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営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ヴェーバー(一八六四‐一九二〇)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点を画す。旧版を全面改訳して一層読みやすく理解しやすくするとともに懇切な解説を付した。
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Posted by ブクログ
キリスト教を背景として論が進められる点、なるほどヨーロッパらしい視点だ、という感想です。特に天職の件と、禁欲倫理との結びつきの件は面白かったです。現在に通じる起源を見る感じがしました。
現代がいかにキリスト教世界の理論を原理として成立してきたのかを理解できる。自身の世界の成り立ちと現代における社会に対する評価基準を再考できる。
広義の資本主義は歴史上どこでもあったが、近代の資本主義は様相が異なる。昔は幸せに暮らせれば働くことは最低限に、という捉え方。今ではとにかく働くことが第一優先みたいな捉え方。自らの職種を天職と捉え、労働に勤しみ、合理的な手段で営利を獲得し、日々の生活では禁欲的な行動を促す倫理観、世の中の雰囲気、資本主...続きを読む義精神はプロテスタンティズムの倫理から生み出され、のちに近代資本主義社会のシステムが構築されると、宗教的な思想は排除されて、ひたすら営利を求める精神だけ残ったという話。
今年は著者没後100年(1920年6月14日没)。 これまでは、資本主義の歴史、宗教教示の諸相、近代社会についての著者の警鐘といった点に注目していたが、再読にあたっては”労働”や”日常生活”をキーワードにしたい。 経済成長には、永続的な生産性向上や効率化が必要ならば、それは可能なのだろうか。否応...続きを読むのない技術革新によって労働環境が変わるとき、労働者ーそしてもちろん使用者および資本家ーの”精神”へどのような影響を及ぼすのだろうか。一方で、今日の技術革新は現代人の”精神”とどのような関係を見いだせるのか。 そして、今においては”鉄の檻”はどのような姿をしているのだろうか。 幾度となく一面的な社会考察を退けるよう呼びかける著者の声は、時代に真摯に向き合う最良の姿であると、これからも人生の指針にしたい。
本書を初めて読んだのはもう30年近く前のこと。少しは自分も成長したから感じるところに違いもあるだろう、と思ったが読後感は当時とほとんど変わらないものだった。すごく「綺麗」で「強い」本だ、という印象。しかも、一旦興奮が覚めた後には「しかしこれで本当に説明になっているのだろうか?」という、疑いの残響が...続きを読む尾を引くあの感じもまた甦ってきたのだ。 確かに美しい。神の思し召す「合理的」な目的に沿うよう勤労し禁欲すべし、というプロテスタンティズムの規範すなわち「目的」が、いつの間にかその規範自体の作動を強化するself drivenな起動力──すなわち「原因」となっているという「不合理」。目的と原因の転倒のみならず、理性が不合理の創出の起点となっているというメビウス的な循環が、強い目眩を引き起こす。この構造はそして堅強だ。合理性を超越したものは、そして超越しているからこそ、「正し」くはなくとも「強い」。この美しくも強い論理構造に、誰もが魅せられるのだと思う。 また、ヴェーバーが、利潤の追求が単なる寛容の対象ではなく「天職/ベルーフ」として積極的に称揚されるまでに至ったかという「非合理性」の根拠について明らかにしていることについても、もちろん僕などが疑うべきところはない。世俗外禁欲が宗教改革で世俗内に転写された際、信者の生活全般における「行為主義」、世俗内部での清潔な職業生活が要求された。とりわけ脱呪術化を推し進め、「恩恵による選び」すなわち「予定説」を提唱したカルヴァン派においては、恩恵を得るべく神の意思たる「合理性」に沿った「世俗内禁欲」が要求された── ここまではわかる(何となく)。