【感想・ネタバレ】プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神のレビュー

あらすじ

営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ヴェーバー(一八六四‐一九二〇)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点を画す。旧版を全面改訳して一層読みやすく理解しやすくするとともに懇切な解説を付した。

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労働が美徳なのは、他者への貢献と共に「禁欲自体」が美徳だからとも言える。自らの労働を売り渡す行為は、その契約の範囲での脱人格化を含むが、脱人格化は「禁欲」の類型である。本源的な生存競争をいかに強化するか、そのために集団化し、国家は成立してきた。それを統制するために共同幻想が必要となり、それぞれの領域間での交換が行われてきた。この共同幻想に従う個体には「忠実性」が求められる。つまり、競争のために労働に費やす脱人格化はすなわち忠誠であり、これを美徳として組み込んだものが、あらゆるイデオロギーの根本にある、と考える。この「禁欲」を考察したのがマックス・ヴェーバーだ。

イデオロギーと書いたが、同書が切り口とするのは信仰である。有名なのは、タイトルの通り、プロテスタンティズムが資本主義を加速させた側面があるという事だろう。この理屈を知りたければ本書を読むのが一番良いので、私がグダグダ述べはしない。似たような観点としては、金貸しを「悪徳」としたキリスト教に対し、ユダヤ人のみ(正確にはロンバルディア人やアルメニア人も)がその行為が可能であったために、金融業が一部民族に偏るという問題もあった。信仰が労働形態に与える影響は全く無視できるものではない。斯様に、プロテスタンティズムの信仰が資本主義に影響したと考えるのがヴェーバーだ。

蓄財する態度が美徳と呼べるか。カトリックに見られる「伝統主義」とよばれるべき生活態度では、人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎなかった。「際限なく稼ぐ」のではなく、「生活できる分稼げるなら、残りは信仰や休息に費やす」という事だ。

他方、修道士的禁欲を世俗内的道徳よりも高く考えたりするのでなく、神によろこばれる生活を営むための手段として、世俗内的義務の遂行を「召命」として考えたのが、ルターである(本書ではルッター)。ルターは「信仰義認」を強調し、信仰によってのみ救われると主張したが、カルヴァンは「予定説」を重視し、神がすべての人間の運命を予め定めていると考えた。両者の主張は一部では異なるものの、分業にもとづく職業労働が「隣人愛」から導き出されるという隣人愛の実践と救済の主観的確信という予定説により、職業労働が追求されていく。

職業労働は、優れた意味での禁欲的手段だった。奢侈も窮乏も道徳的訓練を妨げる。そのため、多すぎず少なすぎず、ある程度の「お金を与え、得ることが必要」だ。これは資本家にとっては、「都合の良い労働者」、つまり、現代の社畜を生む思想にも通じ、やがて格差を是認していく。

カルヴァン主義と資本主義における選択的親和性こそが、現代社会の資本主義化を加速させた。しかし、これが同時に信仰なきものに曲解され、格差を肯定し、パワハラを生み、社畜を生んだ。資本主義の次なる世界を考えるには、プロテスタントを読み解かねばならない。

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2025年02月03日

Posted by ブクログ

キリスト教を背景として論が進められる点、なるほどヨーロッパらしい視点だ、という感想です。特に天職の件と、禁欲倫理との結びつきの件は面白かったです。現在に通じる起源を見る感じがしました。

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2022年08月30日

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現代がいかにキリスト教世界の理論を原理として成立してきたのかを理解できる。自身の世界の成り立ちと現代における社会に対する評価基準を再考できる。

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2022年02月06日

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広義の資本主義は歴史上どこでもあったが、近代の資本主義は様相が異なる。昔は幸せに暮らせれば働くことは最低限に、という捉え方。今ではとにかく働くことが第一優先みたいな捉え方。自らの職種を天職と捉え、労働に勤しみ、合理的な手段で営利を獲得し、日々の生活では禁欲的な行動を促す倫理観、世の中の雰囲気、資本主義精神はプロテスタンティズムの倫理から生み出され、のちに近代資本主義社会のシステムが構築されると、宗教的な思想は排除されて、ひたすら営利を求める精神だけ残ったという話。

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2021年01月31日

Posted by ブクログ

今年は著者没後100年(1920年6月14日没)。

これまでは、資本主義の歴史、宗教教示の諸相、近代社会についての著者の警鐘といった点に注目していたが、再読にあたっては”労働”や”日常生活”をキーワードにしたい。

経済成長には、永続的な生産性向上や効率化が必要ならば、それは可能なのだろうか。否応のない技術革新によって労働環境が変わるとき、労働者ーそしてもちろん使用者および資本家ーの”精神”へどのような影響を及ぼすのだろうか。一方で、今日の技術革新は現代人の”精神”とどのような関係を見いだせるのか。
そして、今においては”鉄の檻”はどのような姿をしているのだろうか。

