あらすじ
先生はエラそうだし、ボールは怖い!★体育なんか嫌いだ!という児童生徒が増えています。なぜ、体育嫌いは生まれてしまうのでしょうか。授業、教員、部活動。問題は色々なところに潜んでいます。そんな「嫌い」を哲学で解きほぐせば、体育の本質が見えてきます。強さや速さよりも重要なこととは? 「『体育』なんて好きにならなくてもいい」のです。最も重要なことは、みなさんが多様な他者とともに、自分自身のからだで、賢く、幸せに生きていくことです。そのためにも、たとえ体育の授業や先生、運動部やスポーツが嫌いになったとしても、みなさん自身のからだだけは、どうか嫌いにならないでください。(「おわりに」より)■はじめに/第一章 「体育ぎらい」のリアル/第二章 体育の授業がきらい「規律と恥ずかしさ」/第三章 体育の先生がきらい「怖くても、ユルくても」/第四章 運動部がきらい「体育教師らしさの故郷」/第五章 スポーツがきらい「残酷で、すばらしい文化」/第六章 そもそも運動がきらい「だからこそ、からだに還る」/おわりに
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Posted by ブクログ
「待ちに待った運動会の日が来た」
運動会の作文といえば、こう書き始めるのが定番?だった昭和の小学生。
運動が得意でなくても、そういう反応をしなければ、子供らしさがないと言われた。
そんなわけないとはおくびにも出せず、高校生くらいになってから、「本当は運動会の日は雨が降ればいいのにと思っていた」という文章を子供向け読み物の中で見て、そんなこと言ってもいいんだ⁉︎、、そうだよねー!と、とても共感した日を思い出す。
実際、1989年の調査では、小学生は、好きな教科第一位は体育76.2%、嫌いな教科では、体育は最下位の第八位と答えていたそうです。(P 20 )
「体育がきらい」というタイトルに、そんなこと堂々と言える時代になったんだなー、と手に取りました。
令和の現在、2021年調査では、小学生にとっての体育は、好きな教科としては算数(20.0%)に次ぐ二位(17.8%)とはいえ、嫌いな教科としても、算数(24.6%)、国語(19.4%)に次ぐ堂々第三位(7.7%)だそうです(第四位は社会3.9%)。体育は、2013年以降、不動の嫌い第三位なのだとか。(P19)
みんなホンネを出せるようになったんだなー、と感慨。
体育の授業が変わったわけじゃない、SNSの影響だそうです。
本書では、「体育は公開処刑」とか、「なんで跳び箱飛ばなきゃダメなんですか」「なんで踊らないといけないの」とか、体育嫌いが思うことをひとつひとつ取り上げてくれる。
体育が求める「規律」、体育とほぼ同義と考えられている、運動部、スポーツ、といった観点を取り上げて、それらと体育の関係や、実はそれらは体育の本質じゃないと語った上での最終章、結局体育って何なん?という問いに対する筆者からの一つの答え、私は、結構、気に入りました(笑)。
Posted by ブクログ
僕は体育がきらいだった。SNSの出現で、体育がきらいだった、という人が意見を表明し、ああやっぱりみんなきらいだったのね、という人が増えているそうだ。
だが、その「きらい」とは何なのか。体育を教える側の立場から見た、「きらい」を探る本。
僕が体育がきらいだった小学校、中学校の時代に、このような本と出会えていれば、体育はきらいにならなかった可能性が高い。
学校教育で体育を小中高、大学までやっておきながら、人々はジムやフィットネスなどでパーソナルトレーナーをつけてまで、自らのからだを整えようとする。体育ではそういうことを学べなかったのだ。著者はこれを「体育の敗北」と呼ぶ。
しかし、体育がきらい、にはいくつかのレイヤーがある。
運動がきらい 命令口調の体育教師がきらい みんなの前で恥ずかしい思いをさせられるからきらい
僕もそれら全てに当てはまると言えば当てはまるけれど、一番納得がいったのは、体育が規律の強制をしてきたのでは、というくだりだ。
例えば、体育座りというものは、手も足も自ら固定させることで、子どもたちの自由を自ら縛るというものである、ということで、ハッとした。
僕が体育きらいなのは、そう、規律の強制に他ならない。
そういうことに気づかない人もいるわけなので、体育ぎらいは豊かな感性を持っているのでは、とも著者はいう。そうか〜、俺豊かか〜などと悦に入りながらも、さらに、体育とスポーツの違いなどにも突入していく。
今は、僕らの頃より少しは変わっているはずだけど、規律だとか、(代替戦争のような)スポーツだとかではなく、「自分のからだをしり、よりよく付き合っていく」ということに、もっと学校教育は特化したらいいのに。
