【感想・ネタバレ】アラン 幸福論のレビュー

あらすじ

ルーアンの新聞に「日曜語録」として連載されたのを皮切りに、総計5000に上るアランのプロポ(哲学断章)。「哲学を文学に、文学を哲学に」変えようとするこの独特の文章は、「フランス散文の傑作」と評価されている。幸福に関する93のプロポを収めた本書は、日本でも早くから親しまれてきたもの。折にふれゆっくりと味わいたい。

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Posted by ブクログ

アランの幸福論、アランと同じフランス人のデカルトとかバルザックの話とかめっちゃ出てきてたし、意外とフランス思想知る手がかりになりそうだと思ったし、思ったより読みやすかった。

「悲観は気分による、楽観は意志の力」といったのはアランだったか。意志の力に加え、知性の力で楽観をもたらしたいね。

アラン(フランス語: Alain)ことエミール=オーギュスト・シャルティエ
(フランス語: Émile-Auguste Chartier, 1868年3月3日 - 1951年6月2日)は、フランス帝国(フランス第二帝政)ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の哲学者、評論家、モラリスト[2][3][4]。ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエ(英語版)に由来する[5][6]。1925年に著された『幸福論(フランス語版)』で名高いが、哲学者や評論家としても活動し、アンリ・ベルクソンやポール・ヴァレリーと並んで[7]合理的ヒューマニズムの思想は20世紀前半フランスの思想に大きな影響を与えた[8]。体系化を嫌い、具体的な物を目の前にして語ろうとしたのがアランの手法で[9]、理性主義の立場から芸術、道徳、教育などの様々な問題を論じた[2]。フランス文学者の桑原武夫は「アランの一生は優れた「教師」の一生であったと言えよう」と評している[10]。また、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは1949年にアランの伝記や教えをまとめた『アラン(Alain)』の中で、アランを「現代のソクラテス」と評している[11]。


「不幸な人間には、どんなに好ましいできごとがほほえみかけても意味がない。幸福であることのなかには、人が考えているよりももっと多くの意志の力がはたらいてるものなのである。」

—『幸福について(上)』アラン著


「実際には、幸福であったり不幸であったりする理由はたいしたことではない。いっさいはわれわれの肉体とその働きにかかっている。そしてどんな頑健な肉体でも、毎日、緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと、しかも多くの場合、食事や、歩行や、注意力や、読書や、天気ぐあいなどに左右されて、移りかわる。それにしたがってきみの気分も波の上にある舟のように上下する。それらの外的条件は、普通のときは灰色の目立たない色調を帯びているにすぎない。なにか没頭しているかぎりは、そのことを考えはしない。ところが、ひとたびそれを考える暇ができ、熱心に考え出すと、些細な理由が群れをなして押しよせてくる。そして、きみは、それが結果であるのに原因だと思いこむ。鋭敏な人は悲しければ悲しい理由を、うれしければうれしい理由を、かならず見つけだす。同じ一つの理由が二つの目的に役立つこともしばしばある。病身で肉体の苦しみを味わっていたパスカルは、多数の星をみて恐怖した。そして、かれが星をながめながら荘厳な戦慄を感じたのは、それと気づかずに窓ぎわで冷えこんだからに違いない。ほかの健康な詩人だったら、女友だちにでも話しかけるように星に話しかけるだろう。そのどちらの詩人も星空についてきわめて気高いことを、つまり実は問題外の気高いことを、口にすることであろう。」

—『幸福について(上)』アラン著



「人はよく、不機嫌というのは病気みたいなもので、どうにも手に負えないものだ、という。わたしが、きわめて簡単な動作ですぐにとりのぞくことのできる苦痛や苛立ちの例をこの文章のはじめに、あらたにまたとりあげたのは、そのためである。ふくらはぎがひきつると、どんなにがっしりした大の男でも悲鳴をあげることは、だれでもが知っている。そんなときには、足のひらを平らにして地面に押しつけなさい。立ちどころになおる。ブヨや炭の粉が目に入った場合、こすりでもしようものなら、二、三時間はいやな目にあう。そんなときには、両手はそのままにして動かさないで、鼻先をながめていなさい。すぐに涙が出てきて不快な目にあわずにすむ。この簡単きわまる療法を知ってから、わたしは二十度以上もためしてみた。これは、はじめから自分の周囲の物事のせいにしないで、まず自分自身に気をつけることが賢明であるということの、なによりもの証拠である。」

—『幸福について(上)』アラン著

「むしろ、悩ましさを引きおこしている真の原因を知らないことからくる、ときほぐしたい焦燥と動揺なのである。馬から落ちることの恐怖は、落ちまいとして下手にじたばたすることから生ずる。そして一番わるいことには、じたばたすることが馬をこわがらせるのである。そこでわたしは、スキタイ人[北欧および北アジアを遊牧した古代の蛮族]流にこう結論したい。乗馬術を心得ている人は、あらゆる知恵、もしくはほとんどあらゆる知恵を身につけている、と。それに、落ちるには落ちる術がある。よっぱらいは、うまく落ちようなどと少しも考えないくせに、それでもうまく落ちるのだから、驚いたものだ。消防士は、落ちたって平気の平座であるから、見事なものだ。もちろん落ちる訓練をうけ続けてきたからである。」

—『幸福について(上)』アラン著

「よく世間でいわれるように、大きく一息つくことが必要なときでさえ、階段を見ただけで、息をとめる想像力がはたらいて、心臓が収縮する。もともと怒りとは、咳と全く同じく病気の一種なのである。咳は苛立ちの一つの典型と見なすことさえできる。咳の原因は肉体の状態によるからである。ところが、いちはやく想像力が咳を待ちかまえ、さがし求めさえする。ちょうど身体のかゆいところをかきむしる人たちのように、ひどくすれば病気をのがれることができるだろうという馬鹿げた考えから、わざわざ咳をさがしもとめるのである。動物たちも自分の身体をかきむしって、傷だらけにすることを、わたしはよく知っている。しかし、単なる思念の働きだけで自分自身をかきむしり、情念の働きだけで直ちに自分の心臓を興奮させて、いたるところに血液をふきださせることのできるのは、人間の危険な特権である。」

—『幸福について(上)』アラン著

「千分の一秒だけ感じられて、たちまち忘れられてしまう痛みとはなんであるか。苦悩は歯痛と同じように、人がこれを予想し、待ちうけ、現在を中心とした前後の時間にしばらくのあいだ持続させてはじめて、存在するものなのである。現在だけというのは無いに等しい。なるほど、痛みは味わうかもしれない。しかし、実は痛みそのものよりも、痛むかもしれないという恐れの方を、人はより多く苦痛に感じているのだ。」

—『幸福について(上)』アラン著

「宗教的態度は、これを医者が考察すれば役に立つものである。神の前に跪き、かがみこみ、身体をやわらげると、体内の諸器官が解放され、生命の機能がいっそうなめらかに働くようになるからだ。「頭を下げよ。心おごれるシカンブルびと」[聖レミがカトリックに改宗したフランク王クロヴィス一世に、洗礼に際して言ったことば。シカンブルは古代ゲルマニアの民]これは怒りや慢心から癒えよと言っているのではなく、ともかく黙って、目を休ませ、柔和にふるまえといっているのである。そうすれば、性格のあらあらしさがぬぐいさられる。長期に、あるいは永久に、そうなるのではない。そんなことはわれわれの力では及ばない。そうではなくて、じきに、そしてしばしの間、ということである。おもえば宗教上のさまざまな奇跡は、奇跡でもなんでもない。  人がしつこい考えをどうやって追いはらうかを見ると、ためになる。かれは、まるで筋肉をほぐすためでもあるかのように、心配ごとを遠く投げすて、指を鳴らす。今もっているのとは、別の知覚や別の空想をいだこうとするのである。そのときダビデの竪琴[ダビデはイスラエルの王、詩人で予言者、旧約詩篇の作者、竪琴の名手]がかれの心をとらえ、その身ぶりを整え、和らげて、憤怒と焦燥のすべてを遠ざけてくれるならば、抑うつ病患者などたちまちなおってしまうであろう。」