幾度となく一面的な社会考察を退けるよう呼びかける著者の声は、時代に真摯に向き合う最良の姿であると、これからも人生の指針にしたい。

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2020年06月10日

Posted by ブクログ

 本書を初めて読んだのはもう30年近く前のこと。少しは自分も成長したから感じるところに違いもあるだろう、と思ったが読後感は当時とほとんど変わらないものだった。すごく「綺麗」で「強い」本だ、という印象。しかも、一旦興奮が覚めた後には「しかしこれで本当に説明になっているのだろうか?」という、疑いが尾を引く感じもまた甦ってきたのだ。

 確かに美しい。神の思し召す「合理的」な目的に沿うよう勤労し禁欲すべし、というプロテスタンティズムの規範すなわち「目的」が、いつの間にかその規範自体の作動を強化するself drivenな起動力──すなわち「原因」となっているという「不合理」。目的と原因の転倒のみならず、理性が不合理の創出の起点となっているというメビウス的な循環が、強い目眩を引き起こす。この構造はそして堅強だ。合理性を超越したものは、そして超越しているからこそ、「正し」くはなくとも「強い」。この美しくも強い論理構造に、誰もが魅せられるのだと思う。
 また、ヴェーバーが、利潤の追求が単なる寛容の対象ではなく「天職/ベルーフ」として積極的に称揚されるまでに至ったかという「非合理性」の根拠について明らかにしていることについても、もちろん僕などが疑うべきところはない。世俗外禁欲が宗教改革で世俗内に転写された際、信者の生活全般における「行為主義」、世俗内部での清潔な職業生活が要求された。とりわけ脱呪術化を推し進め、「恩恵による選び」すなわち「予定説」を提唱したカルヴァン派においては、恩恵を得るべく神の意思たる「合理性」に沿った「世俗内禁欲」が要求された──

 ここまではわかる(何となく)。しかし、そのようにして予定説が設定したゲームを、プロテスタントたちが嬉々として受け入れたことの「非合理性」──そのオリジンとなる精神構造については明快に示されているものの──が、どのようなロジックでもたらされたのかについては、ヴェーバーは殆ど論ずることなく放置しているように見えるのだ。

 昨年読んだ大澤真幸「社会学史」でのヴェーバーの段でもそれは感じた。そこでは「ニューカム・パラドックス」というゲーム理論的な枠組みを用いて、神の全知性を前提に置くとプロテスタントは禁欲を選択せざるを得ない、という結論が導かれていた。美しい説明だった。一見非合理と見えるものがプロテスタントたちには合理的なのだ、と。
 しかしそこで説明されているのはプロテスタンティズム内部の合理性であって、外部から見たそれではない。プロテスタントたちは、恩恵の有無が予定されてしまっているにもかかわらず禁欲と勤労が強要されるという「無理ゲー」の内部になぜ留まったのか、どうして外部に出て利得表上の最高得点を得ようとしなかったのかについては、結局触れられていないのだ。ここが僕が読後に覚えたあの不快な残響の原因なのだと思う。
 
 ただそもそも、ヴェーバーの意図はそのような「合理性/非合理性」を詳らかに分解するようなことにあったのではないのかもしれない。そのことは結び近くの注釈における「近代文化の特徴的なものを全部プロテスタンティズムの合理主義から論理的に演繹するというような、明快な『構図』」を作り上げること」が本意ではない、という本心の吐露からも窺うことができる。我々はただ、資本主義の「エートス」が生じた過程が、我々が考えているほどには理屈と整合的ではなかったということに思い至るだけで十分なのかもしれない。思えば資本主義経済なんて理屈に合わないことばかりだ。頑健だと思っていた象の背中が意外に頼りないことを知るだけでも、旅の安全には十分に役立つ。
 また、この「すごくよくわかった感じはするけど、よく考えてみるとわからないものが残る」という読後感が、本書が1世紀の永きに亘り読み継がれている理由の一つなのではないかとも思う。完璧にわかってしまってはつまらない。少し考えなければならないことが残されているのがいいのだ。