しかし、そのようにして予定説が設定したゲームを、プロテスタントたちが嬉々として受け入れたことの「非合理性」──そのオリジンとなる精神構造については明快に示されているものの──が、どのようなロジックでもたらされたのかについては、ヴェーバーは殆ど論ずることなく放置しているように見えるのだ。 昨年読んだ大澤真幸「社会学史」でのヴェーバーの段でもそれは感じた。そこでは「ニューカム・パラドックス」というゲーム理論的な枠組みを用いて、神の全知性を前提に置くとプロテスタントは禁欲を選択せざるを得ない、という結論が導かれていた。美しい説明だった。一見非合理と見えるものがプロテスタントたちには合理的なのだ、と。 しかしそこで説明されているのはプロテスタンティズム内部の合理性であって、外部から見たそれではない。プロテスタントたちは、恩恵の有無が予定されてしまっているにもかかわらず禁欲と勤労が強要されるという「無理ゲー」の内部になぜ留まったのか、どうして外部に出て利得表上の最高得点を得ようとしなかったのかについては、結局触れられていないのだ。ここが僕が読後に覚えたあの不快な残響の原因なのだと思う。 ただそもそも、ヴェーバーの意図はそのような「合理性/非合理性」を詳らかに分解するようなことにあったのではないのかもしれない。そのことは結び近くの注釈における「近代文化の特徴的なものを全部プロテスタンティズムの合理主義から論理的に演繹するというような、明快な『構図』」を作り上げること」が本意ではない、という本心の吐露からも窺うことができる。我々はただ、資本主義の「エートス」が生じた過程が、我々が考えているほどには理屈と整合的ではなかったということに思い至るだけで十分なのかもしれない。思えば資本主義経済なんて理屈に合わないことばかりだ。頑健だと思っていた象の背中が意外に頼りないことを知るだけでも、旅の安全には十分に役立つ。 また、この「すごくよくわかった感じはするけど、よく考えてみるとわからないものが残る」という読後感が、本書が1世紀の永きに亘り読み継がれている理由の一つなのではないかとも思う。完璧にわかってしまってはつまらない。少し考えなければならないことが残されているのがいいのだ。 なお近代社会学の嚆矢として名高い本書ではあるものの、意外なことにここでは「社会」という言葉が今日的な意味ではほとんど使われていないことに気づく。代わりに「外物」というあまり馴染みのない言葉が出てくる。ヴェーバーは先験的に個人と独立して存在する「社会」なるものをほとんど認めていないと見え、専ら自我の働きに焦点を当てその総体を分析の対象とし、その他の残余はまとめて「外物」という素っ気無い言葉に押し込めそれで良しとしているのだ。同じく近代社会学の祖といわれ、個人より先に社会を(積極的な)「物として」扱うべしとしたデュルケームとは小気味良いほどの対照をなしている。資本主義の起動力の源泉を、貨幣や法などの既成システムに求めるのではなく、西洋近代に成立した個人の心性に見るところが、社会を個々の自我の集積と見るヴェーバーならではの視点なのだろう。 しかし少なくとも、例えばその行為が全て個人に帰属していたカトリシズムとの対比において、カルヴィニストの個人には帰せられない行為による恩恵の獲得期待、すなわち「組織にまで高められた行為主義」が資本主義と整合的な態度を決定づけたことの考察においては、間違いなくヴェーバーには「社会」とその後呼ばれる複合的で多面的な対象が見えていたはずだと思う。 30年前は注釈は殆ど飛ばして読んだが、注釈部分に意外にハッとするようなコメントが隠れていたりすることに今回気がついた。全く油断のならない本だと思う。
古くから経済活動は行われていたが、近代資本主義のような拡大性を有さなかった。では近代資本主義を勃興させた駆動力はなんだったのか? 近代的企業家の多くがプロテスタント的色彩帯びている事に着目し、その精神性から駆動力を紐解いた論文。 清貧を掲げるキリスト教と、富を増大させる資本主義は一見相反するが、...続きを読むなぜ企業家の多くはプロテスタント的色彩を帯びていることが多いのか? 善行を積むことで神に選ばれるとしたカトリックに対し、プロテスタントは神の絶対性重視から、人の行動など神判に影響しないとする「予定説」を採択する。 「予定説」において、死後救済されるか否かは既に決定しており、現世の行動は審判に影響しない。 また、人はただ神の手足として現世に存在し、その役目を全うする義務を有する。 