自民党の55年体制崩壊後〜安倍内閣までの分析。
2017年出版。
55年体制とその後の大勢の最も大きな変化の要因は、中選挙区制に変えて小選挙区比例代表制を衆議院に導入した1994年の政治改革にある、とする。
with chatgptでの簡単な理解
背景:なぜ「改革」が必要とされたのか
55年体制の限界:中選挙区制(1選挙区から3~5人選出)では、自民党の候補者同士が同じ区で競争する「同士討ち」が常態化。選挙は政策より「地盤・看板・カバン」(地元基盤・知名度・資金力)が重要で、派閥や企業・団体献金への依存が強まった。これが政治腐敗(リクルート事件など)や金権政治批判に直結した。
政権交代の現...続きを読む 実化:1993年、自民党が分裂し、非自民8党派による細川護煕内閣が誕生。戦後初めて自民党が野党に転落。政権交代の正統性を担保する「公正なルール」が求められた。
改革の目的
・「金のかからない政治」へ:中選挙区制では同じ党の候補者が競い合うために過剰な後援会活動やカネが必要だった。小選挙区制により、1区1人の原則 → 候補者同士の同党内競争をなくし、派閥・企業献金依存からの脱却をめざした。
・政権交代の可能性を高める:中選挙区制は得票率に対して議席が分散しやすく、自民党が分裂しても「第一党」になり続けやすかった。小選挙区は「勝者総取り」の要素が強く、二大政党制や政権交代を促す仕組みになると期待された。
・比例代表との並立:ただ小選挙区だけでは少数政党が壊滅するため、比例代表制を併用。これにより「死票」を緩和し、多様な民意も反映させるバランスを取った。
実際の政治的妥協
・細川内閣が導入を主導し、与野党の妥協で「小選挙区300+比例200(当初案)」の形に。実際は小選挙区300+比例200→のちに小選挙区289+比例176へ微修正されて現在に至る。
「政治腐敗の温床=中選挙区制をなくす」ことが最大の大義名分だった。
結果と評価(その後)
・政権交代は実現(2009年、民主党政権成立)。ただし二大政党制は安定せず、自民党が再び一強状態に戻る。
・金のかからない政治は十分達成されず、むしろ小選挙区で勝つための中央集権的・官邸主導の色合いが強くなった。
まずは派閥について:弱体化が進む。
経世会(田中角栄、ネットワーク強い、茂木)、宏池会(官僚系、岸田、林)、清和会(福田赳夫、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、)で、清和会が強目な感じではあるが、全体的に無派閥議員が増え、3割程度に。2017年時点。
無派閥増加の経緯、2005年の小泉チルドレン、83名の新人議員は無派閥であることが推奨された。2009年政権交代での公約の派閥解消、野党転落によるポスト配分機能が意味なくなった、パーティー券の売り上げ減少、2012年公募による候補者選定。
派閥の特徴
・非イデオロギー的:理念や政策が決定的に重要な意味を持たない。傾向はあるが。
・制度化:メンバーの範囲が明確、会則などを持つ、選挙の際には独自の選対を持つ。
ほぼ政党であり、党中党と呼ばれるまでになる。
逆に、派閥の影響で、自民党の制度化は阻害され、自民党の運営は派閥の存在を前提とするものに。派閥均衡人事など。
これらは、党の統一を阻害する、総裁のリーダーシップを弱める、政策不在の金権・密室政治、適材適所を妨げるなど批判された。一方で、多様性の担保や擬似政権交代的に自民党の長期政権が続いた、という見方もある。
派閥の機能は大きく4つ
・総裁選挙での候補者擁立と支援
・国政選挙での候補者擁立と支援
・政治資金の調達と提供
・政府・国会・党のポストの配分
総裁選でリーダーを支援する代わりに、国政選挙・お金・ポストなどを受け取るという構図。
派閥の始まりは、1956年の総裁選、それまで自由党・民主党のリーダーをそれぞれ推し、総裁が決めれてなかったが、それを決める。それまで保守政党の党首は、前党首を含む長老が話し合いで決めていたが、自民党の結成に際して、党所属の国会議員と都道府県連選出の代議員が投票権を持ち党大会で総裁が出る、ということが決まった。
そこで、誰を支持するか?で派閥ができた。
あと、中選挙区制により、各地区に複数人の自民党候補が立つ(そうしないと過半数取れないので)ことになり、そうすると選挙運動で党組織に頼れないので、派閥に支援を求めることになった。同志討も多く、そのため個人後援会(有権者を直接的に組織化するもの)を作らなければならなくなり、その際に必要な資金を捻出する上で、派閥に頼る必要性が出てきた。
→この総裁選と中選挙区制により、派閥が広まった。
総裁選での票どりのために参議院にも派閥が広まり、また田中派が主導して、派閥の組織化・機能強化が進む。
e.g.