—『幸福について(上)』アラン著

「心配事のあるときは、理屈を考えようとしない方がいい。理屈はあなた自身に鉾先を向けることになるだろうから。それより、今ではどの学校でも教えている、あの腕の上げ下げや屈伸の運動をやってみるがいい。その結果にあなたは驚くことだろう。だから、哲学の先生はあなたを体操の先生のところへつれて行く。」

—『幸福について(上)』アラン著

「呑みこむのと咳をするのとは同時にはできない。だから、わたしは咳をとめるのに、咳どめドロップを呑むのが一番だというのである。同じわけあいで、あくびをすれば、しゃっくりが止まる。だが、どうやってあくびをするか。まず、伸びやにせのあくびなど、あくびのまねをしていれば、やがてはうまいぐあいに本物のあくびができるようになる。あなたの許可もうけずに勝手にあなたにしゃっくりをさせる、あなたのなかのしゃっくり虫は、こうしてあくびをする姿勢をとらされる。したがって、あくびをするだろう。これが、しゃっくりや心配事に対する有力な療法である。十五分ごとにあくびをすることを命ずるような医者は、どこにもいないことだろう。(」

—『幸福について(上)』アラン著



「だからこそわたしは、「身を切るような寒さだ。健康にはこれが一番だ」という人々を軽蔑しない。これ以上よい態度があろうか。風が東北から吹いてくるときには、手をこすり合わせることが二重の効果をもつ。この場合、本能は知恵と同じだけの有効な働きをし、肉体の反抗が人に喜びを教えてくれる。寒さに抵抗するしかたは一つしかない。寒さに満足することである。よろこびの達人であるスピノザ流にいえば、「わたしが満足しているのは暖まったからではない。満足しているから暖まるのである」だからいつでもこう考えなければならない。「成功したから満足しているのではない。満足していたから成功したのだ」と。もしよろこびをさがしに行くなら。まずよろこびを蓄えることである。手に入れるまえにお礼をいうがいい。希望というものが希望する理由を生み出してくれるのである。良い前兆が、本物の良いものを導きだしてくれるのである。」

—『幸福について(上)』アラン著

「自分でもいやになっているいなや人間に会ったら、まず笑顔をみせなければならない。そして、眠りたいと思うなら、眠れると確信するがいい。要するに、だれにとっても、この世でもっとも恐るべき敵は自分自身を措いて他にはない。ここの章の冒頭のわたしの文章は、じつは一種の気狂いについて語ったものに他ならない。しかし、気違いとはわれわれの誤謬の拡大されたものにほかならない。どんな小さな不機嫌の動作のなかにも被害妄想狂の縮図がある。」

—『幸福について(上)』アラン著

「だれでも求める物はえられる。青年時代にはこのことを考え違いするものである。棚からぼた餅が落ちてくることしか待っていないからである。ところが、ぼた餅は落ちてはこない。だが、われわれが欲するものはすべて、山と同じだ。われわれを待っており、逃げて行きはしない。けれども、よじ登らなければならない。わたしの見たところ、野心家たちはみんなしっかりした足どりで出かけて、みんな目的にたどりついている。それも、わたしの思ったよりももっと早く着いている。かれらは有効な行動だとみれば、さきに延ばしたりなぞしない。自分の役に立つと思う人々なら必ず定期的に訪問する。ただつきあって気持のいいだけでは役に立たない連中なら、たちまち無視する。ついには、必要とあればおせじも使った。」

—『幸福について(上)』アラン著

「おれは指一本動かさないでいるつもりだ」などとほざいている怠け者を、わたしはたくさん知っている。かれらは実際にはそっとしておいてもらいたがっているのだ。そこで、人々はかれらをそっとしておく。だから、かれらは自分でそう思いたがっているほど不幸ではない。馬鹿者とは、鳶のように一挙にうまい餌にありつこうとねらって急に思い立って二日ほどの間に十回も奔走する連中のことだ。ろくな準備もつまないで、あくせく立ち回ってみたところで、どうせうまく行く気づかいはない。相当有能な人たちまでもがこうして一攫千金の夢をねらったのを見たことがある。そんな向こう見ずな冒険をして失敗するからこそ、人は社会ははなはだ不当だなどというのである。不当なのはその人の方だ。社会は、何も要求しない人には、なに一つ与えはしない。」

—『幸福について(上)』アラン著

「くりかえしていうが、金持になりたいと思う者はだれでもなれる。こんなことを言おうものなら、金持になろうと夢みて失敗した人はだれでも憤慨するだろう。かれらは山をながめただけだったが、山のほうではかれらがくるのを待っていたのだった。金銭というものは、すべての利益と同様、まず第一に誠実さを要求するものである。多くの人たちは、かせぐ必要があるからという理由のためだけにかせぎたがっている。しかし金というものは、必要からだけ金を求める人々をさける。財産をつくった人々は、一つ一つのものから利益をあげようと思ったのだ。友だちづきあいのように楽しく趣味や趣向にもあい、気楽でおおようになれるような、そういう小ぎれいな商売を求める人は、焼けきった舗道に降った雨のようにたちまた蒸発してしまう。きびしさがなくてはならず、勇気がなくてはならぬのである。つまり昔の騎士たちのように、困難のなかで鍛え上げなければならぬ。しかし、浮ついた拝金主義者は裁かれる。」

—『幸福について(上)』アラン著

「老人の貪欲、さらには、乞食の貪欲というものがある。これは偏執狂のようなものだ。しかし商人の貪欲は、職業そのものに結びついている。かせぎたいと思う以上、手段を求めなければならぬ。つまり、小さな利益を積み重ねなければならぬ。すなわち、他のことは何も考えず、一歩一歩よじのぼらなければならぬ。ところで、どの石も登るのに役立つとは限らない。それに重力からわれわれは決して自由になれない。破産(失墜)とはいいことばだ。損失というものが、いつも商人から離れず、たえず商人をぴんとひっぱっているからである。損失というこのもう一つの重力を感じない者は、無駄骨を折ることになろう。(」

—『幸福について(上)』アラン著

「ゲーテならざる人間は、ゲーテたろうと欲しなかったのだ。何ものにもめげないワニのように強い性質の人間のことをだれよりもよく理解していたスピノザは、人間は馬の完全さなんぞ持つ必要はない、と言った。同じように、だれもがゲーテの完全さを持っていても仕方がない。しかし商人は、どこででも破産に瀕しているさきでさえ、売り買いをするものなのだ。手形割引人は金を貸し、詩人はうたい、怠け者は眠るものなのだ。多くの人は、あれやこれやが手に入らぬことの不平をいう。だが、その原因はいつでも必ず、かれらがそれを本当には欲しなかったことにある。」

—『幸福について(上)』アラン著

「わたしの見るところ、外国人が愛想がいいのは、とげのないおせじしかいうことを知らないからである。外国暮しの好きな人があるのは、そのためだ。かれらにはいじわるになる機会というものが全くない。」

