アランの幸福論、アランと同じフランス人のデカルトとかバルザックの話とかめっちゃ出てきてたし、意外とフランス思想知る手がかりになりそうだと思ったし、思ったより読みやすかった。
「悲観は気分による、楽観は意志の力」といったのはアランだったか。意志の力に加え、知性の力で楽観をもたらしたいね。
アラン(フランス語: Alain)ことエミール=オーギュスト・シャルティエ
(フランス語: Émile-Auguste Chartier, 1868年3月3日 - 1951年6月2日)は、フランス帝国(フランス第二帝政)ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の哲学者、評論家、モラリスト[2][3]...続きを読む [4]。ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエ(英語版)に由来する[5][6]。1925年に著された『幸福論(フランス語版)』で名高いが、哲学者や評論家としても活動し、アンリ・ベルクソンやポール・ヴァレリーと並んで[7]合理的ヒューマニズムの思想は20世紀前半フランスの思想に大きな影響を与えた[8]。体系化を嫌い、具体的な物を目の前にして語ろうとしたのがアランの手法で[9]、理性主義の立場から芸術、道徳、教育などの様々な問題を論じた[2]。フランス文学者の桑原武夫は「アランの一生は優れた「教師」の一生であったと言えよう」と評している[10]。また、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは1949年にアランの伝記や教えをまとめた『アラン(Alain)』の中で、アランを「現代のソクラテス」と評している[11]。
「不幸な人間には、どんなに好ましいできごとがほほえみかけても意味がない。幸福であることのなかには、人が考えているよりももっと多くの意志の力がはたらいてるものなのである。」
—『幸福について(上)』アラン著
「実際には、幸福であったり不幸であったりする理由はたいしたことではない。いっさいはわれわれの肉体とその働きにかかっている。そしてどんな頑健な肉体でも、毎日、緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと、しかも多くの場合、食事や、歩行や、注意力や、読書や、天気ぐあいなどに左右されて、移りかわる。それにしたがってきみの気分も波の上にある舟のように上下する。それらの外的条件は、普通のときは灰色の目立たない色調を帯びているにすぎない。なにか没頭しているかぎりは、そのことを考えはしない。ところが、ひとたびそれを考える暇ができ、熱心に考え出すと、些細な理由が群れをなして押しよせてくる。そして、きみは、それが結果であるのに原因だと思いこむ。鋭敏な人は悲しければ悲しい理由を、うれしければうれしい理由を、かならず見つけだす。同じ一つの理由が二つの目的に役立つこともしばしばある。病身で肉体の苦しみを味わっていたパスカルは、多数の星をみて恐怖した。そして、かれが星をながめながら荘厳な戦慄を感じたのは、それと気づかずに窓ぎわで冷えこんだからに違いない。ほかの健康な詩人だったら、女友だちにでも話しかけるように星に話しかけるだろう。そのどちらの詩人も星空についてきわめて気高いことを、つまり実は問題外の気高いことを、口にすることであろう。」
—『幸福について(上)』アラン著
「人はよく、不機嫌というのは病気みたいなもので、どうにも手に負えないものだ、という。わたしが、きわめて簡単な動作ですぐにとりのぞくことのできる苦痛や苛立ちの例をこの文章のはじめに、あらたにまたとりあげたのは、そのためである。ふくらはぎがひきつると、どんなにがっしりした大の男でも悲鳴をあげることは、だれでもが知っている。そんなときには、足のひらを平らにして地面に押しつけなさい。立ちどころになおる。ブヨや炭の粉が目に入った場合、こすりでもしようものなら、二、三時間はいやな目にあう。そんなときには、両手はそのままにして動かさないで、鼻先をながめていなさい。すぐに涙が出てきて不快な目にあわずにすむ。この簡単きわまる療法を知ってから、わたしは二十度以上もためしてみた。これは、はじめから自分の周囲の物事のせいにしないで、まず自分自身に気をつけることが賢明であるということの、なによりもの証拠である。」
—『幸福について(上)』アラン著