学校では、歩き方も立ち方も、規律以外のために教わったことなど一度もなかった。
それを理解して授業にのぞめば、体育も楽しかったのかもしれない。
そういう後悔も残るが、とても良い本だった。
Posted by ブクログ
強制、みんなからの視線、叱責、うまく身体を動かさせない恥ずかしさ、思い起こせば体育がきらいになる要素はこれほどまであったんだなと再確認。私自身も得意競技の時は「楽しみ!」でしたがそれ以外は憂鬱でした。これからの体育を考えたい人や体育嫌いにおすすめ。
Posted by ブクログ
自分は体育の研究をしているつもりでいるが、この題名の視点を深く考えてこなかったことにまず驚いた。
好きにならなくてもいいとは思っていたけど、じゃあ体育って何?やる意味ある?その答えは明確になっていなかった。しかし、この本を読む中である光が差した。それは、体と心は繋がっているということ。
体育はスポーツでもなく、部活でもなく、軍隊訓練でもない。体育の本質は体だ。体を使って考えて、体をさらして、体でコミュニケーションして、体を変えていく。それが体育でしかできない。
これだ!と思った。体育は嫌いになってもいい、体は嫌いにならないでほしい。そのために何ができる?まずは、強制と矯正をやめることだ。そして、選択肢を広げてあげることだ。
思い返せば、自分も体育好きじゃなかったなという発見が驚きであり、人間の思考ってそんなモンだなという諦めもあった。内容にそれほどの深さはないが、思考をとことん深めてくれるきっかけになった一冊。
Posted by ブクログ
プリマー新書のなかでも特に柔らかい文体。話の進み方はゆっくりで少々冗長にも感じるが、子どもたちにとって親しみやすい文体であることは評価できる。
授業、教師、運動部、スポーツ、運動そのものに要素を分解しながら分析する。個人的には本当に体を動かすのが苦手な人についてはアプローチ不足のように感じたけれど、少数派なので触れられていなくてもやむを得ない。
Posted by ブクログ
感想
「体育がきらい」について知りたくて読んだ。体育や体育教師のイメージなど、改めて考え直してみるとすごくおもしろかった。一人に一つしかない大切な「からだ」をあつかう保健体育の教科としての意義や、教師が知らずに生み出していたのかもしれない「体育ぎらい」について、心に留めておきたいと思った。
はじめに
10 「体育」なんて好きにならなくてもいい
17 体育の「嫌い」と「好き」の「あいだ」にも、そのような豊かなヴァリエーションやグラデーションがある
第1章「体育ぎらい」のリアル
19 2021年8月小学生 体育は好きな教科2位 嫌いな教科3位
1989年 好きな教科1位 嫌いな教科8位
嫌いな割合 男子10.7% 女子16.5% 小6女子30.5%
28 SNSにより「体育ぎらい」が印象づけられた 稲垣諭 SNSは、社会の苦しみの現
実を変えてしまった。(中略)そのように苦しむ主体や克明な記述が増えることは、同時にそれを目にする人の中で苦しみの自己認知・追体験が行われることでもあります。
31 からだの「かけがえのなさ」「かえられなさ」
39 日本の体育は、子ども一人に対して10年以上の時間を費やしています。それにもかかわらず、彼らが大人になり、いざ自らの健康を意識し始めたとき、一体何を、どうすればよいかがわからない とりあえずジム 体育の敗北
42 「体育ぎらい」と「運動ぎらい」
第2章 体育の授業がきらい「規律と恥ずかしさ」
56 体育=体操だった
60 「公開処刑」
62 恥ずかしさの誕生 サルトル 鍵孔の例 他者に見られていることを自覚することによって恥ずかしさを感じる
第3章 体育の先生がきらい「怖くても、ユルくても」
83 怖そう 体育の先生と暴力
85 偉そう 生徒指導という役割
体育の先生は軍人っぽい 体育の先生はスポーツのコーチっぽい
99 「ユルイ」先生は、まだ「体育が嫌い」ではない人にとっては、体育を好きになる可能性を摘み取る存在になり得る
105 体育を好きにさせることは、あくまでも手段として意味しかない。人が何かを好きになるという出来事は、他者が簡単にコントロールできる性質のものでは、そもそもない。
第4章 運動部がきらい「体育教師らしさの故郷」
129 体育の授業はレベルの低い運動部なのか
第5章 スポーツがきらい「残酷ですばらしい文化」
144 競争しなきゃダメなのか
153 スポーツは人を育てる・・・とは限らない
155 スポーツは一つの文化(でしかない)
166 生涯スポーツと言われても・・・生涯音楽や生涯美術はない
第6章 そもそも運動がきらい「だからこそ、からだに還る」