 なお近代社会学の嚆矢として名高い本書ではあるものの、意外なことにここでは「社会」という言葉が今日的な意味ではほとんど使われていないことに気づく。代わりに「外物」というあまり馴染みのない言葉が出てくる。ヴェーバーは先験的に個人と独立して存在する「社会」なるものをほとんど認めていないと見え、専ら自我の働きに焦点を当てその総体を分析の対象とし、その他の残余はまとめて「外物」という素っ気無い言葉に押し込めそれで良しとしているのだ。同じく近代社会学の祖といわれ、個人より先に社会を(積極的な)「物として」扱うべしとしたデュルケームとは小気味良いほどの対照をなしている。資本主義の起動力の源泉を貨幣や法などの既成システムに求めるのではなく、西洋近代に成立した個人の心性に見るところが、社会を個々の自我の集積と見るヴェーバーならではの視点なのだろう。
 しかし少なくとも、例えばその行為が全て個人に帰属していたカトリシズムと対照的に、個人には帰せられない行為による恩恵の獲得期待、すなわちカルヴィニスト的な「組織にまで高められた行為主義」が、資本主義と整合的な態度を決定づけたと結論している点に鑑みれば、間違いなくヴェーバーには「社会」とその後呼ばれる複合的で多面的な対象が見えていたはずだと思う。

 30年前は注釈は殆ど飛ばして読んだが、注釈部分に意外にハッとするようなコメントが隠れていたりすることに今回気がついた。全く油断のならない本だと思う。

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2025年03月16日

Posted by ブクログ

古くから経済活動は行われていたが、近代資本主義のような拡大性を有さなかった。では近代資本主義を勃興させた駆動力はなんだったのか?
近代的企業家の多くがプロテスタント的色彩帯びている事に着目し、その精神性から駆動力を紐解いた論文。

清貧を掲げるキリスト教と、富を増大させる資本主義は一見相反するが、なぜ企業家の多くはプロテスタント的色彩を帯びていることが多いのか?
善行を積むことで神に選ばれるとしたカトリックに対し、プロテスタントは神の絶対性重視から、人の行動など神判に影響しないとする「予定説」を採択する。

「予定説」において、死後救済されるか否かは既に決定しており、現世の行動は審判に影響しない。
また、人はただ神の手足として現世に存在し、その役目を全うする義務を有する。
その様な教義の中で人は、徹底的な合理思考に基づく労働により、選ばれている確信を「造り出す」のだ。

その確信を持てない者は、神の手足として自覚が足りないと自省し、ひたすら合理化に励んでいく。
また、当然教義上「節制」は義務であるため、結果として加速度的に余剰資本が生み出されていく。
しかし、ここで「世俗的禁欲」が是とされる中で、富を拡大することは許されるのか?と疑問が生まれる。

生じた富に対する後付けと考える方が自然だが、プロテスタントの「世俗的禁欲」を紐解くと、悪とされるのは稼いだ富の上で怠惰に溺れる事であり、富の増大自体は否定されていない。
また、「隣人愛」を是とする思考がベースとしてあるため、余剰資本を市場に投下することが促進されていく。

プロテスタントは、自分の職を神から与えられた「天職」だと盲信し、かつ節制・隣人愛の精神により加速度的に富を増やし、近代資本主義の巨大な流れを生み出した。
その流れの渦中に生まれた我々は、稼がなければ生きていけないが、流れの初めには人の精神性があったという考えは青天の霹靂的である。

資本の流れだけを見ると見失いがちだけど、企業の「理念」は「教義」であり、宗教的雰囲気の名残は根強いなと思う。
また、企業家の持つカリスマ性は、まさに教祖の持つ要素と一致する。
妄信的な企業を外から「ブラック企業」と揶揄することは容易だけど、中から見る景色はまた違うのだろう。

高度経済成長期に見られた「富」への無機質な妄信から、仕事の意義を見つめ直しなさいという論が主流に変わったのは、再び「天職」の思想に回帰しているのではないか。
なんにせよ「妄信」の状態が、人にとって最も幸福な時間なのかもしれないと感じる。

必要最低限の富を持ち、隣人を愛し暮らしなさいという世界を席巻した流れに終止符を打ったのが、隣にいたプロテスタントだった。
同様に、近代資本主義も同じ流れにいるように見えてルーツが少し異なる者が大きな流れを生んで終止符が打たれるのかもしれない。

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2020年05月13日

Posted by ブクログ

一章は面白く読んだが、二章にはいってキリスト教の色いろな宗派や人物が出てきて詰んだ。でもそこを我慢するとまた面白くなった。禁欲が資本主義の精神に繋がったという逆説はとにかく緻密で説得力があり、こんな社会で生きてゆくには読んでおくべきだと感じる。