・派閥幹部による上納金
・幅広い分野の族議員を揃え、陳情処理能力を高める
・派閥がパーティーで政治資金を集める(企業や団体の人が参加し、政治家との人脈作りに使った)
・所属議員の秘書を、秘書軍団化する。
1980年代はさらに組織化が進み、派閥は領袖専決ではなく、機関中心主義へ
また、派閥間についても、五大派閥の事務総長による会議(師走会)が毎月一回開かれ、党の重要事項の決定にあたり根回しなどするようになった。派閥間の競争も失われる。
派閥衰退のきっかけが、1988年のリクルート事件
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小沢一郎が、腐敗防止、さらには政治的リーダーシップの強化の必要性をといた。小沢らの羽田派が自民党から離れ、細川さんを首相とする非自民連立政権ができたことで1994年に選挙改革が実現し、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に
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派閥数の増加
五代派閥にまとまってたのは、中選挙区での最大当選者数が
5だったから。
ただ小選挙区制になり、派閥の機能が「ポスト配分」「政策勉強の場」「人脈形成」にシフトするにつれ、小規模でも独自色を出す派閥が生まれやすくなった。大派閥に集約する必然性がなくなり、リーダーごとにグループを形成するようになった。
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選挙で重要なのは、派閥からの応援よりも党の公認、になった。資金力も下がってきて、選挙でもあまり役立たなくなって、、という感じ。
今になると、派閥との政治資金のやり取りは若手は若干プラスだが、中堅以上は負担の方が多いくらいらしい。現在の派閥の財源は、政治資金パーティ。
資金に関しては、政党助成金の分配が1994年に始まり、各政党は政党交付金への依存を強め、その配分権を有する党執行部への依存が強くなった。
また、党から派閥への資金提供も2010年には亡くなり、個人に対して党がお金を渡すようになった。
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現在の派閥は人的ネットワークとしての役割を果たしている。
総裁選
政治改革前までは、派閥の領袖同士の派閥間の争いだったが、小泉首相の派閥を軽視しつつ、強力な政治的リーダーシップでの活躍を背景に、国民人気がある人が選ばれる方向になった。「選挙の顔」を選ぶ。
さらに、非イデオロギー的な派閥ではなく、理念グループ、の影響力が強まる。
小選挙区制では、政党の政策も重要だから。
派閥も選挙の顔になりうるような人を領袖に選ぶようになってきた。
政党内のポストの配分も、以前は派閥均衡と当選回数主義だったが、最近は民間や能力主義、女性などの抜擢人事も増え、総理総裁の人事権が強まってきている。小泉政権が決定的な変更を生んだ。今も派閥からのリストみたいなのはあるけど、その優先順位はかなり低い。
副幹事長、副政調会長、国対副委員長は、依然として派閥から送り込まれているものの、副大臣や政務官人事についても、派閥の意見は数ある重要なことのうちの一つになってきている。さらにこれらの任命が従来の幹事長から、官房長官の仕事に移ってきており、官房長官の副は別に派閥から来てるわけではないので、さらに派閥の影響力は落ちている。
今は、希望役職を議員が提出したものを見て、調整したりしてるらしい。
→結論として、人事で任命権者の決定権が自室化し、最高権力者たる総理・総裁の権力が高まっている。
例外2つ:参議院自民党と公明党
参議院改革は政治改革をよそにほとんど進んでおらず、三代派閥の優位が現在も残っている?←←これは現在においては、参議院でも派閥の力は完全に弱まっている。
公明党もポスト1つ
幹事長は、選挙の指揮、党財政の管理、国会対策、党ポストなどの人事、など幅広い仕事。総裁は首相も兼ねるので。
安倍政権の人事は絶妙で、選挙のライバルや派閥の領袖をいい感じに入れて、反発が起きないようにしていた。
政策決定プロセスについて