「むしろ、悩ましさを引きおこしている真の原因を知らないことからくる、ときほぐしたい焦燥と動揺なのである。馬から落ちることの恐怖は、落ちまいとして下手にじたばたすることから生ずる。そして一番わるいことには、じたばたすることが馬をこわがらせるのである。そこでわたしは、スキタイ人[北欧および北アジアを遊牧した古代の蛮族]流にこう結論したい。乗馬術を心得ている人は、あらゆる知恵、もしくはほとんどあらゆる知恵を身につけている、と。それに、落ちるには落ちる術がある。よっぱらいは、うまく落ちようなどと少しも考えないくせに、それでもうまく落ちるのだから、驚いたものだ。消防士は、落ちたって平気の平座であるから、見事なものだ。もちろん落ちる訓練をうけ続けてきたからである。」
—『幸福について(上)』アラン著
「よく世間でいわれるように、大きく一息つくことが必要なときでさえ、階段を見ただけで、息をとめる想像力がはたらいて、心臓が収縮する。もともと怒りとは、咳と全く同じく病気の一種なのである。咳は苛立ちの一つの典型と見なすことさえできる。咳の原因は肉体の状態によるからである。ところが、いちはやく想像力が咳を待ちかまえ、さがし求めさえする。ちょうど身体のかゆいところをかきむしる人たちのように、ひどくすれば病気をのがれることができるだろうという馬鹿げた考えから、わざわざ咳をさがしもとめるのである。動物たちも自分の身体をかきむしって、傷だらけにすることを、わたしはよく知っている。しかし、単なる思念の働きだけで自分自身をかきむしり、情念の働きだけで直ちに自分の心臓を興奮させて、いたるところに血液をふきださせることのできるのは、人間の危険な特権である。」
—『幸福について(上)』アラン著
「千分の一秒だけ感じられて、たちまち忘れられてしまう痛みとはなんであるか。苦悩は歯痛と同じように、人がこれを予想し、待ちうけ、現在を中心とした前後の時間にしばらくのあいだ持続させてはじめて、存在するものなのである。現在だけというのは無いに等しい。なるほど、痛みは味わうかもしれない。しかし、実は痛みそのものよりも、痛むかもしれないという恐れの方を、人はより多く苦痛に感じているのだ。」
—『幸福について(上)』アラン著
「宗教的態度は、これを医者が考察すれば役に立つものである。神の前に跪き、かがみこみ、身体をやわらげると、体内の諸器官が解放され、生命の機能がいっそうなめらかに働くようになるからだ。「頭を下げよ。心おごれるシカンブルびと」[聖レミがカトリックに改宗したフランク王クロヴィス一世に、洗礼に際して言ったことば。シカンブルは古代ゲルマニアの民]これは怒りや慢心から癒えよと言っているのではなく、ともかく黙って、目を休ませ、柔和にふるまえといっているのである。そうすれば、性格のあらあらしさがぬぐいさられる。長期に、あるいは永久に、そうなるのではない。そんなことはわれわれの力では及ばない。そうではなくて、じきに、そしてしばしの間、ということである。おもえば宗教上のさまざまな奇跡は、奇跡でもなんでもない。 人がしつこい考えをどうやって追いはらうかを見ると、ためになる。かれは、まるで筋肉をほぐすためでもあるかのように、心配ごとを遠く投げすて、指を鳴らす。今もっているのとは、別の知覚や別の空想をいだこうとするのである。そのときダビデの竪琴[ダビデはイスラエルの王、詩人で予言者、旧約詩篇の作者、竪琴の名手]がかれの心をとらえ、その身ぶりを整え、和らげて、憤怒と焦燥のすべてを遠ざけてくれるならば、抑うつ病患者などたちまちなおってしまうであろう。」
—『幸福について(上)』アラン著
「心配事のあるときは、理屈を考えようとしない方がいい。理屈はあなた自身に鉾先を向けることになるだろうから。それより、今ではどの学校でも教えている、あの腕の上げ下げや屈伸の運動をやってみるがいい。その結果にあなたは驚くことだろう。だから、哲学の先生はあなたを体操の先生のところへつれて行く。」
—『幸福について(上)』アラン著
「呑みこむのと咳をするのとは同時にはできない。だから、わたしは咳をとめるのに、咳どめドロップを呑むのが一番だというのである。同じわけあいで、あくびをすれば、しゃっくりが止まる。だが、どうやってあくびをするか。まず、伸びやにせのあくびなど、あくびのまねをしていれば、やがてはうまいぐあいに本物のあくびができるようになる。あなたの許可もうけずに勝手にあなたにしゃっくりをさせる、あなたのなかのしゃっくり虫は、こうしてあくびをする姿勢をとらされる。したがって、あくびをするだろう。これが、しゃっくりや心配事に対する有力な療法である。十五分ごとにあくびをすることを命ずるような医者は、どこにもいないことだろう。(」