—『幸福について(上)』アラン著

「登山家は自分だけのもっている力を行使して自分で自分の力を立証する。かれは自分自身の力を感じると同時にそれを考慮する。この良質なよろこびが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、同じ太陽を見ることはないだろう。したがって、楽しみに対する予想というものはわれわれを裏切るものだ、というのは本当である。しかもそれは二様にわれわれを裏切るのだ。行動することの楽しみは、必ず約束以上のものを払ってくれるのだが、与えられた楽しみというものは約束どおりのものを決して支払ってはくれないのだから。運動の選手はほうびを獲ようとして練習する。しかしやがて、自分の内部にあって自分の力によってのみ手にはいる進歩、困難の克服というもう一つ別のほうびを獲得する。怠け者にはこれは決して想像がつかない。怠け者は、他人から与えられるほうびと、自分の苦しみ、この二つしか見ないからだ。かれはこの二つをはかりにかけるが、決して決心しない。だが、運動の選手は、もうきのうの練習に刺激されて立ち上り、仕事にとりかかり、そしてたちまち自分の意志と実力とをためしはじめる。こうして、仕事以外に楽しいものがなくなる。だが、怠け者はこんなことを知りはしないし、知るすべもない。人の話で聞いたり、思い出で知ったりしても、かれにはそれが信用できない。」

—『幸福について(上)』アラン著

「いやいやがまんするのではなくて、進んで行う、これが心地よさの基礎である。ところが、砂糖菓子は口のなかで溶かしさえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。音楽は、聞くことだけしかせず、自分では全然歌わないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞するのではなく、喉で味わうのだ、と言った。美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で描いてみるとか、自分で蒐集するとかしなければ、休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、判断するだけにとどまらず、探求し、征服することである。人々は芝居を見に行き、自分でいやになるくらい退屈する。自分でつくり出すことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。」

—『幸福について(上)』アラン著

「真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治化とは政治を楽しむ人である、と。「楽しみとは能力のあらわれである」と、かれは言っている。その理論など忘れさせてしまう用語の完璧さをもつ素晴らしいことばだ。古来、何度となく否認されてきて、しかもびくともしないこの驚くべき天才を理解しようと思うのなら、ここのところによく注意する必要がある。いかなる行動においても、真の進歩のしるしは、人がそこに感じうる楽しみに他ならない。したがって、仕事こそが心を楽しませる唯一のものであり、しかもそれだけでじゅうぶんなのだ。わたしの言う仕事とは、力のあらわれであると同時に、力を生みだす源泉でもある自由な仕事のことだ。くりかえしていうが、大切なのはがまんすることではなくて、行動することである。」

—『幸福について(上)』アラン著

「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。「遠くを見よ」ほとんどすべての場合、抑うつ病患者というのは、ものを読みすぎる人間だ。ところが、人間の目というものは、書物との間の距離のような短かい距離に合うようにつくられていない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。だが、意志の力でしなやかになろうなどとつとめてはならない。自分自身の意志を自分自身だけに指し向けると、ぎこちない行動ばかりがうまれて、やがては自分で自分ののどをしめるようなことになる。自分のことを考えるな。遠くを見よ。」

—『幸福について(下)』アラン著

「友情のなかには、すばらしい喜びがある。喜びが人に感染するものであることに注意すれば、このことは容易に理解される。わたしのいることが友人に対して少しでも本当の喜びを与えさえすれば、それだけで、こんどはわたしが、友人の喜びを見て一つの喜びを感じるようになる。このように、誰しも、人に与える喜びは自分に返ってくる。と同時に、喜びの宝庫が解放され、そして、二人してお互いに言う、「わたしは自分のなかに幸福をもっていたが、それをむだにしていたわけだ」  喜びの源泉は内部にある、ということではわたしの考えも同じだ。自分にも何事にも不満で、お互いに笑わせるためにくすぐりあっているような連中を見ることほど、悲しい気持になることはない。だが、満足している人間も、ひとりだけでいると、すぐに自分が満足していることを忘れてしまう、ということも言っておかなければならない。かれの喜びは、やがてことごとく眠りこんでしまう。一種の自失状態、ほとんど無感覚とも言うべきものがやってくる。内部の感情は外部の動きを必要とする。もし、ある暴君がわたしを投獄して、権力を尊敬することを教えようとしたら、わたしは健康法として、毎日ひとりっきりで笑うようにするだろう。わたしは脚を訓練するように、喜びを訓練するだろう。」

—『幸福について(下)』アラン著

「こういうわけで、喜びをめざますには、一種のきっかけが必要である。幼い子供がはじめて笑う時、その笑いはまったくなにも表していない。幸福だから笑うのではない。むしろ、笑うから幸福なのだとわたしは言いたい。笑うことが楽しみなのだ、食べることが楽しみであるように。実際、子供はまず食べなければならない。このことは笑いについてだけ真実なのではない。自分の考えを知るためには言葉も必要である。ひとりでいるかぎり、人は自分ではあり得ない。おろかなモラリストたちは、愛するとはおのれを忘れることだと言う。あまりにも単純な考えだ。人は自分から離れれば離れるほど、それだけ自分自身となる。それだけ自分の生きていることをよく感じるようにもなる。きみの薪を穴倉で腐らせてはいけない。(一九〇七年一二月二七日)」

—『幸福について(下)』アラン著

「思想によって、デカルトはまったく同様である。大胆に思考し、つねに自己の命ずるところによって動いた。つねに決断を下していたわけである。幾何学者が優柔不断であったら、まことに滑稽なものだろう。それはきりがないのだから。一本の線には点がいくつあるのか。そして、二本の平行線を考える時、ひとは自分がなにを考えているのか知っているのか。しかし、幾何学者の天分はひとがそれを知っているものと決めて、その決定を少しも変えず、またあともどりもしないようにと、ただそれだけを心に誓うのだ。一つの理論には、よく見れば、定義され、誓われた誤謬以外のなにものもないだろう。この賭において、精神は力いっぱい、ただ決定したにすぎないものを、立証しているのだとは決して信じまいとする。ここに、決してなにものも信ずることなしに、つねに確信をもちうることの秘密がある。かれは決心した、というのはいい言葉だ。一語で、同時に「解決した」という意味をもっている[フランス語で、「決心する」という言葉には、また、「解決する」という意味があること]。(一九二四年八月一〇日)」

—『幸福について(下)』アラン著

「ひとは流行を笑いたがるようだが、流行とは、なにか非常にまじめなものなのだ。精神はこれを軽蔑する様子をするが、しかし、まずネクタイをつける。軍服と僧服は、ひとの心を落着かせる驚べき効果を見せる。それらは眠りの衣服である。心地よい怠惰、考えることなく行動するという、このもっとも心地よい怠惰の襞である。流行も同じ目的に向かうがまったく想像上のものである選択の喜びを与えてくれる。色彩はひとの心を惹きつけるが、選択を迫るので不安である。ここで苦痛が示されるとしても、それは芝居におけるように、薬をいっそうよく味わわせるためにすぎない。こういうことから、昨日は赤で安心できたものが、また青にもどったりする。要は意見の一致であり、この一致こそが流行を証明する。ここから、ひとを本当に美しくする心の平静が生まれる。なぜなら、黄色はあまり金髪に似あわず、緑色もあまり褐色の髪に似あわないというのは本当だからである。しかし、不安、羨望、後悔などのしかめっ面は、だれにも似あわないものだ。(」