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2019年08月02日

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近代資本主義の出自を、
カトリックからプロテスタントへの転換、ピューリタニズムへの先鋭化から表出した
世俗的禁欲からの発露だと主張する名著。
丁寧、多角的に分析・批判され導出される論理にはやはり説得力があり
いわゆる儲け事などは良しとしない禁欲的精神から逆説的に資本主義が発達していったというのは大変興味深い。

私にとってはかなり難解であり、また本文と注釈の頻繁な交代は読むことへの忍耐力を試されているようにも感じた。
が、先に巻末の解説(これがとても端的で理解しやすい)に目を通していたためどうにか少しずつ理解を深め通読することができた。

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2018年07月28日

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【再読】初めてこの本を読んだのは大学2年生の時。日本語なのに最初から最後まで何が書いてあるかさっぱりわからなくて辛かった。“一冊の本を理解するためにはその本を読むだけでは十分でない”ということを教えてくれた転機となる本。以来、「自分がどの程度まで来たか」ということを確かめるために、繰り返し読んでいる。今回は「どこがわかってどこがわからないか」がはっきりしたのでそれだけでも大収穫ではなかろうか(笑)宗教改革にまつわる理解が圧倒的に乏しく、でも受容のプロセスと近代資本主義の精神は大分掴めるようになったみたい。

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2017年02月23日

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作者自身が書いているが、プロテスタンティズムが唯一決定的な作用を果たした訳では無いでしょう。
しかし、禁欲主義を徹底したカルヴァン派が、結果として資本蓄積のプロセスを合理的にし、地上の富を築くことになるといった、一見逆説にみえるこの論は、繁栄し前期的資本に充分でありながら資本主義に至りえなかったそれまでの歴史についても、資本主義が明確な計画意思や、利潤などの欲求追求のみだけではなく、信仰といった一種の不合理さを必要とした事にも説得力があり、とても良い本だと思いました。

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2015年11月19日

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ネタバレ

初めてこの本を手に取ったのは高校生の時だ。当時ハマっていたアニメの中で、マックス・ウェーバーを引用していたのがきっかけで、気になって読んでみたが、当時は修行というか苦行に耐えるような気持ちで読んだ覚えがある。ただ、今振り返ってみるとこの経験がきっかけとなって、難しい本の楽しみ方を知ったようにも思うため、今となっては思い出深い本である。
ウェーバーが天才的だと思うのは、彼が生きていた19世紀半ば〜20世紀初頭において、プロテスタントの勤勉かつ禁欲的な思想が資本主義を駆動するための精神的な背景として機能したことを明らかにしたことだ。あらゆる社会現象について言えることだが、後講釈として振り返ることは容易だが、現象が起きている真っ只中にその構造を明らかにするのは容易ではない。さらに、プロテスタントの思想ゆえに生まれた合理主義的思想に人々が囚われると危ないという警笛を鳴らしていた点も天才的である。ウェーバーの考察はとても先見的であり、むしろ現代を生きる私達にこそそこから学び取るべき教訓が沢山あるように思う。

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2024年11月27日

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解説が丁寧で分かりやすい。武器としての哲学の推薦本であったが、解説によると宗教社会学であり、社会学の一部分である。近代資本主義が発展したのはカトリックからプロテスタンティズムになったためである、ということが首尾一貫して書かれている。いまではだれでもが知っていることであるがそれを説明した最初の本である。カトリックは享楽主義でその日暮らし、プロテスタントは禁欲主義で勤労主義ということで、キリギリスとアリのたとえでもいいのかもしれない。
 解説にあったように注を読み返す、ということが必要な本である。

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2023年07月07日

Posted by ブクログ

最も有名な古典の一つ。近代資本主義がどのように出現したか、何にドライブされて形成されてきたかをマックス・ヴェーバーが解き明かした一冊。

ヴェーバーによれば、近代資本主義の勃興を促進した心理的起動力はキリスト教的禁欲主義だった。

ルッターによる宗教革命の際、はじめて「天職思想」(世俗的職業の内部における義務の遂行こそが最高の実践道徳であるという思想)が打ち出され、これが以後のプロテスタンティズムの中心的意義となった。
これがキリスト教的禁欲主義と結びつく。つまり、外物への執着や金銭を追求する欲から自分自身を忌避させる方法として労働を推奨した。またカルヴィニズムにおける「予定説」もこの思想を強化することになった。