—『幸福について(上)』アラン著
「だからこそわたしは、「身を切るような寒さだ。健康にはこれが一番だ」という人々を軽蔑しない。これ以上よい態度があろうか。風が東北から吹いてくるときには、手をこすり合わせることが二重の効果をもつ。この場合、本能は知恵と同じだけの有効な働きをし、肉体の反抗が人に喜びを教えてくれる。寒さに抵抗するしかたは一つしかない。寒さに満足することである。よろこびの達人であるスピノザ流にいえば、「わたしが満足しているのは暖まったからではない。満足しているから暖まるのである」だからいつでもこう考えなければならない。「成功したから満足しているのではない。満足していたから成功したのだ」と。もしよろこびをさがしに行くなら。まずよろこびを蓄えることである。手に入れるまえにお礼をいうがいい。希望というものが希望する理由を生み出してくれるのである。良い前兆が、本物の良いものを導きだしてくれるのである。」
—『幸福について(上)』アラン著
「自分でもいやになっているいなや人間に会ったら、まず笑顔をみせなければならない。そして、眠りたいと思うなら、眠れると確信するがいい。要するに、だれにとっても、この世でもっとも恐るべき敵は自分自身を措いて他にはない。ここの章の冒頭のわたしの文章は、じつは一種の気狂いについて語ったものに他ならない。しかし、気違いとはわれわれの誤謬の拡大されたものにほかならない。どんな小さな不機嫌の動作のなかにも被害妄想狂の縮図がある。」
—『幸福について(上)』アラン著
「だれでも求める物はえられる。青年時代にはこのことを考え違いするものである。棚からぼた餅が落ちてくることしか待っていないからである。ところが、ぼた餅は落ちてはこない。だが、われわれが欲するものはすべて、山と同じだ。われわれを待っており、逃げて行きはしない。けれども、よじ登らなければならない。わたしの見たところ、野心家たちはみんなしっかりした足どりで出かけて、みんな目的にたどりついている。それも、わたしの思ったよりももっと早く着いている。かれらは有効な行動だとみれば、さきに延ばしたりなぞしない。自分の役に立つと思う人々なら必ず定期的に訪問する。ただつきあって気持のいいだけでは役に立たない連中なら、たちまち無視する。ついには、必要とあればおせじも使った。」
—『幸福について(上)』アラン著
「おれは指一本動かさないでいるつもりだ」などとほざいている怠け者を、わたしはたくさん知っている。かれらは実際にはそっとしておいてもらいたがっているのだ。そこで、人々はかれらをそっとしておく。だから、かれらは自分でそう思いたがっているほど不幸ではない。馬鹿者とは、鳶のように一挙にうまい餌にありつこうとねらって急に思い立って二日ほどの間に十回も奔走する連中のことだ。ろくな準備もつまないで、あくせく立ち回ってみたところで、どうせうまく行く気づかいはない。相当有能な人たちまでもがこうして一攫千金の夢をねらったのを見たことがある。そんな向こう見ずな冒険をして失敗するからこそ、人は社会ははなはだ不当だなどというのである。不当なのはその人の方だ。社会は、何も要求しない人には、なに一つ与えはしない。」
—『幸福について(上)』アラン著
「くりかえしていうが、金持になりたいと思う者はだれでもなれる。こんなことを言おうものなら、金持になろうと夢みて失敗した人はだれでも憤慨するだろう。かれらは山をながめただけだったが、山のほうではかれらがくるのを待っていたのだった。金銭というものは、すべての利益と同様、まず第一に誠実さを要求するものである。多くの人たちは、かせぐ必要があるからという理由のためだけにかせぎたがっている。しかし金というものは、必要からだけ金を求める人々をさける。財産をつくった人々は、一つ一つのものから利益をあげようと思ったのだ。友だちづきあいのように楽しく趣味や趣向にもあい、気楽でおおようになれるような、そういう小ぎれいな商売を求める人は、焼けきった舗道に降った雨のようにたちまた蒸発してしまう。きびしさがなくてはならず、勇気がなくてはならぬのである。つまり昔の騎士たちのように、困難のなかで鍛え上げなければならぬ。しかし、浮ついた拝金主義者は裁かれる。」
—『幸福について(上)』アラン著