—『幸福について(下)』アラン著

「礼儀を覚えるのはダンスを覚えるのと同じことだ。ダンスを知らない人は、むずかしいのは規則に通じそれにあわせて体を動かすことだ、とひとりぎめしている。しかしそれは物事をうわべだけでとらえた考え方で、固くならず、苦労なしに、したがってこわがらずに踊れればそれでよい。それと同じことで、礼儀の作法に通じることなどどうでもよいのだ。また、たとえ作法通りに振舞うとしても、それだけではまだ礼儀の入り口に立ったにすぎない。必要なのは、動きが正確でのびのびしており、固くなったりふるえたりしないことだ。ほんのちょっとした身ぶるいでも相手にはすぐわかるものだから。第一、相手を落ちつかせない礼儀などあるはずもない。」

—『幸福について(下)』アラン著


「 無作法な男はひとりの時でも無作法だ。ほんの小さな動作にも力みすぎる。融通のきかない感情と、臆病という自己恐怖が感じられる。私は臆病な男が公開の席上で文法を論ずるのを聞いたときのことを覚えている。彼の口調はもっともはげしい憎悪の口調であった。そして、感情は病気よりも早く感染するものだから、もっとも無邪気な意見のなかに怒りがあるのを見つけても私は少しも驚かない。それは声のひびきそのものや、自分自身に対する無駄な努力のために拡大された、一種の恐怖にすぎないことがよくある。また狂信も元をただせば無作法であるかもしれぬ。なぜなら、たとえそのつもりがなくても、いったん口に出したことは、しまいには本人もそう思いこむものだからだ。してみると、狂信は臆病の結果ということになろう。自分の信念をうまく維持できないという恐怖である。最後には、恐怖にほとんどたえきれなくなって、自己および他人に対して怒りをぶちまけるに到る。この怒りがもっとも不安定な意見にでも恐ろしい力を与えるのだ。臆病者を観察したまえ。彼らがどのようにして決心するかをみたまえ。痙攣というものが奇妙な思考方法であることが分るだろう。いろいろと廻り道をしたが、これで、茶碗を手にすることがどのようにして人間を教化するかがはつきりしたことであろう。フェンシングの先生は、コーヒー茶碗の中でのスプーンのまわし方だけで、それ以上何も動かして見せなくてもフェンシングの腕前を判定してきた。(一九二二年二月六日)」

—『幸福について(下)』アラン著

「 宮廷人の礼儀というものがあるが、感心したものではない。それどころか、これは決して礼儀ではないのだ。わどさらしいものはすべて礼儀のなかに入らないように思われる。例えば、真に礼儀正しい人間だったら、軽蔑すべき人間、たちの悪い人間を、容赦なく、乱暴なまでにとり扱うことができるだろう。これは決して無作法ではない。考えぬいたあげくの親切となるともう礼儀とはいえぬ。計算ずくのおせじも同じことだ。礼儀ということばがふさわしいのは、何気なくなされる行動、表現するつもりのないものを表現する行動に限るのである。」

—『幸福について(下)』アラン著

「 無作法とは常に無器用ということである。相手に年齢を思い出させるのはたちの悪いことだ。しかし、そのつもりがなくて、身ぶりか顔つきで、またはなにげない話でそうしたとすれば、それはたちが悪いのではなく無作法だ。おなじく、人の足を踏みつけた場合、わざとしたのなら暴力だし、知らずにしたのなら無作法だ。無作法とはすべて思いがけない跳弾である。礼儀正しい人はそれを避ける。触れるとすれば進んで触れるのだ。触れた方がいい時に触れるのである。礼儀正しさ必ずしもへつらいを意味しない。  したがって、礼儀とは習慣であり、気楽さである。無作法な人間とは、装飾皿とまちがえて食器皿かがらくたを壁にかけるのと同じく、したいと思うことと別なことをする人のことである。つまり、言いたいことと別なことを言う人、ぶっきら棒な口調や、不必要に大きな声や、ためらいや、早口やのために、伝えたいこととは別なことを伝える人のことである。だから、礼儀はフェンシングと同じく、習って身につけることが出来るものだ。気どり屋とは、わけもわからずわどさ大げさに物事を伝える人間である。臆病者とは、気どるまいと心掛けてはいても、行為や言葉を重大に考えるためにどうしたらいいかわからない人間である。その結果、御存知のように、行動や話を中止しようとして、緊張し、固くなる。自分自身に対する異常な努力の結果、声はふるえ、汗をかき、顔を赤らめ、ふだんよりもっと無器用になってしまう。これとは逆に、優雅さとは、言葉の上からも、動作の上からも、他人を不安がらせず、傷つけもしない幸福の一形態である。そして、こういう長所は幸福全体にとって大いに重要である。処世術はこれらの長所を見逃してはならない。(一九一一年三月二一日)」

—『幸福について(下)』アラン著


「体操と音楽とが医師プラトンの二大療法だった。体操とは、筋肉が自分で行なう適度の訓練のことで、その目的はそれぞれの形に応じた内部からの伸縮である。調子の悪い筋肉は、ほこりのつもった海綿に似ている。筋肉を掃除するのも海綿を掃除するのと同じで、水でふくらませ、何度も押してみる。生理学者たちは、心臓は中空の筋肉のことだと何度もいっている。しかし、その筋肉の収縮と弛緩によって交互に圧縮したり膨張したりする血管叢をふくんでいるから、各々の筋肉が一種の海綿状の心臓で、その動き、つまり貴重な源泉は、意志によって調整できるといっても差し支えあるまい。ここからわかることだが、体操によって筋肉を支配し得ない人たち、つまりいわゆる臆病者たちは、自分のなかに血行の乱れを感じる。この乱れた血液が柔らかい部分に運ばれると、理由もなく顔が赤くなったり、圧力の高い血液が脳を侵して、しばしの錯乱状態をひきおこす。さらに、よく知られたことだが、内臓が水びたしになったような不快感をおぼえさせる。こういう症状に対しては、筋肉の規則正しい運動は間違いなく最善の療法である。そしてこの場合に、音楽がダンスの教師という形をとってあらわれるのが見られる。この教師は、安ヴァイオリンで血液の循環を最高に調整する。こうして、周知のように、ダンスは臆病もなおすが、もっと別の方法で、つまり筋肉をゆったりとなめらかにのばすことで、心臓を楽にする。」

—『幸福について(下)』アラン著

「読書についても同じことが言える。バルザックをきわめるには勇気が必要だ。まず退屈するからである。怠惰な読者の態度はとても面白い。パラパラと頁をめくる。何行か読む。本を投げ出す。読書の幸福は、なれた読書家でもびっくりするほど予知しがたいものだ。学問は遠くから見ていては面白いものではない。一歩踏みこむことが必要だ。」

—『幸福について(下)』アラン著

「いつでも、美しい顔が嫌われることはない。この点から推測すれば、完璧なものは決して相互に衝突するものではなく、不完全さや悪徳こそ闘い合うものなのだ。」

—『幸福について(下)』アラン著

「しかし、すべてよい行動はそれ自体美しく、人間の顔も美しくするのである。ところで、いつでも、美しい顔が嫌われることはない。この点から推測すれば、完璧なものは決して相互に衝突するものではなく、不完全さや悪徳こそ闘い合うものなのだ。恐怖がそのいちじるしい例である。だからこそ、暴君や臆病者のお手のものである束縛というやり方は、私にとっては本質的にばかげており、あらゆる愚行の母であるように思われるのだ。束縛をときほどけ、解放せよ、そして恐れるな。自由人は武装から開放されているものだ。(」

—『幸福について(下)』アラン著

「昔の賢人たちは幸福を求めた。隣人の幸福ではなく自分自身の幸福を。今日の賢人たちは、自分自身の幸福は求めるに足る高貴なものでないと口をそろえて説く。中には美徳は幸福を侮蔑するとまで無理をして言うものもあるが、言うだけなら別にむずかしいことでもない。共同の幸福こそ自分自身の幸福の真の源泉だと教えるものもいるが、これこそおそらくもっとも中味のない意見だろう。なぜなら、まわりの人たちに幸福を注ぎこむのは、穴のあいた革袋に注ぎこむのと同じように、これほどむだな作業はないからである。わたしの見たところでは、自分自身にたいくつしている連中を楽しませることなどできはしない。逆に、物欲しそうな顔をしていない人たちにこそ、何かを与えることができるのだ。」