しかしウェズリーが言ったように、キリスト教的禁欲主義は強大すぎる富の欲に対して無力過ぎた。宗教的熱狂が過ぎるとやがて功利営利主義がこれに成り代わることになった。

資本主義の終焉が声高に叫ばれこれに代わるシステムが模索される現代において、資本主義を促進してきた心理的圧力について再認識することは重要なことかと思う。ヴェーバーが生涯を掛けた宗教比較学の起点となった本書はそのための非常に有益な一冊。

古典特有の読みにくさがあり内容自体は難解ではあるが、巻末の訳者解説が丁寧で分かりやすい。一度こちらに目を通してから本文を読んだ方が理解にやさしいかと思う。

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2022年07月22日

Posted by ブクログ

カトリックの国でもギリシャ・ローマでもなく、仏教の国でもなく、なぜ資本主義はプロテスタントの国から発生したのか?神の栄光のために禁欲的に、勤勉に生きる人々が結果として、富を蓄積し、その生き方が資本主義を発展させる流れに強く結びついたからである。
マックス・ウェーバーの名著で、以前、小室直樹氏の書で感銘を受け、いつか読んでみたいものだと思っていたが、ようやく実現できた。学生時代は社会学を学んでいたにも関わらず、こういう名著に触れることなく、勉学としては無為に時間を過ごしてしまった。これからの後半生、なるべく多くの名著に、少しでもいいから触れていきたい。

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2022年05月17日

Posted by ブクログ

非常に難解。
本文読む→訳者解説読む→本文精読→注釈も合わせて精読 が良さそう。

資本主義の精神の促進を担ったのは、実は営利的な精神を批判する、キリスト教(特にプロテスタンティズム)の禁欲的精神だった。

しかし、資本主義はキリスト教精神の賜物とまで考えるのは拡大解釈である。(私も読前には、本書は上記のことを言ってるものだと勘違いしていた)

そして、「歴史的にキリスト教的基盤を持ち得ない地域(例えば日本)でも資本主義は成立しているから、ヴェーバーは間違っている」との批判も当たらない。

なぜならば、本書最終章でヴェーバーが述べるように、キリスト教的禁欲精神が資本主義の社会構造を強固なものとしてしまうと、今度は資本主義の社会構造が逆に世俗内的禁欲を外側から強制するようになったからである。

つまり、資本主義の社会構造が進むにつれて、資本主義というシステムと宗教精神の関係は薄れていき、近代資本主義が確立される頃には「資本主義の精神」は忘れ去られ、それらを元にした行動様式のみが残存するにいたったのだ。
日本や他のキリスト教圏外の地域に持ち込まれた資本主義の構造は、既に宗教の影響を逃れた、確立された近代資本主義だったと考えられる。

個人的に、ヴェーバーが最終盤で語る、「資本主義か最終的にたどり着くであろう世界」の叙述に感銘を受けたので最後に引用しておく。
 


「禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるととも に、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、 あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、 圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人 ―直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく― の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう」(本書、267頁)

「バックスターの見解によると、外物についての配慮は、ただ『いつでも脱ぐことのできる薄い外衣』のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。 それなのに、運命は不幸にも この外衣を鋼鉄のように堅いとしてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ」(本書、268頁)。

「今日では、禁欲の精神は最終的にか否か、ー誰が知ろう―この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。・・・ 『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。そして、『世俗的職業を天職として遂行する』という、そうした行為を直接最高の精神的文化価値に関連させることができないばあいにもあるいは、逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制としてしか感じられないばあいにも今日では誰もおよそその意味を詮索しないのが普通だ」(本書、268頁)。

「こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』 にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。」(本書、269頁)。

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2023年10月26日

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社会学は多元論。〜宗教、経済の因果は単純ではない〜

■所感と評価
ウェーバーは多元論を用いるが単純化しないと理解難しいので、あえて単純化すると「天職を全うするという倫理が世俗内に広まった結果、富の蓄積につながり、皮肉にも営利主義→資本主義の精神を生んだ」と強引に解釈できる。ただこれだと語弊があり過ぎるので、様々なキーワードの定義とそれらが生まれた背景と与えた影響を丁寧に見ないといけない。
そもそも我々は戦後のパラダイムやレジームが当たり前の様に感じるが、歴史で見るとまだまだ浅く、今後新しい概念が何から生まれるかは非常に複雑であり、単純にVUCAや情報化社会といったことからだけでは予測できない。まして16〜17世紀の宗教改革が資本主義精神を生む"一翼を担った"(あくまで一要素)のは誰も想像できなかっただろうし、そもそも資本主義という概念すら当時はなかったはず。

★すぐに役立つ知識は皆無でまさに教養。イージーカムイージーゴー。時々あえて本書の様な役立たないが世の本質をあらゆる角度から切りまくる本を読むことで、本質は何かを抽象的に考える力を身につけていきたい。