「老人の貪欲、さらには、乞食の貪欲というものがある。これは偏執狂のようなものだ。しかし商人の貪欲は、職業そのものに結びついている。かせぎたいと思う以上、手段を求めなければならぬ。つまり、小さな利益を積み重ねなければならぬ。すなわち、他のことは何も考えず、一歩一歩よじのぼらなければならぬ。ところで、どの石も登るのに役立つとは限らない。それに重力からわれわれは決して自由になれない。破産(失墜)とはいいことばだ。損失というものが、いつも商人から離れず、たえず商人をぴんとひっぱっているからである。損失というこのもう一つの重力を感じない者は、無駄骨を折ることになろう。(」
—『幸福について(上)』アラン著
「ゲーテならざる人間は、ゲーテたろうと欲しなかったのだ。何ものにもめげないワニのように強い性質の人間のことをだれよりもよく理解していたスピノザは、人間は馬の完全さなんぞ持つ必要はない、と言った。同じように、だれもがゲーテの完全さを持っていても仕方がない。しかし商人は、どこででも破産に瀕しているさきでさえ、売り買いをするものなのだ。手形割引人は金を貸し、詩人はうたい、怠け者は眠るものなのだ。多くの人は、あれやこれやが手に入らぬことの不平をいう。だが、その原因はいつでも必ず、かれらがそれを本当には欲しなかったことにある。」
—『幸福について(上)』アラン著
「わたしの見るところ、外国人が愛想がいいのは、とげのないおせじしかいうことを知らないからである。外国暮しの好きな人があるのは、そのためだ。かれらにはいじわるになる機会というものが全くない。」
—『幸福について(上)』アラン著
「登山家は自分だけのもっている力を行使して自分で自分の力を立証する。かれは自分自身の力を感じると同時にそれを考慮する。この良質なよろこびが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、同じ太陽を見ることはないだろう。したがって、楽しみに対する予想というものはわれわれを裏切るものだ、というのは本当である。しかもそれは二様にわれわれを裏切るのだ。行動することの楽しみは、必ず約束以上のものを払ってくれるのだが、与えられた楽しみというものは約束どおりのものを決して支払ってはくれないのだから。運動の選手はほうびを獲ようとして練習する。しかしやがて、自分の内部にあって自分の力によってのみ手にはいる進歩、困難の克服というもう一つ別のほうびを獲得する。怠け者にはこれは決して想像がつかない。怠け者は、他人から与えられるほうびと、自分の苦しみ、この二つしか見ないからだ。かれはこの二つをはかりにかけるが、決して決心しない。だが、運動の選手は、もうきのうの練習に刺激されて立ち上り、仕事にとりかかり、そしてたちまち自分の意志と実力とをためしはじめる。こうして、仕事以外に楽しいものがなくなる。だが、怠け者はこんなことを知りはしないし、知るすべもない。人の話で聞いたり、思い出で知ったりしても、かれにはそれが信用できない。」
—『幸福について(上)』アラン著
「いやいやがまんするのではなくて、進んで行う、これが心地よさの基礎である。ところが、砂糖菓子は口のなかで溶かしさえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。音楽は、聞くことだけしかせず、自分では全然歌わないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞するのではなく、喉で味わうのだ、と言った。美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で描いてみるとか、自分で蒐集するとかしなければ、休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、判断するだけにとどまらず、探求し、征服することである。人々は芝居を見に行き、自分でいやになるくらい退屈する。自分でつくり出すことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。」
—『幸福について(上)』アラン著