177「運動=スポーツ」という幻想
184 できるようになる=身体技法の獲得
187 階段かエレベーターかからだが選んでいる
190 運動ができるようになることは、決してスポーツがうまくなることだけを意味しているわけでなく、私たち自身の経験できる世界を豊かにすること
195 からだが変わるとは私が変わること
199 力を入れるだけでなく抜くことも大事
207「からだを豊かに変えていくこと」としての本当の「体育」は、もっと自由で、もっと面白く、そして、きっとすばらしいもの
あとがき
211「からだ」は嫌いにならないで!
Posted by ブクログ
タイトルを見て素通り出来ず購入しました。
体育なんて大嫌いです。
中学生の時、体育の教育実習生が来ました。
持久走でした。
周回遅れで最後にゴールすべく真面目に走っていた私に、実習生は「がんばれよー」と呑気に声をかけました。普通にゴールした同級生も和やかに談笑中。
私がゴールすれば授業は終わり、
みんな早く終わって着替えて帰りたかったんでしょう。分かりますよ。分かりますけどね。
私はサボっていたわけじゃなく、
必死に走っても遅いんです。惨めでした。
私に採点させてくれるなら、こんな奴に合格点はやらない、体育の教師になんかならないでくれ。
と思ったのはもう40年以上前。
先生になられたのか、他の職業に就かれたかは知りません。私の様な体育嫌いを増産するだけの教師として人生を過ごされてなければいいなと思います。
バスケットの授業の時、教師はバスケ部の生徒に指導を振りました。興味もなかったのでルールも知らず、見様見真似で動いたら「はいファール!」と高らかに叫ばれて固まりました。何がいけなかったのか、どう直せばいいのか、何も分からないまま試合がありました。ボールが来ない様にひたすら逃げ回りました。
バスケットボールが人気スポーツなのは知っています。でも私はこの授業以来、バスケットボールに何の関心も持てません。今この瞬間に世界からバスケが消えても私の人生には1ミリも影響がない。
体育の授業がなければ、私は今ほど運動する事に嫌悪感を持たずにすんだのではないかと思う事はしょっちゅうあります。体育とスポーツとは違う、という主張には同意します。保健体育を必修とするなら、教えるべきは、自分が健康に生涯を過ごすために自分の身体をどう扱うかという事でしょう。それは性教育にもつながる事の様に思います。寝方、緩め方。そんな事、習ったことないけど、身体を労わる、身体の声を聞くためには、スポーツの技能なんぞよりよっぽど伝えなければならない事の様に思えます。
体育嫌いなんで、便乗して語りました。
大人になってよかった事のひとつが、体育の授業が無くなった事だと心から思います。
Posted by ブクログ
体育の先生が書いた、「体育ぎらい」の本。
「「体育」なんて好きにならなくてもいい」、ただし「体育なんてどうでもいい」わけではない、とのことだ。
体育を嫌いになる理由を、いくつかの要素に細分化していく過程は興味深く、「体育ぎらい」の当事者としても気づきが多かった。
集団行動を身につけるために、規律を植え付け管理するという体育教育の性格。いわゆる「公開処刑」と言われる、みんなの前で運動をやらされ、失敗したときに感じる「恥ずかしさ」。そもそも「体育の先生」が嫌い。そうした「体育教師像」はどこからくるのか、それは運動部。体育の授業をレベルの低い運動部と捉える見方。そこからくる「運動部」への嫌悪。。。
どれも身に覚えがある。昨今では体に悪いとされる「体育座り」が、集中力のない小さな子どもが砂いじりに興じるのを防ぐための、「身体をコントロールする技術」として用いられているという指摘には、身体じゅうに嫌悪感が走るのを感じた。
「体育ぎらい」は、スポーツ嫌い、さらには運動嫌いなのか?と言うと、それは違う。筆者は体育教育のスポーツへの偏重を指摘していたが、べつにこっちはスポーツだって嫌いではないのだ。ただ本書でも指摘があったが、スポーツには勝ち負けが付き物で、やるからには勝ちを目指さなければ成立しないものだ。それはわかる。体育の授業では、時間の関係もあるから仕方ないとはいえ、習熟度が人それぞれの中、運動音痴たちがまだ必要な動きを身につけられていないのに、ゲームに放り込まれる。そしてクラスメイトからの罵倒にさらされる羽目になるのだ。
バスケのシュート練習は楽しかったし、バレーのパス練習も楽しめていたのに。そうした嫌な経験とともに、そのスポーツ自体が嫌いになり、スポーツや運動に触れる機会をどんどん失っていく。そして中年になって健康のためにと思い腰を上げてジムに通いはじめて、身体を動かすことの楽しさに気がつくのだ。これを「教育の失敗」と言わずして何というのか?
