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自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後の方向を問う。
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Posted by ブクログ
日本のマックス・ヴェーバー研究の第一人者である著者の講演録をもとにした名著。 マルクス経済学とヴェーバー社会学の比較を通じて社会科学を考察する内容でもあり、ヴェーバーの宗教社会学のアプローチはもっと学んでみたいと思いました。 特に、「ヴェーバーの『儒教とピュウリタニズム』をめぐって」の章で述べられる...続きを読む、ヴェーバーの両宗教の比較分析にはもの凄く興味をそそられる。 儒教は世界の現状を肯定し尊重するが故に受動的な態度になり、近代資本主義を生み出すには至らなかったのに対し、ピューリタニズムは悲観主義のもと現世を否定するが故に、行動的禁欲という形で現世に強く働きかけ変革していこうとする大変な精神的エネルギーを生み出し、それが近代資本主義発展の原動力となった、という結論を導き出す視点には驚かされるばかり。 また、「経済人ロビンソン・クルーソウ」の章では、「ロビンソン漂流記」における無人島での彼の行動は、まさに合理的経済人のそれであり、当時のイギリスにおいて合理的な人間形成の書という役割を果たした、という大塚先生の考察もとても面白い。 約60年前の本ですが、いまだに読み継がれる価値の高い啓蒙書です。
1966年刊行のかなり古い本になるが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以降、マックス・ヴェーバーに惹かれる自分があり、解説本として定評があったこの本を手に取った。なお、著者の大塚久雄さんはヴェーバー研究の大家で、岩波版の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳者としても知ら...続きを読むれている。 本書は四つの独立した章からなっているが、それぞれがヴェーバーに関する講演を下敷きにしてまとめられたものである。 ■第一章 社会科学の方法 - ヴェーバーとマルクス - 「人間の営みにほかならぬ社会現象を対象としたばあい、自然科学と同じような意味で、科学的認識ははたして成りたつものであろうか」といった社会学を含めた人文科学が抱える問題に対して、ヴェーバーとマルクスがどのように取り組んだのかを比較対照したもの。タイトルとしても取り上げられていることからわかるように、本書の四つの論稿の中でももっとも力が入っており、分量も長い。 マルクスは『資本論』において、経済現象が「自然史的過程」として現れることを前提として、自然を取り扱うのと同じ科学的方法を用いることができる、とした。それに対して、ヴェーバーはあくまでその研究対象を具体的な生きた人間諸個人に拘り、目的論的関連を人間諸個人を行動にまで動かす動因として捉えて歴史的に因果関係に移し替えることを社会科学の方法として採っている、と主張する。ここでは、ヴェーバーの視点を借りたマルクスに対する一定の批判を含んでいる。 その議論の中で、ヴェーバーにおける宗教学の重要性の高さが浮かび上がる。なぜなら宗教が諸個人の目的論的行動に影響を強く与えるものであるからである。上部構造の運動が経済的な諸構造によって制約されるとするマルクスに対して、ヴェーバーは宗教を始めとする文化諸領域の独立性と個別の影響を重視するのである。逆に宗教意識をはじめとした文化諸領域における独自な動きが経済の動きを根底的に制約すると考えるのである。そこが著者がヴェーバーをしてその社会学の方法がマルクスのそれを射程においてより広いと評価するゆえんである。言い換えるとヴェーバーは、利害の側だけでなく、理念の側から歴史過程を見ているというのである。それが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であり、『宗教社会学』によってなされたことだと指摘する。 社会学における宗教の影響とその扱いは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で扱われた宗教改革の時代から科学的認識が進むにつれてますます少なくなるものと当然考えられていたであろう。しかし、イスラム教国における宗教の影響や、アメリカにおける保守的キリスト教の影響を考えると社会学の領域においてまだ現代的課題であると言える。そこでヴェーバーらがその先鞭を付けた社会学の方法が有用となる時代でもあるのではないか。 ■第二章 経済人ロビンソン・クルーソウ 『ロビンソン漂流記』は読んだことはないが、無人島に漂流してそこで生き延びるために色々と主人公のロビンソン・クルーソウが頑張った、みたいなものだろうという印象があった。著者のここでの着眼点は、ロビンソンが無人島において資本家のように考えて働き、最後には損益計算書を作って黒字であったことを確認して神に感謝したというその行動原理である。これは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが分析した、この時代においてはイギリスなどの限られたプロテスタント国の中産層だけが持つエートスを示していると指摘する。 プロテスタンティズムの倫理により、お金を儲けるというのが目的ではなく、経営それ自体を自己目的としたがゆえに資本主義のエートスを形成したというのがヴェーバーの分析の大きな結論だが、ロビンソン・クルーソウという仮構の人物が、それを正に体現していたのではないかというのがここでの指摘である。 