「真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治化とは政治を楽しむ人である、と。「楽しみとは能力のあらわれである」と、かれは言っている。その理論など忘れさせてしまう用語の完璧さをもつ素晴らしいことばだ。古来、何度となく否認されてきて、しかもびくともしないこの驚くべき天才を理解しようと思うのなら、ここのところによく注意する必要がある。いかなる行動においても、真の進歩のしるしは、人がそこに感じうる楽しみに他ならない。したがって、仕事こそが心を楽しませる唯一のものであり、しかもそれだけでじゅうぶんなのだ。わたしの言う仕事とは、力のあらわれであると同時に、力を生みだす源泉でもある自由な仕事のことだ。くりかえしていうが、大切なのはがまんすることではなくて、行動することである。」
—『幸福について(上)』アラン著
「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。「遠くを見よ」ほとんどすべての場合、抑うつ病患者というのは、ものを読みすぎる人間だ。ところが、人間の目というものは、書物との間の距離のような短かい距離に合うようにつくられていない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。だが、意志の力でしなやかになろうなどとつとめてはならない。自分自身の意志を自分自身だけに指し向けると、ぎこちない行動ばかりがうまれて、やがては自分で自分ののどをしめるようなことになる。自分のことを考えるな。遠くを見よ。」
—『幸福について(下)』アラン著
「友情のなかには、すばらしい喜びがある。喜びが人に感染するものであることに注意すれば、このことは容易に理解される。わたしのいることが友人に対して少しでも本当の喜びを与えさえすれば、それだけで、こんどはわたしが、友人の喜びを見て一つの喜びを感じるようになる。このように、誰しも、人に与える喜びは自分に返ってくる。と同時に、喜びの宝庫が解放され、そして、二人してお互いに言う、「わたしは自分のなかに幸福をもっていたが、それをむだにしていたわけだ」 喜びの源泉は内部にある、ということではわたしの考えも同じだ。自分にも何事にも不満で、お互いに笑わせるためにくすぐりあっているような連中を見ることほど、悲しい気持になることはない。だが、満足している人間も、ひとりだけでいると、すぐに自分が満足していることを忘れてしまう、ということも言っておかなければならない。かれの喜びは、やがてことごとく眠りこんでしまう。一種の自失状態、ほとんど無感覚とも言うべきものがやってくる。内部の感情は外部の動きを必要とする。もし、ある暴君がわたしを投獄して、権力を尊敬することを教えようとしたら、わたしは健康法として、毎日ひとりっきりで笑うようにするだろう。わたしは脚を訓練するように、喜びを訓練するだろう。」
—『幸福について(下)』アラン著
「こういうわけで、喜びをめざますには、一種のきっかけが必要である。幼い子供がはじめて笑う時、その笑いはまったくなにも表していない。幸福だから笑うのではない。むしろ、笑うから幸福なのだとわたしは言いたい。笑うことが楽しみなのだ、食べることが楽しみであるように。実際、子供はまず食べなければならない。このことは笑いについてだけ真実なのではない。自分の考えを知るためには言葉も必要である。ひとりでいるかぎり、人は自分ではあり得ない。おろかなモラリストたちは、愛するとはおのれを忘れることだと言う。あまりにも単純な考えだ。人は自分から離れれば離れるほど、それだけ自分自身となる。それだけ自分の生きていることをよく感じるようにもなる。きみの薪を穴倉で腐らせてはいけない。(一九〇七年一二月二七日)」
—『幸福について(下)』アラン著
「思想によって、デカルトはまったく同様である。大胆に思考し、つねに自己の命ずるところによって動いた。つねに決断を下していたわけである。幾何学者が優柔不断であったら、まことに滑稽なものだろう。それはきりがないのだから。一本の線には点がいくつあるのか。そして、二本の平行線を考える時、ひとは自分がなにを考えているのか知っているのか。しかし、幾何学者の天分はひとがそれを知っているものと決めて、その決定を少しも変えず、またあともどりもしないようにと、ただそれだけを心に誓うのだ。一つの理論には、よく見れば、定義され、誓われた誤謬以外のなにものもないだろう。この賭において、精神は力いっぱい、ただ決定したにすぎないものを、立証しているのだとは決して信じまいとする。ここに、決してなにものも信ずることなしに、つねに確信をもちうることの秘密がある。かれは決心した、というのはいい言葉だ。一語で、同時に「解決した」という意味をもっている[フランス語で、「決心する」という言葉には、また、「解決する」という意味があること]。(一九二四年八月一〇日)」