非常に読みづらい。もう少し簡単な言葉で訳してくれたらいいのに、と思いつつも正確にウェーバーの意図を汲むとこうなるのだろう。訳者解説が非常に丁寧でわかりやすいので、①ざっと全体読む→②訳者解説→③精読すると理解が深まりそう。
おそらく内容的には最高の古典なのだが、いかんせん理解が難しく評価は普通となった。

■概要 〜めちゃくちゃざっくり〜
・カトリックには世俗内的禁欲はなく、修道主義の様な世俗外的な禁欲。ここで言う禁欲は何かを控える修行僧的なものではなく、ひたすら何かに打ち込む"行動的禁欲"。
カトリックの修道的な考えだと「祈り働け」が有名。
・それがルターの訳や宗教改革によって天職という概念となって表れるのだが、ややこしいことにルター派の禁欲はまだプロテスタントの倫理に直接は影響しない。
・その後のカルヴィニズムやピュウリタズムの中で天職やら世俗内的禁欲が広まることで、働く→富が増える→でも浪費しない→ますます富む。これが資本の蓄積を生んだ。
・やがて(ここが飛躍してるように思えるが、自分の中で説明できていないだけで、ちゃんと書いてあるんだろうけど)近代資本主義がいよいよ外から、ー上記の倫理(エートス)からくる行動は「内面的」ー資本の蓄積と消費ではなく再投資を促すことで、Protestantismの倫理や資本主義の"精神"なるものを必要とせず、ただただ近代資本主義的な行動が残ったのだという
・マルクスの唯物史観とは一線を画すものの、唯物史観批判のために書いたというのは的外れの論評。ウェーバーは多元論(ゆえに注釈が多い)を駆使しつつ、その中でもプロテスタントの倫理・エートス、天職観念に着目しただけ。資本主義の精神を宗教改革に見出した、という単純なものではない。(だから話が複雑)

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2022年02月20日

Posted by ブクログ

ネタバレ

世界史や思想史で頻繁に言及される本書。高校時代や予備校で耳にしたことがある方も多いと思います。で、その趣旨たるや、「天が授けた過分の賜物。この賜物を用いて天職を全うし蓄財することこそ神の栄光に適う行為である。そしてこのエートスこそ、近代資本主義の一因となった。」
こんな感じだと思います。

私は、まっさらな状態から本を読みだすというより、本当に上記のようなことが書いてあるのかな、と探り探り読んでいく形のアプローチをとってみました。

その点で結論を言えば、大体書いてあった。こう言えると思います。

・・・
その中でも、本書での一番の出色は、資本主義の発展(「お金」)とプロテスタントの倫理規範(「清貧」)という、いわば逆説的な二つの概念が実は通底する、というダイナミズムだと思います。

カトリックでの修道院出家生活と世俗の生活(プラス贖宥状で罪を拭う)という二分法的分類ではなく、プロテスタント各派の世俗内倫理の徹底と「天職(Beruf)」という職業倫理との徹底という世俗一元的な在り方との違いはきっちり書かれていたと思います。つまり、プロテスタント的生活においては、神様のために慎ましい生活をする(節約する)、そして神様のために仕事頑張る(「天職」)、その結果お金溜まる、と。いわゆる在家においても清い生活を実践することで神への道を全うする。

この命題を明らかにすべく、詳細な宗派分析とプロテスタント文学からの例証がなされています。ルター派、カルヴァン派、メソジスト、長老派、クウェイカー等々。

このあたりの詳細はキリスト教の勉強の足りない私にはちんぷんかんぷんでした。そう、本書のダイナミズムを味わうためには神学、わけても聖書理解が必要だと思い知りました。そもそもプロテスタントの宗教改革は、誤解を恐れずに言えば聖書主義から始まったことを鑑みれば、その聖書の基本的理解がなければ本書の理解もおぼつかないと言えると思います。新訳も旧約も適当にしか読み込んでいないと本当に厳しい。

あと、プロテスタンティズムが蓄財と結びついていた点はわかりましたが、近代資本主義の発展とどこまで結びつくかについては通読一回だけではよくわかりませんでした。つまり事業の拡大や発展・再投資についての分析はあまりなかったかのように思いました。

本書の主張に沿えば、再投資や事業拡大も神の意志に沿うべきなのですが、プロテスタントがその再投資の方針・分量などをどのように判断したのか気になりました。

ただかすかに最終段で、米国について、世俗の禁欲的倫理が忘れ去られ職業倫理が残ったことがシニカルに描かれていました。

・・・
久しぶりにドイツ系の思想本を読みました。
実に読みにくい。そして、注釈が長い!注釈に大事なことが書いたり、批判者に批判返ししてたり笑 訳者の大塚氏は相当頑張ったのだと思います。原文は見ていませんがそう感じました。