その様な教義の中で人は、徹底的な合理思考に基づく労働により、選ばれている確信を「造り出す」のだ。 その確信を持てない者は、神の手足として自覚が足りないと自省し、ひたすら合理化に励んでいく。 また、当然教義上「節制」は義務であるため、結果として加速度的に余剰資本が生み出されていく。 しかし、ここで「世俗的禁欲」が是とされる中で、富を拡大することは許されるのか?と疑問が生まれる。 生じた富に対する後付けと考える方が自然だが、プロテスタントの「世俗的禁欲」を紐解くと、悪とされるのは稼いだ富の上で怠惰に溺れる事であり、富の増大自体は否定されていない。 また、「隣人愛」を是とする思考がベースとしてあるため、余剰資本を市場に投下することが促進されていく。 プロテスタントは、自分の職を神から与えられた「天職」だと盲信し、かつ節制・隣人愛の精神により加速度的に富を増やし、近代資本主義の巨大な流れを生み出した。 その流れの渦中に生まれた我々は、稼がなければ生きていけないが、流れの初めには人の精神性があったという考えは青天の霹靂的である。 資本の流れだけを見ると見失いがちだけど、企業の「理念」は「教義」であり、宗教的雰囲気の名残は根強いなと思う。 また、企業家の持つカリスマ性は、まさに教祖の持つ要素と一致する。 妄信的な企業を外から「ブラック企業」と揶揄することは容易だけど、中から見る景色はまた違うのだろう。 高度経済成長期に見られた「富」への無機質な妄信から、仕事の意義を見つめ直しなさいという論が主流に変わったのは、再び「天職」の思想に回帰しているのではないか。 なんにせよ「妄信」の状態が、人にとって最も幸福な時間なのかもしれないと感じる。 必要最低限の富を持ち、隣人を愛し暮らしなさいという世界を席巻した流れに終止符を打ったのが、隣にいたプロテスタントだった。 同様に、近代資本主義も同じ流れにいるように見えてルーツが少し異なる者が大きな流れを生んで終止符が打たれるのかもしれない。
一章は面白く読んだが、二章にはいってキリスト教の色いろな宗派や人物が出てきて詰んだ。でもそこを我慢するとまた面白くなった。禁欲が資本主義の精神に繋がったという逆説はとにかく緻密で説得力があり、こんな社会で生きてゆくには読んでおくべきだと感じる。
近代資本主義の出自を、 カトリックからプロテスタントへの転換、ピューリタニズムへの先鋭化から表出した 世俗的禁欲からの発露だと主張する名著。 丁寧、多角的に分析・批判され導出される論理にはやはり説得力があり いわゆる儲け事などは良しとしない禁欲的精神から逆説的に資本主義が発達していったというのは大変...続きを読む興味深い。 私にとってはかなり難解であり、また本文と注釈の頻繁な交代は読むことへの忍耐力を試されているようにも感じた。 が、先に巻末の解説(これがとても端的で理解しやすい)に目を通していたためどうにか少しずつ理解を深め通読することができた。
【再読】初めてこの本を読んだのは大学2年生の時。日本語なのに最初から最後まで何が書いてあるかさっぱりわからなくて辛かった。“一冊の本を理解するためにはその本を読むだけでは十分でない”ということを教えてくれた転機となる本。以来、「自分がどの程度まで来たか」ということを確かめるために、繰り返し読んでいる...続きを読む。今回は「どこがわかってどこがわからないか」がはっきりしたのでそれだけでも大収穫ではなかろうか(笑)宗教改革にまつわる理解が圧倒的に乏しく、でも受容のプロセスと近代資本主義の精神は大分掴めるようになったみたい。
作者自身が書いているが、プロテスタンティズムが唯一決定的な作用を果たした訳では無いでしょう。 しかし、禁欲主義を徹底したカルヴァン派が、結果として資本蓄積のプロセスを合理的にし、地上の富を築くことになるといった、一見逆説にみえるこの論は、繁栄し前期的資本に充分でありながら資本主義に至りえなかったそれ...続きを読むまでの歴史についても、資本主義が明確な計画意思や、利潤などの欲求追求のみだけではなく、信仰といった一種の不合理さを必要とした事にも説得力があり、とても良い本だと思いました。
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