『ロビンソン漂流記』が広く受け容れられたのは、当時のイギリスにおいて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘された資本主義の精神を体現する経営者が広まっていたことの証左なのだという。どちらかというと子供向けの物語と思っていたこの話の中から時代のエートスを見るのは鋭い視点なのである。 ■第三章 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって - アジアの文化とキリスト教 - ベネディクト・アンダーソンが『菊と刀』で指摘した、西洋の「罪の文化」の日本(東洋)の「恥の文化」という二分法がある。その何年も前に、ヴェーバーも同じように西洋の「内面的品位の倫理」と東洋「外面的品位の倫理」という対抗的な二つのエートスをその宗教社会学の中で見出している。ヴェーバーは、宗教分析を通してその精神的な由来を追求し、発生の源を理解しようとする。「動機の主観的に思われた意味を解明しつつ理解することによって、社会現象を因果的に説明する」というのがヴェーバーの姿勢である。 ここではじめに分析するべき文化宗教・世界宗教と呼びうるのは、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、儒教、の五つであるとヴェーバーは考えている。かつて柄谷行人が『探求』で世界宗教について論じたのは、こういった歴史的かつ社会的問題における世界宗教の重要性を理解していたのだと改めて考える。 こと宗教ということでは、ヴェーバーとマルクスの違いが際立つ。 「マルキシズムは神を抜きにしたカルヴィニズムだ」(ベルンシュタイン)とするものもいる。一方で、マルクスの自称後継者たちは「宗教は民衆のアヘン」として宗教を捨て去ったため、ソビエト連邦でも中国でも宗教は冷遇されていった。しかしながら、マルクス自身は何らかの別の形で宗教意識という視角から社会構造を見極めようとしたとも言える。 だからこそ、キリスト教とくにピュウリタニズムの文化と儒教・道教の文化による社会的エートスの対照比較を通して、儒教 = 恥の文化、ピュウリタニズム = 罪の文化、と呼んで。 またヴェーバーは、宗教の社会における位置づけにより、平民宗教と支配者宗教に分けて考える。その上で東洋においては、前者が道教もしくは仏教が担い、後者が儒教によって担われるという二重構造をしていると指摘する。一方で、西洋ではキリスト教がそうであったように平民宗教が常に支配者宗教をのみこんでいくような動きがあって、一体のものとして発展をしてきたという。 ここで、ルース・ベネディクトの議論にも戻るのであるが、彼女の「恥の文化」と「罪の文化」の対比には、その鋭い着眼点に感心をしたものだ。しかしその前提として、マックス・ヴェーバーの宗教倫理の分析の中にその対比の萌芽があり、彼女にもおそらくは知識としてはあったのではないかと想像する。 ピュウリタニズムが原罪の概念からして徹底的にペシミスティックなものが根底にあるのに対して、儒教は現世的オプティミズムがある。儒教の文化における、現世への変革力の弱さも見ている。現世的な「道」や「君主」に従うことこそが「徳」であるという概念があるが、それが現状維持に働いているというのだ。 「ピュウリタンたちが現世を完全に拒否したがゆえに、かえって、それを楽観的に肯定した儒教とは比べものにならぬ程の強さで厳正に働きかけ、それを根本的に変革してしまうという、たいへんな精神的エネルギーを生み出す、そうした一見逆説的な結果を歴史の上にのこしたからなのです」 果たしてグローバル化を果たした現代社会においてどこまで有効なのか、と問うべきなのだろうが、実際のところこの宗教意識から来る動因は、深くいまもまだ社会の底を流れているのではないかと思われる。 ■第四章 ヴェーバー社会学における思想と経済 まず日本における神道は、宗教というよりも思想と言い換えた方がいい。ここでいう「思想」というのはそういうものである。そして、そのレベルにおける宗教と、社会経済のあいだには厳しい緊張関係が形作られる。ヴェーバーの特徴はそこに見いだすべきであるというのが著者の主張だ。 「ヴェーバーのばあい、宗教と経済、この二つを対極とする緊張の関係のなかに、歴史的現実の動きを押しすすめる根本的なダイナミックスを見出そうとする。この二つの対極のうち、宗教ないし思想の方を無視して経済だけをとってみるとすれば、自分でもときに言っているように、マルクスに近くなってしまう」 人と社会は、利害によってのみで動くのではなく、理念によって動き、利害は理念によって制限を受けるのだというのがマルクスを批判的に経てヴェーバーが得たであろう結論なのだ、と。 「ヴェーバーは、こうした利害状況というものが歴史過程のなかで諸個人を動かしていくのだが、歴史の曲がり角ともいうべきようなところでは、やはり理念が決定的な作用をすることになる、というのです」 宗教はまた民族とも密接につながっている。著者は、「現在においては民族というものを無視して現実を十分正確にとらえることはできないのではないかと思います」という言葉を最後としている。 大きな物語が終わり、そこでは個別の民族の問題や宗教の問題が立ち昇ってくるのである。そこではヴェーバーの提起していたような問題が現代的にも大きな課題として表れるのであれば、いままたヴェーバーがもっと読まれてもいいと改めて思った。
学生時代に先生に勧められて読みました。先生は大塚久雄をよく研究されており、かなり影響を受けたものです。歴史学はもちろん経済学等の社会科学を学ぶ学生には、必読書だと思います。
マルクスとウェーバーの共通性や相違点など、大事な点が要所要所で繰り返されていてすごくわかりやすい。 ただ、この類の内容は、自分の血肉として語るのが難しい。うまく浸透してこない。 やはり原典を当たらねば。。。