「体育ぎらい」の当事者すぎて、つい熱くなってしまった。とはいえ、体育の先生が「体育ぎらい」の本を書くなんて良い時代になったものだと思う。最後のほうで触れられていた、「寝方」の授業なんて面白そうじゃないか。運動があまり得意じゃなくて、画一的な体育の授業に落ちこぼれがちな「体育ぎらい」たちが、スポーツや運動ごと嫌いにならないような教育を、ぜひお願いしたいところである。
Posted by ブクログ
小学校から高校まで体育の授業を何時間と費やしてるのに、大人になったら高い金払ってジムに行くのは、全く体の使い方を教えることが出来ておらず、日本の体育教育の敗北では?と言ってたのが良かった。
Posted by ブクログ
ジュンク堂にて平積みされていたのが目に留まり、購入した。
なぜ体育ぎらいは目立つのか、教師やスポーツとの絡みなど歴史込みで複数の観点から語られている。
体育の研究されているけど、体育が好きにならなくても良いと訴えるスタンスのため、割とフラットに語られており、どちらかという好きになれず、もちろん得意でもなかった自分としては頷きながら読んでいた。特にドッジボールでの小学生達の会話はリアルというか、こんなだったなと。
Posted by ブクログ
文字通り、体育の授業が大嫌いだったので、本書を手に取りました。
教育者としてのご自身の経験から、体育嫌いを量産する教育現場のあり方について思うところを書きつつ、読者には、体育を好きにならなくてもいいよとわかりやすく語りかけてきます。全体的に読みやすいです。
体育は大嫌い、かつ、スポーツも大嫌いでしたが、大人になり、公開処刑の機会や、スポーツの話題に乗れなくとも関係なくなってからは、自分のゆったりペースで運動の楽しさと有用性がわかってきました。
動画アプリなどで一日5分の軽い筋トレでも、翌朝身体を動かすのが気持ちがいい、階段が苦にならない、ことを知った時には、目からウロコでした。
ただ、筆者が指摘しているように、本来はそうした運動の効用や、身体を動かす楽しさを伝えるのが体育の授業のはずが、実際は本末転倒になることが学校の課題であることは大いに賛同します。
また、歴史的に軍隊の名残としての体育の分析は興味深いと感じました。
全体的に、体育が嫌いな人よりも、体育嫌いを量産させないためにどうしたら良いのか?と悩む学校の先生方にとって響く本であると思います。
Posted by ブクログ
体育が嫌いな人集まれ!
