坂本拓弥のレビュー一覧
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「待ちに待った運動会の日が来た」
運動会の作文といえば、こう書き始めるのが定番?だった昭和の小学生。
運動が得意でなくても、そういう反応をしなければ、子供らしさがないと言われた。
そんなわけないとはおくびにも出せず、高校生くらいになってから、「本当は運動会の日は雨が降ればいいのにと思っていた」という文章を子供向け読み物の中で見て、そんなこと言ってもいいんだ⁉︎、、そうだよねー!と、とても共感した日を思い出す。
実際、1989年の調査では、小学生は、好きな教科第一位は体育76.2%、嫌いな教科では、体育は最下位の第八位と答えていたそうです。(P 20 )
「体育がきらい」というタイトルに、そん -
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僕は体育がきらいだった。SNSの出現で、体育がきらいだった、という人が意見を表明し、ああやっぱりみんなきらいだったのね、という人が増えているそうだ。
だが、その「きらい」とは何なのか。体育を教える側の立場から見た、「きらい」を探る本。
僕が体育がきらいだった小学校、中学校の時代に、このような本と出会えていれば、体育はきらいにならなかった可能性が高い。
学校教育で体育を小中高、大学までやっておきながら、人々はジムやフィットネスなどでパーソナルトレーナーをつけてまで、自らのからだを整えようとする。体育ではそういうことを学べなかったのだ。著者はこれを「体育の敗北」と呼ぶ。
しかし、体育がきらい、には -
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ネタバレ自分は体育の研究をしているつもりでいるが、この題名の視点を深く考えてこなかったことにまず驚いた。
好きにならなくてもいいとは思っていたけど、じゃあ体育って何?やる意味ある?その答えは明確になっていなかった。しかし、この本を読む中である光が差した。それは、体と心は繋がっているということ。
体育はスポーツでもなく、部活でもなく、軍隊訓練でもない。体育の本質は体だ。体を使って考えて、体をさらして、体でコミュニケーションして、体を変えていく。それが体育でしかできない。
これだ!と思った。体育は嫌いになってもいい、体は嫌いにならないでほしい。そのために何ができる?まずは、強制と矯正をやめることだ。そして -
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ネタバレ感想
「体育がきらい」について知りたくて読んだ。体育や体育教師のイメージなど、改めて考え直してみるとすごくおもしろかった。一人に一つしかない大切な「からだ」をあつかう保健体育の教科としての意義や、教師が知らずに生み出していたのかもしれない「体育ぎらい」について、心に留めておきたいと思った。
はじめに
10 「体育」なんて好きにならなくてもいい
17 体育の「嫌い」と「好き」の「あいだ」にも、そのような豊かなヴァリエーションやグラデーションがある
第1章「体育ぎらい」のリアル
19 2021年8月小学生 体育は好きな教科2位 嫌いな教科3位
1989年 好きな教科1位 嫌い -
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タイトルを見て素通り出来ず購入しました。
体育なんて大嫌いです。
中学生の時、体育の教育実習生が来ました。
持久走でした。
周回遅れで最後にゴールすべく真面目に走っていた私に、実習生は「がんばれよー」と呑気に声をかけました。普通にゴールした同級生も和やかに談笑中。
私がゴールすれば授業は終わり、
みんな早く終わって着替えて帰りたかったんでしょう。分かりますよ。分かりますけどね。
私はサボっていたわけじゃなく、
必死に走っても遅いんです。惨めでした。
私に採点させてくれるなら、こんな奴に合格点はやらない、体育の教師になんかならないでくれ。
と思ったのはもう40年以上前。
先生になられたのか、他 -
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体育の先生が書いた、「体育ぎらい」の本。
「「体育」なんて好きにならなくてもいい」、ただし「体育なんてどうでもいい」わけではない、とのことだ。
体育を嫌いになる理由を、いくつかの要素に細分化していく過程は興味深く、「体育ぎらい」の当事者としても気づきが多かった。
集団行動を身につけるために、規律を植え付け管理するという体育教育の性格。いわゆる「公開処刑」と言われる、みんなの前で運動をやらされ、失敗したときに感じる「恥ずかしさ」。そもそも「体育の先生」が嫌い。そうした「体育教師像」はどこからくるのか、それは運動部。体育の授業をレベルの低い運動部と捉える見方。そこからくる「運動部」への嫌悪。。 -
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文字通り、体育の授業が大嫌いだったので、本書を手に取りました。
教育者としてのご自身の経験から、体育嫌いを量産する教育現場のあり方について思うところを書きつつ、読者には、体育を好きにならなくてもいいよとわかりやすく語りかけてきます。全体的に読みやすいです。
体育は大嫌い、かつ、スポーツも大嫌いでしたが、大人になり、公開処刑の機会や、スポーツの話題に乗れなくとも関係なくなってからは、自分のゆったりペースで運動の楽しさと有用性がわかってきました。
動画アプリなどで一日5分の軽い筋トレでも、翌朝身体を動かすのが気持ちがいい、階段が苦にならない、ことを知った時には、目からウロコでした。
ただ、筆者が -
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ネタバレ体育が嫌いな人集まれ!
小学校の時は体育が嫌いだった。けれど、中学校ではそれほど悪くなく、高校では嫌いではない科目だった。それを漠然と部活動によって体力がついて、授業についていけるようになったからだと考えていた。まさにその漠然と考えていた部分を支えるような話だった。
著者は「体育」が何であるのかを、何をしているのか(スポーツ)、誰が関わっているのか(体育教師)というように分解しながら、「体育ぎらい」は何が嫌いなのかを説明している。強制される雰囲気、権威的なもの、勝つこととできない者への残酷さ、スポーツというものが持つ性格と、すべての人に必要な「からだ」への認識。
何をどうしてよいのかわか -
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部活動はオマケですよー。
でも、部活動をメインにしないと居場所を保てない体育教員がほとんどなのも実情。
そもそも、専門にしている競技ごとに教員を採用して、その部活動があるところに人を配置しているのって、おかしい。他の教科でそんなことやってる??
つまりは、採用のシステムが歪んでいるということ。
部活動が体育教員のアイデンティティなり存在意義なりを支える主要な教育活動になっちゃってる。
でも。
部活動はオマケですよー。
と、大事なことなので、2回書いてみる。
体育の原義に立ち返って体育の授業を実施するには、まず各県の高体連なり、スポーツ庁なりが、部活動からオリンピアンを吸い上げる仕組みを諦 -
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ネタバレ体育は「からだ」という唯一無二でかけがえないと同時に逃げられない要素に注目せざるを得ないものである。
体育嫌いが増えている一方での有償のスポーツジムやフィットネスクラブの流行は、自らのからだを扱う(管理する)術を伝えられていない体育の敗北である。
体育における規律とはからだのコントロールで、それを指導する役割を持つ体育科の特権が、体育教師による生徒指導とつながっている可能性がある。
部員全員で学校名入りのチームジャージを着ることの誇らしさと、そこから得られてしまう「特別な存在」であるという自負の危険性がある。
文化としてのスポーツなのに「運動部」とされ、部活に無所属なのに帰宅「部」とされるよう