「大塚史学」、当方が学生時代のときでさえ既に死語的扱いがなされていたように記憶するが、その後も同様では? 科学の特性の一つとして進歩が挙げられるとすれば、何も「大塚久雄の見方は古い」イコール価値無き考えではないはず。 どんな学問も先人の研鑽の上に成り立つものなのに、どうも社会科学(ことに経済学)は学...続きを読む問としての基本的振る舞いがもしかするとできていないのかもしれないな。 それはともかく改めて同著を読んで思ったのだが、ヴェーバーの方に軍配を挙げたくなるものの、(ヴェーバー自身も認識しているが)ヴェーバーの成果はマルクスの成果(というかその他多くの賢人の遺産)の上に成立している観点である。 つまり同著含めてここには連綿と続く科学の豊饒な果実が成っていると見て差し支えないかと思う。
[ 内容 ] 自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。 もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。 この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後...続きを読むの方向を問う。 [ 目次 ] 1 社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス 2 経済人ロビンソン・クルーソウ 3 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって―アジアの文化とキリスト教 4 ヴェーバー社会学における思想と経済 [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
面白い。ロビンソン・クルーソーの話とか、大学でそのままやった授業なので懐かしくて泣きそう…。 「そもそも社会科学って何なの?人間は自分の意志をもってるのに、どうして科学の対象にできるの?」ということからスタート。岩波版プロ倫の訳者の講義録ということで、読み進められるか不安だったが、語り口が上手く、...続きを読む引き込まれる文章。イメージの湧きやすい比喩もすてき。じっくり読みたい。
ウェーバーとマルクスって書いてあるけど主にウェーバーの社会科学の方法について。 大塚久雄のウェーバー解釈の特徴は、ウェーバーとマルクスを相反する経済思想家と見るのではなく、両者に共通するものがあるとしている点にある。巷では「マルクスと対峙する」と形容されるウェーバーは、マルクスを批判することによっ...続きを読むてマルクスの見解を相対化しながら自分の立場に大きく取り入れていったのだとか。また、よくある「ウェーバーは宗教のみで世界の動きを説明しようとしている」というウェーバー批判をばっさり斬り、「宗教に焦点を当てているのみで宗教のみで説明しようとしているわけではない」とウェーバーを擁護し、その社会学における洞察力を高く評価している。 一番おもしろいのは3章の「経済人ロビンソン・クルーソー」のところ。「ロビンソン・クルーソー漂流記」はイギリスの資本主義勃興を象徴するような小説で、ロビンソン・クルーソーこそ「合理的経済人=ホモ・エコノメトリカス」であるとする解釈は本当におもしろい。実際、ロビンソンは無人島で囲い込み(=エンクロージャー)を行い農業や牧畜を行って富を蓄え、時の概念を忘れず、さらに貸借対照表までつけてしまうようなアダム・スミスが想定するような「合理的な」人間だったわけです。また、ロビンソンが貨幣の蓄積にはまったく興味がなかったということも歴史家の歴史解釈と一致する。そうそう。資本主義というのは現代社会に蔓延するような拝金主義ではなくて、禁欲的に労働にはげみ、労働それ自体を目的として献身したがために、偶発的に富の蓄積が得られたというキリスト教の隣人愛に起源をもつ経済システムである(ウェーバーの解釈によれば)ということを忘れるな。
大塚久雄が経済学の専門でありそこから社会科学を経済との関連で考えたものである。そこにはマルクスとウェーバーを基本的に考えている。講演を本にしたものであるから理解は容易なように書かれているが実はそれほど簡単ではない。マルクスとウェーバーについて全く読んだことがない学生にとっては理解が難しいかもしれない...続きを読む。最もわかりやすいところはロビンソン・クルーソーについてであるが、それもロビンソン・クルーソーの物語を読んだことがない学生にとってはちんぷんかんぷんかもしれない。「世界史の考え方}(岩波新書)で分析と推薦された本であるが、「世界史の考え方」と照らし合わせて読むのがいいのかもしれない。
―――――――――――――――――――――――――――――― フランスの文化が占めている地位を、アジアで占めているのは中国文化、それから古代ギリシャやイスラエルの文化が占めている地位をアジアで占めているのは古代インドの文化だというのです。 ところがアジアでは、結局はっきりとイスラエルにあたる役割を...続きを読むはたすものは出てこなかった。 仏教の一つの宗派――たぶん浄土真宗でないかと思う――がそういう方向を指し示していたといっています。145 ―――――――――――――――――――――――――――――― 自分はプロテスタンティズムの倫理だけで資本主義の発生を、いや資本主義の精神の発生をさえも説明できたとは思っていない。 それには、政治的な、あるいは経済的な、その他さまざまの利害状況もまたあずかって力があったのであって、その双方から接近することこそが不可欠なのだ、と。193 ――――――――――――――――――――――――――――――
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