小学校の時は体育が嫌いだった。けれど、中学校ではそれほど悪くなく、高校では嫌いではない科目だった。それを漠然と部活動によって体力がついて、授業についていけるようになったからだと考えていた。まさにその漠然と考えていた部分を支えるような話だった。
著者は「体育」が何であるのかを、何をしているのか(スポーツ)、誰が関わっているのか(体育教師)というように分解しながら、「体育ぎらい」は何が嫌いなのかを説明している。強制される雰囲気、権威的なもの、勝つこととできない者への残酷さ、スポーツというものが持つ性格と、すべての人に必要な「からだ」への認識。
何をどうしてよいのかわからなかったし、自分が戦力にならないと責められた小学校の体育。どのように身体が動くのかを説明されて、あまり試合はなくて、ストレッチなども多くて、とにかく身体を動かす習慣が大切とされた中学校・高校の体育。走るのが速い子やそのスポーツが得意な子のスーパープレイをみんなでわいわい応援する雰囲気なのも楽しかった。
飛行機に乗れば空が飛べて、新幹線に乗れば時速300kmを超えて移動できる世界で、棒高跳びの高さへの挑戦や、100m決勝にワクワクする。スポーツが文化だというのなら、色々なものを削ぎ落として、自分の身体が動く不思議、練習するともっと動きがよくなる不思議を楽しむ「体育」になってほしい。それにはこの本をたくさんの体育教師志望者に読んでもらう必要がある。
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部活動はオマケですよー。
でも、部活動をメインにしないと居場所を保てない体育教員がほとんどなのも実情。
そもそも、専門にしている競技ごとに教員を採用して、その部活動があるところに人を配置しているのって、おかしい。他の教科でそんなことやってる??
つまりは、採用のシステムが歪んでいるということ。
部活動が体育教員のアイデンティティなり存在意義なりを支える主要な教育活動になっちゃってる。
でも。
部活動はオマケですよー。
と、大事なことなので、2回書いてみる。
体育の原義に立ち返って体育の授業を実施するには、まず各県の高体連なり、スポーツ庁なりが、部活動からオリンピアンを吸い上げる仕組みを諦めないとダメだってこと。
ごく一部のスーパー優秀な先生は別として、大半を占めるふつーの先生と本書に挙げられている残念な先生が大半を占めるのが現状。これに沿った採用システムに変えないと、体育ぎらいは増えても減らない。
あ、体育が一体、どこを目指す教科なのかってことは、内田樹先生の本を読んだ方が腑に落ちます。
『武道的思考』とか、能や合気道について触れている文章の中で、この本に書いてあることは網羅されてました。なので、ほぼ予想通りに話は展開しました。面白いのはいろんなダメ体育教員が紹介されているところ。あー、いたなー、と思いながら読みました。
あと、壮行式は運動部相手にしかやらなかった、たしか。いろいろ理屈はあるらしいけど。まずもって母校の応援団がバンカラなので野球部と剣道部専用の応援歌はあったけど、吹奏楽部とか演劇部専用の応援歌があるという学校は、寡聞にして知らず。いやなヒエラルキー。兵士と銃後の守り的な分業がまーだ居座ってる。何せ、体育は軍事教練を母体にして育った教科だから、なかなかその体質を変えられないらしい。マネといえば女子だし。『彼女は頭が悪いから』を併せ読みすると、不快指数が爆上がりすること間違いなし。とはいえ、軍事教練的鋳型ハメ目的教科が母体という観点から行けば、国語も似たようなものだけど。こちらは井上ひさしの『国語元年』に詳しい。
ということで、読みやすさならば本書ですが、哲学的な深みと広がりならうっちーです。
私は体育は好きでも嫌いでもない。中学では運動部、高校では文化部、大学ではその両方やったけど、自分の体との付き合い方を本気で学んだのは社会人になって体を壊してからでした。
Posted by ブクログ
体育は「からだ」という唯一無二でかけがえないと同時に逃げられない要素に注目せざるを得ないものである。
体育嫌いが増えている一方での有償のスポーツジムやフィットネスクラブの流行は、自らのからだを扱う(管理する)術を伝えられていない体育の敗北である。
体育における規律とはからだのコントロールで、それを指導する役割を持つ体育科の特権が、体育教師による生徒指導とつながっている可能性がある。
部員全員で学校名入りのチームジャージを着ることの誇らしさと、そこから得られてしまう「特別な存在」であるという自負の危険性がある。
文化としてのスポーツなのに「運動部」とされ、部活に無所属なのに帰宅「部」とされるように、運動部の特別性を強制性がある。
運動によって体が変わり、その結果として私が変わる。
全力を求められ競争性があるスポーツに対し、体の使い方や動かし方を含む体育や運動は本来異なるものである。しかし、現状の体育の授業ではあまりにスポーツに偏っている。