わたこん読者の皆様。
初めましての皆様。
こんにちは。あくみ先生の新刊、来ましたね!
歴オタ&ラブロマンスキーの私、大歓喜の名作です。
今後が楽しみになる展開の数々、次巻以降を早く読みたくて仕方がない!
※
以下、ネタバレを含みます。
感想、と申しますよりも、個人的雑記を多く含みます。
時間を許す方のみ、お付き合いを願います。
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がいくん、絶対にデレ展開きますね、これ。笑
そして千歳くんがジェラっちゃう展開かしら。
かわよ!
まさかの第1巻からいきなりキス&ハグが叶ってしまうとは、わたこんを読み慣れてきた者としては、超スピード展開でブチ上がりでした。笑 あくみ先生、新たな試みですね。
廃墟を巡る怪しげなチャンネルの投稿者名が『マサ』なのは、TOLAND VLOGのサムさんを意図しているのでしょうか。あくみ先生は、本作に『大祓詞』を扱われていますように、歴史にある程度以上学びが見受けられますので、サムさんを知り、興味を持っていても不思議はありません。とはいってもサムさんは、間違っても本作のマサのように、配慮なく呪物を配って回るようなことはしませんし、インターネット上の自称霊能力者を崇拝するようなこともしない人ですが……苦笑
私がインターネット上の霊能者で、参考程度に話を聞かせてもらっているのは、今のところ、神人さんぐらいでしょうか。大日月神示の内容が、驚くほど、国際金融資本と紛争の歴史を表しているので、怪しげな宗教というよりは、ある程度のファクトフルネスを追求した者の発言、著書であると、少なくとも私にとっては認められたからです。
夜花さんの能力、ここまで見てきた限りですと、対象の動きを止めるもの……が多いので、DIO様よろしく、時間停止なのか、あるいは、静動を強制的に入れ替えてしまえるものなのか、いろいろと想像が捗ります。
太陽の神秘も核融合であることを知れば、こうした異能の力というのも、化学反応で説明出来るはずですから。私たちの筋肉や肉体の動作は、ニューロンの働き、電気信号によってもたらされます。その電気信号を伝える物質を強制的に阻害できれば、どれだけ意思で「うごけ、うごけよ!」と相手が求めても、ハナから動くはずもないという理屈です。逆に言えば、自分の神経が通っていないはずのものにも、ニューロンと同様のバイパス(通信回路)を繋ぐことが出来るなら、まさに念力の如く、あらゆるものを想いのままに動かすことも出来るでしょう。
そうしたものが、世界の誰にでもあり触れていると、今の人間の倫理観では危険なため、神様によって抑えられていると考えられそうです。少なくとも、人殺しのなかったとされる縄文時代では、もっとこうした神通力は、普遍的なものであったでしょうから。
まれびととして生き残るため、自分の派閥を作る。
そうした経緯も、どこか、自民党の政争の歴史を思わせるようで、現代の利権だけの派閥を風刺しているように見受けられました。※倉山満氏の著作等参照
本来、派閥の領袖とは、己の身内を富ませる一方、広く、人々を豊かにしていくことを目指すはずでした。少なくとも、菅原道真さんはその用意がありましたが、一時的に不利を被る派閥が、彼のその大局観を理解出来ず、嫉妬、迫害したためにそれが叶わなかった歴史がありました。
本来、そういう広い視野を持ち、それを叶えるためにこそ、自分と、自分の身内を、まずは初めに豊かにする。そして長い時間をかけて全ての人を幸せにしていくことを目指すのが、派閥の意義だったのです。本編を見る限り、夜花さんはそこを目指しているように思います。名前から察せられるように、明らかにユダヤ姓……秦氏を連想させられますので、日本の暮らしと同化し、永く、国を守り続けてくれた、木工神道と石工秦氏の絆を感じさせてくれるのです。※『同化ユダヤ人のすばらしい日本への貢献』/著:田中英道 参照
鶴さんとの和解も嬉しい場面でした。
わたこん、美世さんにおいては、斎森家と和解することはついぞありませんでしたものね。とはいえ、婚姻の際、妹からは皮肉混じりの祝福が届いていたので、ある意味、報われてはいたのですが。
孫の将来の安泰を願って、今、厳しく接するのか。孫の今の幸福を見守り、やがて訪れる過酷を、この子は乗り越えられると信じるのか。
なかなか、難しいところです。
こう言う場合、大人の方が、むしろ、勇気を試されます。
何があってもこの子を信じる。
他人を脅かす危害を犯さない限り、と。
本当に無条件の愛や信仰というのは、難しいことですから。
食べものを使って汚く遊ぶ幼児。
水道の水を流し続けてそれを手で触って喜ぶ子ども。
大人から見れば、どちらも不節操、無駄遣いです。叱りたくもなります。
けれど、子どもは、その瞬間、一番に感じている、興味関心に夢中になっているだけなのです。
大人に価値のわからないことでもいいのです。
何かに夢中になるということは、才能です。
その才能を、たまたま大人が気づいてあげられなかったからといって、叱ったり、怒鳴ったりして、摘んでしまってはいけないのです。
水道代1000円、無駄に繰り上がることと、将来の我が子が、夢中の情熱を持って何かを成し遂げることと、どちらが、大切か。金銭の節約だの、食べ物を粗末にだの、そうした理屈は、大人になってからで十分です。
他人と接する年齢になれば、おのずから、何が恥で、何が尊いかなど、自分の中で確かな基準を誰もが養っていけますから。その基準が、他の人と、ましてや親である自分とさえ違っていても、それはそれで良いのですから。
鶴さんは、叱ってしまうタイプの人でしたが、それはあくまでも、孫の将来の幸せを願ってのことでした。
自分が試された過酷をこの子が乗り越えられると、簡単には信じられなかったからです。
そして、この鶴さんの生き方を不器用だと思った読者の方には、将来、家庭を持たれるにせよ、今お子さんを養っておられる方にせよ、身内ではないけれどお子さんに接する機会が多い人にせよ、どうか、覚えておいて欲しいのです。
他人に危害を加えるようなことをしない限り、ただ信じ、見守ること。
そこに伴う責任に怯えたりしないでいいのです。
これが、本当に難しいのは、ただ信じるということが出来ない、人の心の臆病さゆえ。
臆病さは、人を賢くさせ、文明を豊かにします。
一方で、効率的なものばかりを求め、手間や過程に宿る愛おしさを忘れさせてしまうものです。
ほどほどに付き合い、一緒に生きていきましょう。己の弱さと一緒に。
そしてこれから強くなっていく、心の勇気と、一緒に。