—『幸福について(下)』アラン著

「 今課題になっているこの幸福である法のうちに、悪天候のうまい使い方についての役に立つ忠告も加えておこう。私がこれを書いている今、雨が降っている。無数の小さい溝がざわめいている。空気は洗われて、濾過されたようだ。雲はすばらしいちぎれ綿に似ている。こういう美しさを手に入れることを学ばねばならない。しかし、人によっては、雨が収穫をだめにするという。また泥のためなんでも汚れるという人もいる。また別な人は、草の上に坐るのは大へんいい気持なのにともいう。もちろんだ。みんなもっともなことを言っているのだ。あなたが不平を言ったからとて何の役にも立ちはしない。私は不平の雨にびしょぬれになり、この雨は家の中まで追いかけてくる。さあ、雨降りの時こそ、晴々した顔が見たいものだ。だから天気の悪い時には顔の方を晴天にすることだ。(一九一〇年九月八日)」

—『幸福について(下)』アラン著

「悲観主義は気分に由来し、楽観主義は意志に由来する。あなたまかせの人間はみんなめそめそしているものだ。だがまだ言葉が足りない。彼らはやがて興奮し、いきりたつ。よくみかけることだが、子供の遊びに規律がないとけんかになってしまうようなものだ。この場合、自分で自分をいためつける異常な力以外に原因はない。結局、上機嫌などというものは存在しないので、正確にいうなら、気分というものは悪いのが普通なのであり、すべて幸福とは意志と抑制の産物である。どんな場合でも理くつはどれいである。気分は途方もない体系をくみたてるもので、その拡大されたものが狂人においてみられる。自分が被害者だと思いこんでいる不幸な人間の言葉には、いつでも本当らしさと雄弁らしきものがある。楽観主義の雄弁は心を静める種類のもので、これはただしゃべりまくる憤激にのみ対立する。なだめ手にまわるのだ。効能を示すのは語調であって、言葉は鼻歌ほどの意味ももたない。不機嫌につきもののあの犬のような唸り声は、まずまっさきに改めねばならない。なぜなら、それこそわれわれの内部の病気のある確かな証拠で、それが源となって外部にあらゆる害悪が作り出されるからだ。だからこそ礼儀は政治のよい規則なのだ。礼儀と政治という二つの言葉は親類なのだ。すなわち礼儀正しいものは政治家というわけである。」

—『幸福について(下)』アラン著

「本書は、 Alain : Propos sur le bonheurの全訳です。したがって、直訳すれば、題名は「幸福(についての)語録」ということになります。「幸福論」としたのは、それの方が通りがいいからです。  お読みになれば直ちにお判りの通り、本書は、幸福についての、観念的、また体系的、学術論文ではありません。具体的、または実践的、小エッセーの集合です。現実の身近なところからお話がはじまっていて、決してそこを離れることはない。そして、問題はいつも、人間はどう生きねばならないか、から逸脱することがない。  その点では、日本の新聞雑誌によくのる身の上相談の解答者の人生案内風の文章に似ているといえます。人生の苦労人、達人でなければ扱えない内容です。しかし、身の上相談の場合と違うのは、これには強靭な思考の、いわば電気ドリルの運動がある。そのドリルが頑健な岩の穴をうがってゆく壮快さがある。男らしい作業の緊張感がある。安直な同情の湿っぽさもなければ、道学者めいた説教くささもない。与えられた問題と挌闘し、それを乗りこえようとする。変ないい方ですが、精神の筋肉のたくましさ、これしかない。」

—『幸福について(下)』アラン著



「「われ思う、ゆえにわれあり」という後になって有名になった言葉を、存在論の根底にすえて近代の思想のみちびき手となったのは、いまさら言うまでもなくデカルトですが、そのデカルトの思想に多くの教えを、第二次世界大戦の悲劇の体験を通して、次のような戦後思想に定言化してみせたのは、「異邦人」「ペスト」「シジフォスの神話」などの著作で多くの青年に強い影響をあたえたノーベル賞作家アルベール・カミュです。次のような、とはこういう意味です。」

—『幸福について(下)』アラン著


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2025年11月30日

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その時の悩みによって参考になる話は異なると思う。これは何回も読み返せる本だなと感じた。
1テーマ3ページで93テーマある。読みやすくていい。
自分が1番刺さったのは、53 短剣の舞の
「我々が耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない。なぜなら、過去はもう実在しないし、未来はまだ存在しないのだから。」
あまり考えても意味のない無駄な情念は抱かないように生きていきたい。
また思い悩むことがあれば読み返したい。

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2025年04月16日

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アランは自身を楽観主義者と言うが、それは幸福を待ってるだけとは正反対の、幸福を能動的に見つけ出す天才だったのだと思う。
「雨の日にこそ笑おう」が結構好き。

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2024年12月10日

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幸福であるためには、
・過去・未来ではなく今に集中して生きること。
・暇だと余計なことを考える。暇だとネガティブになる。行動し、日々忙しく生きよ。
このあたりが重要なんだと思わされた。

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2024年11月17日

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ネタバレ

【ネガティブ感情との付き合い方】
・恐怖や不安には必ず原因がある。それが分からなければ怯えるしかできないから、まずはその原因を見つけよう。
・情念(理性では抑えきれない、想像力を掻き立てる感情)に囚われるな。落ち着け。情念を支配するために、まず行動しろ。例えば、運動会前の緊張は走り始めれば抜ける。不安の9割は実現しない。
・また、行動だけではなく、態度、仕草、表情によっても情念は支配できる。
【仕事】
・自由に働くことは最も楽しいが、奴隷のように働くことは最も辛い。 自由に働くとは、労働者自身が、知識と経験に基づき、調整し、試行錯誤できる仕事をすることだ。
・他人の畑を耕すな、自分の畑を耕せ。
【生活】
・幸福になるためには、「傍観者」をやめろ。聞くだけ、見るだけといった人から貰える幸福はすぐ消える。自分が人生の主役となり、幸福を作り出せ。
【人間関係】
・自分の敵は自分自身のみだ。
判断を誤ったり、無駄な心配をしたり、絶望したり、気持ちが沈むような言葉をかけるのは、全て自分。
・人に同情することや哀れむことは絶対にやってはならない。なぜなら、それは互いに情念を強め合うことに他ならないからだ。例えば病状に臥した友には、同情するのではなく、明るい希望を与えたり友情を見せるべきだ。
・1番大切なことは、「自分自身が幸せでいること」だ。泳げない人は溺れている人を救えないように、幸せでない人は他人を幸せにできない。幸せになることは、誓うべき義務だ。
【処世術】
・「礼節」と「礼儀」は最強である。
これらは、ゴマをするという意味ではなく、自然と身についた物腰、ゆとり、余裕のことである。
これは、ビジネスにおいては守りだけではなく、攻めの構えにもなる。そして何度も言うが、これらは情念を支配することに繋がる。

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2024年03月22日

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どうしても
無人島に1冊しか本を持っていけないなら
この本を持っていきます。
高校時代に初めて読んでから
何度も何度も読み直しては読み直すたびに
新しい発見や気付きがあります。

