存する事はできない。人生は悲しい。然れども、つらつら世界のことわりを見るに、必ずしも、弱者は強者に食われるわけでもない。猫と鼠を見ても、鼠は繁殖して尽きることがない。雀の繁殖は猛鳥の方は学ぶことはできない。雀燕は安全なところにいて、事が過ぎるのを待つ。世界の生物はこのように各々処を得て初めて安泰なのだ。
←荷風は何が言いたかったのか。勿論、食物連鎖のバランスのことではない。力の政治は何処かで間違うかもしれない。という「カン」のような事を言いたかったのか。
十月十ニ日 ラインゴルトというドイツ風食堂で食事。。そこの女給の服装をスケッチしている。物凄く凝っている。日本人は凄い。
←348pには、この当時の銀座の食事飲み屋の地図を書いている。もっと絵が大きければいいのに。こういうのを見ると東京行きたいと思うけど、今はインバウンドで、東京宿があまりにも高くて行けない。
十一月十一日
青山南町の病院の斉藤茂吉博士を訪ねて不眠症の診察で採血の結果を聞いた。
←どうやら精神障害を疑ったらしい。陰性だった。文学者としての斉藤茂吉に気がついていない!!