哲学、社会学、宗教学、神学、ドイツ文化、キリスト教等々に興味がある方は何とか読めると思います。ただ、内容をよりよく理解するには聖書の通読(新約・旧約あわせて)数回しておくとよいと思いました。私も聖書を読んだらまた読んでみたいと思います。

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2021年09月29日

Posted by ブクログ

禁欲(清貧・純潔・服従)を守りながら、勤労にはげめ。祈り、働け。『ベネディクトゥス戒律』539  ※モンテ・カシノ(伊の中部)の山の上にある修道院。

あなたが神に救われるか、救われないか。それは神によってすでに決められている(カルヴァン予定説)。あなたの運命はすでに決まっている。この世での善行は関係ない。儀礼(サクラメント)をしても救われる保証はない▼人は自分が救われるのか分からない。不安。孤独。自分は神に選ばれた人間だと確信したい。欲望を克服し、自然からできるだけ遠い地点に行くことができる。それは選ばれた(救われる)人間にしかできないはず▼禁欲に勤めよう。職業労働を頑張ろう。安息日以外は週6日働きづめ。富はあくまで神と自分との関係を示すしるしであり、欲望を充たすものではない▼享楽的な消費はしないのでお金が手元に残る。それを再投資して事業が拡大。利潤を最大化する最も合理的な方法を考える。近代資本主義を生み出したのはこうした精神▼しかし資本主義が発展するにつれて、神との関係・禁欲は忘れ去られ、営利・快楽の追求が目的となっていく。『倫理と資本主義の精神』1904

アメリカは多民族・多宗教であるが、アメリカで生まれて暮らしていると、個人の宗教とは関係なく、特定の信念・価値感(civil religion)をもつようになる。ロバート・ベラーBellah『Civil Religion in America』1967

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2025年11月03日

Posted by ブクログ

一度読んだだけでは、とても理解しきれない奥の深い内容。巻末の解説が充実していて、理解を助けてくれる。

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2021年01月30日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ライフワークやキャリアデザインという言葉がもてはやされている。少し違和感があったし、日本と西洋の企業の職務分担がどうしてこうも違うのか不思議だった。
本書では宗教改革により、腐敗した教会・修道院に反する立場から世俗の労働が尊重されるようになり、カルヴイニズムでは救済されていることを常に自己審査し証明するために労働が信仰の手段として組織化・合理化をたどった説く。
富の追求を目的とすることは邪悪だが、敬虔な労働に勤しんだ結果富を成すのは神の恩寵だという!

西洋の労働観がどのように生まれ資本主義に組み込まれ現在に至るのかその源流を紐解いてくれる。そしてアメリカでこの禁欲的労働観は救済の証明という宗教的・倫理的側面を削ぎ落とし強力な秩序を形成する。

大変興味深かった。さらに、世界でも異常なぐらい時間に厳しくもっとも成功した社会主義国と一時は呼ばれた日本は戦争に破れ文化的・伝統的指針から切り離された所に、アメリカからのプロテスタンティズムが真空状態で完全に宗教から切り離されて流れ込み、それゆえに資本主義国家として成功できたのではないかと思ってしまう。良質で勤勉な労働力を持つことに成功した、という意味で。

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2019年06月23日

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よくストイックと言われる理由は、中高のプロテスタント教育のせいだったんだ、と改めて思った!天職としての職業を全うするという思想がプロテスタントにはあって、それが資本主義の発展に一役買った。あとは、政治などの本流に行けない層が、経済の分野で一旗あげようとするというのにも納得した。

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2017年08月09日

Posted by ブクログ

タイトルから感じる印象ほど読みにくい本ではなかったです。すごく読みやすくもないけど。

冒頭で、平たく言えば

「カトリックの支配は、プロテスタントの支配にくらべればかなりユルかった。
 ユルい支配に対して『こんなんじゃヌルい!』と宗教改革が起こった。 でもこれってよく考えると不思議じゃないですか?
 キツい支配に対して『うるせーほっとけ!』と反乱が起きるならわかるけど・・・」

