感想
謙虚な心を持ち、信念を貫く。
そんな姿勢が、本書に描かれている5人の人物からは感じられる。
5人はそれぞれ環境は違うものの、みな広い視野を持って、「この国を良くしよう」と人生を賭けて動いている。
また、そのために自身の身なりや家は質素にして、人に施すことを忘れない。
自分の周りにいる家族や親せき、その他の人を大切にする。
言葉にすると簡単だが、実践し続けることは難しい。
西郷隆盛は身の回りのことは自身で行い、人をとがめず、自力で状況を切り開いた。
上杉鷹山は藩の財政を立て直すため、自身の実入りを極度に減らし、先を見通して産業を育て、見事に藩を復興した。
二宮尊徳は誰よりも長く畑に立ち、わずかな時間でも学び、徳の力をもって、多くの村を救った。
中江藤樹は自身が感動した徳の教えを広め、日々善を積み重ねることの大切さを説いた。
日蓮上人は世の反発に屈せず、信念を貫き、法華経の教えを広めて日本を救おうとした。
何かを変えられる人は、傍から見れば極端で、言い方は悪いが狂ったように見えるものかもしれない。
世の中には反発され、疎まれるかもしれない。
しかし、そうした人間こそが、世の中を変えていけるのだろう。
やや難しい言い回しも多いけれど、ここに描かれている日本人の姿は、今の日本人とは大きく違う。
でも、見習いたいところが多くある。
昨今、働き方改革、ワークライフバランスと、仕事よりもプライベートを大切にしよう、という風潮が盛り上がっているように思う。
しかしながら、それでも人生の長い時間を仕事に費やすことに変わりはなく、その時間こそ、自分が燃えるものに投下したい。
私はそう思う。
ここに描かれている5人の偉人を見習って、私も私にできることで、社会をよくするために時間を費やしたい。
メモ
定められた時に先立ち、貪欲な連中が、たびたびわが国に侵入をたくらみましたが、日本は頑固に開国を拒みつづけました。それはまったく自己防衛の本能からでた行為でありました。世界との交流が生じたとき、世界に呑みこまれて、私どもが、真に自分のものといえるような特徴を持たない、無形の存在にされないため、わが国民性が十分に形成される必要があったのであります。世界の方も、私どもを仲間として迎え入れる前に、まだ改善される必要がありました。(p14)
しかし、重要で、もっとも大きな精神的感化は、時代のリーダーであった人物から受けました。それは、「大和魂のかたまり」である水戸の藤田東湖です。東湖はまるで日本を霊化したような存在でした。外形きびしく、鋭くとがった容貌は、火山の富士の姿であり、そのなかに誠実そのものの精神を宿していました。(p20)
西郷隆盛「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」(p22)
その普段着は薩摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけでした。この身なりのままで西郷は、宮中の晩餐会であれ、どこへでも常に現れました。食べ物は、自分の前に出されたものなら何でも食べました。あるとき、一人の客が西郷の家を訪ねると、西郷が数人の兵士や従者たちと、大きな手桶をかこんで、容器のなかに冷やしてあるそばを食べているところでありました。自分も純真な大きな子供である西郷は、若者たちと食べることが、お気に入りの宴会であったのです。(p36)
ある人は、西郷の私生活につき、このように証言しています。
「私は一三年間いっしょに暮らしましたが、一度も下男を叱る姿を見かけたことがありません。ふとんの上げ下ろし、戸の開け閉て、その他身の回りのことはたいてい、自分でしました。でも他人が西郷のためにしようとするのを、遮ることはありませんでした。また手伝おうとする申し出を断ることもありませんでした。まるで子供みたいに無頓着で無邪気でした」(p39)
西郷隆盛「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」(p40)
「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である」(p41)
道は一つのみ「是か非か」
心は常に鋼鉄
貧困は偉人をつくり
功業は難中に生まれる
雪をへて梅は白く
霜をへて楓は紅い
もし天意を知るならば
だれが安逸を望もうか(p46)
上杉鷹山「この目で、わが民の悲惨を目撃して絶望におそわれていたとき、目の前の小さな炭火が、今にも消えようとしているのに気づいた。大事にしてそれを取り上げ、そっと辛抱強く息を吹きかけると、実に嬉しいことには、よみがえらすことに成功した。同じ方法で、わが治める土地と民とをよみがえらせるのは不可能だろうか"そう思うと希望が湧き上がってきたのである」(p59)
藩主みずから、家計の支出を、千五十両から二百九両に切り詰めようとつとめました。奥向きの女中は、それまで五〇人いたのを九人に減らし、自分の着物は木綿にかぎり、食事は一汁一菜をこえないようにしました。家来たちも同じく倹約をしなければなりませんが、それは、鷹山自身とは比較にならない程度の倹約でありました。毎年の手当も半分に減らして、それにより実現した貯金は、積もった藩の負債の返済に廻されることになりました。このような状態を一六年間もつづけることにより、どうにか重い債務から脱することができるのであります!(p60)
サムライたちを、平時には農民として働かせ、それにより荒磨地から何千町歩にもなる土地を興しました。鷹山は、ウルシを広範囲に植え付けることを命じました。藩士はだれも一五本の苗木を庭に植えるように求められ、他はみな五本、寺は境内に二〇本、植えなければなりません。割り当て以上の苗木を植えたばあいは、一本につき二〇文の報賞金が出ました。苗木を枯らせてしまい、代わりに新しいものを植えなかったばあいには、同額の金が取られました。この結果、短時日の間に、百万本以上にも達する、この貴重な苗木が、領内に植えられたのです。これは後世に大きな影響をもたらしました。開墾に適さない地には、百万本余のコウゾが植えられました。(p64)
しかし鷹山の主な目的は、領内を全国最大の絹の産地にすることでした。それに必要な資金を工面できる余裕は、すでに乏しい藩庫にはありませんでした。そこで鷹山は、奥向きの費用二百九両から、さらに五十両を切り詰め、それでもって領民のあいだにこの産業を極力推進する資金に当てました。若き藩主は「わずかな資金でも、長い間つづけるならば巨額に達する」と言います。これを鷹山が五〇年つづけたところ、自分の始めた数千本の桑株は、しだいに株分けされて、全領内に植える余地がなくなりました。米沢地方の今日があるのも、他のどこにも負けない絹の生産があるのも、往古の藩主の忍耐と慈愛心の賜物であります。米沢産は、今日では市場で最高級品のひとつに数えられています。(p65)