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2023年12月05日

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タイトルから幸福であるにはかくあるべしみたいなのを勝手に思っていてこれまで敬遠していたが、池田某の紹介で、こんなに簡明に哲学をしているこのひとの哲学は自分のスタイルとよく似ているといっていて、読んでみることに
原題は論というよりかは断章を意味しているようで、アランというひとがひとり哲学するその残滓のようである。しかし、彼もまた「わたし」とはなんだ、「善い」があってしまうという哲学に魅入られた考えるひとで、まるで生きているかのような文体がそこにはある。
生きること死ぬことというのは本当に普遍的なもので、二度の戦争の最中というのをひょっとすると忘れてしまいそうなほど今も変わらない、考えるひとの流れの中にある。
哲学は誰かがこう考えたをたどるものではなく、自分という唯一無二の最大の謎が、生きて死ぬというこれまた最大の不条理を表現していくことだと思う。

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2023年07月29日

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再読。初読時よりも沁みる。人生を「自分のものとする」ヒントに溢れた一冊だなと思う。
他人のせいにしないこと、流されないこと、体を動かすこと、上機嫌でいること、礼儀正しくあること…要旨をかいつまんでしまえばどれも子供にも伝えられるような基本的なメッセージだが、共通して、自らのあり方を自らが規定するという、強く輝く意志と弛まぬ行動力が背骨として一本通っている。それが一番難しいことを、大人は皆知っている。

自分への発破をこめて、以下引用する。

幸福になるのは、いつだってむずかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばはらない。(略)しかし力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言うな。(略)幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福になれない。(略)したがって、自分の幸福を欲しなければならない。自分の幸福をつくり出さねばならない。

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2023年04月06日

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ネタバレ

アランの幸福論を2年半ぶりに読んだが良かった。

1.情念・ネガティブ感情との向き合い方

名馬・ブケファロスの話。
荒馬で誰が乗ってもことごとく落馬してしまう

マケドニアの英雄、アレクサンドロスは荒馬の手綱を握り太陽の方に向けた。
原因は、自分の影に怯えているだけ
恐怖や不安には必ず理由があり、それを認識する必要がある。

情念に囚われると良くない。
情念とは理性では抑えられない感情のこと。
なので、考えても無駄。行動することで解消すべし。

2.仕事
言われたことをやるだけの仕事に従事してたらストレスフル。
いかに能動的に仕事をするか。
それは起業するとかだけではなく、自分の与えられている仕事の中で工夫をしたり、自らの裁量の中で変化を加えて数字を追うとかそういうユーモア、楽しむこと。

3.幸福になる時間の過ごし方
傍観者ではダメ。音楽を聴くとかそういう受け取り手だけでは一瞬でその幸福は消える。
自らが主体的に何かをすることでしか継続的な幸福は得られない。

4.自分の敵について
自分の周りの人間関係でストレスを感じたり、ネガティブな感情が出てきたりするのは、全て自分の中で自分で勝手に行なっていることで、全ての敵は自分自身ただ1人。

5.処世術
礼節・礼儀が最強。
礼節によって自らの情念を処理する。

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2023年03月20日

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幸福を帰納的に考えるような作品だった。
様々な方面から幸福について考えていたので具体的な感想をアウトプットするのは難しいが、

要するに、幸福論になる為にまず情念を排し、理性的に幸福になる為に行動することで人は己の幸福に出会うことができる。言い換えれば、何も考えずにただ本能的に生きるのであれば情念が精神を支配し、やがて崩壊へと進む。

プロポとして短編で読める為、何度も読み返し力強く背中を押してくれるようなアランの考えを心からまた感じようと思う。

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2022年07月12日

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地方暮らしは楽しいこともいろいろあるとはいえ、コロナ禍もあいまって、大型書店になかなかいけなくなってしまったのは、最近の悩みのひとつ。
そんな中で、久しぶりにちょっと大きめの書店に行くチャンスがあると、いや〜もう、テンションが爆上がり。
買いすぎないように気をつけるけど……まあ、買っちゃいますよね。
だって次、いつ来られるかわからないもんね。
というわけで(?)ちょうど文庫フェアが開催されていたこともあって、いそいそと手にとってレジに向かったのが、この『アラン幸福論』。
前から読みたかったんです。

書名に「アラン」とだけあって、苗字も書かれてなくて、誰だろう?と思ったけれど、本名はエミール・シャルティエと言って、19世紀半ばから20世紀半ばまでを生きたフランスの哲学者、だそうです。
本書は、彼が新聞に連載した膨大な短文(プロポ、というらしい)の中から、幸福に関するもの93編を選び、構成しなおしたもの。
1編が1400字弱くらいなのですが、これを毎日連載して総計5000にものぼったって……エネルギーがすごすぎる!

さてこの本、アランは哲学の高校教師でもあったからか、すごく親しみやすくて楽しく読めました。
ここのところ、哲学や思想の古典を読みたいと思ってこつこつ挑戦しているけれど、だいたい、先の見えない山の頂上を目指して、一歩一歩進んでいく、というような読み心地なのですが、アランはもっとこちらに寄り添ってくれる感じ。
「腎臓結石を病んでいて、かなりふさぎこんでいる友人」とか、「樵(きこり)を生業としていた手相を読むことができた砲兵」とか、登場するエピソードも身近です。

久しぶりにほっとするなあ、と思いながら読みすすめるなかで、心に響いたのが、次の一文。

「ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである。」

たとえば、今日の夕食の献立が決まらない、といったすごい些細なことでもクヨクヨ考えがちな自分としては、読んですごく気持ちが楽になったし、同時にしばらく前に読んだ『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を思い出しました。
ありがとうアラン、ほんとうのことを書いてくれて。
「幸せになりたい」と思うほど、「幸せとはなんだろう?」「幸せになるために必要なことって?」という問いに立ち返るけれど、最近はそのグルグル回りがなんだか楽しいなあ、と感じています。
唯一、従軍に肯定的な点は賛成できなかったけれど、温かくて力強い一冊でした。

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2021年10月16日

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93の3ページ程の短い文章(プロポ)で構成されている幸福論。一つ一つのプロポは平易で読みやすい。同じような内容の主張が表現を変えて繰り返し語られるため、深く理解できる。

人は放っておくと悲観的になってしまうため、意識的に楽観主義になる努力をしなければならないというのが印象に残った。

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2021年09月25日

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ネタバレ

幸福になるのは難しいことで、自分から求めて動かないと幸福をつかむことはできないというのは、そうかもと思った。待っているだけだと何も得られずに悲観的になってしまうから、意思の力で楽観的に動くことが大切だと書いてあり、意識していきたいと思った。散文というかたちで、最初は理解が難しかったが、読み進めていくとアランの考えが徐々にわかってきて、共感することができた。何度も少しずつ読んで、自分の友達のような本にしたい。

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2021年08月16日

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ネタバレ

人は暇があると憂鬱、悲観に走る。
不安はただの情念で、腹痛と変わらず、大した事ない。
気分に任せて生きると悲しみに囚われる。
不幸は毒であり、害でしかない。
幸福とは意志と自己克服によるもの。
幸福になることは他人に対する義務である。
よって、不幸に浸からず幸福を求めなければならない。

恐らく、このようなことが書いてある。
他にも名言が並んでいて、感心したり、思わず吹き出したり飽きない本であった。

但し、感覚では掴めたけど、頭が追いついつかず、ふわふわしたまま読み進めて行ってしまった感が否めない。
カミュの異邦人の時と同様の症状。まだ理解しきれていない。満足感だけがぼんやりと残る。

