読んでいてどこまでも切なくなってしまった.
日々の仕事で触れ合う認知症を持つ高齢者の方々の心の奥底に触れたような,「本音」を突きつけられたような,何とも言えない居心地の悪さと共に,「一人の人であること」の尊さを強烈に感じた.間違いなく,明日からの,いや,今日からの振る舞いに大きな導きを与えてくれたことは確かだ.
誰がどの視点から語っているのかも分からない冒頭,(解説によると千葉弁らしい)「カケイさん」の語り口は,活字にすると当初は読みづらく,意味を理解するのに0.2秒くらいのタイムラグが生じ,ちょっとした違和感がある.しかし,人物像がカメラのファインダーを覗きながら焦点を合わせるように解像度を上げてくるにつれ,それが普段診療している認知症の方々との対話の分かりづらさや違和感と絶妙にリンクし,圧倒的なリアリティを増してくる.
そして語られる「カケイさん」の人生.
「人に歴史あり」などと使い古された言葉にしてしまえば陳腐になってしまうが,人の数だけ倖せも,後悔も,癒えることのない傷もあるわけで,それは普段相対している人たちもまた同じだ.分かっちゃいるのに,忙しい診療中にはすっかりそれが抜け落ちてしまう.というより,意図的にある程度封印せざるを得ないのが現実で.それどころか,仕事を離れて街場の一員になっても,「おじいちゃん」「おばあちゃん」「お年寄り」という記号に彼らを封じ込めてしまう.やがて,自分もその中に封じ込められる……誰かにとっての「特別な自分」がどんどん削られていき,いつしか自分にとってすら「特別」ではなくなっていく……「人の事なら好き勝手に語れるけど,自分のことは分からない」という「カケイさん」の言葉に象徴されるように,どんどん小さくなっていってしまう自分の世界…
でも,
みっちゃんと過ごした日々は,間違いなく倖せだったと,確信を持って語る「カケイさん」.そこには,誰にも奪うことのできない,燦然と輝く「個」としての「カケイさん」がいる.絶対に奪われることのない,個人としての尊さがある.
ほんの何年か前まで,僕の仕事の対象者は子どもばかりだった.まだ言葉も発しない子どもたち.来る日も来る日も手術,術後管理,当直,親への対応……今は真逆に見える環境に身を置きながらも,やっていることの「根っこ」は変わらないということを改めて示し,勇気づけてくれた一冊だ.
僕らは,見える形こそ違えど,誰かの人生を「倖せ」にするために,専門知識を磨き,技術を高め,心を込めてそれを差し出すことに価値がある.対象が変わっても,「誰かのかけがえのない,誰にも奪われない大切なもの」を紡ぐための歯車の一つになる.それは,僕らの仕事だけの話じゃない.仕事とは,「生きる意味」とは,きっとそういうことなんじゃないかと思う.
日々出会うたくさんの「カケイさん」のために,今日から僕は,何ができるだろう.
一人一人の大切な人生のために,もう一度ここから始めよう.