—『幸福について(下)』アラン著
「ひとは流行を笑いたがるようだが、流行とは、なにか非常にまじめなものなのだ。精神はこれを軽蔑する様子をするが、しかし、まずネクタイをつける。軍服と僧服は、ひとの心を落着かせる驚べき効果を見せる。それらは眠りの衣服である。心地よい怠惰、考えることなく行動するという、このもっとも心地よい怠惰の襞である。流行も同じ目的に向かうがまったく想像上のものである選択の喜びを与えてくれる。色彩はひとの心を惹きつけるが、選択を迫るので不安である。ここで苦痛が示されるとしても、それは芝居におけるように、薬をいっそうよく味わわせるためにすぎない。こういうことから、昨日は赤で安心できたものが、また青にもどったりする。要は意見の一致であり、この一致こそが流行を証明する。ここから、ひとを本当に美しくする心の平静が生まれる。なぜなら、黄色はあまり金髪に似あわず、緑色もあまり褐色の髪に似あわないというのは本当だからである。しかし、不安、羨望、後悔などのしかめっ面は、だれにも似あわないものだ。(」
—『幸福について(下)』アラン著
「礼儀を覚えるのはダンスを覚えるのと同じことだ。ダンスを知らない人は、むずかしいのは規則に通じそれにあわせて体を動かすことだ、とひとりぎめしている。しかしそれは物事をうわべだけでとらえた考え方で、固くならず、苦労なしに、したがってこわがらずに踊れればそれでよい。それと同じことで、礼儀の作法に通じることなどどうでもよいのだ。また、たとえ作法通りに振舞うとしても、それだけではまだ礼儀の入り口に立ったにすぎない。必要なのは、動きが正確でのびのびしており、固くなったりふるえたりしないことだ。ほんのちょっとした身ぶるいでも相手にはすぐわかるものだから。第一、相手を落ちつかせない礼儀などあるはずもない。」
—『幸福について(下)』アラン著
「 無作法な男はひとりの時でも無作法だ。ほんの小さな動作にも力みすぎる。融通のきかない感情と、臆病という自己恐怖が感じられる。私は臆病な男が公開の席上で文法を論ずるのを聞いたときのことを覚えている。彼の口調はもっともはげしい憎悪の口調であった。そして、感情は病気よりも早く感染するものだから、もっとも無邪気な意見のなかに怒りがあるのを見つけても私は少しも驚かない。それは声のひびきそのものや、自分自身に対する無駄な努力のために拡大された、一種の恐怖にすぎないことがよくある。また狂信も元をただせば無作法であるかもしれぬ。なぜなら、たとえそのつもりがなくても、いったん口に出したことは、しまいには本人もそう思いこむものだからだ。してみると、狂信は臆病の結果ということになろう。自分の信念をうまく維持できないという恐怖である。最後には、恐怖にほとんどたえきれなくなって、自己および他人に対して怒りをぶちまけるに到る。この怒りがもっとも不安定な意見にでも恐ろしい力を与えるのだ。臆病者を観察したまえ。彼らがどのようにして決心するかをみたまえ。痙攣というものが奇妙な思考方法であることが分るだろう。いろいろと廻り道をしたが、これで、茶碗を手にすることがどのようにして人間を教化するかがはつきりしたことであろう。フェンシングの先生は、コーヒー茶碗の中でのスプーンのまわし方だけで、それ以上何も動かして見せなくてもフェンシングの腕前を判定してきた。(一九二二年二月六日)」
—『幸福について(下)』アラン著
「 宮廷人の礼儀というものがあるが、感心したものではない。それどころか、これは決して礼儀ではないのだ。わどさらしいものはすべて礼儀のなかに入らないように思われる。例えば、真に礼儀正しい人間だったら、軽蔑すべき人間、たちの悪い人間を、容赦なく、乱暴なまでにとり扱うことができるだろう。これは決して無作法ではない。考えぬいたあげくの親切となるともう礼儀とはいえぬ。計算ずくのおせじも同じことだ。礼儀ということばがふさわしいのは、何気なくなされる行動、表現するつもりのないものを表現する行動に限るのである。」
—『幸福について(下)』アラン著
