繁延あづさの作品一覧
「繁延あづさ」の「うまれるものがたり」「鶏まみれ」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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ビジネス・実用
小説・文芸
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Posted by ブクログ
もう そりゃあ 大変な仕事なんだから
やっても やっても ぜんぜん
終わりがない 時間が 続くんだから
数年前にフランスの食肉工場で
働いている友人の I さんから聞いた
ことを ありありと 思い出した
彼は ダンサーが本業なのだが
確実な収入源になるその食肉工場での
体験を面白おかしく話してくれた
その時は 笑いながら話してくれたけれど
そんなふうにでもしていなければ
話せないだろうな と
この一冊のおかげで 改めて
その時の 彼の様子を思い返している
当たり前になってしまっているけれど
私たちが食べている肉は
自分が食肉にしたものではない
食べている時は
おいしさが優先してしまって
誰が どのように どれだけの
手間をかけて‥
が 完全に抜け落ちてしまっている
時々 知り合いの猟師さんから
「野の肉」をいただくこともある
それらの「肉」が背負ってきた
それぞれの「生きていたモノ」が
手元、いや口元にまでやっきた
その 越し方 を
ここまで 興味深く 軽妙に しかも深く
考えさせられ、思い巡らせてもらえた
一冊はそうありません
Posted by ブクログ
大阪の商店街の真ん中で育った私が幼稚園から帰ってきてからの時間の過ごし方は、自分の親の店を飛び出し、近所のいろいろな店先をのぞくこと。かしわ屋(大阪で鶏肉店のこと)や肉屋の店内はさすがに子どもは入れてくれなかったけれど、ショーケースを通じて肉が切り分けられる様子などを見るのが好きだった。私たちが日ごろ口にする食品としての肉類が商品となる前の状態、つまり生の肉の塊を私は見慣れていたつもりだった。だがこの本を読み、そういう店先の肉類は「きれいにされた」あとの状態だと気付かされた。そしてさらに、そういう肉が「生きていた」ことに、私たちの日常生活はいかに目を向けないようにできているかも。
また、繁延さんと同じく、私もイノシシ猟に同行させてもらったことがある。もちろん銃猟。ただしチームで行動する猟師たちの行動は大多数の人がイメージする高齢者が鉄砲かついで…というものとは全然ちがう。GPSや無線を駆使し、車一台よりも高価な猟犬を操って、無駄玉を使わずしとめる。獲物を追うときはさすがに熱を帯びるが、私が見た猟の印象はあくまでクール。このたとえを許してもらえるなら、まるでグリーンベレーのように計算ずくだ。
だが獲ったイノシシの解体作業は見せてもらえなかった。もちろん私が素人という前提があるが、解体はいわゆる"職人仕事"らしく、あまり人には見せない“秘伝”のものらしい。だが1つ強調しておきたい。しとめた直後のイノシシはまだ温かいのだ。いや、むしろ熱いと言った方が近いかもしれない。猟師の方々はその熱さを実感しながら解体している。スーパーに並ぶ冷たい肉をさわるのとは違う。体温つまり生命にじかに触れているのだ。それは何よりも生命の尊さを感じられる瞬間だ。これを残酷、残忍、残虐という人間のほうが私には偽善者に見えて信用できない。
私にはそういう背景があったので、繁延さんが養鶏業を営もうと考え、鶏を自分で捌いて肉も売る構想を描き、そのための食肉処理衛生管理者の資格を得るために食鳥処理場という“現場”に就職する話は、私が幼時に近所で白衣を赤く汚して働いていたおっちゃんやおばちゃんを思い出させ、いわゆる読み流すことはできなかった。今まで人間が生きるために他の生き物の生命を奪い食べることに関しては数々の本が出ているが、飾らず朴訥に日記のように語る繁延さんの一言一句はどんな本よりも私の心に染みた。
それと私が興味を引かれたのは、繁延さんが再三、食鳥処理に携わる人が低い地位や賃金体系に置かれている矛盾を指摘しているところ。一般の人だけでなく、従事者自身が、それは当たり前であり、言っても始まらないという雰囲気に囚われていることを率直に書いている。これはどんな経済学の本よりも現実の経済活動の矛盾を提示したものだと思うし、イデオロギーや学術的なものに染まっていない分だけリアルだ。大学で経済学を学ぶ学生にとっての良質な参考書たりうるとまで私は思っている。
余談だけど、繁延さんの名前はどこかで見たことがあったが…と思っていたが、思い出した。雑誌「母の友」に「生きる現象」という題で、生まれたばかりの赤ちゃんを胸に抱く母親を撮った写真とエッセイが載っていた。あまり見ない苗字だから記憶がつながった。あの繁延さんだったのか。生まれたての場面と死の場面。それは地続き。繁延さんは両方を間近に見ている。だからこういうリアリティが書けると思えた。先入観ぬきに読んでほしい。
Posted by ブクログ
凄まじい本です。著者の日々の生活にまつわる労働と感情と行動と思索、そのそれぞれと直結した言葉が、読んでいる自分のいる場所を揺さぶってきました。「知らなかった」では収まりのつかない「知ろうとしてこなかったこと」「見ようとしてこなかったこと」「考えようとしてこなかったこと」が次々と襲いかかってくる感じ。そして食とか、格差社会とか、外国人問題とか、高齢化のこととか、ジェンダーのこととか、労働問題とか、教育のこととか、いのちとか、生産性とか、この本棚でもちょいちょい気になっているテーマがこの一冊の中で絡み合ってくるのです。著者の身体と思考の重なり合いから生まれるつぶやきのような文章がページをめくるごとにどんどん積み重なっていきます。その言葉が生まれるのは夫と庭先養鶏の延長としての養鶏場を始めようとしている家庭という場所と、食鳥処理衛生管理者資格取得のために働き始めた食鳥処理場の二つの現場から。記される文字も家庭の言葉は明朝体、工場の言葉はゴシック体で分けられています。明朝がプライベート、ゴシックがパブリックって感じですが、それぞれの違いと触発が絡みあい、まさに「鶏まみれ」になっていくのです。「鶏まみれ」は「命まみれ」であり、そして「血まみれ」なのです。この本のP174〜175に気になってしょうがない箇所があります。
『ある本のなかにこんな一節を見つけた。
「穢れとは何か。人の死にまつわる穢れがあり、女性の月経・出産にかかわる穢れがあり、そして、 敵の肉や皮革処理がもたらす穢れがある」
(赤坂憲雄『東西/南北考 いくつもの日本へ』より)
私の目はこの2行に釘づけになった。出産を撮影し、狩猟の撮影しながら肉を食べ、ときには 死に関わる撮影もする私にとって、この符合は思ってもみないことだった。穢れを撮ってきたつ もりはまったくない。急に胸騒ぎがしてきた。
(『山と獣と肉と皮』より)
また、でてきた。』
この引用はゴシックなのですが最後の『また、でてきた。』だけ明朝なのです。現代社会の不可視化領域「穢れ」がこの本で自分を揺さぶるテーマなのではないか?と考えています。どうでもいいけど、この本の読書中に初めて全国チェーンの極安焼鳥店で食事をしましたが徹底的にシステム化されたオペレーションと味に「生き物」と「食べ物」の分離を感じてしまいました。この本で語りかける言葉は日常生活にかなり揺らぎを与えているようです。