という問題提起があります。 
確かに不思議だ!と問いに引き込まれて、そこから先は一気に読みました。

天職義務を全うして職業労働に邁進することは、最初はプロテスタントたちにとって「救いへの道」だった。 だからがんばれた。
その彼らのがんばりが、資本主義経済を発展させた。
やがて、労働から「救い」という宗教的な面が抜き去られてしまう。 
でも、その頃には資本主義経済そのものが(救いのためにがんばった人たちの働きのおかげで)発達している。
発達した資本主義は、救いへの道として労働に邁進していたときと同じような労働を、人々に「強制」するようになる。

・・・というようなお話。

歴史の話としても読めるし、一人の人間の中でもこういうことって起こるんじゃないかなーなどと思いました。

訳者による解説もよかったです。

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2017年05月20日

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自らが、神によって救われる人として「選ばれている」という確証を得るために、ひたすら禁欲的態度で日々の労働に打ち込む。そして、その労働によって対価が得られれば得られるほど、「選ばれ」が確実なものになるという信仰。プロテスタンティズム諸派の歴史的変遷を追いながら、その生活様式が日々の労働とどう結びついていったのかということが丁寧に考察されている。
さらには、労働によって利得したものを生産的に利用するために、さらに投下資本として活用していくことが、初期資本主義と結びついていったという考察は、前半のプロテスタンティズムについての論考から、たいへんに説得力のあるものとなる。
今まで読もうとして何度か挫折した著作であったが、何気なく読み始めたところ、おもしろくて止まらなくなった。けだし、本というのは読まれるべき時期をじっと待っていてくれるものなのであろう。

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2016年11月30日

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「宗教を学べば経営が分かる」という本を読み、そこで池上彰さんが課題図書としていた本の1つ。上記本の中で資本主義の発展にプロテスタントの思想が影響していると出てきて、本当に??という気持ちもあったのだが、バランスを保った視点で丁寧に論説されていて、とても説得力あり、さもあらんと思うに至った。
翻って、日本の最近の表面的な勤労意欲を高めようという施策、それで良いのかなどなど考えさせられる。
恥ずかしながら注釈はほぼ飛ばして読んだけど、どこかで腰を据えて注釈も読みたい。

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2025年08月11日

Posted by ブクログ

文章は何を言っているか分かるけど、恥ずかしながらトータルとして何を言わんとしているのか、さっぱり入ってこなかった。学生時代に文系科目やってたときのあの感覚。。自分のようなバックグラウンドの人間が3倍速で適当に聴いて何かを得られる書籍では無かった。ただ、これをじっくり聴いて理解することで、何か面白いという感情が得られそうかというと、そんな匂いは感じなかった。分野が合わなすぎるのだろう。。

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2024年07月05日

Posted by ブクログ

初の古典。とにかく日本語が意味がわからない。最後の解説から読めばよかったと読み終わったあとに気づく。

解説いわく、宗教的な強制的禁慾という精神が、本当の意味での資本主義を形成していき、最終的にな宗教的倫理観に基づく禁欲行動が形骸化してしまい、鉄の檻として、自分たちを資本活動に邁進させてしまっている。そんな分析をしている本だと分かった。
鉄の檻という言葉を使っているから、ヴェーバーは資本主義の活動自体を、生活を制限するものとして考えていたのかな?とか考える。
ただの漢字と平仮名に目を通す作業だったが、背景がわかったうえでもう少し読んでみても面白いのかもしれない

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2024年02月14日

Posted by ブクログ

著者が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の一部である本。
難解すぎ。独学の技法で学んだ線引き読解をすること決意。
【関連書籍】
イエスの生涯

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2023年12月01日

Posted by ブクログ


●営利を敵視するピューリタンの倫理が、逆説的に近代資本主義を生む貢献をした※「大阪には商人精神が広がっているので、近代資本主義が自生的に生まれるはず」とは言えない
●“労働は自己目的であり私の「天職」”との倫理的雰囲気(=エートス)は、長い年月の宗教教育(ルター)で培ったもの。
●資本主義の精神に内から突き動かされている人は、目先の欲求を抑制することを知っている
●田舎の職人達が天職の職業活動に専心→無駄な消費はしない→金が貯まる→隣人愛のために使う→意図せずに資本主義に→禁欲を強制させられる→信仰心が薄らいだ

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2021年01月05日

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ピューリタニズムが持っていた、禁欲的・反営利的な倫理的諸信念が、近代の「資本主義の精神」を育てた。
「資本主義の精神」とは、エートス(社会心理)のようなものであり、天職義務のことである。
カルヴァンの予定説から、自分こそ救われるべき人間であるという証明のため、人々は職業に邁進した。

通称プロ倫(小並感)
自分の知識不足ゆえ、難しくてあんまりわからず
星3…。出直したい。

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2020年08月13日

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