「 無作法とは常に無器用ということである。相手に年齢を思い出させるのはたちの悪いことだ。しかし、そのつもりがなくて、身ぶりか顔つきで、またはなにげない話でそうしたとすれば、それはたちが悪いのではなく無作法だ。おなじく、人の足を踏みつけた場合、わざとしたのなら暴力だし、知らずにしたのなら無作法だ。無作法とはすべて思いがけない跳弾である。礼儀正しい人はそれを避ける。触れるとすれば進んで触れるのだ。触れた方がいい時に触れるのである。礼儀正しさ必ずしもへつらいを意味しない。 したがって、礼儀とは習慣であり、気楽さである。無作法な人間とは、装飾皿とまちがえて食器皿かがらくたを壁にかけるのと同じく、したいと思うことと別なことをする人のことである。つまり、言いたいことと別なことを言う人、ぶっきら棒な口調や、不必要に大きな声や、ためらいや、早口やのために、伝えたいこととは別なことを伝える人のことである。だから、礼儀はフェンシングと同じく、習って身につけることが出来るものだ。気どり屋とは、わけもわからずわどさ大げさに物事を伝える人間である。臆病者とは、気どるまいと心掛けてはいても、行為や言葉を重大に考えるためにどうしたらいいかわからない人間である。その結果、御存知のように、行動や話を中止しようとして、緊張し、固くなる。自分自身に対する異常な努力の結果、声はふるえ、汗をかき、顔を赤らめ、ふだんよりもっと無器用になってしまう。これとは逆に、優雅さとは、言葉の上からも、動作の上からも、他人を不安がらせず、傷つけもしない幸福の一形態である。そして、こういう長所は幸福全体にとって大いに重要である。処世術はこれらの長所を見逃してはならない。(一九一一年三月二一日)」
—『幸福について(下)』アラン著
「体操と音楽とが医師プラトンの二大療法だった。体操とは、筋肉が自分で行なう適度の訓練のことで、その目的はそれぞれの形に応じた内部からの伸縮である。調子の悪い筋肉は、ほこりのつもった海綿に似ている。筋肉を掃除するのも海綿を掃除するのと同じで、水でふくらませ、何度も押してみる。生理学者たちは、心臓は中空の筋肉のことだと何度もいっている。しかし、その筋肉の収縮と弛緩によって交互に圧縮したり膨張したりする血管叢をふくんでいるから、各々の筋肉が一種の海綿状の心臓で、その動き、つまり貴重な源泉は、意志によって調整できるといっても差し支えあるまい。ここからわかることだが、体操によって筋肉を支配し得ない人たち、つまりいわゆる臆病者たちは、自分のなかに血行の乱れを感じる。この乱れた血液が柔らかい部分に運ばれると、理由もなく顔が赤くなったり、圧力の高い血液が脳を侵して、しばしの錯乱状態をひきおこす。さらに、よく知られたことだが、内臓が水びたしになったような不快感をおぼえさせる。こういう症状に対しては、筋肉の規則正しい運動は間違いなく最善の療法である。そしてこの場合に、音楽がダンスの教師という形をとってあらわれるのが見られる。この教師は、安ヴァイオリンで血液の循環を最高に調整する。こうして、周知のように、ダンスは臆病もなおすが、もっと別の方法で、つまり筋肉をゆったりとなめらかにのばすことで、心臓を楽にする。」
—『幸福について(下)』アラン著
「読書についても同じことが言える。バルザックをきわめるには勇気が必要だ。まず退屈するからである。怠惰な読者の態度はとても面白い。パラパラと頁をめくる。何行か読む。本を投げ出す。読書の幸福は、なれた読書家でもびっくりするほど予知しがたいものだ。学問は遠くから見ていては面白いものではない。一歩踏みこむことが必要だ。」
—『幸福について(下)』アラン著
「いつでも、美しい顔が嫌われることはない。この点から推測すれば、完璧なものは決して相互に衝突するものではなく、不完全さや悪徳こそ闘い合うものなのだ。」
—『幸福について(下)』アラン著
「しかし、すべてよい行動はそれ自体美しく、人間の顔も美しくするのである。ところで、いつでも、美しい顔が嫌われることはない。この点から推測すれば、完璧なものは決して相互に衝突するものではなく、不完全さや悪徳こそ闘い合うものなのだ。恐怖がそのいちじるしい例である。だからこそ、暴君や臆病者のお手のものである束縛というやり方は、私にとっては本質的にばかげており、あらゆる愚行の母であるように思われるのだ。束縛をときほどけ、解放せよ、そして恐れるな。自由人は武装から開放されているものだ。(」
—『幸福について(下)』アラン著
