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Posted by ブクログ
自分は体育の研究をしているつもりでいるが、この題名の視点を深く考えてこなかったことにまず驚いた。
好きにならなくてもいいとは思っていたけど、じゃあ体育って何?やる意味ある?その答えは明確になっていなかった。しかし、この本を読む中である光が差した。それは、体と心は繋がっているということ。
体育はスポーツでもなく、部活でもなく、軍隊訓練でもない。体育の本質は体だ。体を使って考えて、体をさらして、体でコミュニケーションして、体を変えていく。それが体育でしかできない。
これだ!と思った。体育は嫌いになってもいい、体は嫌いにならないでほしい。そのために何ができる?まずは、強制と矯正をやめることだ。そして、選択肢を広げてあげることだ。
思い返せば、自分も体育好きじゃなかったなという発見が驚きであり、人間の思考ってそんなモンだなという諦めもあった。内容にそれほどの深さはないが、思考をとことん深めてくれるきっかけになった一冊。
Posted by ブクログ
感想
「体育がきらい」について知りたくて読んだ。体育や体育教師のイメージなど、改めて考え直してみるとすごくおもしろかった。一人に一つしかない大切な「からだ」をあつかう保健体育の教科としての意義や、教師が知らずに生み出していたのかもしれない「体育ぎらい」について、心に留めておきたいと思った。
はじめに
10 「体育」なんて好きにならなくてもいい
17 体育の「嫌い」と「好き」の「あいだ」にも、そのような豊かなヴァリエーションやグラデーションがある
第1章「体育ぎらい」のリアル
19 2021年8月小学生 体育は好きな教科2位 嫌いな教科3位
1989年 好きな教科1位 嫌いな教科8位
嫌いな割合 男子10.7% 女子16.5% 小6女子30.5%
28 SNSにより「体育ぎらい」が印象づけられた 稲垣諭 SNSは、社会の苦しみの現
実を変えてしまった。(中略)そのように苦しむ主体や克明な記述が増えることは、同時にそれを目にする人の中で苦しみの自己認知・追体験が行われることでもあります。
31 からだの「かけがえのなさ」「かえられなさ」
39 日本の体育は、子ども一人に対して10年以上の時間を費やしています。それにもかかわらず、彼らが大人になり、いざ自らの健康を意識し始めたとき、一体何を、どうすればよいかがわからない とりあえずジム 体育の敗北
42 「体育ぎらい」と「運動ぎらい」
第2章 体育の授業がきらい「規律と恥ずかしさ」
56 体育=体操だった
60 「公開処刑」
62 恥ずかしさの誕生 サルトル 鍵孔の例 他者に見られていることを自覚することによって恥ずかしさを感じる
第3章 体育の先生がきらい「怖くても、ユルくても」
83 怖そう 体育の先生と暴力
85 偉そう 生徒指導という役割
体育の先生は軍人っぽい 体育の先生はスポーツのコーチっぽい
99 「ユルイ」先生は、まだ「体育が嫌い」ではない人にとっては、体育を好きになる可能性を摘み取る存在になり得る
105 体育を好きにさせることは、あくまでも手段として意味しかない。人が何かを好きになるという出来事は、他者が簡単にコントロールできる性質のものでは、そもそもない。
第4章 運動部がきらい「体育教師らしさの故郷」
129 体育の授業はレベルの低い運動部なのか
第5章 スポーツがきらい「残酷ですばらしい文化」
144 競争しなきゃダメなのか
153 スポーツは人を育てる・・・とは限らない
155 スポーツは一つの文化(でしかない)
166 生涯スポーツと言われても・・・生涯音楽や生涯美術はない
第6章 そもそも運動がきらい「だからこそ、からだに還る」
177「運動=スポーツ」という幻想
184 できるようになる=身体技法の獲得
187 階段かエレベーターかからだが選んでいる
190 運動ができるようになることは、決してスポーツがうまくなることだけを意味しているわけでなく、私たち自身の経験できる世界を豊かにすること
195 からだが変わるとは私が変わること
199 力を入れるだけでなく抜くことも大事
207「からだを豊かに変えていくこと」としての本当の「体育」は、もっと自由で、もっと面白く、そして、きっとすばらしいもの
あとがき
211「からだ」は嫌いにならないで!
Posted by ブクログ
体育は「からだ」という唯一無二でかけがえないと同時に逃げられない要素に注目せざるを得ないものである。
体育嫌いが増えている一方での有償のスポーツジムやフィットネスクラブの流行は、自らのからだを扱う(管理する)術を伝えられていない体育の敗北である。
体育における規律とはからだのコントロールで、それを指導する役割を持つ体育科の特権が、体育教師による生徒指導とつながっている可能性がある。
部員全員で学校名入りのチームジャージを着ることの誇らしさと、そこから得られてしまう「特別な存在」であるという自負の危険性がある。
文化としてのスポーツなのに「運動部」とされ、部活に無所属なのに帰宅「部」とされるように、運動部の特別性を強制性がある。
運動によって体が変わり、その結果として私が変わる。
全力を求められ競争性があるスポーツに対し、体の使い方や動かし方を含む体育や運動は本来異なるものである。しかし、現状の体育の授業ではあまりにスポーツに偏っている。