東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない」。このような儒教の教えを、鷹山は、尊師細井から授かりました。(p67)
上杉鷹山「すべての学問の目的は徳を修めることに通じている。そのため、善を勧め悪を避けるように教えてくれる学問を選ぶがよい。和歌は心を慰めるものだ。それにより月や花が人の心の糧となり、情操を高める。」(p76)
そこで孔子の『大学』を一冊入手、一日の全仕事を終えたあとの深夜に、その古典の勉強に熱心につとめました。ところが、やがて、その勉強は伯父に見つかりました。
伯父は、自分にはなんの役にも立たず、若者自身にも実際に役立つとは思われない勉強のために、貴重な灯油を使うとはなにごとか、とこっぴどく叱りました。尊徳は、伯父の怒るのはもっともと考えて、自分の油で明かりを燃やせおようになるまで、勉強をあきらめました。(p82)
尊徳は報告のなかで述べました。
「金銭を下付したり、税を免除する方法では、この困窮を救えないでしょう。まことに数済する愁訣は、彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切ることです。かような援助は、食欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません。」(p87)
尊徳の「土地と人心の荒廃との闘い」については、ここではくわしく記しません。そこには権課術策はありませんでした。あるのは、ただ魂のみ至誠であれば、よく天地をも動かす、との信念だけでした。ぜいたくな食事はさけ、木綿以外は身につけず、人の家では食事をとりませんでした。一日の睡眠はわずか二時間のみ、畑には部下のだれよりも早く出て、最後まで残り、村人に望んだ苛酷な運命を、みずからも共に耐え忍んだのでした。(p88)
二宮尊徳「おまえは、他のだれもがしたがらない仕事をしたのである。人目を気にせず、まことに村人のためになることだけを考えてしたのだ。おまえが切り株を取り除いたお陰で、邪魔物は片づけられ、我々の仕事は、たいへんしやすくなった。おまえのような人間に報賞を与えなかったら、わが前途にある仕事を、とうてい遂行することはできないだろう。おまえの誠実に報いる天からの御美である。感謝して受けとり、老後の安楽な生活の足しにするため役立てるがよい。おまえのような誠実な人間を知って、私はとても嬉しい」(p91)
「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」(p100)
二宮尊徳「国に飢餓がおこるのは、民の心が恐怖におおわれるからであります。これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。弾丸をこめてない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃落とすことかあるように、食糧不足の年には、飢餓の話だけで驚いて死ぬことかあるものです。したがって、治める者たちが、まずすすんで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて救われるでしょう。」(p105)
二宮尊徳「当面のひとつの仕事に全力をつくすがよい。それがいずれ、全国を救うのに役立ちうるからである」(p109)
内村鑑三「学校もあり教師もいたが、それは諸君の大いなる西洋にみられ、今日わが国でも模倣しているような学校教育とは、まったくちがったものである。まず第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い。」(p112)
孔子 大学より「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある」(p116)
中江藤樹「徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、善をつとめるならばすべての悪は消え去る。」(p135)
内村鑑三「人間の宗教は、人生の人間自身による解釈であります。人生になんらかの解釈を与えることは、このたたかいの世に安心して生活するためには、ぜひとも必要なものなのです」(p142)
外国留学は、今日の日本にあっても、かなり重視されています。洋行帰りは、知識の分野を問わず、秘密を解くカギの持ち主とみられているのであります。また、他宗の開祖たちが、たいてい有していたような、多くの後ろ楯も日蓮には皆無でした。皇室の庇護などは、むろんありません。蓮長は、独力でもってあらゆる権力と抗し、当時勢力を有した宗派とは全然別の思想をひっさげて立ったのでした。その後の日本に蓮長にならぶ僧侶は出ていません。一つの経典と法とのために、自分の生命を賭して立ったのは蓮長だけであります。蓮長の一生に関心が寄せられるのは、その抱優し弘めた教えのためでなく、そのことを可能にした勇敢なやり方のためであります。真の意味での日本での法難は、蓮長をもって始まったといえるのです。(p158)
鎌倉で今日も松葉ヶ谷と称されている地の、所有者もいない所に、自分のための草庵を建てました。ここに法華経をひっさげた日蓮は居を定め、ひとり立って世のあやまちを正す仕事を開始したのです。大日蓮宗は、まさにこの草庵にその起源を発するといえます。身延や池上をはじめ、他の巨大な寺院、全国にある五千をこえる寺、そこにお参りする二百万の宿徒、その起源はことごとく、この草庵と、この一人の人物にあったのです。偉大な事業というものは、常に、このようにして生まれるものであります。不屈の精神とその持ち主に抗する世間、その間に、永遠に偉大なるものの生じる期待があるのです。(p162)
むろん、日蓮は、自分自身の意志を有していましたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかし、そういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです。これに反して、愛想よさ、柔順、受容力、依頼上手とかいわれるものは、たいてい国の恥にしかなりません。改宗業者たちが、母国への報告に「改宗者」数の水増しをするためにだけ役立つものであります。(p177)