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作品一覧 2021/03/25更新 職業としての政治 試し読み フォロー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 試し読み フォロー 1~2件目 / 2件<<<1・・・・・・・・・>>> マックス・ヴェーバーの作品をすべて見る
ユーザーレビュー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー / 大塚久雄 キリスト教を背景として論が進められる点、なるほどヨーロッパらしい視点だ、という感想です。特に天職の件と、禁欲倫理との結びつきの件は面白かったです。現在に通じる起源を見る感じがしました。 Posted by ブクログ プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー / 大塚久雄 現代がいかにキリスト教世界の理論を原理として成立してきたのかを理解できる。自身の世界の成り立ちと現代における社会に対する評価基準を再考できる。 Posted by ブクログ プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー / 大塚久雄 広義の資本主義は歴史上どこでもあったが、近代の資本主義は様相が異なる。昔は幸せに暮らせれば働くことは最低限に、という捉え方。今ではとにかく働くことが第一優先みたいな捉え方。自らの職種を天職と捉え、労働に勤しみ、合理的な手段で営利を獲得し、日々の生活では禁欲的な行動を促す倫理観、世の中の雰囲気、資本主...続きを読む義精神はプロテスタンティズムの倫理から生み出され、のちに近代資本主義社会のシステムが構築されると、宗教的な思想は排除されて、ひたすら営利を求める精神だけ残ったという話。 Posted by ブクログ プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー / 大塚久雄 今年は著者没後100年(1920年6月14日没)。 これまでは、資本主義の歴史、宗教教示の諸相、近代社会についての著者の警鐘といった点に注目していたが、再読にあたっては”労働”や”日常生活”をキーワードにしたい。 経済成長には、永続的な生産性向上や効率化が必要ならば、それは可能なのだろうか。否応...続きを読むのない技術革新によって労働環境が変わるとき、労働者ーそしてもちろん使用者および資本家ーの”精神”へどのような影響を及ぼすのだろうか。一方で、今日の技術革新は現代人の”精神”とどのような関係を見いだせるのか。 そして、今においては”鉄の檻”はどのような姿をしているのだろうか。 幾度となく一面的な社会考察を退けるよう呼びかける著者の声は、時代に真摯に向き合う最良の姿であると、これからも人生の指針にしたい。 Posted by ブクログ プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー / 大塚久雄 本書を初めて読んだのはもう30年近く前のこと。少しは自分も成長したから感じるところに違いもあるだろう、と思ったが読後感は当時とほとんど変わらないものだった。すごく「綺麗」で「強い」本だ、という印象。しかも、一旦興奮が覚めた後には「しかしこれで本当に説明になっているのだろうか?」という、疑いの残響が...続きを読む尾を引くあの感じもまた甦ってきたのだ。 確かに美しい。神の思し召す「合理的」な目的に沿うよう勤労し禁欲すべし、というプロテスタンティズムの規範すなわち「目的」が、いつの間にかその規範自体の作動を強化するself drivenな起動力──すなわち「原因」となっているという「不合理」。目的と原因の転倒のみならず、理性が不合理の創出の起点となっているというメビウス的な循環が、強い目眩を引き起こす。この構造はそして堅強だ。合理性を超越したものは、そして超越しているからこそ、「正し」くはなくとも「強い」。この美しくも強い論理構造に、誰もが魅せられるのだと思う。 また、ヴェーバーが、利潤の追求が単なる寛容の対象ではなく「天職/ベルーフ」として積極的に称揚されるまでに至ったかという「非合理性」の根拠について明らかにしていることについても、もちろん僕などが疑うべきところはない。世俗外禁欲が宗教改革で世俗内に転写された際、信者の生活全般における「行為主義」、世俗内部での清潔な職業生活が要求された。とりわけ脱呪術化を推し進め、「恩恵による選び」すなわち「予定説」を提唱したカルヴァン派においては、恩恵を得るべく神の意思たる「合理性」に沿った「世俗内禁欲」が要求された── ここまではわかる(何となく)。しかし、そのようにして予定説が設定したゲームを、プロテスタントたちが嬉々として受け入れたことの「非合理性」──そのオリジンとなる精神構造については明快に示されているものの──が、どのようなロジックでもたらされたのかについては、ヴェーバーは殆ど論ずることなく放置しているように見えるのだ。 昨年読んだ大澤真幸「社会学史」でのヴェーバーの段でもそれは感じた。そこでは「ニューカム・パラドックス」というゲーム理論的な枠組みを用いて、神の全知性を前提に置くとプロテスタントは禁欲を選択せざるを得ない、という結論が導かれていた。美しい説明だった。一見非合理と見えるものがプロテスタントたちには合理的なのだ、と。 しかしそこで説明されているのはプロテスタンティズム内部の合理性であって、外部から見たそれではない。プロテスタントたちは、恩恵の有無が予定されてしまっているにもかかわらず禁欲と勤労が強要されるという「無理ゲー」の内部になぜ留まったのか、どうして外部に出て利得表上の最高得点を得ようとしなかったのかについては、結局触れられていないのだ。ここが僕が読後に覚えたあの不快な残響の原因なのだと思う。 ただそもそも、ヴェーバーの意図はそのような「合理性/非合理性」を詳らかに分解するようなことにあったのではないのかもしれない。そのことは結び近くの注釈における「近代文化の特徴的なものを全部プロテスタンティズムの合理主義から論理的に演繹するというような、明快な『構図』」を作り上げること」が本意ではない、という本心の吐露からも窺うことができる。我々はただ、資本主義の「エートス」が生じた過程が、我々が考えているほどには理屈と整合的ではなかったということに思い至るだけで十分なのかもしれない。思えば資本主義経済なんて理屈に合わないことばかりだ。頑健だと思っていた象の背中が意外に頼りないことを知るだけでも、旅の安全には十分に役立つ。 また、この「すごくよくわかった感じはするけど、よく考えてみるとわからないものが残る」という読後感が、本書が1世紀の永きに亘り読み継がれている理由の一つなのではないかとも思う。完璧にわかってしまってはつまらない。少し考えなければならないことが残されているのがいいのだ。 なお近代社会学の嚆矢として名高い本書ではあるものの、意外なことにここでは「社会」という言葉が今日的な意味ではほとんど使われていないことに気づく。代わりに「外物」というあまり馴染みのない言葉が出てくる。ヴェーバーは先験的に個人と独立して存在する「社会」なるものをほとんど認めていないと見え、専ら自我の働きに焦点を当てその総体を分析の対象とし、その他の残余はまとめて「外物」という素っ気無い言葉に押し込めそれで良しとしているのだ。同じく近代社会学の祖といわれ、個人より先に社会を(積極的な)「物として」扱うべしとしたデュルケームとは小気味良いほどの対照をなしている。資本主義の起動力の源泉を、貨幣や法などの既成システムに求めるのではなく、西洋近代に成立した個人の心性に見るところが、社会を個々の自我の集積と見るヴェーバーならではの視点なのだろう。 しかし少なくとも、例えばその行為が全て個人に帰属していたカトリシズムとの対比において、カルヴィニストの個人には帰せられない行為による恩恵の獲得期待、すなわち「組織にまで高められた行為主義」が資本主義と整合的な態度を決定づけたことの考察においては、間違いなくヴェーバーには「社会」とその後呼ばれる複合的で多面的な対象が見えていたはずだと思う。 30年前は注釈は殆ど飛ばして読んだが、注釈部分に意外にハッとするようなコメントが隠れていたりすることに今回気がついた。全く油断のならない本だと思う。 Posted by ブクログ マックス・ヴェーバーのレビューをもっと見る