僕は体育がきらいだった。SNSの出現で、体育がきらいだった、という人が意見を表明し、ああやっぱりみんなきらいだったのね、という人が増えているそうだ。
だが、その「きらい」とは何なのか。体育を教える側の立場から見た、「きらい」を探る本。
僕が体育がきらいだった小学校、中学校の時代に、このような本と出会
...続きを読むえていれば、体育はきらいにならなかった可能性が高い。
学校教育で体育を小中高、大学までやっておきながら、人々はジムやフィットネスなどでパーソナルトレーナーをつけてまで、自らのからだを整えようとする。体育ではそういうことを学べなかったのだ。著者はこれを「体育の敗北」と呼ぶ。
しかし、体育がきらい、にはいくつかのレイヤーがある。
運動がきらい 命令口調の体育教師がきらい みんなの前で恥ずかしい思いをさせられるからきらい
僕もそれら全てに当てはまると言えば当てはまるけれど、一番納得がいったのは、体育が規律の強制をしてきたのでは、というくだりだ。
例えば、体育座りというものは、手も足も自ら固定させることで、子どもたちの自由を自ら縛るというものである、ということで、ハッとした。
僕が体育きらいなのは、そう、規律の強制に他ならない。
そういうことに気づかない人もいるわけなので、体育ぎらいは豊かな感性を持っているのでは、とも著者はいう。そうか〜、俺豊かか〜などと悦に入りながらも、さらに、体育とスポーツの違いなどにも突入していく。
今は、僕らの頃より少しは変わっているはずだけど、規律だとか、(代替戦争のような)スポーツだとかではなく、「自分のからだをしり、よりよく付き合っていく」ということに、もっと学校教育は特化したらいいのに。
学校では、歩き方も立ち方も、規律以外のために教わったことなど一度もなかった。
それを理解して授業にのぞめば、体育も楽しかったのかもしれない。
そういう後悔も残るが、とても良い本だった。