しかし未顧客は、その場で思い付いたブランドの中から、最も簡単に手に入れられるもので済ませます。こうした傾向は一般的に「利用可能性ヒューリスティクス」として知られています(Tversky and Kahneman,1973)。この視座に立つと、先ほどの式の分母(商品にたどり着くまでのコスト)の重要性がうかがわれます。コストと言っても価格だけの話ではありません。どこで買えるか、どんな種類があるのか、どういうときに使うのか、どんな体験が得られるのかなど、処理する情報が増えるほど未顧客にとっては負担になります。お分かりかと思いますが、差別化するほど未顧客に処理させる情報は増えます。
一度原点に立ち戻ってみましょう。そもそもブランドの役割は消費者に「考えさせない」ことです(Binet,&Carter,2018)。なぜこのプランドを買うべきか、他と比べてどこが優れているのかといった情報収集、理解、比較や検討などのプロセス(コスト)を省略し、「こういうときはこれ」と選ばれるからこそ「ブランド」なのです。であれば、知覚できない差別化や競合のまねごとをするのではなく、いかに「自社ブランドから文脈に適した報酬が得られる」と思ってもらうかを突き詰めるべきです。
逆に、このループを利用して行動変容を促したり、強化したりすることもできます。ここで、英国ロンドンのごみリサイクルを活発化させる「One bin is rubbish」というキャンペーンを紹介しましょう。
もし皆さんが、ごみのリサイクルを促す広告を考えてほしいと言われたら、どんな施策を考えますか。例えば、生物への影響や環境被害の深刻さを説いて、「今、自分たちにできることから始めよう」といったメッセージを思い付くかもしれません。環境意識を高めることでリサイクルをしてもらおうという図式ですね(図表4-26)。
ロンドンで採用された案は、「なぜリサイクルすべきか」を説得するのではなく、「どうしたら家のごみ箱周辺がきれいになるか」に着目したキャンペーンです。ごみ箱が1つしかないと、入り切らないピンや缶、小分けのごみなどが周辺にたまっていきます。それならごみ箱をもう1つ置けばいいわけです。つまり「One bin is rubbish (ごみ箱はすぐあふれる)」とは、「だから、もう1つごみ箱を置こう」という行動を促すメッセージなのです(Sutherland,2019 金井訳,2021)。
このメッセージが秀逸なのは、考え方や価値観を変えて行動を変えるというやり方ではなく、行動が起きやすい状況を作り出すことにフォーカスした点です。理由を説明して行動してもらうという視点だと、「環境や生き物を守るためにごみを分別しよう」「環境への責任があるからリサイクルすべき」というメッセージになります。しかし、行動の理由に納得してもらい、かつ行動も起こしてもらうというのは2段階の行動変容になります。
それに対して「もう1つごみ箱を置こう」というのはシンプルです。ごみ箱が2つあれば人は自然と分別するようになります。その結果、友人や近所の人に見られても恥ずかしくないという報酬が得られます(図表4-27)。それが次のリサイクルにつながります。つまり、ごみ箱をもう1つ増やすことが、行動経済学でいう「ナッジ」になっているわけです。