通読するのは楽しかったが、ふと開けたページの章を1日1章読むという楽しみ方も面白そう。
他の翻訳家ver.も挑戦したい。

何度も読み返して落とし込みたくなる名著だった。

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2021年06月02日

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"新聞の日曜語録に掲載されたプロポ(哲学断章)のうち、幸福にかんするものを93集めたのが本書。
これから先、なんどか読み返したい本の一つになった。
一つ一つは、ちょっと読むのにちょうどいい長さ。
この本で印象に残ったものをメモしておく。

気分
喜びの達人スピノザが言ったように「からだが暖まったから喜ぶのではなく、私が喜んでいるからからだが暖まるのだ」。したがって、同じような考えかたで「うまく行ったからうれしいのではなく、自分がうれしいからうまく行ったのだ」と考えねばならない。

この部分。
自らの意志で変えることができるもの、それが気分だ。しかし気分は、周りから得る様々な刺激により大きく影響を受ける。
雨が降っていると、気分が塞いだり、誰かの一言で喜んだり悲しんだりしてしまう。でも、どう受け取るかは自分次第であり、どんな気分で過ごすかは自分次第だということに気づかされる。
究極のオプティミストは、常に幸せを感じる気分で過ごしているのだろう。
幸せを感じるためのコツは、幸せをストックさせておくことだといっている。

気分が沈んだときに読み返したら、気分が変わるかもしれない本だ。"

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2023年06月14日

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アランの『幸福論』を読んで、まず感じたのは、アラン「メンタルマッチョ」なのではないかということだ。とにかく、気分や感情に振り回されるな、という主張が随所に現れている。

冒頭の謝辞にすべてが語られていると感じた。「気分の善し悪しはすべて、一時的なからだの出来事によるものだが、それを我々は異様に拡大して、そのことに神託のような意味を与えてしまう。そのような気分が最後に行き着くところが不幸である。」これは、深く考えるな、気分に意味を与えるな、ということ。

そして、アランの根本的な考え方は、プロポの69や93などから明らかになる。「もし不撓(ふとう)不屈のオプティミズムを原則中の原則として自らに課さないならば、すぐに最悪の悲観主義が現実のものとなってしまう。人間のおかれている状況とはそういうものなのだ。」人間は放っておくと悲観的になってしまうからこそ、楽観主義を努力して自らに課す必要がある、というのだ。幸福は自然にやってくるものではなく、不断の努力によってようやく手に入るものだという認識がある。
だからこそ、幸福への道のりが遠く感じてしまった。

以下、特に印象に残ったプロポをいくつか挙げる。



5 憂鬱
心の病気も、身体と同じように扱えという指摘。「心の悲しみをお腹の痛みのように考えるのだ」と言われると、気分の落ち込みを深刻に捉えすぎる必要はない。ただし、「休め」といっても、何もしないことではない。体が動くなら動けばいいし、運動して心身を休めるのもいい。「思うように休めばいい」。
それでも、不幸になると、つい心の「痛み」に触れてしまうのが、癖。わかってるけど実践が難しすぎる。

22 宿命
「動き出してから考えろ」「過去を嘆くな」というメッセージ。「「ああ、どうしておれは学んでおかなったのか」。これは怠け者の言い訳である。それなら学ぶがいい。学んだといっても、もう今やめてしまったならば、それは大したことではないと思う」
背筋が伸びる思いがした。「最初の舵の動かし方で一航海のすべてが決まると言ったら、船乗りはきっと笑うだろう」。歌詞みたいだな。

37 夫婦
「外の生活から孤立した愛情だけで成り立つ夫婦には、いつも心配なことがある」という指摘。外とのつながりがなければ、夫婦関係も閉塞的になりやすいのだろう。それは分かる。
ここまでは言ってないし、個人的な間隔だが。少し極端な言い方になるが、子供は、半ば強制的に夫婦を外界とつなぐ存在なのかもしれない。

44 ディオゲネス
行動することの楽しさを説いている。ただし、「自分でコントロールできたら楽しいだろうが、そううまくはいかない」という現実もある。

47 アリストテレス/49 労働
アランが現代に生きていたら、間違いなく仕事人間だろうな。主体的に取り組める仕事は楽しいが、そうした仕事に出会えること自体が難しい。「やらされている」と感じると苦しくなるし、主体性のない勉強や仕事はつまらない。それは当然。
でも、自分でコントロールできる仕事なんて稀じゃない?自分でコントロールできないことのストレスは、現代的な悩みでは。

85 名医プラトン
心の健康の前に、まず体の健康。とにかく運動が大事だという主張には納得する。メンタルを整えるには、まず身体を整えよ。
そりゃそうだ。

87 克服
幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。とにかくやれ、中に入ってみてやってみろ、そしたら楽しいから。

93 誓わねばならない
ここでも、アランは「人間は努力しないと自然と不幸になる」と言っている。

chatGPTに通したら…
全体を通して、アランの幸福論は、かなり「鍛える」タイプの哲学だと感じた。気分に流されず、行動し、体を動かし、前向きであれというメッセージは、厳しくも温かい。幸福は、考えるものではなく、実践の中で獲得するものだ。

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2025年04月26日

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ネタバレ

著者アランによる93の哲学断章を収めた本。
その中から印象に残った文章を抜粋。

・微笑みたまえ → 気分に逆らうような判断力てはどうにもならない。姿勢を変えて運動を与えることが必要である。ほほ笑むこと、肩をすくめること、運動をすることで不安や焦燥から遠ざけることができる。
・苦痛がありのままに想像されることなどあり得ない
・お辞儀やほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き=激怒、不信、憂鬱を不可能にする利点かある。だから社交生活や訪問や儀式、お祝いがいつも好まれる。それは幸福を演じるチャンスであり、この種の喜劇はわれわれを悲劇から解放する。
・我々が耐えねばならないのは「現在」だけである。過去も未来も我々を押しつぶすことはできない。なぜなら、過去はもう実在しないし、未来はまだ存在しないのだから。
・過去を見つめることから生まれる悲しみは何の役にも立たない。無益な反省を求め無益な探求を強いるから有害である。
・後悔することは過ちを繰り返すこと
・人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵は常に自分自身である。
・幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。
・幸福になるための第一の規則は、現在も過去のものも含めて他人に自分の不幸、不平不満を絶対に言わないこと。
・幸福とはすべて、意思と自己克服とによるものである。
・微笑みたまえ → 気分に逆らうような判断力ではどうにもならない。姿勢を変えて運動を与えることが必要である。ほほ笑むこと、肩をすくめること、運動をすることで不安や焦燥から遠ざけることができる。
・苦痛がありのままに想像されることなどあり得ない
・お辞儀やほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き=激怒、不信、憂鬱を不可能にする利点かある。だから社交生活や訪問や儀式、お祝いがいつも好まれる。それは幸福を演じるチャンスであり、この種の喜劇はわれわれを悲劇から解放する。
・我々が耐えねばならないのは「現在」だけである。過去も未来も我々を押しつぶすことはできない。なぜなら、過去はもう実在しないし、未来はまだ存在しないのだから。
・過去を見つめることから生まれる悲しみは何の役にも立たない。無益な反省を求め無益な探求を強いるために有害である。
・後悔することは過ちを繰り返すこと
・人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵は常に自分自身である。
・幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。
・幸福になるための第一の規則は、現在も過去のものも含めて他人に自分の不幸、不平不満を絶対に言わないこと。
・幸福とはすべて、意思と自己克服とによるものである。

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2023年01月07日

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「楽観主義は意志である」という言葉を記したアランによる本。幸せは自らの意志でつかみ取ることを示唆した内容が多いと感じました。

