日本に杉原千畝がいたように、ドイツにシンドラーがいたように、有名ではないけど残虐行為から自分のできることを命をかけてナチスからユダヤ人を守った人たちの記録。
ユダヤ人音楽家のコンラート•ラッテの「たいていの人は、なされるがまま、運命に身をゆだねてしまっているが、僕には理解できない。何とか脱出の道を探
...続きを読むすべきだ。」と自ら生きる道を模索した人がいたこと、ルート一家のように少ない食料と恐怖に怯える中、家族と一緒にいられる幸せを感じる人たち。また、当時のドイツ人の中に、ユダヤ人の苦難を見過ごすことができず、何か行動しなければと動いた人たちがいたこと。(その数、およそ二万人ほど)
そして、いまと共通するであろうと思ったのが戦争で友情を割かれ、傷みを追った人。昨日まで仲良く学び、、ともに働いてた人を国家が割くという非道さ。従軍での残虐行為がトラウマになりユダヤ人を守ることを決意した農場主。大勢の普通の人たちの勇気がひとをひとでいさせたことに感動。また、元女子ギムナジウム教師のエリザベート•アベックが匿ったユダヤ人のため、「小さな学校」を作ったのも心打たれた。彼女に教わったラルフが「あのころの自分が無知な愚か者にならずに済んだのは、ひとえにアベック先生のおかげだった」と振り返っている。
「戦争が終わっだら」という言葉が、潜伏ユダヤ人たちにとって希望を、生きるよすがになっていたこと(終わっだら学びたいなど)。また、仕事や役割を持つことが、金銭的理由のみならず「社会からの孤立)を防いだことも大きかった。(例えばジテンシャでの使い走りとか)
アベック先生の教え子たちに戦争反対、ユダヤ人救援の思想が根づいていたのもよかった。(内なる輪の結成)
また、ユダヤ人のため、偽造身分証を作り、捕まったカウフマン(本人はユダヤ人なるもドイツ人貴族の娘と結婚)が逮捕後に「わたしのこころに根差していたのは、キリスト教徒としての意識でした。年とともにその意識が成熟してゆくにつれ、私は自らの過失に寄るのではないこの苦しみと向き合い、耐えるべきだと思いいたったのです。やがて、その認識は自然に、迫害を受けるユダヤ人たちへと向けられていきました。彼らは私が自分たちを助けてくれると信じ、信頼を寄せていました。そうした人びとを失望差せることはできなかったのです。私が彼らを扶けたのは彼等がユダヤ人たったからではありません。助けを必要とし、おびえている人間だったからなのです。」にも人間の持つ、内なる、最大の善意という意味で心に残った。
ルートが戦後、かくまってくれたマリアと再会するときに子どもや孫に「この人がマリア。私たち皆の天使よ。もしもこの人がいなかったら、今ここにいる私たちの唯一人、この世にいないのよ」は他にもいた無数のマリアたちへの感謝してのコトバだったと思う。
終わりに著者指摘している「多様性ということばの根幹には、少数者の意見や価値観を尊重すべきとの価値観が存在する。だが歴史を振り返ってみれば、少数者がいかに尊重差れるかは、その社会や銃弾がもつ「余裕」に依存するというのが現実というのはまさに嚆矢を得ている。