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官邸主導:続いています。中枢の装置である内閣人事局は存続しており(幹部人事の一元管理)、2025年春にも運用見直しの「最終提言」は出たものの、“官邸の人事・政策統合”という骨格は維持されています。
人事院
内閣官房
事前審査制(与党の事前了承):これも続いています。内閣提出法案や予算案の閣議決定の前に、自民党の了承(政調→総務会)が事実上の提出前・成立前審査として機能しており、2024年記事や与党側の説明でも“事前に与党審査が必要”と明記されています。
ただし、様相は少し変化しています。
政権の議席状況に応じた“与党+他党”協議
2024~25年は維新・国民民主との事前調整が政策によって入り、従来の「政府・自民・公明の内側完結」だけでは収まらない局面が増えました(教育無償化や予算修正など)。=「与党事前審査」は存続しつつ、外部との事前調整が上乗せされる形です。
官邸主導への“見直し”圧力
官邸主導を強めた内閣人事局の運用については、見直し提言や改革論が相次いでいますが、制度そのものの廃止・大転換までは踏み込んでいません(=官邸主導の基盤は継続)。
人事院
リクルートワークス研究所
事前審査制の是非論が再燃
国会の形骸化を招くとの批判は強く、制度見直しを求める社説・提言や、維新などからの制度改革案も出ています。=“慣行は続くが、透明化・見直し論は強まった”。
朝日新聞
日本維新の会
令和臨調
要するに、枠組みは続いているが、運用は「連立+政策ごとの横連携」へ分散、官邸主導は「運用是正」の段階――というのが2025年現在の姿です。
自民党の事前審査:政調会の部会から始まる。部会:政府省庁及び国会の常任委員会に対応して設けられている。
部会だったという言葉が使われる通り、自民党の政策決定の中心は部会。法案の内容の修正も多くは、部会で行われる。
他にも部会に相当する機関として、調査会や特別委員会など省庁横断や、中長期的な課題に取り組む機関もある。
部会→政調審議会:部会から上がってきた政策案を審議し、承認する成長会の最高決定機関。
→総務会
党大会や両院議員総会にかわる自民党の常設的な最高議決機関。基本的にコンセンサスを重視し、誰でも参加できる上に、全会一致が慣行となっている。
総務会で可決された法案は、党議となり、閣議決定に進む一方、国会では党所属の衆参両院議員に党議拘束がかかり、造反は処分の対象。
部会→政審→総務会のプロセスが重要なのは、それを通じて重層的な調整がされているから。
部会:関連省庁との間の調整が行われる。内閣提出法案のキアンは基本的に官僚が行うが、部会での説明・答弁で、議員の発言を受けて官僚が字句を修正する。族議員の意向を聞きつつ作業を進める。ここで、自民党の議員は、部会を通じて法案や予算案に影響力を行使し、業界の意向を反映させるように努めている。
自民党政権は当初、官僚優位の政策決定を行なっていたが、1960年代後半から自民党の優位が強まり、1970年代末には決定的となった。なぜならば、議院内閣制を採用していることにくわえ、自民党政権が長期化したことにより、数年でポストが変わる官僚に対して、専門知識を豊富に蓄積した族議員が台頭したため。また、議員の方が官僚に比べて分業していないため、調整力があることも起因する。
なぜここまで合議が優先される中でも官邸がリーダーシップ取れるかというと、部会・総務会でも、挙手などの採決ではなく、議長が「こういうことになりました」と発言することで決められる、で、どうしても決まらない場合には、偉い人に判断を一任する、という形で通ることもある。だからトップダウンも行けてしまう
政府の政策決定のトップダウン化の数population目方
橋本行政改革(1990年代後半)
・省庁再編
・内閣機能の強化:重要政策の方針について首相が閣議で発議権を持つ、内閣官房の強化、内閣府の設置(特命担当大臣が置かれる、経済財政諮問会議など重要会議の設置)
経済財政諮問会議では、骨太の方針(経済財政運営と、構造改革に関する基本方針)で予算編成がされるように。
従来は財務省が概算要求基準を作成して閣議をかけ、各省庁が概算要求を提出して始まった。