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2022年07月05日

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幸福は求めるものではなく、なると決めてなるもの


93の幸福に関する哲学的な考察(プロポ)が並んでいて、気分が落ち込んだ時や何かアイディアないかなぁという時に手に取りたい。また読む時の感情によって見えてくるものも違うんだろう。

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2022年05月11日

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ネタバレ

幸福とは何か、93のプロボの収められた本。
自分の心を守るために必要な考え方だと思った。

似た内容のプロボも多いが、どれもしみじみ味わい、親しみの持てる内容。優しさの伝わる文章で、また読み直したいと思える本。

【印象に残った箇所】
22.宿命
どんな運命もそれを良いものにしようと欲するならば、良い運命となるのだ。自身の性質についてとやかく言うことほど自分の弱さをあかししているものは何もない。
→大した努力もせず、自分の境遇のせいにして、手に入らないことに理由付けてる場合じゃないね。

47.アリストテレス
自分でやること、人にやってもらうのではない。そこにはよろこびの一番深い意味がある。
→音楽・芸術はただ鑑賞するのと実際にやってみるのではかなり違う。誰かにやってもらうのではなく、自ら実践することでたくさん得られる。経験は他者から剥奪し難いもの。実体験を積みたい。

53.短剣の舞
過去と未来が存在するのは、ただわれわれがそれらを考える時だけである。過去も未来も人間の臆見であって、事実ではない。
→過去について過度に後悔したり、将来を過度に心配しても無意味。それよりも今を大切に生きようと思った。

57.絶望について
強靭な精神をもつ人間は、自分が今どこにいるのか、何が起きてしまったのか、まさに何が取り返しのつかないことなのかを自分で考えて、そこから未来に向かって出発するような人だと、ぼくは考える。
→まさに。冷静に自分の状況を確認することがまず大切なのだと思った。

93.誓わねばならない
悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。
→本書のまとめ的プロボ。自分で幸福な状態を作ることが大切。

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2022年02月13日

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哲学者アランの幸福論。「プロポ」と呼ばれる93編のコラムのような形式。何度も読むことで味わいの出る文体である。一貫して、現実的であり楽観主義な思想が、勇気を与えてくれる。私も一メートル先に、幸せを見いだしてみようと思う。【印象的な言葉】①有名な山の頂上まで電車で行った人は、登山家と同じ太陽をおがむことはできない。②ぼくの好きな旅というのは、一度に一メートルか二メートルしか行かないような旅である。③君が現に生きているのだから、今生きているように生きて行くことは可能なのだ。

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2021年04月24日

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世界3大幸福論と言われるもののひとつ。

フランス人哲学者であるアランが著したもので、詩的な感じがする本。

元々、新聞に「プロポ」という形で連載していたものなので、哲学書というよりはエッセイの赴きが強い感じ。

内容は良いのだが、訳の限界なのかもしれないが、なんとも読みづらくわかりにくいところがあったので☆4つ。

短編エッセイの塊なので、要約は出来ない。


いいなと思ったこと

・情念を持たない人間などいない。ただ賢人はその魂の中で、幸福な思惟が膨大な拡がりを持っているので、情念はみな全く隅に追いやられていく。

・悲しみなんて病気に過ぎないのだから、病気を我慢したらいいのだ。

・最初の舵の動かし方ひとつで一航海のすべてが決まると言ったら、船乗りはきっと笑うだろう。

・自分の外に弁解の口実を求める人たちは、けっして満足しない。

・仕事の途方もなさと人間の弱さを考えたなら、人は何もできない。まず行動し、自分のやる事だけを考えるべきだ。

・本当の礼儀正しさとは、何を成すべきか感覚的に知ることだ。敬意を払う事、慎み深い態度、正しい行為などはまさに自分のなすべきものだと知る

・富の不平等な分配には、何にもまして、たらふく食っている人間には退屈を与えるという不平等がある。そういう人は自分で不安や怒りを作り出して夢中になる。

・人は行動のない楽しみを選ぶよりは、自分で行動できる労苦を選ぶ。自分で選んだ、自分で欲した労苦なら良きものとできる。耐えるだけなら好きな人間などいない。

・人からもらう幸福は逃げていく。自分で作る幸福は決して騙されない。なぜならそれは学ぶことだからだ。「楽しみは能力のしるしである」

・風景の持つ本当の豊かさは、その細部のなかにある。

・出来事というのは、我々の期待通りには絶対行かないものだ。すべての事が変わり、すべてのものが過ぎ去る。

・しあわせになる秘訣は自分の気分に無関心になることだ。「この怒りだって、おさまりたければおさまるさ」

・幸福ははるかなところにある限り、将来にある限り、素晴らしいものに見えるが、幸福を掴んだとき、それはなんらいいものではない。

とはいえ、実はこれはちょっとちがう。
ほんとうの幸福はパッと見、欲しいものに見えないからだ。最初の様々な困難を乗り越えたものでなければ楽しむことはできない、

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2021年01月24日

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詩的な言葉のなかで人生のリアルな本質が浮かび上がってくる。
人生で感じること感情の本質を的確に、でも美しい言葉で射抜いていて、自分を苦しめるものの正体を見破ったような気持ちになりました。
苛立ちや不安ではなく、喜びや楽しみを周りの人に伝染させていくような人になりたいですね。

また、苦労を求めて行動すること、楽観的であること、幸せになるための勇気やヒントを、93の短編が伝えてくれます。
幸せになりたい方、幸せってなんだろうと思う方、ぜひアランが示す希望に触れてみて欲しいと思います。

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2020年06月02日

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常にご機嫌でいることが大事

アランさんの考え方がよくわかった
幸せとは捉え方でそれ以上でもそれ以下でもないのね

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2020年04月04日

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例え話や文章がわかりにくくて、頭に入ってこないことが多かった。けど途中途中わかるところがあって、そこはなるほど勉強になった。筆者はポジティブ思考の人なんだろうな。前向きに生きたい。

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2025年11月17日

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修正なしのプロポらしいので、重複する部分が気にはなるが、より作者が言いたかったことが強調されてて逆にわかりやすいのかな?


自分なりのまとめ(超訳)
・イライラしたらウジウジ考えず、筋肉を動かす
・楽観主義は努力のなせるわざ。意思によるもの。
・幸福を持っていないと、人に幸福は与えられな
 い。でも、一人だけで留めていたらその幸福を忘 れてしまう。だれががつっついてあげなければ、心は麻痺してしまう。




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2023年10月07日

Posted by ブクログ

全体的に、「考えるな…動け…」って感じなのかな。うじうじし出したらウォーキングなどしてみようと思いました。そのためにはまず、今、自分うじうじしてるぞ!と認識できることが大事ですね。

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2022年10月15日

Posted by ブクログ

100年以上前に書かれたのに、現代にも充分通じる内容。
しかしながら岩波文庫の字の小ささはなんとかならないのかな。再販時に文字の改良を強く希望する。

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2021年08月17日

Posted by ブクログ

幸福論とは、どのようなものか気になり読んでみた。書き口としては、3〜4ページで1話の短編のポエムのようになっていて、読みやすさはあった。それもそのはずで、新聞に連載された「プロポ」と呼ばれる哲学断章をまとめたものであるからだ。
ビジネス書のように、幸せとは〇〇だと書かれるのではなく、ストーリーを通して哲学文学のように語られていた。幸福以外にも、仕事や人間関係についてのプロポがあり、93話あるため自分の琴線に触れるプロポにも出会えると思うので、ゆっくり味わうのがおすすめ。

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2021年06月05日

Posted by ブクログ

幸福っていうのは結局考え方次第だ、ということをこの本の中で繰り返し言っている。難しくて深掘りして読む時間がなかった…。

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2020年11月03日

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