「昔の賢人たちは幸福を求めた。隣人の幸福ではなく自分自身の幸福を。今日の賢人たちは、自分自身の幸福は求めるに足る高貴なものでないと口をそろえて説く。中には美徳は幸福を侮蔑するとまで無理をして言うものもあるが、言うだけなら別にむずかしいことでもない。共同の幸福こそ自分自身の幸福の真の源泉だと教えるものもいるが、これこそおそらくもっとも中味のない意見だろう。なぜなら、まわりの人たちに幸福を注ぎこむのは、穴のあいた革袋に注ぎこむのと同じように、これほどむだな作業はないからである。わたしの見たところでは、自分自身にたいくつしている連中を楽しませることなどできはしない。逆に、物欲しそうな顔をしていない人たちにこそ、何かを与えることができるのだ。」
—『幸福について(下)』アラン著
「 今課題になっているこの幸福である法のうちに、悪天候のうまい使い方についての役に立つ忠告も加えておこう。私がこれを書いている今、雨が降っている。無数の小さい溝がざわめいている。空気は洗われて、濾過されたようだ。雲はすばらしいちぎれ綿に似ている。こういう美しさを手に入れることを学ばねばならない。しかし、人によっては、雨が収穫をだめにするという。また泥のためなんでも汚れるという人もいる。また別な人は、草の上に坐るのは大へんいい気持なのにともいう。もちろんだ。みんなもっともなことを言っているのだ。あなたが不平を言ったからとて何の役にも立ちはしない。私は不平の雨にびしょぬれになり、この雨は家の中まで追いかけてくる。さあ、雨降りの時こそ、晴々した顔が見たいものだ。だから天気の悪い時には顔の方を晴天にすることだ。(一九一〇年九月八日)」
—『幸福について(下)』アラン著
「悲観主義は気分に由来し、楽観主義は意志に由来する。あなたまかせの人間はみんなめそめそしているものだ。だがまだ言葉が足りない。彼らはやがて興奮し、いきりたつ。よくみかけることだが、子供の遊びに規律がないとけんかになってしまうようなものだ。この場合、自分で自分をいためつける異常な力以外に原因はない。結局、上機嫌などというものは存在しないので、正確にいうなら、気分というものは悪いのが普通なのであり、すべて幸福とは意志と抑制の産物である。どんな場合でも理くつはどれいである。気分は途方もない体系をくみたてるもので、その拡大されたものが狂人においてみられる。自分が被害者だと思いこんでいる不幸な人間の言葉には、いつでも本当らしさと雄弁らしきものがある。楽観主義の雄弁は心を静める種類のもので、これはただしゃべりまくる憤激にのみ対立する。なだめ手にまわるのだ。効能を示すのは語調であって、言葉は鼻歌ほどの意味ももたない。不機嫌につきもののあの犬のような唸り声は、まずまっさきに改めねばならない。なぜなら、それこそわれわれの内部の病気のある確かな証拠で、それが源となって外部にあらゆる害悪が作り出されるからだ。だからこそ礼儀は政治のよい規則なのだ。礼儀と政治という二つの言葉は親類なのだ。すなわち礼儀正しいものは政治家というわけである。」
—『幸福について(下)』アラン著
「本書は、 Alain : Propos sur le bonheurの全訳です。したがって、直訳すれば、題名は「幸福(についての)語録」ということになります。「幸福論」としたのは、それの方が通りがいいからです。 お読みになれば直ちにお判りの通り、本書は、幸福についての、観念的、また体系的、学術論文ではありません。具体的、または実践的、小エッセーの集合です。現実の身近なところからお話がはじまっていて、決してそこを離れることはない。そして、問題はいつも、人間はどう生きねばならないか、から逸脱することがない。 その点では、日本の新聞雑誌によくのる身の上相談の解答者の人生案内風の文章に似ているといえます。人生の苦労人、達人でなければ扱えない内容です。しかし、身の上相談の場合と違うのは、これには強靭な思考の、いわば電気ドリルの運動がある。そのドリルが頑健な岩の穴をうがってゆく壮快さがある。男らしい作業の緊張感がある。安直な同情の湿っぽさもなければ、道学者めいた説教くささもない。与えられた問題と挌闘し、それを乗りこえようとする。変ないい方ですが、精神の筋肉のたくましさ、これしかない。」
—『幸福について(下)』アラン著
「「われ思う、ゆえにわれあり」という後になって有名になった言葉を、存在論の根底にすえて近代の思想のみちびき手となったのは、いまさら言うまでもなくデカルトですが、そのデカルトの思想に多くの教えを、第二次世界大戦の悲劇の体験を通して、次のような戦後思想に定言化してみせたのは、「異邦人」「ペスト」「シジフォスの神話」などの著作で多くの青年に強い影響をあたえたノーベル賞作家アルベール・カミュです。次のような、とはこういう意味です。」
—『幸福について(下)』アラン著