これはやさしい本当の物語。─これはやさしい偽りの記録。
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アンドロイドは電気羊の夢を見るかを想起させる要素が散りばめられながらも、その実、対極な作品であった。どちらかというと、日本のSF(少し不思議)の要素を色濃く受け継いだ作品である。そもそも本作に登場するサイエンスフィクションとしての要素は希薄である。科学技術が発達したことによる虚構は「you」のみであり、それ以外はファンタジーとしての虚構となる。つまり、物語の構造としてもアンドロイドは電機羊の夢を見るかとは全くの対極という立ち位置となる。
また、感じさせるテーマも別物であろう。「アンドロイドは電機羊の夢をみるか」は機械生命体であるアンドロイドが人間と同じ価値観、魂、意志を持てるのか問題定義を行う。その中で、相互理解という壁にぶつかることで理解し合うこと、共生の無意味さを思わせる作品である。対して本作は、機械生命体である「you」が人間になり得るものとして物語が展開される。そして、当然のように人間と共生し、共生するが故に生物としての違いに苦しむのである。前提が違う上で、追い求める過程も異なるのであるから対極な作品といえよう。
さて、本作は「フェイク」である。
(なにを当たり前なこと言っとるんじゃこいつは)と思われるだろうが、重要なのは「フィクション」と形容していないところである。本作には「本来の自分」を他人に見せる登場人物はいない。全員が分厚いペルソナを被っているのである。そのような状況で、「you」だけは全員の心の内を知っている。正確には、「you」だけにはペルソナを被った状態で接する必要がないと全員が思っている。嫌な言い方をすれば、「you」は機械であり、道具である。それを分かった上で共生してるものだから、他の「人間」には見せない「本来の自分」がまろびでてくる。だから「you」は一族の他者にしか見せない「ペルソナ」と、自分にしか見せられない「本来の自分」と二つを記録している。どちらも本物であり、偽物である。本来の自分であるときは、ペルソナの側面が偽物となり、ペルソナを被っているときは本来の自分が偽物となる。陰陽対極図的な関係を保つ。
本作で重要なのは、一族の男が御羊になることではない。人間を看取るということである。一族の人間が死ぬ間際、御羊に姿を変え、一族でその肉を食べる。死んでから御羊に姿を変えるのではなく、死ぬ間際に姿を変えるということは、確実に死ぬ瞬間を看取るものが発生する。故に、本作の最大のフェイクは御羊に転身する事であり、ファクトが看取りである。
羊を捌くのは「you」である。つまり、看取るのモノである。これは何を表すかというと、一族の男は「ペルソナ」と「本来の自分」の二つを視てきた「you」と最期を過ごすということである。家族でもなく、愛した人でもなく、「自分」の全てを知っている隣人と最期の時を過ごす。看取られる側からすれば、なんともやさしい終わりである。では、看取る側はどうなのか。それは貴方次第だろう。